今日の「田中利典師曰く」は、〈「チベット旅行記」(4)〉(師のブログ 2016.9.3 付)。チベットの仏教は後期密教で、他の国には、ほとんど伝播していない(日本への伝播は中期密教まで)。師は、チベットの寺に残る膨大な数の曼荼羅に目を見張る…。では、全文を以下に紹介する。
「チベット旅行記」(4)田中利典著述集を振り返る280903
10年前に綴ったチベット旅行記のその4です。
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「チベット仏教と夥(おびただ)しい仏」
インドで生まれた仏教は8世紀後半、母国では廃れる。そのインド仏教が行き着いた後期密教はそのままの形でチベットに流伝した。インド仏教は開祖の釈尊以来、発展と変容を生むが、中国や日本に伝わったものは中期密教までで、最後の精華というべき後期密教はほとんど伝播していない。
その意味でもチベット仏教の存在意義は大きい。加えて、仏教による政教一致がチベットほど徹底されていた国は希有であり、そこにも大きな意味を見出す。
もちろん中国侵攻以降、チベット仏教は苦難の道を余儀なくされるが、行く先々で五体倒地の巡礼を続ける多くの人々を見るにつけ、民のすみずみにまで行き渡った仏教信仰は未だ厳然として生きていることを実感した。
ただもう少し言えば、近年世界的に注目を浴びるチベット仏教は『死者の書』やタントラリズムなど、異次元的で、そして甘美な世界を印象づけている。しかし実際に私が接したチベットの高僧や民衆の信仰はというと、そういう感じは極めて希薄であった。
唯一、ギャンツェで参観した白居寺大塔に残された夥しい金剛界や無上瑜伽タントラ系のマンダラ群に、チベット密教の最奥を見たように思う。
それにしてもなんと夥しいマンダラや仏たちだろう。白居寺に限らず、訪れた全ての寺院で、夥しいとしかいいようのない膨大な数のマンダラと仏たちに遭遇した。
そこにはチベット民衆の生きた証と、来世への大いなる願いが込められていた。同じ仏教国とはいえ、気候と風土、歴史の違いが生み出した日本との相違を強く感じたのだった。
※仏教タイムス2006年9月掲載「チベット旅行記」より
※写真はギャンツェ郊外白居寺大塔での瑜伽タントラ系曼荼羅図(筆者撮影)。
「チベット旅行記」(4)田中利典著述集を振り返る280903
10年前に綴ったチベット旅行記のその4です。
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「チベット仏教と夥(おびただ)しい仏」
インドで生まれた仏教は8世紀後半、母国では廃れる。そのインド仏教が行き着いた後期密教はそのままの形でチベットに流伝した。インド仏教は開祖の釈尊以来、発展と変容を生むが、中国や日本に伝わったものは中期密教までで、最後の精華というべき後期密教はほとんど伝播していない。
その意味でもチベット仏教の存在意義は大きい。加えて、仏教による政教一致がチベットほど徹底されていた国は希有であり、そこにも大きな意味を見出す。
もちろん中国侵攻以降、チベット仏教は苦難の道を余儀なくされるが、行く先々で五体倒地の巡礼を続ける多くの人々を見るにつけ、民のすみずみにまで行き渡った仏教信仰は未だ厳然として生きていることを実感した。
ただもう少し言えば、近年世界的に注目を浴びるチベット仏教は『死者の書』やタントラリズムなど、異次元的で、そして甘美な世界を印象づけている。しかし実際に私が接したチベットの高僧や民衆の信仰はというと、そういう感じは極めて希薄であった。
唯一、ギャンツェで参観した白居寺大塔に残された夥しい金剛界や無上瑜伽タントラ系のマンダラ群に、チベット密教の最奥を見たように思う。
それにしてもなんと夥しいマンダラや仏たちだろう。白居寺に限らず、訪れた全ての寺院で、夥しいとしかいいようのない膨大な数のマンダラと仏たちに遭遇した。
そこにはチベット民衆の生きた証と、来世への大いなる願いが込められていた。同じ仏教国とはいえ、気候と風土、歴史の違いが生み出した日本との相違を強く感じたのだった。
※仏教タイムス2006年9月掲載「チベット旅行記」より
※写真はギャンツェ郊外白居寺大塔での瑜伽タントラ系曼荼羅図(筆者撮影)。
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