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田中利典師の『吉野薫風抄』白馬社刊(10)/自利と利他は表裏一体

2022年08月04日 | 田中利典師曰く
田中利典師の処女作にして最高傑作という『吉野薫風抄 修験道に想う』(白馬社刊)を、師ご自身の抜粋により紹介するというぜいたくなシリーズ。第10回の今回は「自利と利他は表裏一体」。大乗仏教の「上求菩提(じょうぐぼだい)下化衆生(げけしゅじょう)」の精神について、師が理解を深められた「軌跡」が述べられていて、興味深い。
※トップ写真は、なら燈花会で撮影。今年(2022年)は8/5(金)~14(日)の開催だ

なお「上求菩提 下化衆生」とは、〈菩薩が上に向かってはみずからの悟りを求め、下に向かっては世の人々を悟りへと導くこと。菩薩の自利と利他の二つの実践をいったもの〉(仏教語大辞典)。では、師のFB(5/2付)から引用する。

シリーズ吉野薫風抄⑩/「上求菩提 下化衆生」
大乗仏教では菩薩の行として、〈上求菩提 下化衆生〉を教えている。仰いでは自利のために悟りを求め、伏しては利他のため世の人々を救おうとせよ。これが菩薩の修行であり、菩薩道の精神なのであると説くが、私は永らくこの〈上求菩提 下化衆生〉の真意が理解できないでいた。

というのは、我々凡夫はある程度悟りをおさめた後なら、人々の救済にも出向いていけるかもしれないし、利他の行も行ずることができるかもしれないが、ともかく、自分がまず救われることが先のはずである。それをいきなり、両方一度に課せられても無理なことで、そんなことをするなら、どちらも中途半端になってしまうにちがいないと思っていたからである。

私の愚かな疑問が諒解したのは、上求菩提下化衆生は「即」でないといけない、二つは別々のものではなく即今只今、不二不離のもの、表離一体のものでなくてはならないと教えられた時であった。

悟りを求める心と、人々を救おうとする心は別々なものではなく、一つのものなのであり、まず悟りを得てから、次に人々を救いに行こう、などと考えること自体が上求菩提下化衆生の真意に反した考えなのである。ここの所を教えられた時、私の永らくの疑問は氷解したのであった。

そう考えてくると、素直に下化衆生に出向く心が湧いてきて、今まではこんな未熟な私が人々を導くなどとはおこがましいと、なんやかや理由をつけては何にもしなかったのだが、近頃は徐々にではあるが積極的に関わっていけるようになってきた。

そして驚いたことには、人々への利他の活動に身を入れるほどに、自らを高めなければならないと思う気持ちが更に湧いてきたのである。俗に、教えることは学ぶことというが、まさに導くことは高まることなのであった。最も愚かなことは、先ず自分が救われてからと、何もしないでいることなのであった。

信仰の道に入る人々は自分が救われたいがためにその門をたたく。そして自分の救済を得んがために一時に熱心になる。しかし本当の救いとは、他人も共に救われようと思う心が伴ってこそ成就するものではあるまいか。

少なくとも、三世救済のご誓願を以って示現されたわが御本尊は、上求菩提下化衆生の菩薩道の実践を我々に課しておられるにちがいない。そのお心に叶う道を歩み出した時、我々はすでに御本尊の御誓願力によって、救われていたことを必ずや実感するであろう。上求菩提下化衆生の菩薩道精進の真意はまさにそこにあるのである。

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若い頃、「善とは?」「悟りとは?」「大乗仏教とは?」「菩薩道とは?」…などと、正面からいろんなことに向き合ったことがあったが、今さらながら、若かったなあと思う。そういった設問への問いを続けた人生だったとも言えるかもしれない。思えば、答えのない答えをそのときなりに、導き出してきて、いまの私があるのだ。そしてその問いはいまなお、続いている。
◇◇
私の処女作『吉野薫風抄』は平成4年に金峯山時報社から上梓され(26歳から35歳まで書いたコラムを編集)、平成15年に白馬社から改定新装版が再版、また令和元年には電子版「修験道あるがままに シリーズ」(特定非営利活動法人ハーモニーライフ出版部)として電子書籍化されています。「祈りのシリーズ」の第3段は、本著の中から紹介しています。Amazonにて修験道あるがままに シリーズ〈電子版〉を検索いただければ、Kindle版が無料で読めます。
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