tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

田原の里に眠る太安万侶/毎日新聞「ディスカバー!奈良」第103回

2019年03月06日 | ディスカバー!奈良(毎日新聞)
NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」は毎週木曜日、毎日新聞奈良版に「ディスカバー!奈良」を連載している。2月21日(木)に掲載されたのは「古事記編さん者を実証/奈良市の太安万侶の墓」、執筆されたのは同会副理事長の小野哲朗さん(生駒市在住)。
※トップ写真は、太安万侶の火葬墓

これはよく知られた話で、墓は国史跡、墓誌は重文に指定されている。太安万侶墓に関連して以前、こんな話を聞いたことがある。太安万侶墓(トンボ山)と谷ひとつ隔てた「和田山」(奈良市和田町)に高級官僚の墓があるというのだ。真偽のほどは定かではないが、地元では一時「稗田阿礼の墓ではないか」と盛り上がったそうだ。いただいた産経新聞(日付不詳)のコピーによると、


太安万侶墓の見つかった急斜面の茶畑(トンボ山)

30年前にも骨蔵器出土 陶製、太安萬侶の墓近く
奈良朝の墓制 解明へ手がかり

【奈良】太安萬侶の墓が発見されたことで、奈良市田原地区の山間部が奈良時代の墓域としてクローズアップされているが、太安萬侶の墓から南約500㍍の丘陵地でも陶製骨蔵器が30年前に出土、埋め戻されていることがわかり、奈良県立橿原考古学研究所で調査をはじめた。墓には木炭槨があり、奈良時代の墳墓と共通、骨蔵器に絵か文字が描かれているとみられ、千二百年前に平城京で活躍した貴人、高級官吏像が浮かび上がる可能性が強い。

表面に絵か文字“タタリ”怖いと埋める
陶製骨蔵器が出土したのは同市和田町の茶畑。所有者の奥田栄克さん(55)=同町46、農業=が(昭和)21年3月ごろ、雑木林を茶畑にするため、開墾中、地表から約30㌢のところに木炭をびっしり敷きつめた層とともに骨臓器が出てきた。

奥田さんは「墓をむやみにさわると、タタリがある」と考え、骨臓器を元の位置にもどし、土をかぶせて埋めもどしたが、骨臓器は直径30㌢のタマゴ型の陶製。表面に絵か文字のようなものが刻み込まれ、フタの部分にはつまみがなく、真ん中で重ねるようになっていた。容器のなかには骨片が詰まっていたという。

橿原考古学研が調査へ
この墓の北約500㍍の丘陵地で太安萬侶の墓が見つかり、話題になったことから、奥田さんは三十年前の出来事を思い出し、橿原考古学研究所に知らせた。同研究所の予備調査によると、現場は①南向きの急な斜面②茶畑のなかに3㍍四方の小さなまんじゅう型の土盛りが残っている③南側地表には、直径1-3㌢、長さ1-5㌢の小さな木炭片が無数に露出。木炭槨の存在が確認された―など、太安萬侶の墓と共通した点が多い。

また、太安萬侶の墓では火葬した人骨を木棺に納め、墓誌とともに埋葬されていたが、陶製骨蔵器も奈良時代から使われており、墓誌銘入りの骨蔵器はこれまで四例が発見されている。墓誌銘入りの骨蔵器は、奈良時代の高僧・行基(銅製破片)やガラス製のものが見つかっている。板状の墓誌には銅、石、陶製などがあるところから、同研究所は「陶製骨蔵器にも被葬者の生前の記録を記した文字が刻まれている可能性が強い」とみている。

また、太安萬侶の墓が見つかった田原地区は平城京から十数㌔離れた奈良市東部の山間部で、同研究所は「養老2年(718年)の“喪葬令”で、墳墓は平城京外に築造するように厳しく規定されたため、奈良時代の貴族や高級官僚はこの同地域を共同墓地に使っていた」と推定。中国の地理学の影響を受けて背後に山のある日当たりのよい南斜面に墳墓を築いた風習が、同地域に散在する太安萬侶の墓や光仁天皇陵、天智天皇の皇子・志貴皇子陵にうかがえ、奈良時代の墓制解明の手がかりが墓の調査で得られるとしている。

石野博信・奈良県立橿原考古学研究所調査課長の話
「骨蔵器を木炭層でおおう埋葬方法は、奈良時代から中世にかけて行われているので、現在、露出している木炭の一部を採集して時代鑑定しているところだ。地理的には奈良時代の共同墓地にあたるので、奥田さんの墓も、奈良時代のものである可能性が強い」


その後、音沙汰がないので、「稗田阿礼の墓」説はしぼんでしまったのだろう。遅くなったが、最後に小野さんの記事全文を紹介しておく。

奈良市東部の大和茶で名が知られる田原の里で1979(昭和54)年、茶木の植え替え作業中に木炭片と人骨が見つかりました。木片の裏に「朝臣安萬侶」と読める41文字が刻まれた銅製墓誌が貼り付けてあり、その墓誌が「古事記」と「続日本紀」の記述と一致しました。

太安万侶が稗田阿礼の語りをもとに「古事記」を編さんしたこと、この地が安万侶の墓であることを実証したとされ、大きな話題になりました。墓は直径4.5メートルの円墳と推定され史跡に、墓誌は重要文化財に指定されています。その後2012(平成24)年に墓誌の筆跡がコンピューター画像で確認され、新たな話題を呼びました。

■メモ 太安万侶の墓へは近鉄・JR奈良駅から田原方面行バス「田原横田」で下車し 北へ徒歩20分。便数が少ないのでご注意ください(奈良まほろばソムリエの会副理事長 小野哲朗)。


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高取町の壷阪寺と信楽寺は、お里・沢市の寺/毎日新聞「ディスカバー!奈良」第102回

2019年03月01日 | ディスカバー!奈良(毎日新聞)
NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」は、毎週木曜日、毎日新聞奈良版に「ディスカバー!奈良」を連載している。2月14日付で掲載されたのは「夫婦愛救った観音様/高取町の壷阪寺と信楽寺」、筆者は同会理事の大山恵功(よしのり)さん。
※トップ写真は、お里と沢市の像(壷阪寺)

「妻は夫をいたわりつ、夫は妻に慕いつつ~」の浪曲の名文句で知られるお里・沢市の「壺坂霊験記」。そのストーリーは皆さんよくご存じだろうし記事でも紹介されるが、最近、新発見をした。「朝拝式」で知られる吉野郡川上村の金剛寺のお地蔵さんにまつわる話が、「壺坂霊験記」のモトになっているというのである。しかもこちらはハッピーエンドとは少し違う。サイト「文化デジタルライブラリー」によると、

吉野の里に住む盲目の男が、川上という所の霊験(れいげん)あらたかな地蔵に参詣(さんけい)し、目が開くように願います。地蔵堂に籠(こ)もったその夜、男は御霊夢をたまわり、目が見えるようになります。念願かなった男は、大喜びで杖を捨て帰宅し、妻も「黒い涼しい目になりました」と喜びます。

ところが、目をあけてもらうには条件があって、それは妻とは悪縁なので、すぐに別れなければいけないというものでした。その話を聞いて腹を立てた妻は地蔵をあしざまにののしり絶対に別れないと言います。ついに夫も承知し、2人は連れ立って帰りますが、道の途中で夫の目は再び見えなくなってしまいます。2人はともに座って泣き、これも前世の因縁と思って嘆くまいと謡い、手を取り合って帰ります。



お里と沢市の墓がある信楽寺

これは微妙なストーリーだ。では最後に今回の記事全文を紹介しておく。

高取町にある壷阪寺(つぼさかでら)正式名は南法華寺(みなみほっけじ)は西国三十三所の六番札所で、眼病にご利益があることで知られています。「壺坂観音霊験記」(つぼさかかんのんれいげんき)は、盲目の沢市(さわいち)と妻のお里(さと)の夫婦愛を描いた明治時代に作られた人形浄瑠璃(文楽)の演目で、歌舞伎や講談、浪曲でも演じられ人気を集めました。お互いを思いやるがゆえに生じた夫婦の悲劇を壷阪寺の本尊である十一面観音が救済するお話です。

沢市はお里が明け方に出掛けていくのに気付き、男ができたのではと疑いますが、沢市の目が治るように壷阪寺の観音さまに願掛けに行っていたと知ります。それを恥じた沢市はお里とともに壷阪寺へお参りをしますが、目の見えない自分がいては将来お里の足手まといになると考え、谷に身を投げてしまいます。

それを知ったお里も沢市のあとを追って身を投げますが、夫婦愛を聞いた観音さまが現れ、二人は息を吹き返し、沢市は目が見えるようになるという物語です。壷阪寺本堂横には、その沢市とお里が身を投げた投身の谷と言い伝えられている場所があります。高取町下子島の信楽寺(しんぎょうじ)には沢市とお里のお墓があります。

■メモ 壷阪寺へは近鉄吉野線壺阪山駅からバスで壷阪寺前下車。信楽寺へは壺阪山駅下車徒歩約15分(奈良まほろばソムリエの会理事 大山恵功)。


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日本遺産登録めざす「龍田古道」/毎日新聞「ディスカバー!奈良」第101回

2019年02月27日 | ディスカバー!奈良(毎日新聞)
NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」は毎週木曜日、毎日新聞奈良版に「ディスカバー!奈良」を連載している。2月7日(木)付で掲載されたのは「聖徳太子も通った道/三郷町から柏原市への龍田古道」、執筆されたのは柏尾信尚さんだった。龍田古道は現在、「日本遺産」登録を申請中だ。三郷町の公式Facebookによると、
※トップ写真は龍田古道の案内板

三郷町では現在龍田古道の日本遺産登録を目指しています。平成28年11月8日、柏原市と「包括協定」を締結し、日本遺産登録への道のりがスタートしました!柏原市と三郷町は龍田古道を中心として亀の瀬や水運・鉄道など、古代から近代に至るまでの「大和と河内を結ぶ道」をテーマに日本遺産に登録したいと考えています。

そして本年1月24日付で、三郷町と大阪府柏原市は「歴史と地すべりが創り出す壮観な風景と龍田古道~古代から現代まで苦悩に満ちた龍田越え~」として奈良県庁経由で文化庁に日本遺産申請が行われたのである。ではそろそろ柏尾さんの記事を紹介する。


峠八幡神社(大阪府柏原市)

JR関西線(大和路線)三郷駅付近から大和川右岸沿いに西へ大阪府柏原市に向かう道は、古代から大和と河内を結ぶ重要なルートです。北路、中路、南路と複数あり、それら総称して「龍田古道」と呼ばれています。

大和盆地の河川がすべて集まる河内国境の場所は亀の瀬と呼ばれ、川幅が狭く両側に山が迫り、現代も地すべり対策工事が行われている交通の難所でした。聖徳太子が主導して「官道」として整備したといわれ、道沿いには太子ゆかりの寺院が建っていたようです。

峠越えで最も高低差の少ない大和川添いの道(南路)が多く利用されたと考えられ、奈良時代には平城宮から郡山、斑鳩を経て難波宮に至る歴代天皇の行幸路でもあったようです。三郷駅近くの磐瀬の杜には、鏡王女(かがみのおおきみ)の万葉歌碑が建っており、道中には旅人の安全を護る峠八幡神社が鎮座しています。


日本遺産申請のタイトルが「歴史と地すべりが創り出す壮観な風景と龍田古道~古代から現代まで苦悩に満ちた龍田越え~」というのには驚いた。「地すべり」とか「苦悩に満ちた」という言葉が入っていたからだ。発表は5月、今から楽しみにしています!

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公慶上人の墓がある五劫院(奈良市)/毎日新聞「ディスカバー!奈良」第100回

2019年02月23日 | ディスカバー!奈良(毎日新聞)
NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」は毎週木曜日、毎日新聞奈良版に「ディスカバー!奈良」を連載している。その第100回、1月31日(木)付で掲載されたのは「公慶上人のお墓/奈良市の五劫院(ごこういん)」、筆者は奈良市生まれの奈良市育ち、現在も奈良市在住の松森重博さん(奈良まほろばソムリエの会理事)。五劫院は《奈良県奈良市にある寺院。鎌倉時代の創建とされる。宗派は華厳宗。本尊の五劫思惟阿弥陀像は国の重要文化財に指定》(『デジタル大辞泉プラス』)というお寺だ。では、記事全文を紹介する。
※トップ写真は五劫院の山門


境内の公慶上人五輪塔

戦国時代の兵火により、奈良の大仏様は江戸時代、大仏殿が無く雨に打たれていました。少年の頃にそれを見た公慶上人は、大仏様の復元と大仏殿の再建をしたいと志を立てたそうです。そして37歳のとき、江戸幕府に大仏殿の再興と諸国勧進を願い出ました。

公慶上人はまず大仏の修復に6年を要し、さらに大仏殿の再興に尽力しましたが、その完成をみることなく落慶法要を前に亡くなりました。大仏殿の落慶法要には全国から何十万人ものお参りがあったと伝えられています。

東大寺では鎌倉時代の俊乗房重源に次ぐ、第二の中興開山とされており、現在、公慶上人の像は東大寺の公慶堂に安置されています。お墓は北御門町の五劫院にあり、本堂北東奥の五輪塔です。

■メモ JR・近鉄 奈良駅より奈良交通バス 青山住宅方面行き「今在家」下車歩いて3分(奈良まほろばソムリエの会理事 松森重博)。


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興福寺別当・経覚(きょうがく)は大乗院門跡「大安寺墓所」に眠る/毎日新聞「ディスカバー!奈良」第99回

2019年02月21日 | ディスカバー!奈良(毎日新聞)
NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」は毎週木曜日、毎日新聞奈良版に「ディスカバー!奈良」を連載している。1月24日付で掲載されたのは《「応仁の乱」証人しのぶ/奈良市の大乗院門跡大安寺墓所》、筆者は同会理事の石田一雄さん。
※トップ写真の手前やや右に「経覚大僧正」の文字。写真はブログ「マントラよ」から拝借

中公新書のベストセラー『応仁の乱』は、当時興福寺の別当だった経覚と尋尊(じんそん)の日記をもとに記述されている。石田さんはその経覚の墓(大安寺から北へ約200m)を探し当てたのである。では記事全文を紹介する。


大乗院門跡大安寺墓所の石標(石田さんの撮影)

『応仁の乱』(呉座勇一著、中公新書)は、乱の時期に興福寺のトップ・別当であった大乗院門跡経覚(だいじょういんもんぜききょうがく)の日記『経覚私要鈔(しようしょう)』と次代の大乗院門跡尋尊(じんそん)の日記『大乗院寺社雑事記(ぞうじき)』に書き残された奈良から見た乱の様子を基にしています。

4度も別当を務めた経覚の墓があるのが、大乗院門跡大安寺墓所です。復元された大安寺北面中房跡(僧坊跡)の道を挟んだ向かい側に石標が立っています。中へ入ると、三つの墓標や墓石、五輪塔などが並んでいて、真ん中の墓標が経覚のものと伝わります。

奈良時代に官大寺として威勢を誇った大安寺は次第に衰微し、室町時代には大乗院門跡の隠居所として己心寺(こしんじ)がありました。経覚は引退後もここを拠点に活動し、大和の動乱に影響を与えました。なお尋尊は、興福寺境内の菩提院大御堂(ぼだいいんおおみどう)の南東隅に墓所があります。

■メモ JR奈良駅からバス「大安寺」下車徒歩5分(奈良まほろばソムリエの会理事 石田一雄)


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