平城遷都1300年の宮跡会場は、予想の1.5倍、363万人もの来場者を記録し、11/7(日)に閉幕した。 週刊奈良日日新聞(11/19付)は、一面トップで同祭の成功を報じた。見出しは《県民の誇り 平城遷都1300年祭》《メーン宮跡会場363万人で幕 1300年の歴史は日本一 1年で語り尽くせぬ》。
記事には《平城遷都1300年祭のメーン会場「平城宮跡会場」は、当初の来場者予測を大幅に上回る363万人を記録、大成功を収めて幕を閉じた。全国に「奈良」をPRし、近畿圏ばかりでなく全国各地から訪れる人でにぎわいを見せた。47都道府県中で最も歴史が深い古都・奈良。同祭成功を通じて県民は、その誇りを再認識することができた》。
「県庁伐折羅(ばさら)チーム」のバサラ踊り(11/7)
読売新聞(11/21付奈良版)は、《「1300年祭成功は市民力」 日本遺跡学会 ボランティアら支え 》《遺跡の保存・活用などについて研究、交流する日本遺跡学会の2010年度大会「史跡におけるアニバーサリー・イベントの意義と在り方~平城遷都1300年祭を中心として~」が20日、奈良市の奈良文化財研究所平城宮跡資料館で行われ、学会員や市民ら約80人が参加した》。
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/nara/news/20101121-OYT8T00005.htm
《平城遷都1300年記念事業協会の林洋事務局長が記念講演し、同祭について「せんとくんへの批判や寄付協賛の確保など、(当初は開催が)不安視されたが、大きな事故もなく、予想をはるかに上回る363万人強の人が訪れ、成功だったといえる」と振り返った》。
こちらは奈良市役所の「チーム八重櫻」(全4枚。11/7)
《奈良文化財研究所の田辺征夫所長は「1300年祭の裏には、150年の研究と保存の歴史がある」と、明治時代に平城宮跡の保存運動に取り組んだ棚田嘉十郎らの活躍などを紹介。「成功は、ボランティアらの支えがあってこそ」と締めくくった》。
同大会を報じた朝日新聞(11/21付奈良版)は《林氏は、同祭の全国への経済波及効果が2千億円以上とする開幕前の試算と、平城宮跡に想定以上の来場者があったことを説明し、「文化という切り口で多大な経済効果がもたらせることを示すことができた」と総括。「本物の歴史を見ていただけた。その拠点となった平城宮跡の意義は大きい」と分析した》。
http://mytown.asahi.com/areanews/nara/OSK201011200163.html
《田辺氏は平城宮跡保存運動の歴史を振り返った上で、「大極殿の復元が、(平城宮跡に)360万人もの人が来たことへのインパクトとなったことは間違いない」と強調。平城宮跡について「歴史公園として、多様な活用をどう実現していくかのモデルケースとしての役割を担っている」と述べた》。
宮跡会場のイベント(平城宮跡事業)は、従来の博覧会や祭典にはない、特異なスタイルで大成功を収めた。従来のアニバーサリー・イベントは「ニセもの(人工の作り物)、ハコもの(パビリオン)、見せもの(有料の興行)」が中心だった。
宮跡会場は奈良時代のホンモノの皇居(平城宮)の跡地で、今もお宝が眠っていて「地下の正倉院」といわれている。1300年祭に合わせて建てられたハコものは、復原された大極殿のほかは、いずれも小規模な平城京歴史館となりきり体験館くらいのものだった。有料の見せもの(興行)はごくわずかで、ほとんどは仮設舞台(まほろばステージ)で演じられる無料のステージイベントだった。そもそも会場への入場料はおろか、駅や郊外駐車場からのシャトルバスも、会場内を周遊するハートフルトラム・カートも、すべて無料だった。
最終日のフードコートは、ご覧のとおり満杯だった(11/7)
ニセもの・ハコもの・見せものを否定したこのスタイルは、巨額の建設費を投じなくてすむし、来場者に媚びる必要もない。何より、環境にやさしい(循環型社会に適合する)。今後の博覧会やアニバーサリー・イベントの方向性を示唆するものではないだろうか。
私とコンビを組んだ日の、Kさんのツアーガイド(全2枚。10/30)
とりわけ好評だったのはボランティアガイドによる平城宮跡探訪ツアーで、約160人が会場内の見どころを案内した(私も末席を汚した)。ほとんどが「奈良まほろばソムリエ検定」のソムリエまたは奈良通1級の合格者、または宮跡などでのボランティアガイド経験者だった。探訪ツアー(セルフガイドシステムの貸出を含む)の利用者は、約6万8千人に上った。ガイドツアーは、1.5時間コースが1人300円、2.5時間コースが500円と、格安料金で利用できたが、それは、交通費(上限千円)とスタッフ弁当を支給されるだけのボランティアガイドによって運営が支えられていたからである。
ガイドツアーについて毎日新聞(11/9付奈良版)は《充実感でいっぱい ボランティアガイド存続検討》の見出しで、《特に好評だったボランティアガイドについて、平城遷都1300年記念事業協会は存続させる方向で検討している。夏場を除く期間中、毎日8回行われたガイドツアーでは、約160人のボランティアが大極殿や朱雀門、遣唐使船などの見どころを案内した。奈良の歴史に精通したガイドたちが活躍する機会は今後もありそうだ》と報じた。
http://mainichi.jp/area/nara/news/20101109ddlk29040568000c.html
奈文研による解説ボランティア登録説明会。私は登録しなかった(11/13)
奈良新聞(11/21付)は、論説「金曜時評」で振り返った。執筆されたのは、論説委員の小久保忠弘氏である。《シンボルとして復元された第一次大極殿が威容を誇る平城宮跡は、これまで奈良市民にとってただの広場でしかなかった空間が意味のある物になり、新たなエピソードを伝える「うつわ」としての機能が吹き込まれたことの意味は大きい》。
http://www.nara-np.co.jp/20101112100157.html
《そこは、本物の歴史の現場が時空を超えて存在するという全国にも希有(けう)な場所である。特別史跡に指定され、世界遺産に登録されているゆえんも、東アジアの古代都市の中でも宮殿の遺跡と都に計画的に建設された木造建築群によって当時の姿を伝えている例として他にないからだ。その場所をイベントに利用してしまうという今回の仕掛けを設計し、構築し、運営・展開して成功に導いた関係者の労はおおいにたたえられるべきであろう。21世紀にも耐え得る大事業だったといえよう》。
説明会のあとは198日間を振り返る会。挨拶されるのは
田中敏彦さん(平城遷都1300年記念事業協会 事務局副局長)
《それは単に360万人という予想を上回る来場者の数だけではない。古代史の素顔に触れたいと願う、はっきりした目的意識を持った人たちが、何一つ享楽的施設のない会場を黙々と歩いていたという事実が重い。イベント好きの国民が、他に競合する場所がないから奈良にやってきたという消極的理由を挙げる向きもあるが、むしろ現在の政治、経済、社会の各分野で行き詰まり感が広がる中で、古都奈良の持ち続ける落ち着き感と宗教的情操感が評価されたと言えるのではないか》。
ガイドツアーをご担当いただいたスタッフの皆さん
長い間お世話になりました、有難うございました!
《それを維持し、今日まで伝えてきたからこそ「我が国の古くから伝わる文化を守り育ててきた奈良の人々の幸せを祈る」という天皇陛下のお言葉に結実したのであろう》《それにしても安直なパビリオンなど造らなくて本当に良かった》《県民に身近にあるものの文化的価値を再認識させたという点でも、1300年祭の意義があった》。
天皇陛下のお言葉とは、10/8(金)、第一次大極殿前庭で催された「平城遷都1300年記念祝典」でおっしゃったものである。後半部分を宮内庁のHPから引用すると《万葉集の中に,平城京のことを小野老(おののおゆ)が「青丹よし奈良の都は咲く花の匂ふがごとく今盛りなり」と詠んでいますが,復元された第一次大極殿を見るとき,かつての平城京のたたずまいに思いを深くするのであります》。
http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/okotoba/okotoba-h22e.html#D1008
天平美人たち(撮影に応じてくれるボランティア)。暑い夏の間も、この衣装で待機されていたのはご立派!(9/11)
《平城京について私は父祖の地としての深いゆかりを感じています。そして,平城京に在位した光仁天皇と結ばれ,次の桓武天皇の生母となった高野新笠(たかののにいがさ)は続日本紀によれば百済の武寧王(ぶねいおう)を始祖とする渡来人の子孫とされています。我が国には奈良時代以前から百済を始め,多くの国から渡来人が移住し,我が国の文化や技術の発展に大きく寄与してきました。仏教が最初に伝えられたのは百済からでしたし,今日も我が国の人々に読まれている論語も百済の渡来人が持ち来ったものでした》。
《さらに遣唐使の派遣は,我が国の人々が唐の文化にじかに触れる機会を与え,多くの書籍を含む唐の文物が我が国にもたらされました。しかし遣唐使の乗った船の遭難は多く,このような危険を冒して我が国のために力を尽くした人々によって,我が国の様々な分野の発展がもたらされたことに思いを致すとき,深い感慨を覚えます》。
平城遷都1300年記念祝典(10/8)。トップ写真と次の写真も
《平城京は,都が長岡京,続いて平安京に遷都された後,市街地とならなかったことから,発掘が可能であり,長年にわたって調査が行われてきました。近年の発掘調査の大きな成果は大量の木簡の発見であると聞いています。今日,遺跡や出土遺物に対する保存や調査の技術は著しく進歩しています。研究が進み,平城京の歴史がますます解明されていくことを期待しています。ここに,この地域の保存,調査研究に尽力された関係者,また復元のために尽力された関係者に深く敬意を表します。終わりに,遷都1300年をことほぐとともに,我が国の古くから伝わる文化を守り育ててきた奈良の人々の幸せを祈って,お祝いの言葉といたします》。
お言葉の締めくくり、《古くから伝わる文化を守り育ててきた奈良の人々の幸せを祈って,お祝いの言葉といたします》というくだりは、現場で聞いていて目頭が熱くなった。北浦定政(さだまさ)、関野貞(ただし)、棚田嘉十郎の各氏はもとより、「開発と保存」というジレンマに悩まされつつ、この地を守ってきた地元民の粘り強い努力を分かっていて下さったのだな、と感じたからである。陛下が地元民にねぎらいの言葉をおっしゃるとは、異例中の異例ではないか。
しかし一方で、今回の成功に難癖(なんくせ)をつける報道があったのは、残念である。朝日新聞(11/8付奈良版)は、大見出しで《感激フィナーレ 名残惜しみ6万人》としながら、小見出しで《「巡回の仕掛け弱い」》とした。《「成功」のうちに幕を閉じた主会場だが、一部の観光関係者からは不満の声も聞こえる》として、ならまちの「奈良町情報館」が《昨年と今年5月の連休期間中(2~5日)で比べると、昨年は4344人、今年は2784人と3割以上落ち込んだ》と書く。この数字も関係者のコメントも、同紙奈良版が5/7に報じた記事内容の焼き直しである。
※同時進行!平城遷都1300年(22)春季フェアを振り返る(当ブログ内)
http://blog.goo.ne.jp/tetsuda_n/e/cb03710eac43d4b32d785f566b9737a9
11/7のファイナルステージ。tsujikenさんからいただいた(全3枚)
記憶をさかのぼっていただきたい。昨年(09年)のゴールデンウィーク(GW)は、阪神なんば線が09年3月20日に開業して、初めて迎えた大型連休だった。ならまちは神戸からの観光客でごった返していて、関係者によると「この時期、ならまちはバブルだった」。08年GWに比べて、09年GWの来訪者は5割程度増えたのだという。
特殊要因によるバブルの時期と比べて、10年GWは「3割以上落ち込んだ」と書くのは詭弁である。電卓を叩くとすぐ分かることだが、以上を数式で表すと
08年GW:09年GW:10年GW=1:1.5:1.05
となる。つまり特殊要因のない平年(08年)と10年とを比べると、ちゃんと5%増えている。
しかも、読売新聞(5/25付奈良版)によると《「奈良町情報館」では、4月24日~5月23日までの来館者数が前年同期比で約1割減の9961人》と、1か月の間では(3割減ではなく)1割減にとどまっている。(1週間ほどの誤差があるが)もういちど数式で表すと、
08年5月:09年5月:10年5月=1:1.5:1.35
となる。つまり、平年(08年)と比べると、10年は35%も増えている。これは立派なものだ。半年前の記事を引き写す前に、ライバル紙をちゃんとチェックし、情報をアップデートしてから載せるべきではないか。毎日の来館者数をカウントしている奈良町情報館に照会すれば、そんな半年前の数字ではなく、直近の数字も判明するだろう。
http://blog.goo.ne.jp/tetsuda_n/e/c007a87e571cc53e5fd7268d14fd2018
しかも朝日新聞(11/8付奈良版)では《奈良市柳生町の「旧柳生藩家老屋敷」では来場者が1割ほど減った。柳生観光協会の岡田洋事務局長(62)は「いい影響を期待したのに、増えるどころか減ってしまった」と肩を落とす》としているが、昨年(09年)の5~10月の来場者はわずか8,602人、1日に直すと46.75人である。だから1割減といっても、たかだか1日5人弱である。こんな規模の小さい施設(1日46.75人)と宮跡会場(1日1万8千人)とを比べるのにはムリがあるし、実数(5人弱)でなく比率(1割減)で示すところに、作為を感じる。
http://narashikanko.jp/j/data/irekomi/h21/irekomi_21.pdf
そもそも柳生を訪ねる人は、たいていマイカーで訪ねる。バスで訪ねる人は、ほとんどがハイキング客で、1日かけて柳生を回る人たちだ。JR・近鉄奈良駅~柳生間のバスの便は、1日5本しかないし、片道50分もかかる。宮跡会場に来るほとんどの個人観光客は、(マイカーではなく)鉄道とシャトルバスで来場する。宮跡会場で半日過ごしたあとシャトルバスで駅まで戻り、そこでバスを乗り継いで柳生に行き、柳生の観光地を回るというのは物理的にムリだ。私だって相談されれば止めるだろう。奈良時代の宮跡と江戸時代の剣豪の里とは、歴史的に直結するわけではないし、柳生観光協会が直通バスを出してくれるわけでもない。
同紙の論調に従えば、「大きな祭典があれば、自動的に周辺観光地が潤うようにすべきだ」と主張しているように読み取れる。しかしこれは(同紙がこれまで叩いてきた)「大仏商法」の発想そのものではないか。
同紙では、奈良県立大学教授の《1300年祭を「ぎりぎり合格の60点」と評価する。県南部への波及効果は「イベントだけでは難しい。住民が一体となった時間をかけた取り組みが必要」と指摘する》というコメントを載せている。まだお祭りが終わっていない時点で1300年祭全体を点数で評価させるのは、早計に過ぎる。第一、「奈良まほろばソムリエ検定」では、60点だと不合格だ(70点で合格)。教授のコメントには40点もの減点の根拠も示されず、「時間をかけた取り組みが必要」とのコメントも、誰に対して具体的にどうせよと「指摘」しているのか、曖昧模糊としている。
ともあれ、宮跡会場が大成功裡にフィナーレを迎えたのは、めでたいことである。1988年のなら・シルクロード博では、巨額の赤字と、パビリオンを取り壊したあとの瓦礫の山が残ったが、今回はどちらも回避できそうである。あと1か月と1週間、関係者の方には気の抜けない緊張の日々が続くが、ぜひこれを乗り切っていただき、今世紀の「アニバーサリー・イベントの新しいスタイル」を、古都奈良から全国に発信していただきたい。