団塊オヤジの短編小説goo

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都月満夫の短編小説集2

「羆霧(くまぎり)」
「容姿端麗」
「加奈子」
「知らない女」

都月満夫の短編小説集

「キヨシの帰省」
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」

「歌舞伎に女優が登場しないのは何故か?」について考える

2010-10-11 07:46:08 | 雑学・豆知識・うんちく・小ネタ

Photo歌舞伎」といえば、その創始者は出雲阿国(いずものおくに)であることはご存知の方も多いと思います。でも、考えてみてください、出雲阿国は、れっきとした女性です。何故、歌舞伎に女優が登場しなくなったのでしょう。

 「歌舞伎」を男の役者ばかりで演じるようになったのはずっと後のことなのです。

 

 出雲阿国(いずものおくに:1572年(元亀3? - 没年不詳)が、歌舞伎を創始したのは安土桃山時代のことです。

 2 1603年(慶長8年)に出雲阿国が、歌舞伎踊りで評判を集めると、阿国を真似た遊女たちによって、「女歌舞伎」が大流行しました。彼女たちは芝居興行の後に宴席に呼ばれ、その夜は本職に精を出すのが当時の興行形式だったのです。

 阿国の歌舞伎との大きな違いは、当時最新の楽器だった三味線が使われていたことです。1615年(元和「げんな」元年)から1629年(寛永「かんえい」6年)頃が最も盛んだったようです。しかし、風俗を乱すという理由で1629年(寛永6年)に、「女歌舞伎」、「女浄瑠璃(おんなじょうるり)」など、女性が演じる興行が一切禁止されてしまったのです。

 Photo_2 Wakasyu_kabuki 「女歌舞伎」の禁令により、前髪のある成人前の少年が演じる「若衆歌舞伎(わかしゅかぶき)」に人気が集まります。しかし、今度は美少年たちが男色家の餌食になったのです。結局、風俗の乱れはおさまらなかったのです。しかしこれも風俗を乱すため、やむなく幕府は美少年たちの前髪を剃り落とすよう命じ、1652(承応元年)頃から禁令が出されるようになります。

この禁令以降、前髪をそり落とした野郎頭(やろうあたま)の成人男性が演じる「野郎歌舞伎(やろうかぶき)」の時代に入っていきます。

随筆・嬉遊笑覧(1830年)一下「寛文の頃の歌舞伎役者のやうに中程を細くそりたり。」とあるそうです。

「若衆歌舞伎(わかしゅかぶき)」の時代にも、女性役を演じる「女方(おんながた)」は存在しましたが、技術よりも容色が重視されていました。しかし野郎歌舞伎では、「女方」を専門に演じる俳優が登場し、技術的に女性らしさを表現する方向へと発展していきます。

また「野郎歌舞伎」は、当初、歌や踊りによる短い場面で完結した「離れ狂言(はなれきょうげん)」をいくつか続けて上演していましたが、次第にストーリー性をもつ複数の場面からなる「続き狂言(つづききょうげん)」が上演されるようになります。やがて複雑化したストーリーを表現するために、登場人物を類型化して演じるようになり、延宝年間(1673年~1681)には、役の年齢や性格に基づいた「役柄(やくがら)」が確立しはじめます。具体的には、若い女性を演じる「若女方(わかおんながた)」、男性役の「立役(たちやく)」、男性の悪人の「敵役(かたきやく)」、中年から老人の女性を演じる「花車方(かしゃがた)」、滑稽な役を演じる「道化方(どうけがた)」などが挙げられ、それぞれの役柄にあった演技術が編み出されていきます。

Photo_3「野郎歌舞伎(やろうかぶき)」の時代が終わり、元禄年間(1688年~1704)前後には、歌舞伎は江戸と上方[京・大坂]のそれぞれで大きく発展します。

江戸では、「荒事(あらごと)」を得意とした初代市川團十郎(いちかわだんじゅうろう)が活躍しました。

「荒事」とは、「見得(みえ)」や「六方(ろっぽう)」などの演技や、「隈取(くまどり)」をはじめとする扮装によって表現される豪快で力強い芸をさします。このような芸が江戸で好まれた理由として、江戸が武士中心の町であったことが挙げられます。また「荒事」は、万治から延宝年間(1658年~1681)にかけて流行した、金平浄瑠璃(きんぴらじょうるり)の影響を受けているともいわれています。

Photo_4 1688年~1704年(元禄年間)前後の上方(京・大坂)では、後に「和事(わごと)」とよばれるようになる柔らかく優美な演技を得意とした、初代坂田藤十郎(さかたとうじゅうろう)が活躍しました。藤十郎は、1678(延宝6)に上演されて大評判となった『夕霧名残の正月(ゆうぎりなごりのしょうがつ)』の伊左衛門(いざえもん)役をはじめとして、本来は身分が高いにもかかわらず、理由があって落ちぶれている「やつし」とよばれる設定の役を演じて人気を得ました。人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)の作者として有名な近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)は、藤十郎のために『傾城仏の原(けいせいほとけのはら)』をはじめとする多くの歌舞伎作品を書き、藤十郎の人気を支えました。

また同時期に活躍した女方の初代芳沢あやめ(よしざわあやめ:16731729)は、女方の心得や演技論をまとめた芸談『あやめ草』を残し、女方芸の確立に大きな役割を果たしたということです。0001

Photo_5 

したっけ。

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倉内佐知子

「涅槃歌 朗読する島 今、野生の心臓に 他16篇(22世紀アート) 倉内 佐知子 22世紀アート」

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