NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」は毎週木曜日、毎日新聞奈良版に「ディスカバー!奈良」を連載している。2月21日(木)に掲載されたのは「古事記編さん者を実証/奈良市の太安万侶の墓」、執筆されたのは同会副理事長の小野哲朗さん(生駒市在住)。
※トップ写真は、太安万侶の火葬墓
これはよく知られた話で、墓は国史跡、墓誌は重文に指定されている。太安万侶墓に関連して以前、こんな話を聞いたことがある。太安万侶墓(トンボ山)と谷ひとつ隔てた「和田山」(奈良市和田町)に高級官僚の墓があるというのだ。真偽のほどは定かではないが、地元では一時「稗田阿礼の墓ではないか」と盛り上がったそうだ。いただいた産経新聞(日付不詳)のコピーによると、
太安万侶墓の見つかった急斜面の茶畑(トンボ山)
30年前にも骨蔵器出土 陶製、太安萬侶の墓近く
奈良朝の墓制 解明へ手がかり
【奈良】太安萬侶の墓が発見されたことで、奈良市田原地区の山間部が奈良時代の墓域としてクローズアップされているが、太安萬侶の墓から南約500㍍の丘陵地でも陶製骨蔵器が30年前に出土、埋め戻されていることがわかり、奈良県立橿原考古学研究所で調査をはじめた。墓には木炭槨があり、奈良時代の墳墓と共通、骨蔵器に絵か文字が描かれているとみられ、千二百年前に平城京で活躍した貴人、高級官吏像が浮かび上がる可能性が強い。
表面に絵か文字“タタリ”怖いと埋める
陶製骨蔵器が出土したのは同市和田町の茶畑。所有者の奥田栄克さん(55)=同町46、農業=が(昭和)21年3月ごろ、雑木林を茶畑にするため、開墾中、地表から約30㌢のところに木炭をびっしり敷きつめた層とともに骨臓器が出てきた。
奥田さんは「墓をむやみにさわると、タタリがある」と考え、骨臓器を元の位置にもどし、土をかぶせて埋めもどしたが、骨臓器は直径30㌢のタマゴ型の陶製。表面に絵か文字のようなものが刻み込まれ、フタの部分にはつまみがなく、真ん中で重ねるようになっていた。容器のなかには骨片が詰まっていたという。
橿原考古学研が調査へ
この墓の北約500㍍の丘陵地で太安萬侶の墓が見つかり、話題になったことから、奥田さんは三十年前の出来事を思い出し、橿原考古学研究所に知らせた。同研究所の予備調査によると、現場は①南向きの急な斜面②茶畑のなかに3㍍四方の小さなまんじゅう型の土盛りが残っている③南側地表には、直径1-3㌢、長さ1-5㌢の小さな木炭片が無数に露出。木炭槨の存在が確認された―など、太安萬侶の墓と共通した点が多い。
また、太安萬侶の墓では火葬した人骨を木棺に納め、墓誌とともに埋葬されていたが、陶製骨蔵器も奈良時代から使われており、墓誌銘入りの骨蔵器はこれまで四例が発見されている。墓誌銘入りの骨蔵器は、奈良時代の高僧・行基(銅製破片)やガラス製のものが見つかっている。板状の墓誌には銅、石、陶製などがあるところから、同研究所は「陶製骨蔵器にも被葬者の生前の記録を記した文字が刻まれている可能性が強い」とみている。
また、太安萬侶の墓が見つかった田原地区は平城京から十数㌔離れた奈良市東部の山間部で、同研究所は「養老2年(718年)の“喪葬令”で、墳墓は平城京外に築造するように厳しく規定されたため、奈良時代の貴族や高級官僚はこの同地域を共同墓地に使っていた」と推定。中国の地理学の影響を受けて背後に山のある日当たりのよい南斜面に墳墓を築いた風習が、同地域に散在する太安萬侶の墓や光仁天皇陵、天智天皇の皇子・志貴皇子陵にうかがえ、奈良時代の墓制解明の手がかりが墓の調査で得られるとしている。
石野博信・奈良県立橿原考古学研究所調査課長の話
「骨蔵器を木炭層でおおう埋葬方法は、奈良時代から中世にかけて行われているので、現在、露出している木炭の一部を採集して時代鑑定しているところだ。地理的には奈良時代の共同墓地にあたるので、奥田さんの墓も、奈良時代のものである可能性が強い」
その後、音沙汰がないので、「稗田阿礼の墓」説はしぼんでしまったのだろう。遅くなったが、最後に小野さんの記事全文を紹介しておく。
奈良市東部の大和茶で名が知られる田原の里で1979(昭和54)年、茶木の植え替え作業中に木炭片と人骨が見つかりました。木片の裏に「朝臣安萬侶」と読める41文字が刻まれた銅製墓誌が貼り付けてあり、その墓誌が「古事記」と「続日本紀」の記述と一致しました。
太安万侶が稗田阿礼の語りをもとに「古事記」を編さんしたこと、この地が安万侶の墓であることを実証したとされ、大きな話題になりました。墓は直径4.5メートルの円墳と推定され史跡に、墓誌は重要文化財に指定されています。その後2012(平成24)年に墓誌の筆跡がコンピューター画像で確認され、新たな話題を呼びました。
■メモ 太安万侶の墓へは近鉄・JR奈良駅から田原方面行バス「田原横田」で下車し 北へ徒歩20分。便数が少ないのでご注意ください(奈良まほろばソムリエの会副理事長 小野哲朗)。
※トップ写真は、太安万侶の火葬墓
これはよく知られた話で、墓は国史跡、墓誌は重文に指定されている。太安万侶墓に関連して以前、こんな話を聞いたことがある。太安万侶墓(トンボ山)と谷ひとつ隔てた「和田山」(奈良市和田町)に高級官僚の墓があるというのだ。真偽のほどは定かではないが、地元では一時「稗田阿礼の墓ではないか」と盛り上がったそうだ。いただいた産経新聞(日付不詳)のコピーによると、
太安万侶墓の見つかった急斜面の茶畑(トンボ山)
30年前にも骨蔵器出土 陶製、太安萬侶の墓近く
奈良朝の墓制 解明へ手がかり
【奈良】太安萬侶の墓が発見されたことで、奈良市田原地区の山間部が奈良時代の墓域としてクローズアップされているが、太安萬侶の墓から南約500㍍の丘陵地でも陶製骨蔵器が30年前に出土、埋め戻されていることがわかり、奈良県立橿原考古学研究所で調査をはじめた。墓には木炭槨があり、奈良時代の墳墓と共通、骨蔵器に絵か文字が描かれているとみられ、千二百年前に平城京で活躍した貴人、高級官吏像が浮かび上がる可能性が強い。
表面に絵か文字“タタリ”怖いと埋める
陶製骨蔵器が出土したのは同市和田町の茶畑。所有者の奥田栄克さん(55)=同町46、農業=が(昭和)21年3月ごろ、雑木林を茶畑にするため、開墾中、地表から約30㌢のところに木炭をびっしり敷きつめた層とともに骨臓器が出てきた。
奥田さんは「墓をむやみにさわると、タタリがある」と考え、骨臓器を元の位置にもどし、土をかぶせて埋めもどしたが、骨臓器は直径30㌢のタマゴ型の陶製。表面に絵か文字のようなものが刻み込まれ、フタの部分にはつまみがなく、真ん中で重ねるようになっていた。容器のなかには骨片が詰まっていたという。
橿原考古学研が調査へ
この墓の北約500㍍の丘陵地で太安萬侶の墓が見つかり、話題になったことから、奥田さんは三十年前の出来事を思い出し、橿原考古学研究所に知らせた。同研究所の予備調査によると、現場は①南向きの急な斜面②茶畑のなかに3㍍四方の小さなまんじゅう型の土盛りが残っている③南側地表には、直径1-3㌢、長さ1-5㌢の小さな木炭片が無数に露出。木炭槨の存在が確認された―など、太安萬侶の墓と共通した点が多い。
また、太安萬侶の墓では火葬した人骨を木棺に納め、墓誌とともに埋葬されていたが、陶製骨蔵器も奈良時代から使われており、墓誌銘入りの骨蔵器はこれまで四例が発見されている。墓誌銘入りの骨蔵器は、奈良時代の高僧・行基(銅製破片)やガラス製のものが見つかっている。板状の墓誌には銅、石、陶製などがあるところから、同研究所は「陶製骨蔵器にも被葬者の生前の記録を記した文字が刻まれている可能性が強い」とみている。
また、太安萬侶の墓が見つかった田原地区は平城京から十数㌔離れた奈良市東部の山間部で、同研究所は「養老2年(718年)の“喪葬令”で、墳墓は平城京外に築造するように厳しく規定されたため、奈良時代の貴族や高級官僚はこの同地域を共同墓地に使っていた」と推定。中国の地理学の影響を受けて背後に山のある日当たりのよい南斜面に墳墓を築いた風習が、同地域に散在する太安萬侶の墓や光仁天皇陵、天智天皇の皇子・志貴皇子陵にうかがえ、奈良時代の墓制解明の手がかりが墓の調査で得られるとしている。
石野博信・奈良県立橿原考古学研究所調査課長の話
「骨蔵器を木炭層でおおう埋葬方法は、奈良時代から中世にかけて行われているので、現在、露出している木炭の一部を採集して時代鑑定しているところだ。地理的には奈良時代の共同墓地にあたるので、奥田さんの墓も、奈良時代のものである可能性が強い」
その後、音沙汰がないので、「稗田阿礼の墓」説はしぼんでしまったのだろう。遅くなったが、最後に小野さんの記事全文を紹介しておく。
奈良市東部の大和茶で名が知られる田原の里で1979(昭和54)年、茶木の植え替え作業中に木炭片と人骨が見つかりました。木片の裏に「朝臣安萬侶」と読める41文字が刻まれた銅製墓誌が貼り付けてあり、その墓誌が「古事記」と「続日本紀」の記述と一致しました。
太安万侶が稗田阿礼の語りをもとに「古事記」を編さんしたこと、この地が安万侶の墓であることを実証したとされ、大きな話題になりました。墓は直径4.5メートルの円墳と推定され史跡に、墓誌は重要文化財に指定されています。その後2012(平成24)年に墓誌の筆跡がコンピューター画像で確認され、新たな話題を呼びました。
■メモ 太安万侶の墓へは近鉄・JR奈良駅から田原方面行バス「田原横田」で下車し 北へ徒歩20分。便数が少ないのでご注意ください(奈良まほろばソムリエの会副理事長 小野哲朗)。