都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
今回師匠は「鬼」を描いてきました。
もうすぐ節分ですからね。
師匠は節分までが冷え込みの底だと言っています。
私の膝もなかなかよくなりませんが、師匠の腰も難儀しそうだと言っています。
老化とはこういうことだと言っています。毎年が厄年のようだとも言っています。
師匠! 諦めないでメンテナンスして使いましょう。体の代わりはないんですから…。
節分は豆まきと○○が合体した行事 節分の行事の中で最も有名な豆まきは、いつ始まったのでしょうか。そのルーツは中国の邪気祓いの行事「大儺(たいな)」にあるとされます。それが平安時代、日本に伝わって、「追儺(ついな)」という行事が宮中で行われるようになりました。 追儺は「鬼やらい」とも呼ばれ、病疫を追い払うために旧暦の大晦日(2月3日頃)の夜に行われました。お面をかぶって衣装をつけ、神に扮した方相氏(ほうそうし)と呼ばれる役目の人が、目に見えない鬼を追い払うという行事でした。 ところが、平安時代末期になると、追儺の行事が変化します。それまで鬼を追い払う役目だった方相氏が、逆に鬼に見立てられて、群臣らに追い出されるようになったのです。これには諸説ありますが、方相氏は葬儀に係わる役目もしており、縁起が悪いという意識から追い出される側になったのではないか、という説があります。 ただし、この頃まだ豆まきは行われていませんでした。豆まきがいつ頃始まったのかは明確ではありませんが、文献の上では南北朝時代には追儺に取り入れられて、「鬼は外、福は内」と唱えられていたことが分かっています。 室町時代の高僧が書いた『臥雲日件録』という日記には、「明日立春。故及昏景家毎室散撒豆。因唱鬼ハ外福内四字。(明日は立春なのでどの家でも豆をまいて“鬼は外、福は内”と唱える)」とあり、節分に豆をまく習慣が上流階級だけでなく、庶民の間にも広まっていたことがうかがえます。
豆以前に投げていたものとは 現在の節分の豆まきには、大豆を用いることが一般的です。大豆は厄落としをはじめ、疫病、風邪、疱瘡、麻疹、百日咳、はやり目、物もらい、歯痛などの病除けのまじないにも多く使用されてきたようです。 かつての豆まきでは、米・麦・粟・炭なども使われていました。そんな中、大豆が主流になったのは、「鬼毒」を消して痛みを止めると中国の医書 『神農本草』に書かれていたことに由来するとも、豆を投げれば「魔を滅する=魔滅(まめ)」からだともいわれます。 |
また、節分には大豆を必ず炒ってから使います。
炒った大豆のことを「福豆」と言います。
生を使わず炒ったものを使うのかというと拾い忘れた豆から芽がでてしまうと縁起が悪いとされた為です。
「豆を炒る」は「魔目を射る」に通じるからだとも言います・
豆まきが終わったら、1年の厄除けを願い自分の年齢より1つ多く豆 「年取り豆」を食べます。
余談ですが、鬼が出入りする「鬼門」は東北東の方角にあります。これを艮(丑寅)の方角と言います。ですから、鬼は牛の角を生やし虎のパンツを履いているのです。
その対角にいるのが桃太郎で申(猿)、酉(鳥)、戌(犬)を従えているのです。
↑師匠が私にくれた絵手紙
私が師匠に送った絵手紙↓
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