tetsudaブログ「どっぷり!奈良漬」

コロナも落ちつき、これからが観光シーズン、ぜひ奈良に足をお運びください!

蛇(じゃ)祭りで知られる織物の神「倭文(しずり)神社」(奈良市西九条町)/毎日新聞「やまとの神さま」第98回

2024年10月06日 | やまとの神さま(毎日新聞)
今週から、毎週「水曜日」の連載となった「やまとの神さま」(毎日新聞奈良版)、水曜の初回(2024.10.2)は〈常陸平定に貢献 織物の神/倭文神社(奈良市)〉、執筆されたのは、奈良市にお住まいの青木章二さんだった。青木さんは歴史をテーマとした講演の講師として、ご活躍中である。
※トップ写真は、倭文神社本殿。奈良市西九条町で

この神社のことは以前、同じ毎日新聞奈良版のコーナー「ディスカバー!奈良」で紹介したことがある。なお「倭文」とは〈古代の織物の一種。梶木(かじのき)、麻などで筋や格子を織り出したもの。荒妙(あらたえ)。しずおり。しずぬの〉(日本国語大辞典)。同神社の「蛇祭り」は、理源大師聖宝(しょうぼう、当山派修験道の祖)の大蛇退治に由来するという。では、以下に全文を紹介する。

常陸平定に貢献 織物の神/倭文神社(奈良市)
倭文(しずり)神社は奈良市西九条町、旧の字名、辰市に鎮座しており、この地は春日大社の社家(神主)が最初に居住した辰市郷で、「大和名所図会」(1791年刊)には「倭文社、俗にひずりのやしろという」とあります。

祭神は武羽槌雄命(たけはづちおおのみこと)、経津主命(ふつぬしのみこと)、誉田別命(ほんだわけのみこと)の三神で、武羽槌雄命は武甕槌命(たけみかづちのみこと)が常陸国(ひたちのくに)を平定される際に武甕槌命に反旗をひるがえした神(香香背男=かかせお)を討った神で、また倭文の神(織物の神)ともされています。

武甕槌命が鹿島神宮から御蓋山(みかさやま)の頂に降臨された時、侍従、中臣時風(ときふう)・秀行氏が、768(神護景雲2)年、この地に倭文神社を勧請し、移住してきた中臣一族が鹿島神宮で行っていた祭祀(さいし)を辰市郷でも行ったといわれています。

この中臣時風・秀行氏は「鹿島立神影図 (だちしんえいず) (奈良国立博物館所蔵)」の下に描かれている人物です。本殿は春日移しの社殿で若宮摂社三十八所神社の旧本殿を移したと伝わっています。

倭文神社の秋祭りはスポーツの日の前日の日曜日(今年は10月13日)に行われ「蛇(じゃ)祭り」と呼ばれています。この祭りは大蛇に人身御供(子供)を捧げる昔の風習を今に伝える、民俗学的にも大変興味深いお祭りです。現在は人身御供を表した神饌(しんせん)が供されています。(奈良まほろばソムリエの会会員 青木章二)

(住 所)奈良市西九条町2の14の2
(祭 神)武羽槌雄命、経津主命、誉田別命
(交 通)近鉄九条駅から東へ徒歩約25分
(拝 観)境内自由
(駐車場)なし
(電 話)なし


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約100年ぶりに復活!「なもで踊り」の飽波(あくなみ)神社(安堵町東安堵)/毎日新聞「やまとの神さま」第97回

2024年09月27日 | やまとの神さま(毎日新聞)
NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」は毎週木曜日、毎日新聞奈良版に「やまとの神さま」を連載している(10月からは、掲載日は水曜日に変更)。先週(2024.9.19)に掲載されたのは、〈太子ゆかり「腰掛け石」も/飽波神社(安堵町)〉、執筆されたのは斑鳩町にお住まいの河添正雄さんだった。
※トップ写真は、飽波神社の鳥居と拝殿=安堵町東安堵で

飽波神社は太子道(筋違道)沿いにあり、聖徳太子が休憩したとされる「太子腰掛け石」も残る。毎年10月の「なもで踊り」(雨乞い祈願の結果、雨が降ればお礼として奉納される踊り)で知られている。なお「なもで」は、「南無阿弥陀仏」が訛(なま)った「ナムデー」なのだそうだ。では、以下に全文を紹介する。


これら2枚の写真は、なもで踊りのひとコマ(2014.10.25 撮影)

太子ゆかり「腰掛け石」も/飽波神社(安堵町)
飽波神社は安堵町の太子道(筋違道(すじかいみち))沿いに鎮座しており、江戸時代には牛頭天王社(ごずてんのうしゃ)と呼ばれていました。太子道とは、聖徳太子が斑鳩と飛鳥を愛馬・黒駒に乗って往還したと伝わる古道で奈良盆地を斜めに横切っています。

神社の近くには安堵町役場や安堵町歴史民俗資料館があり、また太子道沿いには聖徳太子の伝承が数多く残っています。飽波神社も太子が晩年に妃の菩岐々美郎女(ほききみのいらつめ)と過ごしたと伝わる「飽波蘆垣宮(あくなみあしがきのみや)」跡候補地の一つとされています。



本殿は、檜皮葺(ひわだぶき)の一間社(正面の柱間が一つ)春日造で、県指定文化財となっています。また境内には太子が腰かけて黒駒とともに休息をとったと伝わる「太子腰掛け石」があります。

当神社では江戸時代ごろより、雨乞いの「なもで踊り」が奉納されていました。明治時代に途切れてしまいましたが、1995年に約100年ぶりに復活され、毎年10月の秋祭りの宵宮(今年は10月第4日曜日前日の26日)に奉納されています。踊りの衣装や絵馬など関係資料は県指定文化財です。

鳥居に掲げられた扁額(へんがく)「安久波社」の文字は、安堵町出身の近代陶芸家で人間国宝第1号の富本憲吉の筆によるものです。(奈良まほろばソムリエの会会員 河添正雄)

(住 所)安堵町東安堵1379
(祭 神)素戔嗚尊(すさのおのみこと)
(文化財)本殿となもで踊り道具は県指定文化財
(交 通)JR法隆寺駅から「かしの木台一丁目」か「住江織物」行バスで「東安堵」下車すぐ。駐車場無


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悪疫退散の神、信州にも分祀「墨坂神社」(宇陀市榛原萩原)/毎日新聞「やまとの神さま」第96回

2024年09月20日 | やまとの神さま(毎日新聞)
NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」は、毎週木曜日、毎日新聞奈良版に「やまとの神さま」を連載している。先週(2024.9.12)掲載されたのは〈日本最古 健康の神祭る/墨坂神社(宇陀市)〉、執筆されたのは、信州のご出身で木津川市在住の島田宗人さんだった。信州(長野県須坂市)に墨坂神社があることは、今回、初めて知った。では、全文を以下に紹介する。
※墨坂神社本殿=宇陀市榛原萩原で

日本最古 健康の神祭る/墨坂神社(宇陀市)
墨坂神社は伊勢本街道に近い宇陀川の右岸に鎮座しています。「墨坂」の地名は、神武東征の際に、八十梟帥師(やそたける)軍が焃炭(おこしすみ=山焼き)をして進攻を妨げた故事によっています。

「古事記」には崇神天皇の御代に国中に疫病が蔓延(まんえん)していた時、神人(じにん)が天皇に「赤盾八枚(あかたてはちひら)・赤矛八竿(あかほこはちさお)を以て墨坂の神を祭り、黒盾八枚・黒矛八竿を以て大坂の神を祭れ」 と告げられました。お告げに従うと悪病が止み、暮らしが平穏になったとあります。大和の東の入口の墨坂神社に対し、西の入口は大坂山口神社(香芝市)です。

ご祭神は墨坂大神といわれる六神で日本最古の健康の神さまです。神社では現在も例祭のおりに「赤盾八枚・赤矛八竿」を奉納しています。当初、社殿は伊勢本街道の西峠「天の森」付近にありましたが、1449(文安6)年に現在地に遷座しました。十一月の例祭では、元の社地から渡御(とぎょ)行列が現在の社殿に向かいます。

また長野県須坂市には、科野国造(しなののくにのみやつこ)が当神社から分祀(ぶんし)した墨坂神社が二社あります。信濃にゆかりの建御名方命(たけみなかたのみこと)を合祀(ごうし)した神社で、国人領主須田氏や武田信玄公、須坂藩主堀氏などの崇敬が篤(あつ)く、須坂の地名の元にもなっています。 (奈良まほろばソムリエの会会員 島田宗人)
         
(住 所)宇陀市榛原萩原703     
(祭 神)天御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、高皇産霊神(たかみむすびのかみ)、神皇産霊神(かむむすびのかみ)、伊邪那岐神(いざなぎのかみ)、伊邪那美神(いざなみのかみ)、大物主神(おおものぬしのかみ)
(交 通)近鉄榛原駅から徒歩約10分
(拝 観)境内自由
(駐車場)有、無料
(電 話)0745・82・0114


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獅子舞とお葉付イチョウ「門僕(かどふさ)神社」(曽爾村今井)/毎日新聞「やまとの神さま」第95回

2024年09月15日 | やまとの神さま(毎日新聞)
NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」は毎週木曜日、毎日新聞奈良版に「やまとの神さま」を連載している。月初(2024.9.5)に掲載されたのは〈雄略天皇の御代に創建/門僕神社(曽爾村)〉、執筆されたのは同会会員で奈良市にお住まいの本井良明さんだった。
※トップ写真は、門僕神社の拝殿(手前)と本殿=曽爾村今井で

この神社は、華麗な「曽爾の獅子舞」で知られている。毎年、スポーツの日前日の日曜日(2024年は10/13)の秋の例祭の日に開催される。では、以下に全文を紹介する。

門僕神社(曽爾村)
雄略天皇の御代に創建と伝わる門僕(かどふさ)神社は、曽爾村の中央部、青蓮寺(しょうれんじ)川(曽爾川)の西岸に鎮座しており、延喜式神名帳に大和国宇陀郡17座のうちに記載された由緒ある神社です。

祭神は、天津児屋根命、(あまのこやねのみこと)武甕槌命(たけみかづちのみこと)、経津主命(ふつぬしのみこと)、比賣大神(ひめおおかみ)と他3柱で、曽爾村8大字の産土神(うぶすながみ)として崇敬されています。

社殿は21年毎に造替されていましたが1679(延宝7)年の暴風雨で倒壊し、棟札・諸記録が流出したため、高所に再建されました。現在の社殿は2010年の造替で、屋根を桧皮葺(ひわだぶき)から銅葺としました。

秋の例祭(スポーツの日の前日に斎行)では、「すこ」(柿と餅を串に挿し頭上に鶏頭花を挿して着飾った乙女の形)という神饌(しんせん)が犬の舌・牛の舌の形に模した餅とともに供えられます。

また、境内では、1718(享保3)年から300年以上継承されている「曽爾の獅子舞」が、長野・今井・伊賀見の3地区の人たちにより奉納されます。

参神楽、獅子踊り、接ぎ獅子など一連の獅子舞は、種類の豊富さと質の高さが評価され1979年に県無形民俗文化財に指定されました。また境内には葉のふちに種子をつける「お葉付イチョウ」(県指定天然記念物)があります。(奈良まほろばソムリエの会会員 本井良明)

(住 所)曽爾村今井733
(祭 神)天津児屋根命、武甕槌命、経津主命、比賣大神、玉祖命(たまのやのみこと)、天手力男命(あめのたぢからおのみこと)、天宇受賣命(あめのうずめのみこと)
(交 通)近鉄榛原駅から奥宇陀わくわくバス「曽爾役場前」下車すぐ。 無料駐車場あり
(拝 観)境内自由
(電 話)0745・96・2711


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境内に飛鳥時代の西安寺(さいあんじ)跡/舟戸神社(北葛城郡王寺町舟戸)

2024年09月03日 | やまとの神さま(毎日新聞)
NPO法人「奈良まほろばソムリエの会」は毎週木曜日、毎日新聞奈良版に「やまとの神さま」を連載している。先週(2024.8.29付)掲載されたのは、〈渡し船の地 旅人守る神/舟戸神社(王寺町)〉、執筆されたのは姫路市在住の池内力さんだった。
※トップ写真は、舟戸神社の参道と拝殿=王寺町で

舟戸神社の境内には、「西安寺跡(さいあんじあと)」がある。西安寺は飛鳥時代に創建された寺で、聖徳太子が創建した46ヵ寺の1つだ。「奈良県歴史文化資源データベース」によると、

平成26年度(2014年度)の発掘調査で初めて塔跡の遺構を確認し、平成29年度(2017年度)には柱を支えた礎石や乱石積基壇が良好な状態で残っていることが明らかになり、その大きさを復元すれば塔の建物は6.75m四方、基壇は13.35m四方で、法隆寺五重塔と同じくらいであったこともわかりました。

では、記事全文を以下に紹介する。

渡し船の地 旅人守る神/舟戸神社(王寺町)
舟戸神社は、西に流れる大和川の左岸、西側を旧当麻街道が南北に走る地に鎮座しています。 旧当麻街道は、北の龍田神社(斑鳩町)と南の当麻方面や吉野・和歌山方面を結んでおり、多くの人に利用されていました。

江戸時代、この付近の大和川には橋が架かっておらず、船で渡っていました。このため、この辺りの集落は、江戸時代には「船渡」と呼ばれており、現在は「舟戸」と表記されています。

祭神は久那戸神(くなどのかみ)と天児屋根命(あめのこやねのみこと)で、久那戸神は道祖神や賽(さい)の神と同様に道路や旅人などを守る神であり、大和川や旧当麻街道を行き交う人々やこの地を守る神として信仰を集めています。なお、祭神については、伊弉諾神(いざなぎのかみ)が投げ捨てた杖から生まれた衝立舟戸神(つきたつふなどのかみ)とする伝承もあります。

神社の創建時期は室町時代以降と考えられ、それ以前には飛鳥時代に創建された西安寺がありました。西安寺の発掘調査では、飛鳥時代から室町時代の瓦が出土しており、また、神社の拝殿の北東に塔が、その北に金堂があったことが明らかになりました。さらに、東回廊跡も確認されました。

この結果、南向きの四天王寺式伽藍(がらん)配置(門・塔・金堂・講堂が一直線上に並ぶ)の古代寺院であったと考えられています。(奈良まほろばソムリエの会会員 池内力)
 
(住 所)北葛城郡王寺町舟戸2の4189
(祭 神)久那戸神、天児屋根命
(交通)JR王寺駅か近鉄新王寺駅から南東へ徒歩約15分
(拝 観)自由
(駐車場)なし
(電 話)なし


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