旧仮名遣い・旧字体で若い人には読みにくいとは思うが、御崎神社略記(全文)を掲載しておこう。「神籬(ひもろぎ)」「磐境(いわさか)」「幸魂奇魂(さきたまくしたま)」といった普段使わない言葉の意味はネット検索で十分調べられるはずだからあえて解説は省く。要約すると古神道の霊魂観や一霊四魂説について書かれてある。
當御崎神社の祭神は國造り大己貴命の幸魂なり。其淵原は福山の嶺にありし天津神籬より傳はれり。神籬とは太古の人民が山上の靈地に磐境を造り天神地祇を祭りしものなり。磐境は三座あり。奥津磐境は大己貴命の幸魂を祀る。中津磐境は大己貴命の竒魂を祀る。邊津磐境は少名彦を祀る。大和の官幣大社神の大神と同一にして備中の神奈備山なり。此れの三神殿を造りしものを百射山神社と稱す。百は諸の意にして又御室の意なり。此の百射山神社にありて延喜式神名帳に載せられたる官社なり。吉野朝期延元元年の福山大激戰に社殿壊滅し、二十八年を経て貞治四年地方稍静謐し民力恢復せしを以て百射山神社の第一殿、一の御神を山下に奉遷し山手村地頭片山の現今の社地に神殿を造營す。此時神道管領吉田家より御大明神の御證印を下さる。其後幸山城主石川氏 岡山の城主宇喜多氏 同池田氏等皆本社を崇敬し社領其他の寄進あり。延寶四年池田公より御神號を下さる左の如し。
備中國窪屋郡山手村
御崎神社 大己貴神奇魂
延寶四丙辰九月
社人 宮岡兵庫
古へより美簀郷即ち今の山手村三須村の氏神にして地方最古の神社なり。
略記中の百射山神社はもともと福山(現総社市清音三因及び西郡にまたがる山でその昔福山城が築かれていた)の中腹にあったと言われる。南北朝時代に福山城は戦場となった。籠城した千五百ほどの大井田軍に足利直義率いる数十万の大軍勢が総攻撃をかけた。善戦むなしくついに落城、神社も破壊され大井田側の九割近くが首を討ち取られたと伝わる。百射山神社はその後再建され遷座を経て今は総社市三輪に鎮座している。
御崎神社の祭神は素盞鳴命、大国主命、少名彦名命の三柱で参拝の方法は「二拝三拍手一拝」と書いてある。須賀神社(石殿)には仁徳天皇と黒日売命(黒姫)が祀られていた。黒日売は境内解説では窪屋郡司の娘となっている。
境内には他に寛文七年三百十三社寄宮跡の碑と橿原神宮奉拝所がある。私は旧山陽道沿いの史跡をもう一つ見るために先を急がねばならなかった。
當御崎神社の祭神は國造り大己貴命の幸魂なり。其淵原は福山の嶺にありし天津神籬より傳はれり。神籬とは太古の人民が山上の靈地に磐境を造り天神地祇を祭りしものなり。磐境は三座あり。奥津磐境は大己貴命の幸魂を祀る。中津磐境は大己貴命の竒魂を祀る。邊津磐境は少名彦を祀る。大和の官幣大社神の大神と同一にして備中の神奈備山なり。此れの三神殿を造りしものを百射山神社と稱す。百は諸の意にして又御室の意なり。此の百射山神社にありて延喜式神名帳に載せられたる官社なり。吉野朝期延元元年の福山大激戰に社殿壊滅し、二十八年を経て貞治四年地方稍静謐し民力恢復せしを以て百射山神社の第一殿、一の御神を山下に奉遷し山手村地頭片山の現今の社地に神殿を造營す。此時神道管領吉田家より御大明神の御證印を下さる。其後幸山城主石川氏 岡山の城主宇喜多氏 同池田氏等皆本社を崇敬し社領其他の寄進あり。延寶四年池田公より御神號を下さる左の如し。
備中國窪屋郡山手村
御崎神社 大己貴神奇魂
延寶四丙辰九月
社人 宮岡兵庫
古へより美簀郷即ち今の山手村三須村の氏神にして地方最古の神社なり。
略記中の百射山神社はもともと福山(現総社市清音三因及び西郡にまたがる山でその昔福山城が築かれていた)の中腹にあったと言われる。南北朝時代に福山城は戦場となった。籠城した千五百ほどの大井田軍に足利直義率いる数十万の大軍勢が総攻撃をかけた。善戦むなしくついに落城、神社も破壊され大井田側の九割近くが首を討ち取られたと伝わる。百射山神社はその後再建され遷座を経て今は総社市三輪に鎮座している。
御崎神社の祭神は素盞鳴命、大国主命、少名彦名命の三柱で参拝の方法は「二拝三拍手一拝」と書いてある。須賀神社(石殿)には仁徳天皇と黒日売命(黒姫)が祀られていた。黒日売は境内解説では窪屋郡司の娘となっている。
境内には他に寛文七年三百十三社寄宮跡の碑と橿原神宮奉拝所がある。私は旧山陽道沿いの史跡をもう一つ見るために先を急がねばならなかった。