都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
今回師匠は「羊羹」を描いてきました。
とらやの羊羹で、いただきものだそうです。
師匠は甘いものが大好物ですからね。
師匠の家は築43年なので寒いそうです。
部屋が温まるまで1時間かかるそうです。
師匠!私のところはストーブ点けっぱなしです。
師匠! 今年は大雪がないなんて書いてくるもんだから、降ったじゃないですか。
湿った重たい雪が60㎝も積もりました。
昨日は朝から除雪でしたよ。
時は江戸初期 廻船問屋から菓子司へ 江戸初期(1610年頃)、高田屋 兵庫にて廻船問屋(当時の海運業)と染物屋を営む。 元和六年頃(1620年)徳川家康公の従兄弟にあたる 初代福山藩主 水野勝成公の命により初代 高田宗樹、京都伏見城より三艘の船で伏見櫓を運ぶ。勝成公よりこの褒美として福山吉津に土地を拝領、宿老を仰せつかり、以後福山の地に永住す。 元和六年 菓子匠を開業す。よってこの年を虎屋本舗(高田屋)の創業年度とする。元和八年正月 初代宗樹 福山城築城の折に“茶の湯の会”に召されお菓子を献上す。藩主より献上したる饅頭の味をいたく賞賛され、豊穣を祝う伝 統火祭り「左義長」(とんど)の名(現在の銘菓“とんど饅頭”)を拝命され、以来 福山藩御用菓子司として商いを営む。
虎に冠した想いは商人道へ 寛延三年(1750年) 八代当主 高田助四朗が虎模様のどら焼きを拵(こしら)える。(現在の銘菓“虎焼”)同年、“高田屋”から“虎屋”に屋号を変え、廻船問屋から菓子匠に専念する事となる。屋号の由来は、 初代宗樹が寅年であり、古来から虎は開運招福を授ける守護神として崇められ、縁起が良いとされ庶民に慕われていた。また、思いやりの気持ちがあること、勢いがあること、美しいこと、そんな商いへの思いを屋号に託したとされている。 嘉永六年(1853年) 十二代当主 高田林兵衛が当時の福山藩主 阿部家の茶の湯の会に用命を受け、羊羹と柚餅を納め、阿部家御用菓子司を務める。
戦火をくぐりぬけた職人魂 昭和20年(1945年)8月うだる様な暑気の中、第十四代当主 高田銀一は焼け野原となった城下工場跡の地下から小豆袋と砂糖袋を掘り返していた。台帳は焼けども、職人の腕と魂は胸に宿る。トランスを売りながらも食いつなぎ、何とか菓子業を再開できた喜びが写真の顔から滲み出ている。戦後復興の折、言葉を強く菓子への想いを口にした事がある。若かりし頃に渡仏(フランス)した際、街ゆく市民はエッフェル塔を背に紅茶とお菓子を嗜んでいた。「真にこの国が豊かとなるには、皆が当たり前に菓子を食べれる様にならなければならない。」 これらの譚は現16代当主高田信吾が幼少の頃より、先々代銀一から 聞かされた内容である。和魂商才を胸に、商人道を志す。今の世は先々代が思い描いていた“日本人の豊かさ”が戻ってきたのだろうか。郷土に感謝し、郷土の自然と風物を大切にする。そうして子供達にお菓子を通じて伝えて行きたいものがある。創業より400年を掛けた挑戦はまだ終わらない。 |
師匠! 今回は「羊羹」といきたいところですが、家に羊羹がありません。
「虎」にします。家にいるわけではありませんが…。
↑師匠が私にくれた絵手紙
私が師匠に送った絵手紙↓