【もうじき 福寿草】
先日、心清水八幡神社を参拝の折、松陰の東北遊学考察(3/16のブログ)から、≪長州と会津のかかわり≫に思いをはせた。
その後、松陰は江戸に戻った後、脱藩の罪で萩に送還されることとなる。
松陰の才を惜しんだ藩主から10年間の国内遊学の許可が出て2度目の江戸遊学へ。
松陰は学問を「人間とは何かを学ぶことである」、また「学者になってはいけない。実行しなければならない」と言い、
志を立てて貫くことの大切さ、学問を実行に移すことの大切さを繰り返し説いた。
自らは幕府の弱腰外交を厳しく非難し、尊皇攘夷を実現するべく行動を起こそうとして、安政の大獄で捕縛、享年30で処刑された。
松陰は死を前に、遺書に「親思ふ こころにまさる親ごころ 今日の音づれ何と聞くらん」を、
そして辞世の句「身はたとひ武蔵野の野に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」で始まる「留魂録」を残し、門下生に自らの志を託した。
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そののち、明治維新を迎えるが戊辰戦争の悲劇の歴史を残すことになった。
立場の違い、考え方の違いを暴力に訴える不幸が幾多の歴史を作ってきたが、戊辰戦争もその一つだった。
会津戦争中の様子は祖父から父、父から子へと聞き継がれた。
戊辰前の平和な城下町ことごとく壊された。郭内の1/3は戦火に焼きつくされ、町家や農家の財産は略奪されたという。
戊辰戦争以降の喪失から再出発した明治の会津の先人たちの生き方を思った。
最近、「会津と長州は和解すべきだ」といって、市民レベルの交流が話題になるが、
140年の時の流れをしても、会津の人たちの被害者意識を消すことはできない。
会津を攻めた薩長土肥の仕打ち、「勝てば官軍」の意識への怨念すらも色濃く残っていると思う。
その悲劇、犠牲の上に今の会津人がいるが、実は、若い世代は戊辰戦争すら知らない現状である。時間が解決するのだろう、
会津に生きる人たちのそういう意識もますます薄れていくだろう。
でも、過去にとらわれ過ぎることはないが、郷土会津の長い歴史や先人、自然の育んだ会津の精神を再評価し、
新しい時代の気風を作っていかなければならない。まさに、温故知新である。
そのための会津の青少年の教育が最も大切に思われる。
先日、心清水八幡神社を参拝の折、松陰の東北遊学考察(3/16のブログ)から、≪長州と会津のかかわり≫に思いをはせた。
その後、松陰は江戸に戻った後、脱藩の罪で萩に送還されることとなる。
松陰の才を惜しんだ藩主から10年間の国内遊学の許可が出て2度目の江戸遊学へ。
松陰は学問を「人間とは何かを学ぶことである」、また「学者になってはいけない。実行しなければならない」と言い、
志を立てて貫くことの大切さ、学問を実行に移すことの大切さを繰り返し説いた。
自らは幕府の弱腰外交を厳しく非難し、尊皇攘夷を実現するべく行動を起こそうとして、安政の大獄で捕縛、享年30で処刑された。
松陰は死を前に、遺書に「親思ふ こころにまさる親ごころ 今日の音づれ何と聞くらん」を、
そして辞世の句「身はたとひ武蔵野の野に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」で始まる「留魂録」を残し、門下生に自らの志を託した。
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そののち、明治維新を迎えるが戊辰戦争の悲劇の歴史を残すことになった。
立場の違い、考え方の違いを暴力に訴える不幸が幾多の歴史を作ってきたが、戊辰戦争もその一つだった。
会津戦争中の様子は祖父から父、父から子へと聞き継がれた。
戊辰前の平和な城下町ことごとく壊された。郭内の1/3は戦火に焼きつくされ、町家や農家の財産は略奪されたという。
戊辰戦争以降の喪失から再出発した明治の会津の先人たちの生き方を思った。
最近、「会津と長州は和解すべきだ」といって、市民レベルの交流が話題になるが、
140年の時の流れをしても、会津の人たちの被害者意識を消すことはできない。
会津を攻めた薩長土肥の仕打ち、「勝てば官軍」の意識への怨念すらも色濃く残っていると思う。
その悲劇、犠牲の上に今の会津人がいるが、実は、若い世代は戊辰戦争すら知らない現状である。時間が解決するのだろう、
会津に生きる人たちのそういう意識もますます薄れていくだろう。
でも、過去にとらわれ過ぎることはないが、郷土会津の長い歴史や先人、自然の育んだ会津の精神を再評価し、
新しい時代の気風を作っていかなければならない。まさに、温故知新である。
そのための会津の青少年の教育が最も大切に思われる。