寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

山陽道神辺宿の東出口で感じた強い霊気

2014年06月03日 | 郷土史
再び旧山陽道に戻り東へ進む。神辺宿の東出口付近(高屋川の土手下)に立派な石組みが残っている。その上には「広島県福山市神辺町字平野古市百七十三番ノ二 / 国土交通省管理区間(ここから下流)」と記された白い標柱が建つ。

神辺宿東出口付近

まさにここが旧安那郡川北村と平野村の境にあたる。高屋川が増水した時には石組みの溝の部分に止水板をはめ込み土嚢を積み宿場町に水が流れ込まないようにしていたという。

若宮神社鳥居

若宮神社

私は街道右手の空き地奥に祠があることに近付いた。若宮神社の名称を確認した時に非常に冷たい霊気を感じた。「もしや」と思い周辺を調査すると古城山の麓(岩肌)に墓らしき地蔵のようなものも祀られている。

地蔵

そして古城住宅へと続く細い道の脇に萬霊塔を見つけて推測が確信に変わった。この辺りが福山城築城前に設けられた御仕置場と地元に伝わっていることを知ったのはそれからまもなくのことであった。余談になるが、神辺宿の外れには杉原時代の首立場と言われる場所(湯坂谷)も存在する。

石碑

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ワラビのアク抜き

2014年06月03日 | 食材
中国地方の山ではワラビが旬を迎えている。山菜は収穫してすぐにアク抜きの作業に移る。ワラビに重曹を薄っすらと塗して(極少量にとどめること)大鍋に移して熱湯を回しかける。

アク抜き中

落し蓋をした状態で自然に冷ますとアクはほぼ抜ける。綺麗な水につけておけば数日は冷蔵庫で保存できる。アク抜きワラビは茹でてから調理するのがベストだ。

アク抜き完了

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福山市神辺町大字川北97の古城八幡宮

2014年06月02日 | 郷土史
廉塾および菅茶山旧宅から東へ約150mの地点、出原治療院の手前を右折する(目印は一方通行の標識)と古城八幡宮の参道に至る。

鳥居

古城山はもともとは古墳でその後城が築かれ現在跡地には市営住宅が建っている。古城山の歴史については『神辺町史 前巻(昭和四十七年)』が詳しい。

 古城山古墳とは川北と平野にまたがる小丘で、古城山城址をこの名をもって呼ぶ。
 この地は上利アガリ右近が城居の跡と伝え、古城山の名とともに地形上城址であったことが察知し得られる。
 これが築城に当り山頂を切り崩したようであるが、更に昭和九年二月高屋川の改修に際し、築堤のため大々的に土砂を採取したので、一層形態を失うに至った。加うるに、昭和三十一年四月及び同三十二年四月の両度にわたり町営住宅を建築したので、全くその状況を異にすることとなった。
 上利氏は上里ウエサト、上里カミサトなどと同氏族といわれるので、御調郡御調町丸門田の丸山城主上里實秀が三次から移り天文十三年(一五四四)三吉氏を攻めたことを思えば、この古城山の築城もまたこれと前後してなされたものと見られる。
 よってその頃までは原形をのこしていたものの如くであり、その形式は前方後円墳と見られる。

 この墳は、自然の地形を利用してつくられたものであるが、いま後円部は丘上を切断して約一千歩にわたる平坦面をつくり、その南端に八幡神社を祀り、それに北隣して町営住宅二十戸が存する。
 八幡社は鶴ヶ岡八幡宮を勧請したものとつたえ、昭和九年に上記のように丘上を切りとるまでは、西丘腹にあったものである。
 鶴ヶ岡八幡宮を勧請齋祀することは多く鎌倉初期に行なわれるので、築城は余程時代を降るものと思われる。

石段

社殿

古城山は西深津の蔀山のような丘と言った方が適切な表現であろう。石段を上った先にはこじんまりとした社殿が建っており扁額にはただ八幡宮と記されている。境内社として荒神社が端の方にあった。

扁額

境内社

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もやし入り塩焼きそば

2014年06月02日 | 家飯
夏に食べる焼きそばはシンプルに塩味がいい、最近はそう思うようになった。こってりからあっさりした味付けに好みが変わってきたのはやはり年齢によるものが大きい。

いつもはキャベツをてんこ盛り入れるところだが、太いもやしとニラに置き換えて食べる前にレモンを絞った。柑橘の汁が加わると一気に味が締まる。シャキシャキのもやしが肉以上の存在感を示し満腹中枢を刺激する。胃にやさしい中年向けの焼きそばだ。

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6月に突入!

2014年06月01日 | 日記
今日も真夏日になった。6月初めの気温とは信じがたい。少し動けば汗が流れ木陰で静かにアイスクリームを舐めていたい気分だった。午後の予定は大幅に変更となり文献の下読みをして夜を迎えたのであった(笑)

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山陽道神辺宿(七日市の神辺東本陣跡と荒神社)

2014年06月01日 | 郷土史
福山市神辺町大字川北583‐6のお宅の東側を流れる用水路上のフェンスに「東本陣跡」と彫られた木板が取り付けられている。石柱でないので見落とす人もいるようでこの下辺りに神辺宿絵図を足すのも一つの手であろう。神辺東本陣が現存しないのは江戸時代の大火事で焼失したためである。

神辺の大火
 文化四年(1807)神辺宿は大火事に見舞われ,川北の殆ど全部,川南の相当部分が灰燼に帰している。

 この大火により,それまでの建物,文献類の大部分の焼失したことは,神辺宿の江戸初期,中期の解明を困難にしている大きな原因ともなっている。
 菅茶山の伯父で,漢学和歌狂歌に長じ,筑前黒田藩主に進講したと伝える高橋慎庵の遺稿も,東本陣と共に焼失した。
 神辺宿の東端である七日市の“出口”に近い菅茶山宅も,この文化の大火に罹災したようである。

『風土記№1 / 菅波堅次(1982)』

安那郡川北村の両本陣と御茶屋の関係については『近世神辺宿の町並 神辺の歴史と文化 ‐第九号‐(昭和五七年)』に詳しい記述があるので一部を紹介しておく。

神辺宿の町並
 …菅茶山の編著である『福山志料』は、文化年間初頭(一八〇〇年頃)の神辺宿の本陣について 休泊ハミナ川北村ニ引受テ本陣アリ と記している。この時期における本陣は三日市の尾道屋菅波家(西本陣)と七日市の本荘屋菅波家(東本陣)が勤めていた。尾道屋菅波家が本陣を勤めた始めは、寛文年間(一六六〇年頃)と伝えられているが、本荘屋菅波家のそれは明らかではない。尾道屋菅波家が本陣を始めたと同時期頃に、福山藩は藩直営の公用通行者の休泊を賄う施設、「御茶屋屋敷」を経営していたと考えられる。それは、元禄十三年(一六七〇)に作成された『川北村検地帳』に、 一屋敷 弐拾壱間 弐拾間 壱反四畝歩 茶屋屋敷 と記載されていることから推測される。尚、同検地帳は尾道屋菅波家の屋敷面積を「二反二畝拾四歩」と記し、その土地は同家五代目五郎三郎が名請している。『福山志料』は御茶屋屋敷について、 三日市ニアリコゝニテ薩摩候ヲ饗セラレシコトアリ五十年前ナリ今ハコホタル と綴り、文化年間には既に消滅していたことを明らかにしている。…寛永十二年(一六三五)参勤交代の制が敷かれると、山陽道の宿駅を領国内に抱えた大名は、宿駅業務を支障なく遂行する業務を負った。そのため福山藩は宿場町に茶屋屋敷を設置し、公用通行者の休泊業務の運営に当った。その後、尾道屋菅波家が本陣としての機能を十分果す施設を整備するとゝもに、その分家筋に当る本荘屋菅波家も本陣としての施設を整備するに及んで、藩直営の「茶屋屋敷」は不要となり廃棄した。

『近世神辺宿の町並 神辺の歴史と文化 ‐第九号‐(昭和五七年)』

七日市荒神社の玉垣

胡神社

東本陣跡の木板の(道路を挟んだ)向かい(北側)に「七日市荒神社(川北651)」が鎮座する。境内には、廉塾から数軒先にあったと推測される七日市の市夷が移設されている。

江戸後期の神辺宿復元図(高札場~東本陣~廉塾)

七日市荒神社

七日市荒神社から更に東へ行くと「茶山饅頭総本舗谷口屋(川北641)」そして菅茶山が開いた「廉塾(川北640)」が並んでいる。どちらも神辺宿の名所であり休日には多くの観光客の姿が見られる。

谷口屋

廉塾の門

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福山市光南町3丁目1・ラーメン大統領の跡地に分譲マンションが建つ模様

2014年06月01日 | 日記
私は野上交番前交差点(野上町3丁目1・藤原ビル前)を南下する際に異変に気付いた。ラーメン大統領福山光南店と珈琲茶館があった場所が更地になって分譲マンション建設予定地の看板が出ていたのである。ネットで調べたところラーメン屋は今年の3月をもって営業を終了していた。

福山市中心部はあちこちでマンションの建設が進んでいる。郊外からJR福山駅周辺に移り住む人が増えているとよく耳にするようになった。運転免許を返上した年寄りがより便利な場所で暮らしたいと思うのは自然なことだ。この場所なら1km以内に商業施設・銀行・郵便局・コンビニ・病院など全て揃っているしバス停も近い。不安要因の少ない平地に幅広い年齢層が集まるのは全国で見られる傾向だ。

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