都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
そもそも、七面鳥を食べる習慣というのは、アメリカ大陸へ渡ったヨーロッパ人の間で生まれたものなのです。
ヨーロッパからアメリカ大陸に移住が始まった頃、住み慣れない土地では食べるものがあまりなく、そこで、アメリカ大陸に生息する野生の七面鳥に目をつけ豚の代わりに食べていたのだそうです。
だから、人々を飢えから救ってくれた七面鳥に感謝の意を込めて、収穫祭等では、大きな七面鳥を丸ごとローストして家族みんなで食べるようになったと言われているようです。
そして、このアメリカ大陸へ渡ったヨーロッパ人の間で生まれた習慣がヨーロッパに伝わり、クリスマスのメニューとして定着していったといわれています。
アメリカ合衆国とカナダでは、詰め物をした七面鳥の丸焼きが特に感謝祭 (Thanksgiving Day) でのごちそうであり、感謝祭のことを口語的に Turkey Day (七面鳥の日)とも呼ぶ。クリスマスの料理としても供される。
七面鳥のハム (turkey ham) やベーコン(turkey bacon)は1年を通じて販売されており、豚肉に比べて脂身の少ない「健康的な」代替品と考えられている。
イギリスではローストした七面鳥がクリスマス料理のごちそうとされる。チャールズ・ディケンズの「クリスマス・キャロル」の最後の章で、改心した主人公が彼の書記に買い与えるのが七面鳥である。
「すべてのヤンキーの父」で知られるベンジャミン・フランクリンは、アメリカの国鳥として最後まで白頭鷲に反対し、七面鳥を推していた。白頭鷲は死んだ魚を漁る、他の鳥から獲物を横取りするなどの不品行で横着な鳥で、道徳的観念からふさわしくないとこき下ろし、野生の七面鳥こそ、生粋のアメリカ人を象徴するにふさわしい勇気と正義感を兼ね備えた鳥だと絶賛した。
七面鳥はアメリカ大陸の野生の鳥だったのです。アメリカ大陸に渡ったヨーロッパ人たちは、この七面鳥を豚の代わりに家畜化し飢えることなく生活できたというのです。ですから、クリスマスには、感謝をこめて七面鳥の肉をいただくのです。
したっけ。
白い髭、赤い服、赤い帽子、赤い長靴、といえば誰でも知っているサンタクロースのファッションです。
子供の頃、靴下をぶら下げて、サンタクロースからのプレゼントを楽しみにしながら眠った思い出のある人も多いと思います。
キリストが生まれるずっと以前から、冬至を太陽の誕生日として祝う習慣がヨーロッパにはありました。つまり、クリスマスが出来る前から、この日は祝日とされていたのです。クリスマスの催しに、キリスト教と直接関係のないものがあるのもこのためです。
例えば、この時期にプレゼントを贈る習慣は、古代ローマからのものです。サトゥルナーリア祭というそうです。ドイツ、スイス、オランダなどでは、プレゼントは12月6日に贈られます。その理由は、プレゼントをもってくる聖ニコラウスの祭日がこの日に当たるからだといわれています。
聖ニコラウスは、4世紀に地中海岸ミュラにいた司教で、子供や学生、船乗りなどの保護者として伝説的な人物です。
子供好きで慈悲深く、あるとき3人の少女に、嫁入りの持参金として、それぞれに金貨入りの財布を夜中に投げ入れてやったと言い伝えられています。
こういうことが、12月6日にプレゼントを贈る習慣となったというわけです。
アメリカへは、オランダ人がニューアムステルダム(現在のニューヨク)に移住してきたときに、一緒にこの 聖ニコラウスの伝説も入ってきたのです。
オランダで「サン・ニコラース」と呼んでいたのが、「サンクト・クラウス」さらに「サンタクロース」に変わっていったというわけです。そして、アメリカでサンタクロースのやってくる日が、いつの間にかクリスマス・イブに移されたのです。
ついでにいえば、キリスト誕生の話は『新約聖書』などにもありますが、その月日は記されていないそうです。やはり、冬至の日に当てはめたというのが、本当のところのようです。
なお、トナカイや赤い衣装は、北ヨーロッパの伝説が付け加えられたものだそうです。
また、靴下をぶら下げるというのは、オランダの子供が眠ったことを表すのに、木靴を並べたところからきていると言われているようです。
したっけ。
真っ赤なお鼻のトナカイさんは~♪で御馴染の「トナカイ」について考えてみましょう。トナカイは鼻が赤いと思っている人はいませんか。
「赤鼻のトナカイ」の名前はルドルフといいます。彼はアメリカのシカゴで彼は誕生しました。「赤鼻のルドルフ」が最初に登場するのは、1939年にアメリカのデパート「モントゴメリー・ウォード(Montgomery Ward)」がお店に来た子供達に配るために出版した冊子の中で誕生したのです。執筆者はRobert L. Mayとされているそうです。
ルドルフは8頭のトナカイの中の「Donner(ドナー)」の息子という設定で、霧の中を進むのにルドルフの赤い鼻が役立ったというストーリーが展開されていたようです。
世界中に「鼻の赤いトナカイ」は、彼しかいません。
トナカイ(アイヌ語:tunakka、馴鹿、学名:Rangifer tarandus)とは哺乳綱偶蹄目シカ科トナカイ属に分類されるシカです。
和名であるトナカイはアイヌ語での呼称“トゥナッカイ”に由来する。英語圏ではカリブー(Caribou)やレインディア(reindeer)と呼ばれる。漢字では“馴鹿(じゅんろく)”と書き、「家畜化可能な(人に馴れた)鹿」を意味するのです。
自然分布は北極圏周辺であり、アメリカ合衆国(アラスカ州)、カナダ、スウェーデン、デンマーク(グリーンランド)、ノルウェー、フィンランド、ロシアといわれます。
半家畜化された動物のため人為的な分布も多い。変わったところでは南極に近いサウスジョージア・サウスサンドウィッチ諸島に人為的に持ちこまれた個体群が生息しているそうです。
トナカイは体長120cm-220cm。肩高90cm-150cm。体重60kg-300kg。シカ科で唯一雌雄共に角を持つ。これは、角の用途が繁殖期におけるオスの抗争だけでなく、雪を掘ってエサを得る役割もあるためなのです。そのためメスは、子どものエサを確保しなくてはいけない冬季に角が生えます。オスの角の方がメスよりも大きい。オスは春に角が生え秋から冬にかけて抜け落ちますが、メスは冬に角が生え春から夏にかけて角が抜け落ちるのだそうです。
寒冷な環境から身を守る分厚い体毛をもつ。オスは繁殖期になると咽頭部の毛が長く伸長します。蹄は大きく接地面が大きいため体重が分散され、雪の上でも沈むことなく歩くことに適応しているのだそうです。
後期旧石器時代にすでに狩猟が行われていたことが知られており、ヨーロッパの同時代の洞窟(どうくつ)絵画にそのトナカイ狩猟のようすが残されています。
家畜化が始まったのは早くても紀元前2000年以後で、発祥の地としては南シベリアが有力だそうです。
現在でも北アメリカのイヌイットの一部やシベリアの先住民の一つガナサンでは、野生トナカイ狩猟を中心とした生活を営んでいますが、トナカイ飼育は元来シベリアの古アジア系、サモエード系、ツングース系、トルコ系の諸民族、およびスカンジナビアの先住民サーミで行われ、北米では近年ヨーロッパから導入されるまで行われていなかったのだそうです。
トナカイは肉や血は食糧に、皮革は衣料や住居材に、骨や角(つの)は各種の道具となって極北の人々の生活を支えています。家畜化されたものはそりを引いたり、荷を運んだり、騎乗して重要な交通手段となるほか、一部では搾乳してその乳製品を重要な食糧にしているのです。
したっけ。
当家は禅宗(曹洞宗)のため特に儀式めいたことは行いません。とはいっても、クリスマスについては後日掲載しますが、色々なお祭が合体したもののようで、キリストとも特に関係はありません。
というわけで、ただのお祭ですから、一様は家族でクリスマスケーキを買って、プレゼント交換をして、景気の回復に努める予定だよ。つまんねえだろ。ゴクあったりめえの家庭だよ。まあ、それなりの御馳走は食卓に用意される。
仲間が集まったって、サンタクロースみてえな爺さんばかりだ。面白くもなんともないだろう。集まれば自分たちは愉しいけれど、わざわざ混んでいるクリスマスには集まらねえよ。なんせ暇なんだから・・・。
今どき仲間でパーティーなんてやんねえだろうよ。三角帽子かぶって酔っ払ってたのはバブルの時代だっちゅうの。
若いヤツラはサンタクロースプレイかなんかやってんだろうし。子供を持つ親は家庭サービスデ-だっちゅうの。
したっけ。
「ラブホ」といえば、「ラブホテル」のこと、言葉を省略するのが体好きな若い人の間では、こう呼ばれている。
もともとは、「連れ込み旅館」、「アベック旅館」、「同伴旅館」などと呼ばれていました。また、「温泉マーク」とか「逆さくらげ」などとも呼ばれていたのです。これらの宿泊施設が、「ラブホテル」と呼ばれるようになったのは、1960年(昭和35年)ごろのことでしょうか。
1958年(昭和33年)に、売春防止法で赤線が廃止になりました。「赤線」とは、公認で売春が行われていた地域の俗称です。非公認で売春が行われていた地域の俗称は「青線」といったそうです。
戦前から警察では、遊郭などの風俗営業が認められる地域を、地図に赤線で囲んで表示しており、これが赤線の語源であるといいます。
売春防止法により、転廃業を迫られた遊廓の経営者が、つぎつぎと「連れ込み旅館」の経営に乗り出しました。ところが、「連れ込み」という言葉は、女性が男性に無理やり連れ込まれるというイメージがあり、女性たちから嫌われました。
やがて、その外観も室内の雰囲気も、旅館というより、ホテル式のものが増え、女性誌によって、「ラブホテル」という言葉が造語され、まず大阪でよく使われるようになって、全国に広がっていったのです。
「ラブホテル」とは、言うまでもなく、主にカップルの性行為に適した設備を持つ部屋を、短時間(休憩)もしくは宿泊で利用できる施設です。さすがにこのヒットネーミングにも手垢がついて近年、業界では露骨な表現を避ける ため「ファッションホテル」、「ブティックホテル」とも言う。また一部業界誌では「レジャーホテル」や「リゾートホテル」と表現することもあるようです。
私は、それが行われる場所のネーミングだけで女性がついて行くのではなく、若い人の男女交際の感覚が、昔とは違ってきているのだと思うのですが・・・。
今では、クリスマスはホテルに予約が集中するといいますが、この場合はラブホではないほうがよいと思います。老婆心ながら・・・。
いずれにしても、残念ながら私には既に用のない場所であります。
したっけ。
「いちかばちか」という言葉が博打からきていることは、誰でも見当がつくと思います。実際。江戸時代の博打場で生まれた言葉といわれています。
一説には、サイコロを使った丁半博打に由来しているといわれます。「丁」と「半」の文字のそれぞれの上の部分をとって「一」か「八」か。そこから、「いちかばちか」というようになったといいます。
もう一つの説は「一か罰か」に由来するというものです。サイコロの一がでるかどうかを賭けた賭博で、一がでるかしくじるかを「「一か罰か」といったのです。これが転じて、「いちかばちか」というようになったのだそうです。
この際、「いちかばちか」決めましょうか?というわけにはいきませんね。どちらが真説なのかは、ハッキリしていません。
したっけ。
冬至は一年中で昼が一番短く、夜が一番長い日です。この日を過ぎると日一日と昼が長くなるので、一夜明ければ「陽春」の訪れにつながることから、大昔からこれを祝う風習がありました。
冬至祭りを行い「一陽来復」というお札を頒(わか)つところもあります。
また冬至の日、かぼちゃやこんにゃくなどを食し、ユズ湯に入るのも、太陽の光の強い時季にできた野菜を神様にお供えし、私たちもその力をいただくという意味があります。
いちよう‐らいふく【一陽来復】
《易(えき)で、陰暦10月に陰がきわまって11月の冬至に陽が初めて生じることから》陰暦11月。または、冬至。《季 冬》
冬が去り、春が来ること。新年が来ること。「―の春」
辞書:大辞泉
この冬至に、「ゆず湯」に入り、「冬至かぼちゃ」を食べる風習が日本にはあります。
「ゆず湯」は、厳しい寒さの中でも健康に暮らせるようにと、浴槽に柚子を浮かべてはいるお風呂のことです。ゆず湯は、風邪を防ぎ、皮膚を強くするという効果があります。
では、何故、冬至に風呂なのでしょうか。
この答えは「とうじ」という言葉にあるのです。
冬至の読みは「とうじ」。というわけで、湯につかって病を治す「湯治(とうじ)」にかけています。更に「柚(ゆず)」も「融通(ゆうずう)が利(き)きますように」という願いが込められているのです。江戸庶民から生まれたとのことです。
「かぼちゃ」は、厄除けになる、病気にならないと言われています。
実際にかぼちゃには、カロチンやビタミンが多く含まれています。
冬にビタミンなどの供給源が不足した時代に「かぼちゃ」は貴重なものだったといえます。
また、冬至を過ぎると「かぼちゃ」が腐り始めるので、それまでに食べてしまおうという庶民の知恵であったとも言われます。
今年の冬至は12月22日です。
したっけ。
起源は、はっきりとはしないが、日本には奈良時代から新年の年始回りという年始の挨拶をする行事があり、平安時代以降、元日から小正月(1月15日)までの間に、前年、世話になった人々、主君、師匠、父母、親戚、近隣の人達の家に年始の挨拶周りの習慣があった。
貴族や公家にもその風習が広まって挨拶が行えないような遠方などの人への年始回りに変わるものとして書状でも交わされた。
平安期の学者、藤原明衡(ふじわらのあきひら)が著した手紙の模範文集「雲州消息(うんしゅうしょうそく)」には年始あいさつ状の文例があり、これが現存する最古の年賀状といわれている。
時代とともに新年の挨拶は一般に広まり、江戸時代になると飛脚が書状を運ぶようになった。
明治維新後の1871年、郵便制度が確立したが年賀状は書状で送るところがほとんどで、数は決して多くはなかった。1873年に郵便はがきを発行するようになると、年始の挨拶を簡潔に安価で書き送れる葉書で年賀状を送る習慣が急速に広まっていった。
しかし明治20年頃になると年賀状を出すことが国民の間に年末年始の行事の1つとして定着し、その結果、年末年始にかけて郵便局には多くの人々が出した年賀状が集中し郵便取扱量が何十倍にもなってしまった。
郵便事業に携わる人の数は限られているため膨大な年賀状のために郵便物全体の処理が遅れ、それが年賀状以外の郵便物にも影響し通常より到着が遅れることがしばしば発生していた。しかも年末は商売上の締めの時期にも当たり、郵便の遅延が経済的障害ともなりかねない状況となっていた。
その対策として1890年に年始の集配度数を減らす対策が講じられた。それでも、さらに増え続ける年賀状にその対応だけではとても追いついていけなかった。また当時、郵便物は受付局と配達局で2つの消印が押されていた。そこで受付局か配達局の「1月1日」の消印を押してもらうため多くの人がそこを狙って年賀状を出すようになり、12月26~28日あたりと1月1日当日の郵便物が集中するようになった。
そこで1899年、その対策として指定された郵便局での年賀郵便の特別取扱が始まった。年末の一定時期(具体的には12月20~30日の間)に指定された郵便局に持ち込めば、「1月1日」の消印で元日以降に配達するという仕組みになっていた。
翌1900年には(必要に応じてではあるが)全国の郵便局で実施、私製葉書の使用も認められ、1905年に完全に全国の郵便局で実施されるようになった。なお年賀状は本来、元日に書いて投函するのであるがこの特別取扱をきっかけに年末に投函し元日に配達するようになった。
また、当時はある程度の枚数を束ねて札をつけ、郵便局に持ち込むことが原則であったが、1907年から葉書の表に「年賀」であることを表記すれば枚数にかかわらず郵便ポストへの投函も可能となった。
今でも新年の挨拶周りは残っており、この場合には、年賀状を送る必要は無いということになります。
したっけ。
若い人の間で「ピカ一」といえば、Kinki Kidsの「堂本光一」のことらしいのですが、この言葉、もともとは花札から来ているのです。
花札には「光り物」と呼ばれる20点ものの札が5枚あります。1月の松に鶴、3月の桜に花見 幕、8月のススキと満月、11月の小野道風と柳、12月の桐と鳳凰です。
配られた7枚の札の中に、この「光り物」が1枚だけあり、あとの6枚がカスのとき、「ピカ一」という役になるのだそうです。
これが元になって、その他大勢の中で一つだけ傑出したもののことを、「ピカ一」と呼ぶようになったのだそうです。
「光っている」というのは、「掃き溜めに鶴」でいう鶴、石ころの中のダイヤモンドのように存在のように、その集合体の中で、普通もしくは劣っている物や人の中で、その人や物だけ抜きん出て素晴らしい事を「光っている」と言うのです。
大したことのないかすんだものの中で一際目立っているって事ですね。
したっけ。