エッセイ  - 麗しの磐梯 -

「心豊かな日々」をテーマに、エッセイやスケッチを楽しみ、こころ穏やかに生活したい。

松陰と会津

2010-03-16 | 文芸
      
 昨日、所要ありて会津坂下まで行った。その折、塔寺の心清水八幡神社に参拝した。
神社参道に吉田松陰の「東北遊日記」の碑が建っている。神社に参拝するたびに読んでいた。
 
碑には「若松を発し、高久、坂下を経て塔寺に至る。行程三里廿四丁、皆平坦の地なり」など、
松陰の直筆本を拡大した銅板がはめてある。その脇に「吉田松陰東北遊日記碑文解説」の解説板が建っている。
 松陰は、嘉永4年(1851年)12月から4月にかけて、松陰が満22歳のとき、肥後藩士宮部鼎蔵らと東北諸藩を歴訪している。
旅のコースは
(江戸 → 水戸 → 白河 → 会津若松 → 新潟(出雲崎,佐渡) → 碇ヶ関 → 弘前→ 竜飛崎 → 青森 →
八戸 → 盛岡 → 仙台 → 米沢 → 会津若松 → 日光→ 館林 → 江戸 )
 心清水八幡神社を訪ねたのが1852年旧2月6日(今の暦で2/29)とある。
会津若松では、七日町の「清水屋」旅館に宿をとり10日間に渡って滞在し、日新館なども熱心に見学している。
松陰は山鹿流兵学をも学んでいて、当時の会津藩に惹かれるものがあったのだろう。
旅行に往きと帰り、2度にわたり会津若松を訪ねている。
----------------
会津あたりの記録には (嘉永4年12月)
廿九日 朝雪、已にして晴れる。
勢至堂を発し、坂を登り、少くして山巓に至る。是れを勢至嶺と為す。
嶺は磐梯山と対す。三代・福良・赤寸・原・赤井を経て、若松に宿す。
会津侯松平肥州の都なり。原・赤井の間に坂あり、黒守と為す。
赤井を過ぎて二坂あり、沓懸と為し、滝沢と為す。
滝沢は城外の村名にして、以て坂に名づけしものなり。
坂上より城市を下瞰すれば、一望瞭然、田野も又甚だ濶し。
土人云はく、十八万石許りと。果して然るや否や。
其の日、郡を経ること二、安積と曰ひ会津と曰ふ。行程九里
晦日 晴。朝少しく雪。井深蔵人を訪ふ。
蔵人既に没し、其の次子某と孫茂待つに逢ふ。
志賀与三兵衛・黒河内伝五郎を訪ふ、共に在らず、
伝五郎の子百太郎に逢ふ。
会津の法、
外套の紐の色を以て士人の等級を分かち、
衣の領の色を以て軽卒の等級を分かつ。
----------------
 『東北遊日記』による 『東北遊日記』の冒頭には、「有志の士、時平かなれば則書を読み道を学び、
経国の大計を論じ、古今の得失を議す。一旦変起こらば則戎馬の間に従い、敵を料り交を締び、長策を建てて国家を利す。是れ平生の志なり。
然り而して天下の形勢に茫乎たらば、何を以って之を得ん」と、心境を述べている。
また、「東北地方は東は満州に連なり、北はロシアに隣接する。国を治めるのには最も重要なところであるが、
自分は一歩も足を踏み入れたことがない。この機会を逃せば後に悔いを残すことになるだろう」という憂国の思いが認められているという。

戊辰戦争は、松陰が会津を訪れてから16年後に起こっている。
 長州と会津のかかわりに思いをはせた。

 
日記@BlogRanking