澎湖島のニガウリ日誌

Nigauri Diary in Penghoo Islands 澎湖島のニガウリを育て、その成長過程を記録します。

金美齢氏の靖国参拝とは

2009年03月15日 14時11分28秒 | 歴史

youtubeで興味深い映像を見つけた。
5年前、靖国神社で行われた追悼式典の映像で、金美齢氏が何故、靖国神社に参拝するのかを語っている。

http://www.youtube.com/watch?v=ALfu0RWGG84&feature=related  (youtube映像)

終戦時、11歳だった金氏は、そのときまで「日本人」であり、日本の勝利を疑わない「軍国少女」だった。台湾にいた「兵隊さん」は、いつも金少女にやさしくしてくれ、台湾人を守ってくれた。「靖国で会おう」と言い残し、国のために散っていった彼らを、そのとおり靖国に奉るのは当然のことであり、それにとやかく言う日本人は「恥知らず」である。これに反対する外国人には「not your business!」(あなたの知ったことか!)と言えばいい、と喝破する。

私個人としては、学徒出陣を経験した親族が戦後二度と靖国神社に行かなかったことや、恩師である相沢久先生の著作(「現代国家における宗教と政治」)に親しんだ経験から、靖国問題については、いろいろな想いが交差する。だが、それらはこの金氏の発言の前にはかすんでしまうかのようだ。

会場からは、英語で靖国反対を叫ぶ声が起きるが、これに対して金氏は「Americans, get out of Japan and Yasukuni!」と言い返す。
この当時、金氏は民進党・陳水扁総統の政策顧問だった。その後、陳水扁総統は選挙に敗れ、不正蓄財の疑いで投獄されて現在に至っている。陳水扁氏を破った馬英九総統(中国国民党)は、中台関係をさらに強化しようとしており、徴兵制度の廃止を掲げている。まさに台湾の政治的自立さえ危ない状況になっているのだ。

台湾独立派」のリーダーとみなされていた金氏は、李登輝氏が登場する以前の台湾には入国さえできなかった。ようやく、李登輝総統になってから、長年の思いを祖国の人々に伝えられるようになったのだ。その意味で、金氏の靖国への思いは、普通の日本人よりも何倍、何十倍と重いに違いない。

台湾人が民主選挙で馬英九を選択したとき、金美齢氏は「不満の春にも花は咲く」※という一文を「産経新聞」に寄せた。議会制民主主義の選挙によって馬英九氏が選ばれた以上、これまでの努力は水泡に帰したかも知れないが、それはそれで仕方がない…と記されていた。

※ http://blog.goo.ne.jp/torumonty_2007/e/d1188229980ca7c03f0d89162da34b95

あれから1年、民主化された台湾はどこに漂流していくのか?


台北の職人芸~木桶づくり67年

2009年03月15日 00時53分03秒 | 台湾

10年前だったら、まだ日本語世代が現役で活躍していた台湾だが、時の流れには逆らえない。
そんな中、興味深いトピックが流された。



日本人仕込み 職人歴67年…台湾・台北

木桶づくりの技 しごきに耐えて盗んだ


台北の店舗兼工房で、木おけを製作する林相林さん

 日本の植民地時代から70年近く、今も台北で木桶(おけ)を作り続ける台湾人がいると聞いた。日本では珍しくなった木桶職人。台湾に根付いた日本の職人魂に触れたくなり、うわさを確かめに歩いた。(台北 源一秀、写真も)

50歳の息子も「まだヒヨコさ。ガハハ」

 工房を兼ねたその店は、台北駅の近くにあった。

 風呂桶、洗面器、たらい、腰掛け、おひつ、おたま――。10畳ほどの店内に商品が高く積まれ、路上にもはみ出している。店の名は林田桶店。さびついて文字が判読しづらいブリキの看板が、繁華街の中で一際目立っていた。


創業当時から使っている「林田桶店」のブリキ看板

 「この看板は、私が生まれる1年前に初代店主の父が店を開いてから、ずっとかけっぱなしだ。さびついたんじゃなくて、箔(はく)がついたってこと。ガハハハ……」

 日本時代に生まれ育った林相林さん(79)は、流暢(りゅうちょう)な日本語を話し、そしてよく笑う。

 店のある一帯は、戦中まで総督府の職員などが住む日本人居住区だった。「林田」の屋号は日本人に親しみを持ってもらうため、父がそう名付けたという。

 林さんは台北の小学校を卒業後、約30キロ離れた基隆市で木桶の製造・販売店を営んでいた神戸出身の職人、鳥井千代松さん(故人)のもとへ住み込みの修業に出された。12歳の時だった。

 「桶職人の親を持つからには、それが当然だと思っていたけど、あんな目に遭うなんてね」

 明治生まれの鳥井さんは、「誰よりも良いモノを作ったけど、おっかない人」だった。ヘマをしでかすと「このバカ野郎!」と雷が落ちる。

 毎朝5時に起き、鳥井さんが起床する7時ごろまでにカンナの刃を研ぎ、道具を整えなければならない。

 仕事は深夜の12時ごろまで。「食事、トイレ、風呂以外は休む暇がなかった。今なら労働基準法違反だ。ガハハハ……」

 木材の切り出しからカンナがけ、組み立て、木の調整――。単純作業に見えても、確実に仕上げるには年季が必要だ。鳥井さんに時々コツを尋ねたが、「すぐに『バカ野郎! 何度言ったら分かるんだ!』って。初めて聞いてもそう言うんだよ、ガアッハハハ……。だから師匠の手元を見て技術を盗んだんだ」

 鳥井さんの元を離れたのは、住み込みを始めて3年後。基隆が米軍の空爆を受けた1944年末だった。

 「米軍機が爆弾落とし始めてね。みんなでトンネルに避難したら、師匠が追っかけてきて『お前、店ほったらかしてどこ行くんだ!』って。日本の職人ってすごいって思ったよ。でも、私は台北に逃げ帰った。ガハハハ……」

 鳥井さんは戦後、帰国して亡くなった。「今も頭が上がらないよ。あのしごきがあったからこそ、激しい競争に勝ち残れたんだ」

 終戦から3年。林さんは18歳で父から店を引き継いだ。台湾でも木桶は生活必需品だったが、60年代に安いプラスチック容器が登場すると、台北に約30軒あった同業は相次いで廃業に追い込まれていった。林田桶店はいつの間にか、台湾で唯一と言われる製造・販売店になった。

 「木桶の価値はまだある、意地でもやめるかって頑張ったよ」

 最近は美容や健康に敏感な女性を中心に、木桶を求める人が増えている。「手入れをすれば、どれも10年以上使える。お湯は冷めにくいし、木の香りもして、風呂桶なんて最高だよ」

 この人にかかっては、30年以上も一緒に店を支えてきた3代目、息子の煌一さん(50)も出る幕はない。

 「こいつはヒヨコさ。まだ店は譲れないな。ガハハハハ……」

2009年3月13日  読売新聞
 
日本のマスコミが台湾に関する報道を自己規制しているうちに、時はどんどん過ぎ去っていく。