都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
安全だといわれた日本の原子力発電所が今大変なことになっています。いろいろ先行きを「杞憂(きゆう)」されておられる方も多いかと思います。
さて、この「杞憂」にはどんな謂われ(いわれ)があるのでしょう。
周(しゅう)代の頃(紀元前1046年頃 - 紀元前256年は、中国古代の王朝)、今の河南省あたりに「杞という国」があったそうです。
そこに住む一人の男は、あることを考えると心配で、食事ものどを通らず、夜も眠れずにいたそうです。
「もし天と地が崩れてしまったら、身のよせるところがなくなってしまいどうすればいいんだろう。」
一方、そんな友人を見ていて心配をした男がおりました。彼は出かけていって、男に言い聞かせました。
「天なんてものは空気が積もってできているのさ。空気のないところなんてありゃしないよ。体を曲げたり伸ばしたりしている今だって、天の中でやっているのさ。どうして天がなくなるなんて心配するなよ。」
「天が空気の積もったものならお日様や月や星が何で落ちてこないかなぁ。」
「お日様や月や星などは空気が積もった中で輝いている部分なのさ。万が一、落ちてきたって当たって空気だ。怪我なんかしないよ。」
「それなら、どうして大地は壊れないのだろう?」
「大地は土が積もっただけで、それが四方に満ち満ちているので、土のないところなんかありゃしない。飛んだって跳ねたって、いつも大地の上にいるじゃないか。だから、大地が壊れるなんて心配いらないよ。」
それを聞いて、心配していた男はようやく不安が治まり、たいそう喜んだそうです。言い聞かせた男も気分が晴れて安心したそうです。
これが、「杞憂」(いらぬ取り越し苦労をする)(いわれなき心配をする)の語源となったエピソードです。
き‐ゆう【杞憂】
《中国古代の杞の人が天が崩れ落ちてきはしないかと心配したという、「列子」天瑞の故事から》心配する必要のないことをあれこれ心配すること。取り越し苦労。「―に終わる」
大辞泉
「杞憂」は列子(中国、※戦国時代の思想家)の「天瑞篇」に出展されています。列氏はその解釈として、こう付け加えています。
「天地が壊れるという者も、壊れないという者も間違えている。壊れるとか壊れないとかは我々の知ることのできないものだ。さりとて、壊れるという者にもひとつの道理があり、壊れないというものにもひとつの道理がある。生は死を知らないし、死は生を知らない。将来は過去を知らないし、過去は将来を知らない。天地が壊れるとか、壊れないとかをどうして我々が心に入れて考慮できようか?」
つまり、天地が壊れるというものにも、壊れないというものにもそれぞれの言い分があり、誰にもそんなことはわからないのだというのです。
※戦国時代:紀元前403年に晋が韓・ 魏・趙の3つの国に分かれてから、紀元前221年に秦による統一がなされるまでをいう。
唐の時代になり、李白(701-762:中国、盛唐の詩人)は「杞の国人は無事なれや、天の傾ぐを憂うなり」とうたっています。李白は取り越し苦労など味気ないという風潮に対して、古代の人たちの実直で虚心のない人柄を温かく肯定しているのです。
今、大地が割れるような地震のために、天地には放射能がばら撒かれました。原子力発電所が壊れるなんて「杞憂」だといい続けてきたことが、今や「杞憂」ではなくなったのです。私たちは、謙虚にこのことを受け止め、将来に「杞憂」のないようにしなければなりません。
天が落ちてくる。大地が割れるといった男を笑うことはできません。
四字熟語では「杞人天憂(きじんてんゆう)」と言います。
したっけ。