7月11日(金)午後6時から広島県福山市霞町のまなびの館ローズコム大会議室で第23回防衛セミナーが開催される(無料)。講演は「新たな防衛計画の大綱及び中期防衛力整備計画について(芹沢清氏)」と「自然災害発生時における自衛隊の活動~フィリピンの台風被害に対する自衛隊の対応について(佐藤壽紀氏)」の二部構成。
挑発を続ける迷惑な一党独裁国家に対してどう対抗したらよいのか。結局のところ、日米同盟を基軸とした防衛力無くして都合のよい平和など有り得ないのだ。しかし、問題の多い押しつけ憲法をただ護ることが絶対正義であるかのごとく信じてきたのが団塊の世代の大半である。非常に愚かな指導者が2代続いて我が国の屋台骨はボロボロになってしまった。そこへ(昭和の妖怪と恐れられた)岸信介の孫が首相に返り咲いた。日本国憲法の大きなバグに修正パッチをあてることを義務付けられたのはまさに運命であろう。国民を最終的に守るのは憲法ではなく軍事訓練を受けたプロだということを若者は忘れてはならぬ(警察のない社会がどれほど危険であるか想像してごらんよ)。
挑発を続ける迷惑な一党独裁国家に対してどう対抗したらよいのか。結局のところ、日米同盟を基軸とした防衛力無くして都合のよい平和など有り得ないのだ。しかし、問題の多い押しつけ憲法をただ護ることが絶対正義であるかのごとく信じてきたのが団塊の世代の大半である。非常に愚かな指導者が2代続いて我が国の屋台骨はボロボロになってしまった。そこへ(昭和の妖怪と恐れられた)岸信介の孫が首相に返り咲いた。日本国憲法の大きなバグに修正パッチをあてることを義務付けられたのはまさに運命であろう。国民を最終的に守るのは憲法ではなく軍事訓練を受けたプロだということを若者は忘れてはならぬ(警察のない社会がどれほど危険であるか想像してごらんよ)。
戦前の尾道の繁栄について複数の文献の記述を読んだことはあるが、戦後生まれ・福山育ちの私にはイマイチピンと来ない。学生時代、東広島から実家に車で帰る途中に見る尾道駅は小さいという印象だけだった。論文「福山地方における鉄道交通の変化 / 須原洋次」によると大正末期に尾道駅と福山駅の力関係が既に逆転しているのだ。
福山は、備後国一〇万石の城下町として発達したが、明治維新につづく廃藩置県により、その政治的機能は消失し、都市的に繁栄をみなかった。西隣の尾道が、近世から商港、商業都市として発展を続けたのに対し、鉄道開通以前の前近代的な交通体系においては、福山の都市的重要性は低かった。
当地域に、幹線鉄道となる山陽鉄道が開通したのは、明治二四年(一八九一)のことである。敷設時に設置された駅は、福山、松永の両駅のみであったが、明治三〇年福山・笠岡間に大門駅、大正五年福山・松永間に水越(現・備後赤坂)駅が設置された。
開通の翌年における福山駅の旅客数は一〇〇、四一八人、旅客収入は、一七、四一二円で、尾道の一一七、七三八人、二六、八二九円を下回っているが、福山は未だ近代交通網の中心となりえず、商工業都市としての性格が弱かったことをあらわしている。
明治二四年山陽鉄道の開通を契機に、福山と府中、鞆を結ぶ構想があらわれた。
まず、両備鉄道は、福山をはじめ府中、神辺、高屋、井原(岡山県)などの各地方から集められた資金により、鉄道の建設が進められた。特に府中、神辺、新市、井原は備後縞や織物の産地として商工業が発達していた。また、福山は明治末期において紡績綿糸、織物類などが、移出入額、生産額の上位を占めこれら生産物の集散地であった。したがって福山の商工業者にとっても、両備鉄道への期待は大きかった。
他方、鞆軽便鉄道は、鞆港の商港としての地位停滞に波止めをかけるべく建設されたという性格が強い。鞆鉄道の株主構成も、鞆町住民が出資額の過半数を占め、福山住民の出資額は、全体の一割強に過ぎない。
鞆、両備の両軽便鉄道の開通当時における営業成績は、…旅客数、貨物数量など、あらゆる点で両備鉄道が、鞆鉄道を上回っている。また、運賃収入からみれば、両軽便鉄道とも…旅客輸送が中心をなしていた。そして、鞆鉄道は、当初の四国連絡鉄道としての幹線鉄道たる機能を果たすに至らず、開通当時から福山と鞆とを結ぶ局地鉄道としての性格を示すに過ぎなかった。
さて、大正二年、大正三年と相次いで開通した両軽便鉄道に加えて、大正一一年(一九二二年)には、両備鉄道の手により、神辺・高屋間の軽便鉄道が営業を開始した。そして、大正一四年(一九二五)井笠鉄道高屋線の開通により、井原を中心とする機業地帯と福山とが鉄道で結ばれた。その結果、福山地方では、山陽本線とその支線となる三本の軽便鉄道線により、鉄道を中心とした交通網が形成された。
大正十四年(一九二五)…福山駅…年間乗降客数は、二、二八四、六一一人である。
この年の尾道の乗降客数は、一、二九一、六二九人で福山駅の五六・五%にあたる。山陽本線のみの乗降客数においても、福山駅は一、五二八、四二三人で尾道を上回る。先述のごとく、明治中期においては、尾道の乗降客数が福山を上回っていたが、鉄道という近代交通網の発達により、福山は次第に陸上交通網の中心となりつつあった。
空襲で焼け野原となった福山は新しい街づくりが可能だった。尾道とは違って広大な平地(干拓地や埋立地)に恵まれていたこともあり日本鋼管の誘致に成功し、急速に人口が増え団地の建設が進んだ。昭和五十年山陽新幹線開通、福山が停車駅となったことが全てを決定づけたように思う。両備軽便鉄道はその後国有化されて福塩線として存続しているが、井笠鉄道や鞆鉄道は車社会の到来で廃線となった。私鉄の消滅が町の衰微につながる例はあまたである。
福山は、備後国一〇万石の城下町として発達したが、明治維新につづく廃藩置県により、その政治的機能は消失し、都市的に繁栄をみなかった。西隣の尾道が、近世から商港、商業都市として発展を続けたのに対し、鉄道開通以前の前近代的な交通体系においては、福山の都市的重要性は低かった。
当地域に、幹線鉄道となる山陽鉄道が開通したのは、明治二四年(一八九一)のことである。敷設時に設置された駅は、福山、松永の両駅のみであったが、明治三〇年福山・笠岡間に大門駅、大正五年福山・松永間に水越(現・備後赤坂)駅が設置された。
開通の翌年における福山駅の旅客数は一〇〇、四一八人、旅客収入は、一七、四一二円で、尾道の一一七、七三八人、二六、八二九円を下回っているが、福山は未だ近代交通網の中心となりえず、商工業都市としての性格が弱かったことをあらわしている。
明治二四年山陽鉄道の開通を契機に、福山と府中、鞆を結ぶ構想があらわれた。
まず、両備鉄道は、福山をはじめ府中、神辺、高屋、井原(岡山県)などの各地方から集められた資金により、鉄道の建設が進められた。特に府中、神辺、新市、井原は備後縞や織物の産地として商工業が発達していた。また、福山は明治末期において紡績綿糸、織物類などが、移出入額、生産額の上位を占めこれら生産物の集散地であった。したがって福山の商工業者にとっても、両備鉄道への期待は大きかった。
他方、鞆軽便鉄道は、鞆港の商港としての地位停滞に波止めをかけるべく建設されたという性格が強い。鞆鉄道の株主構成も、鞆町住民が出資額の過半数を占め、福山住民の出資額は、全体の一割強に過ぎない。
鞆、両備の両軽便鉄道の開通当時における営業成績は、…旅客数、貨物数量など、あらゆる点で両備鉄道が、鞆鉄道を上回っている。また、運賃収入からみれば、両軽便鉄道とも…旅客輸送が中心をなしていた。そして、鞆鉄道は、当初の四国連絡鉄道としての幹線鉄道たる機能を果たすに至らず、開通当時から福山と鞆とを結ぶ局地鉄道としての性格を示すに過ぎなかった。
さて、大正二年、大正三年と相次いで開通した両軽便鉄道に加えて、大正一一年(一九二二年)には、両備鉄道の手により、神辺・高屋間の軽便鉄道が営業を開始した。そして、大正一四年(一九二五)井笠鉄道高屋線の開通により、井原を中心とする機業地帯と福山とが鉄道で結ばれた。その結果、福山地方では、山陽本線とその支線となる三本の軽便鉄道線により、鉄道を中心とした交通網が形成された。
大正十四年(一九二五)…福山駅…年間乗降客数は、二、二八四、六一一人である。
この年の尾道の乗降客数は、一、二九一、六二九人で福山駅の五六・五%にあたる。山陽本線のみの乗降客数においても、福山駅は一、五二八、四二三人で尾道を上回る。先述のごとく、明治中期においては、尾道の乗降客数が福山を上回っていたが、鉄道という近代交通網の発達により、福山は次第に陸上交通網の中心となりつつあった。
空襲で焼け野原となった福山は新しい街づくりが可能だった。尾道とは違って広大な平地(干拓地や埋立地)に恵まれていたこともあり日本鋼管の誘致に成功し、急速に人口が増え団地の建設が進んだ。昭和五十年山陽新幹線開通、福山が停車駅となったことが全てを決定づけたように思う。両備軽便鉄道はその後国有化されて福塩線として存続しているが、井笠鉄道や鞆鉄道は車社会の到来で廃線となった。私鉄の消滅が町の衰微につながる例はあまたである。
7月28日(月曜日)午後6時半から福山市北吉津町の福山八幡宮特設舞台で薪能が演じられる。演者は能楽シテ方大島家4代目・5代目や能楽狂言方の茂山正邦氏など。市民が古典芸能に触れる絶好の機会である。
福山八幡宮と薪能
福山八幡宮は、松迺尾山の東西に、同一の規模・様式の社殿がならび立ち、両社にそれぞれ八幡大神をお祀りする全国的にも珍しい神社です。
東御宮は承保年中(1074~)に宇佐八幡宮より、西御宮は永亨年中(1429~)に鶴岡八幡宮より勧請されたと伝えられ、穴の海と呼ばれた内海近くに二つ宮が別々にお祀りされていました。
元和五年(1619)福山開祖水野勝成公福山城築城に際し、二つの宮はそれぞれ延広と野上へ移され、その後ようやく城下が整った天和三年(1683)に第四代福山藩主水野勝種公により、現在地に備後福山総鎮守の社として、福山藩を挙げて造営されました。
天和の昔、八幡宮ご鎮座奉祝の祭礼には落慶の能楽が連日催され、近郷近在より多くの参拝者が訪れて境内は大変な賑わいを呈していたとの故事があります。また、勝成公始め歴代藩主は能をとても愛され、八幡宮のご神前に上方をはじめ各地より能役者を招き、盛大に奉納されたとの歴史に因み、昭和六十一年に「ご鎮座三百年」と「福山市制施行七十周年」を記念して、第一回福山八幡宮薪能が開催されました。それ以来、多くの皆様のお力添えにより回を重ねて二十九回目を迎え、備後福山の夏の風物詩として、毎回千人を超す方々にご鑑賞いただく、西日本でも有数の薪能として親しまれております。
高校生以下の学生は1000円という嬉しい配慮。若いうちから本物を観ておくと後々為になる。郷土史研究において原書(歴史書など)をひたすら読むのと同じことだ。目を肥やすのは早いに越したことはない。
福山八幡宮と薪能
福山八幡宮は、松迺尾山の東西に、同一の規模・様式の社殿がならび立ち、両社にそれぞれ八幡大神をお祀りする全国的にも珍しい神社です。
東御宮は承保年中(1074~)に宇佐八幡宮より、西御宮は永亨年中(1429~)に鶴岡八幡宮より勧請されたと伝えられ、穴の海と呼ばれた内海近くに二つ宮が別々にお祀りされていました。
元和五年(1619)福山開祖水野勝成公福山城築城に際し、二つの宮はそれぞれ延広と野上へ移され、その後ようやく城下が整った天和三年(1683)に第四代福山藩主水野勝種公により、現在地に備後福山総鎮守の社として、福山藩を挙げて造営されました。
天和の昔、八幡宮ご鎮座奉祝の祭礼には落慶の能楽が連日催され、近郷近在より多くの参拝者が訪れて境内は大変な賑わいを呈していたとの故事があります。また、勝成公始め歴代藩主は能をとても愛され、八幡宮のご神前に上方をはじめ各地より能役者を招き、盛大に奉納されたとの歴史に因み、昭和六十一年に「ご鎮座三百年」と「福山市制施行七十周年」を記念して、第一回福山八幡宮薪能が開催されました。それ以来、多くの皆様のお力添えにより回を重ねて二十九回目を迎え、備後福山の夏の風物詩として、毎回千人を超す方々にご鑑賞いただく、西日本でも有数の薪能として親しまれております。
高校生以下の学生は1000円という嬉しい配慮。若いうちから本物を観ておくと後々為になる。郷土史研究において原書(歴史書など)をひたすら読むのと同じことだ。目を肥やすのは早いに越したことはない。