先日、冬期休館していた磐梯山慧日寺資料館を訪ねた。
展示場の壁に色紙に書かれた書が飾られていた。
【携手撫風光(手を携えて風光を撫す)】興福寺の多川俊英貫首の揮毫だ。
解説には、「明治の文豪・森鴎外の漢詩の一句で、〈いっしょに自然の景色を楽しむ〉の意とあった。写真撮影できないので、手帳にメモをとった。
多川俊英貫首について、ネットで調べると、福島民友新聞のシリーズ記事 「1200年の時を超え よみがえる慧日寺金堂」への寄稿文(以下の(16))を見つけた。また、昨年秋には、磐梯町で師の講演会もあった。知らないでいたことが残念に思えた。
ネットのプロフィールには、各界の著名人とも親交が深く、中でも免疫学者の多田富雄と親交が深く、脳梗塞の後遺症で言葉が不自由になった多田と電子メールによる会談が朝日新聞にて「いのちと死と能と」と題され公表された。と。
少し師から学びたいと思う。
幾つもの著書の中の「心に響く99の言葉―東洋の風韻」「旅の途中」をアマゾンに発注した。
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【(16)徳一の息吹実感を 会津仏教の力再認識】 (2008/03/25 福島民友)から
史跡調査開始から四十年以上にわたり連綿と続いた復元への熱意が結実し、ついに完成の時を迎える慧日寺金堂。仏教界などから大きな注目を集めている。若き日の徳一が修行に励んだ奈良、興福寺のトップである多川俊映貫首が復元事業の意義などを語った。
日本の仏教の中心は歴史的に奈良、京都であるとされていますが、都を離れた高僧徳一が現在の磐梯町に慧日寺を興した九世紀前半以降、実は東の会津に、もう一つの拠点が形成されていたのです。それが今回、慧日寺金堂の復元によって目に見える形になる。これは注目に値します。
徳一に関しては資料も少なく、謎の人物とみられてきました。天台宗の最澄との論争で知られる程度です。それが、金堂復元を契機にあらためて光が当てられ、埋もれていた資料が出てくるようになるかもしれません。
徳一が都から東国に向かったのは大きな宗教的使命を帯びていたと考えられます。だからこそ、大工やさまざまな技術者も連れて行き、湯川村の勝常寺に残るような高いレベルの仏像を作ることも可能だったのだと思います。
磐梯町の慧日寺跡には数回足を運びました。千二百年前に興福寺で仏道の探究に取り組んだ徳一が大きな足跡を残した地を、同じ法相宗の自分が再び訪れるようになる―。なんとも不思議な縁を感じますね。
磐梯町では町が徳一の業績を検証し、金堂復元に取り組んでいることにまず驚きました。現在は全国的にどこの自治体も財政的問題を抱えています。磐梯町も例外ではないでしょうに、文化振興に努める姿勢に敬服します。いにしえの人に光を当て「徳一菩薩と慧日寺」を発刊し、町内各戸に配布しました。会津仏教の価値を再認識させる活動に励んでいるのです。
復元された金堂を間近に見ることで、徳一の生きた息吹を実感できることでしょう。当時の仏教文化への理解がさらに多くの人に広まることを期待します。
興福寺でも現在、中金堂の再建に取り組んでいます。寺創建千三百年に当たる平成二十二年には立柱までこぎ着けたいと考えていますが、一歩先を進んでいる慧日寺はいい刺激になり、こちらも頑張ろうという気になります。
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