青空、ひとりきり

鉄路と旅と温泉と。日々の情景の中を走る地方私鉄を追い掛けています。

聞け、地底からの叫び。

2024年08月29日 23時00分00秒 | 西日本鉄道

(空港から・・・バスですか?@福岡空港前バス停)

福岡空港に無事着陸し、久し振りに九州の地を踏んだ私。九州って来たのいつ以来かなあ、というくらい記憶がないんだが、少なくとも10年以上ぶりであることは間違いない。福岡空港は博多駅や天神に地下鉄ですぐに出られるのがいいところ・・・なのですが、だいたいの人が地下鉄の入口に吸い込まれて行く中で、福岡空港の1Fフロアから外に出て、私が探しているのはバス乗り場。発車時間も迫っているので横断歩道に立ってる警備のおねーちゃんにバス停の場所を聞いたんだけど、「?」みたいな反応で全く役に立たない。「福岡空港前」というバス停が福岡空港前にないのはどういうことだ、と思ってウロウロと探し回ったら、バス停は到着ロビーからかなり離れた空港南側の公道上にあった。バス停を見付けた時はとっくにバスの時間は過ぎていたのだけど、福岡市内の中心部から来るバスだったのでバス自体も遅れていたようで、なんとか間に合ったのでありました。

福岡空港から西鉄バスの「宇美営業所行き」に乗って約20分。バスはアビスパ福岡の本拠地「ベスト電器スタジアム」のある博多の森陸上競技場を抜け、とりとめもないような福岡市の郊外を走って行く。Googleマップを見ながら窓の外を眺めていると、バスはやがて福岡市を離れ、粕屋郡志免町へ。車内の半分程度の座席が乗客で埋まっていたが、いつの間にか乗客が自分だけになって、「東公園台一丁目」という、住宅街の中のバス停でバスを降りた。

バス停の横の階段を登り、公園の広場に出ると、目の前にどどん!と異形のコンクリートの構造物が、夏の青空に向かってそそり立っていた。パッと見の見た目は、NHKのキャラクターである「どーもくん」のようでもある。ビル?だとしたら下がやたらと空洞で、居住部分が上だとしたらやけに窓が小さく、オーバーハングがついている。まあ、このブログを読んでいる賢明な皆様にはこれがなんであるかくらいはうすうす・・・という感じもあるのですが、この異形の施設の正式名称は「旧・志免(しめ)鉱業所竪坑櫓」。福岡近郊に開かれた旧海軍指定の歴史ある炭鉱であった志免炭鉱。この竪坑櫓は、高さ約50mの巨大な産炭用の構造物で、地上8階に1000馬力の大きな巻き上げ機を備え、地下430mの深さまで通じた巨大な昇降エレベーターの塔屋に当たります。このエレベーターにより大深度の坑道へ炭鉱夫を送り届けたり、採掘された石炭などを地上に運び出したりしていました。

竪坑櫓と、地下の坑道へ入り込んでいく斜坑の入口。明治維新から富国強兵が叫ばれた明治初期。島国であった日本は、欧米列強に追い付け追い越せと軍備の増強に躍起でした。まだ飛行機は軍事力としては計算の立たない時代でしたから、海洋国家である日本は、圧倒的に艦船による海軍力を前面に出して軍備の増強を進めますが、艦船を動かすのは蒸気機関ということで、艦船の製造とともに、燃料である石炭の調達が急がれました。海軍の技師たちが全国にその鉱脈を探る中で、明治20年代に福岡郊外の糟屋炭田に艦船向けの煙の少ない良質な石炭(無煙炭)の鉱床を見つけたことから、この志免の炭鉱は海軍直轄の炭鉱として開発されて行く事になります。

第一次世界大戦から第二次世界大戦にかけ、大日本帝国海軍を、そして日本の軍事力を支えるエネルギー源として、志免炭鉱の存在感は一層増していきます。増産による増産の要請に、より深く、より深くとその鉱脈を追い求めて行った志免の炭鉱。この竪坑櫓が出来たのは昭和18年(1943年)のことだそうですが、ようはその頃になると地下400m以上まで掘って行かないとなかなか石炭の鉱脈に当たらなくなっていた・・・ということで、質のいい石炭を掘るための苦労が偲ばれます。それにしても、このレベルの規模の超巨大構造物をいとも簡単に作り上げる当時の日本の技術力たるや。国によるエネルギー政策というものは、今も昔も国家が存立するための最重要案件だと思うのでありますが、国家規模のインフラというものは、時にとんでもない土木構造物を後世に残すよなあ。

戦争が終わり、海軍の持ち物から国鉄の所有になった志免炭鉱。お隣の直方の貝島炭鉱とともに、終戦後のエネルギー不足に悩む国鉄へ石炭を供給し続けました。朝鮮戦争による特需に沸いた戦後の復興期を経て、昭和31年あたりが戦後の出炭量のピークだったようですが、そこからは急速に進む石油へのエネルギー転換に伴って石炭の時代は終わりを迎え、あっという間に昭和39年(1964年)に閉山に追い込まれてしまいました。海軍の直営から、戦後は国鉄の直営炭鉱となった志免炭鉱は、70年余りを一貫して国営の炭鉱としてあり続けた珍しいヤマでありましたが、実は閉山に至るまでに「国鉄から民間への払い下げ」というものが何度も何度も画策されたのだそうです。ただ、そのたびに民間払い下げによる待遇面や条件面の悪化を嫌う労働組合の強く苛烈な反対闘争に阻まれ、上手く行かなかったのだと聞きます。その首謀者こそ、当然ながら国鉄の労働組合なのでありました。

閉山から既に60年。未だに撤去された内部の機器以外は、ほぼ現役当時の姿をとどめている志免の竪坑櫓。今でこそ国の重要文化財に指定されてはいますが、閉山からしばらくは手がつけられず、完全に持て余して放置されるがままの状態だったそうです。地元の志免町としてはさっさと取り壊して跡地を再開発したいという思惑もあったようなのですが、当時の最高レベルの技術で作られているためか、思った以上に頑丈で、壊すにもカネがかかるしどうにもならなかった・・・というのが本当のところだったらしい。時が過ぎ、筑豊の炭鉱施設が「産業遺産」として見直されて行く中で、この志免の竪坑櫓も文化財としての再評価の機運が高まって現在に至る、という訳です。確かに修繕はされてもいるのだろうけど、目立った剥離やひび割れとか鉄筋の露出とかもないんですよね。丈夫に出来ててよかったねと思わずにはいられません。

地元の人の中では、閉山に至るまでの激しい労働争議なんかでつくづく嫌気が差したこともあって、「とにかくこんなバカでかくて何の役にも立たない竪坑櫓なんかさっさと潰してしまえ!」という意見も少なくなかったそうで。それは、生きて行くために命を削って過酷な労働環境に身を投じた炭鉱夫とその家族たちの怨嗟だったのかもしれないし、あっという間にエネルギー政策の転換で仕事を追われた無力感だったのかもしれないし、炭鉱町にありがちな差別や貧しさだったりの負の遺産を断ち切りたい!という切なる思いがあったのかもしれない。筑豊や筑後に関わらず、石炭産業ってのは、当たり前だけど苛烈な労働環境とか、親方衆による搾取の歴史だとか、戦前戦中の朝鮮の人々の使役だとか、落盤事故や炭塵爆発とかガス爆発みたいな災害も枚挙にいとまがなく、どっちかっていうと、あまり明るい話だけでは終わらない「負」の部分の多い産業遺産でもありますよね。

久し振りに九州に来て、最初に見に行ったこの施設の重みみたいなもの。
ああ、そう言えば、九州っていうのも、割とそういう「国策」に振り回された土地だよなあ、という思いを新たにする。
この竪坑櫓は、地中深くに消えて行った炭鉱夫たちの声なき声を、今も地上の我々に届けています。


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1 コメント

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Unknown (luffy000616)
2024-08-29 23:46:14
福岡に来て頂き
ありがとうございます😊
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