都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
日本には、もともと丑の日に「うどん」、「うり」、「ウド」などの「う」の付くものを食べると体に良く、暑さに負けないとの言い伝えがあったそうです。
では何故、ウナギを食べるようになったのでしょう。夏バテ防止のためにウナギを、という食習慣は江戸時代後期になってからとのこと。
当時の鰻屋さんは夏場に売上が落ちるということで悩んでいたのです。
そこで、相談をしたのが「平賀源内」さん。発明家なのですが、今でいうコンサルタントのようなこともしていたようですね。
で、この源内さんが「夏バテを防ぐ為に土用の丑の日にウナギを食べる」と言う理由と「本日土用丑の日」というキャッチコピーを考え出して鰻屋さんがそれを大きく書いた幟(のぼり)を店頭に出したのです。
源内さんは、日本最初のコピーライターということになります。
すると・・・
それが評判となって売り上げは倍増。それどころか鰻屋さんは夏場の方が忙しくなったそうです。
それにしても平賀源内は栄養学も無い時代に、どうして夏バテに鰻をという組み合わせを思いついたのでしょう。
その答えは奈良時代にありました。
『万葉集』を編纂した一人として知られる歌人「大伴家持」が夏痩せしてしまった知人に、こんな歌を贈っています。
「夏痩せに よしといふものぞ むなぎ(鰻)とり召せ」。
つまり、夏痩せには鰻を食べるといいらしいですよってことですね。
源内さんのキャッチコピーは大伴家持さんのパクリだったというオチでございます。
今日は「うどん」に続き2回目の更新です。「うどんの起源」も読んでいってください。
したっけ。
小麦粉を使った「麺」の代表的なものに、「うどん」・「そうめん」・「ひやむぎ」があります。
「うどん」の原形は、もともと中国のもので、広い意味の麺類として、奈良時代(8世紀)に日本に入ってきました。
それらは、小麦粉を練って形を整え、煮たり焼いたりしたもので「唐菓子」と呼ばれていました。その中のあるものがヒントになって、日本の麺類が生まれたと考えられています。
今日の干しうどんに近いものは、奈良時代に遣唐使によって中国から渡来した菓餅14種の中にある「索餅(さくべい)」で、和名で「麦索(むぎなわ)」と呼ばれ、太く伸ばし索(なわ)のようによったもので、奈良時代の終わり頃には、流通する食品になっていたと考えられています。
平安時代中期の法典『延喜式』に記載されている「索餅」の作り方をみると、小麦粉と米粉を混合して臼に入れ、塩湯で練り合わせたものです。
えんぎしき【延喜式】
弘仁式・貞観式以降の律令の施行細則を取捨・集大成したもの。50巻。三代式の一。延喜5年(905)醍醐天皇の勅により藤原時平・忠平らが編集。延長5年(927)成立。康保4年(967)施行。
大辞泉
鎌倉時代になると新しい麺の製法が禅僧によってもたらされます。
挽き臼で挽かれた粒子の細かい小麦粉だけで作る麺です。
しかも小麦粉に食塩と水を混ぜてよく練り、植物油を塗って延ばす全く新しい製麺法で、「素麺」と呼ばれました。この「素麺」の製法が主流になると米粉が混入された「索餅」は、貴族階級の祝膳の菓子のような形でかろうじて残っていきます。
同じ時期に小麦粉だけの、麺棒と案、包丁で作る「切り麦」が登場します。
「切り麦」を熱くして食べるものを「熱麦(あつむぎ)」、冷やして食べるものを「冷麦(ひやむぎ)」呼ぶようになりました。いまは「冷麦」だけが言葉として残っていますが、「うどん」と「冷麦」は同じものだったのです。
ですから、「冷麦」を買ってきて熱いまま食べたら「細いうどん」ということになります。
上記のように、「うどん」の起源は、中国の切麺を鎌倉時代に取り入れた「切り麦」です。室町時代には現在とほぼ同じ製法で作られています。それがやがて「うどん」と呼ばれるようになりました。
うどん店は安土桃山時代から見られ、江戸時代初期には街道筋に普及していきます。江戸中期の元禄時代には江戸ではそば屋を圧倒してうどん屋が優位になります。しかしこれは都市での話で、農村では事情が違ったようです。
うどんは祝い事ある時のハレの食べもので、江戸時代には日常農村でうどんを打って食べることをお上から禁じられていました。贅沢と見られていて、田舎でうどんを打つのは検視の訪問の時か祝い事の時にのみ許されていました。寛永19年(1642年)には飢饉対策として幕府から代官に御触書が出されていて、農民に対しうどん・きり麦・そうめん等の売買を禁じています。禁じられていても普及していたからだと思います。
「うどん」を語源的にみると、奈良時代の「唐菓子」の「混沌(こんとん)」があげられます。「混沌」は餡を入れた小麦粉の団子を煮たもので、熱い汁の中でどろどろしている食べ物だそうです。
「うどん」といえば、「讃岐うどん」ですが、四国には餡餅を入れたお雑煮があると、香川県出身の人に聞いたことがあります。もしかしたら、「混沌」の名残かもしれません。
いまの「うどん」とは違うようですが、江戸時代後期の『嬉遊笑覧(きゆうしょうらん)』という本には次のように書かれているそうです。
「混沌は温麺にて、あつむぎといふものなりといへり」。
きゆうしょうらん【嬉遊笑覧】
江戸後期の随筆。12巻。付録1巻。喜多村信節(きたむらのぶよ)著。文政13年(1830)成立。諸書から江戸の風俗習慣や歌舞音曲などを中心に社会万般の記事を集め、28項目に類別して叙述したもの。
大辞泉
唐菓子の「混沌(こんとん)」が食物なので食偏を与えられて「餛飩(こんとん)」となり、それが熱いからというので「温飩(おんとん)」になりました。そして温をもう一度食偏に変え「饂飩(うんとん)」となり、これが転化して「うどん」になったということです。
現代でも「うどん」の漢字表記は「饂飩」と書きます。
したっけ。」