都月満夫の絵手紙ひろば💖一語一絵💖
都月満夫の短編小説集
「出雲の神様の縁結び」
「ケンちゃんが惚れた女」
「惚れた女が死んだ夜」
「羆撃ち(くまうち)・私の爺さんの話」
「郭公の家」
「クラスメイト」
「白い女」
「逢縁機縁」
「人殺し」
「春の大雪」
「人魚を食った女」
「叫夢 -SCREAM-」
「ヤメ検弁護士」
「十八年目の恋」
「特別失踪者殺人事件」(退屈刑事2)
「ママは外国人」
「タクシーで…」(ドーナツ屋3)
「寿司屋で…」(ドーナツ屋2)
「退屈刑事(たいくつでか)」
「愛が牙を剥く」
「恋愛詐欺師」
「ドーナツ屋で…」>
「桜の木」
「潤子のパンツ」
「出産請負会社」
「闇の中」
「桜・咲爛(さくら・さくらん)」
「しあわせと云う名の猫」
「蜃気楼の時計」
「鰯雲が流れる午後」
「イヴが微笑んだ日」
「桜の花が咲いた夜」
「紅葉のように燃えた夜」
「草原の対決」【児童】
「おとうさんのただいま」【児童】
「七夕・隣の客」(第一部)
「七夕・隣の客」(第二部)
「桜の花が散った夜」
古代ギリシア・ローマの時代
古代ギリシア・ローマ・・・この時代の化粧はエジプトのものが伝わったと言われています。ローマでは色白が美しさの基準であったため入浴が盛んに行われていました。現代で言うパックのようなものも盛んに行われ、鉛白や白亜(チョーク)などが使われていたそうです。
また、スプレニアといわれる付け黒子(ほくろ)が流行しました。これはオシャレではなく、化粧品によるシミや吹き出物などを隠す役割を果たしていました。
そして、贅沢を好むローマ人は香料を大量に使用していたようです。特に貴族たちは髪に付ける香油を浴室に持ち込み、一日に三度もすりこんでいました。
そして時代は中世へ
中世・・・この時代はキリスト教の影響で化粧はあまり進歩しませんでした。
16~17世紀・・・ルネサンス期を迎えるころ、イタリア・スペインを中心に香水が流行しました。これは、入浴して体を清潔に保つといった習慣がなくなり、衛生に気を配るよりも香水で体臭をごまかすために用いられたのです。
その後、香水は欧州全域にも拡大しました。 ベルサイユ宮殿にトイレがなかったことは有名です。貴族たちは携帯トイレを持ち歩き、用をたしたあと従者が庭に捨てたそうです。また、直接庭で用をたしたりもしました。用をたしに庭に行くことを「薔薇を摘みに行く」という隠語まであったようです。「ベルサイユの薔薇」はたっぷり肥料を与えら れ咲き誇ったのです。そのため宮殿の悪臭を香水でごまかしていたのです。香水は官能を刺激するものとしてだけではなく、いろいろな伝染病(特にペスト)に対して有効な予防薬としても考えられていました。
また、この時代にも付け黒子(ほくろ)が流行しました。これは古代ギリシア・ローマ時代のものとも異なり、肌の白さを引き立たせるためのものでした。この付け黒子(ほくろ)はパッチと呼ばれ、素材もベルベットやサテンでつくられており、この流行は次の世紀まで続きました。
そして18世紀
18世紀・・・この頃から化粧の様子が少しずつ変化していきました。具体的には頬の上に紅を丸く塗ったり、唇いっぱいに紅を塗ったりなどです。これはルイ14世の愛妾モンテスパン夫人の影響があるといい、彼女が出入りする以前の宮廷では紅はあまり使われていなかったようです。
また、市民階級は地味な色、上流階級の貴婦人たちは鮮やかな色など紅の色合いで女性の階級などを区別していました。
化粧品はすべて匂いが強かったが香料水を使うことも流行し、匂いが強ければ強いほど珍重されました。さらに、エチケットとして毎日香水を変えることも要求され、この香水の流行が貴族階級から市民階級へと広まりました。
この時代も16~17世紀同様に肌の白さは重要視され、引き立たせるために皮膚の上にうすく青色で1~2本の血管を書いたりもしました。
19~20世紀の化粧
19~20世紀・・時代とともに濃厚な化粧はすたれ、控えめな化粧や香り、そして再び白い肌が好まれるようになりました。第一次世界大戦後は日焼けした小麦色の肌が健康美としてもてはやされたが、1930年ごろまでにはまた日焼けを嫌う傾向へと変化していきました。
そして、1955年ごろにファンデーションが発売され、世界共通の化粧方法が生まれはじめたそうです。その後、各国の化粧品メーカーが科学技術品としての化粧品に腕を競うようになり現在に至っています。
高齢化における21世紀の化粧
現在、化粧はおしゃれという面だけではなく病気の治療にも活用されています。その中で注目を浴びているのは介護現場での化粧の活用です。ある病院で66歳~93歳の老人性痴呆の女性40名を対象にした調査をしたそうです。
内容は毎週月曜に大広間に集まり、マッサージをし たりメークをしたりするというものです。それまで寝たきりでトイレもオムツに頼っていた女性がリハビリに積極的に取り組んで自分でトイレに行くことができるようになったそうです。
この他にも表情の変化やみだしなみ・オムツがとれる・トイレ・リハビリなど様々な面でよい結果が得られたそうです。日本は先進国の中でも特に速いスピードで高齢化が進んでいます。治療のための医療はある程度はすでに進歩しつくしています。そのような中で化粧療法を使うことが精神面からの治療の補助になることは間違いないと思います。
以前、新聞で読んだのですが、施設側の事情で長い髪を短髪にされただけで、表情がなくなった女性がいたと書いてありました。また、化粧をした途端表情が華やぎ、積極的になった事例も載っていました。
女性は幾つになっても女性なのです。男には分からない、化粧には今でも魔法の力が潜んでいるのです。
したっけ。
化粧の起源は、現代の人類に近い骨格を持っていると言われているクロマニヨン人のいた およそ4~5万年前までに遡ると言われ、大変に長い歴史を持っています。この時代は遺品から生活道具や武器が発見され、歴史上初めて動物やその他の家畜・生活様式を壁画に残したといわれています。
また、一説には約20万年前のネアンデルタール人の時代まで遡るとも言 われています。この時代の化粧とは、狩猟の儀式の際に体にペインティングしたものという説があり、赤の粘土・赤い顔料を体に塗ったものを言います。また、紀元前3000年ごろの遺跡で化粧瓶・化粧パレット・手鏡・コール壺が発見されました。これが、はっきりとした化粧行為の確認といえるそうです。
そのほかには、口や耳などの穴から悪魔などが進入するのを防ぐために、赤色の物体を顔面に塗りつけるという、約7万年前に行われていた習慣が始まりだと推測されているという説もあります。このことは、出土した当時の人骨の口に付着していた赤色の顔料の痕跡から判明しました。
また、紀元前1200年代頃のエジプトでは、人々が目や唇に化粧を施している絵画も見つかっている。ツタンカーメンの黄金のマスクを例にとると、目の周囲にアイラインを施していることが見てとれる。当時のアイラインの原料は、紺色の鉱石であるラピスラズリであり、それを微細な粉にして液体に溶かして使用していた。現在でも中近東地域ではこのようなアイラインを日常に行っているそうです。
《「ラピス」はラテン語で石、「ラズリ」はペルシア語で青の意》藍青(らんせい)色を呈し、飾り石として古代から用いられる鉱物。数種の鉱物の混合物で、黄鉄鉱が混じっており、磨くと濃い青地に金色の斑点が輝くので、青金石ともいう。主産地はアフガニスタン。瑠璃(るり)。ラズライト。
辞書:大辞泉
現在でも未開発の地域やジャングルなどに住んでいる先住民は、全身に色鮮やかに化粧をしている姿をテレビなどで見かけます。特別なお祭りや宗教的な儀式のときに、色々な色の化粧をしたり、極楽鳥の飾り羽根、動物の牙や貴金属を身につけたりすることもあるようです。正確なことはよく解りませんが、これらの身体を飾る行為は戦士としての勇敢さ、長老や祈とうしなどの身分の高さ、豊かさ等の象徴と同時に、祟りや天罰等を避ける魔除けの意味があったようです。
一方、熱帯地方の住民は、植物のオイルや白粘土の粉などを露出しているハダに塗ります。日中の強い日差しの熱や紫外線から皮膚を護るための知恵を自然に体得していたようです。
エジプトといえば、歴史に名を残す美人ナンバーワンのクレオパトラが思い出されます。顔 のみならずからだ全体が均整のとれた美人であったのでしょう。美人の条件は、民族、文化、年齢、宗教、その他により、様々であります。日本人女性の「下膨れの顔」を、平安時代の日本人は美人と言い、また別な時代の人達は美人とは表現しません。 美人は時代とともに変わります。
顔かたち、プロポーション、スタイルでは、クレオパトラは世界一の美貌の持ち主であったといわれます。時の権力者シーザーは、クレオパトラの美貌に驚き、一目惚れで恋におちたようです。しかし、クレオパトラにすれば、シーザーを恋の虜にする必要があったので、秘策を練って会いに行ったようです。
ローマの将軍ジュリアス・シーザーはポンペイウスを破り,エジプトに侵攻してきた。エジプト人たちはローマ人に食われると慌てふためいた。そのときまだ少女だったクレオパトラは、シーザーを恋の虜にして、エジプトをローマから守ったのです。そのとき、クレオパトラ17歳、シーザー53歳であったといわれます。
古代エジプトの人達やクレオパトラが登場する映画や絵画を観ますと、クレオパトラ自身もマブタの上にキレイな青いアイシャドーを濃く入れています。このアイシャドーの意味は上に書いたような魔除けであったのでしょうか。
美人の要件や条件は、時代や人によって変わるかも知れませんが、しかし、輝く美しい目はいつの時代も美人の要件の一つであるようです。
美貌の持ち主であったクレオパトラにも、一つだけ引け目を感じる弱点がありました。それは、トラコーマによる目の充血です。美人の要件は、輝くような美しい目をしていることですから、充血して眠そうで潤んだような目は他人に見られたくないはずです。
シーザーに目だけは見つめられたくなかったので、目以外の場所に興味を逸らす必要があったようです。ですから目蓋にアイシャドーを濃く入れてカムフラージュをしたのです。この秘策が、大成功をおさめてシーザーを恋に陥れることができたのです。アイシャドーは、クレオパトラにとって化けるための秘策というより政策だったのです。
なお、トラコーマは当時の人たちが慢性的にかかっていた眼病だったようです。
古代エジプト・・・西洋の化粧文化流れの出発点とされています。この頃には樹脂や練り香水が作り出され、エジプト人は香りのよい水で水浴するという習慣もありました。
また、特徴としてはクレオパトラとは別の意味で目を強調するためのアイメークがよく見られたようです。当時の女性は今でいうアイライン・アイシャドーみたいなもので目の周りを真っ黒に塗っていました。ために目を縁取っていたのかもしれません。
しかし、これには他の意味があったと言われています。それは太陽の光を和らげるためや眼病予防、信仰のためなのです。今では美しさのためにとする化粧ですが、化粧の始まりはもっと現実的な意味があり、宗教にも関連していたようです。
したっけ。
吉原のお噺でございます。
昔は写真なんてものはありませんでしたから、お店の格子の入った窓際にずらっと遊女が並んでおりまして、その中から気に入った遊女を選ぶという仕組みになっておりまして、これをお「見立て」と言ったのだそうです。オランダの「飾り窓」と同じような仕組みになっていたといえば、分かる人には分かっていただけるでしょうか。
もちろん、吉原の噺と言えば、売春なので、健全な方は顔をしかめられることと思います。実際、当時の吉原は華やかな反面、この種の仕事に付き物の暗い影もあったことも事実です。そこは落語ですので御勘弁をいただきまして・・・。
遊女とは言うものの、一番人気ともなれば、その辺の大名にも負けないほど羽振りがよかったのだそうです。そこまでいかなくても、そこそこ人気があれば、客を選ぶこともできたのだそうです。
さて、喜瀬川のところに、田舎のお大仁が訪ねてまいりましました。喜瀬川は、このお大仁 があまり好きではございません。しかも、しょっちゅう訪ねてきてくれるわけでもありませんので、必ずしもいいお客さんでもありませんでした。
そこで喜瀬川は、久しぶりなのをいいことに、自分は死んだことにしてくれと店のものに頼みます。店としても、喜瀬川は稼ぎ頭。このお大仁一人を逃しても、それに勝るお客さんを呼んできてくれる喜瀬川の方が大切に決まっております。口裏を合わせて、喜瀬川は死んだことにしていまいました。
騙されているとも知らず、お大仁は、喜瀬川が死んだと信じ込みまして、大いに泣いておさまりません。ここまではいい。ところが、お大仁は喜瀬川の墓参りをしたいと言い出してしまったのです。この辺の野暮天さが嫌われる理由なのでしょうけれど、それはともかくとして。
店の者がお大仁を谷中に連れて行き、適当な墓を喜瀬川の墓だと言って、さっさとお参りを済ませて帰ろうとするのですが、お大仁は少々疑り深い性分。墓碑銘を読み、生年月日が違うと言い出します。
店の者は、久しぶりに来たので墓を間違えたと、別の墓に連れて行くのですが、お大仁は納得しません。
広い谷中の墓地を練り歩き、さすがに疲れたお大仁が「本当の墓はどれなのだ。」と言い出すと、店の者は、たくさん立ち並ぶ墓を見渡して
「この中からお好きなものをお見立てください。」
遊びてぇものは今も昔も粋でなくてはなりません。阿吽の呼吸で相手の意思を汲み取り、自分が嫌われているてぇことが分かったら、すっと身を引くことがだいじなんです。 恋愛だって同じです。それを分からねぇから、ストーかになっちまう。気を付けるんだぜ、犯罪になっちまうんだから・・・。
したっけ。
「目黒の秋刀魚」という話は誰もが聞いたことはあると思います。
これは落語の中でも有名な噺に出てくるお殿様の言葉なのです。
ある日、お殿様が武芸鍛錬のため馬を駆って遠乗りに出かけました。
このお殿様、性格はいいのですけれど、少々そそっかしいところがございまして、家来は毎日ヒヤヒヤしております。今日の遠出も、思い立った途端に出かけてしまったものですから、家来は大慌て。目黒に到着し、昼食をと思ったものの、あまりにも突然の遠出だったので、だれもお弁当を持ってきておりません。
そこへ、サンマを焼くいい匂いが……。当時、サンマは下魚として、身分のある人が食べるものではないといわれていました。しかし、お殿様は空腹にたえられず、家来に申しつけて、サンマを農家から買い受け、一口食べてみると、これがうまい。
空腹ということもあったのでしょうが、脂が十分にのり、焼きたての旬のサンマ。これがまずいわけございません。
さて、屋敷に帰ると、またいつものように鯛などの高級魚が食前に出てくることになるわけですが、お殿様はどうしてもサンマの味が忘れられません。お殿様は駄々をこねて、サンマを食べたいと言い出します。
家来が日本橋の魚河岸に仕入れにいって、極上のサンマをあつらえてきましたが、料理番が、脂の強い魚だから、もし体にでも障ったら一大事とサンマを開いて蒸し器にかけ、すっかり脂を抜いてしまった。それでもって、小骨も毛抜きで1本1歩丁寧に抜いたから、形が崩れてしまい、そのままでは出せないから、お椀にして、おつゆの中に入れて出した。
お殿様、出されたサンマを一口食してみたが、蒸して脂が抜いてあるからパサパサ。おいしいはずがありません。
「これこれ、このサンマ、いずかたより取り寄せた?」
「は、日本橋の魚河岸にございます。」
「それはいかん。サンマは目黒に限る・・・」
お後がよろしいようで・・・。
当時のお殿様が美味しいものを食べていたかというとそうでもない。調理に気を使い、火傷をしないよう熱いものは出さない、何度もお毒見役の侍が食べた後で、お殿様の口に入るころには、美味しいものも美味しくなくなっているという、風刺をこめた噺です。人間何が幸せなのか、考えさせられます。
したっけ。
落語の好きな方は御存知だと思いますが、以下に抜粋を掲載いたしますので、お読み下さい。
和尚様が、お腹が張って苦しいので、お医者さんに相談します。様態を診た医者は、和尚に 転失気はあるかと尋ねます。和尚様は、医者の言う転失気の意味が分からない。ところが、この和尚さん、いたって負け惜しみ強い方でございまして、「わからない」と言うことができません。その場はなんとか取り繕ったものの、さて、「転失気」とはなんぞや。
「珍念、珍念はおらんか」
「へぇ、和尚様、呼ばれましたか?」
「お前は、てんしきというものを知っているか」
「いえ知りません」
「そんなことでどうする。もう14、5にもなれば一人前になりかかっているのじゃ」
「はぁ、和尚さん、てんしきというのはなんです?」
「わしが教えてもいいが、それでは修行にならん。前の花屋に行って、てんしきをちょっとお借り申したいとかなんとかいって聞いてきてみなさい」
小僧さんが、花屋で転失気を貸してくれというと、花屋の主人は先日ネズミが棚から落として壊してしまったと言います。
―和尚さんは方々に聞かせにやりますがだれもわかりません。-
その旨を和尚さんに報告すると、今度はお医者さんに聞いてこいと言います。
減るものでもなし、教えてくれればいいのにと小僧さんはブツブツ思いつつ、お医者さんに所に行き、てんしきとは何かとたずねると、医者は笑いながら、「転失気」というのは漢方の世界で「気を転(まろ)め失う」というところから転失気と書いて、「おなら」のことを言うのだと教えてくれます。
はは~ん、どうも和尚さんは転失気を知らないなと察した小僧さんは、素知らぬ顔をして、てんしきは盃のことだったと答えます。
「さかずき? 盃は酒を呑む器。呑む酒器、呑酒器(てんしゅき)、うむ! その通りじゃ! 二度と忘れるでないぞ!」
翌日、再びお医者さんが来て、
「具合はどうか・・・。」
と和尚さんに尋ねます。
「随分よくなりました。そうそう昨日聞かれた呑酒器(てんしき)ですが、うちにも三つ組みのものがありました。よければ見てください。」
と和尚さんが自慢げに言います。医者の方は、この和尚さんは何を言い出すのかときょとんとした顔をしています。小僧さんはニヤニヤしながら、言われたとおり、奥の部屋から盃を持ってきます。
盃を前にして、お医者さんは、
和尚さんは、ん? ち、珍念め……、騙しよったなと思いましたが、もう遅い。
お医者さんは
「どういうわけでお寺では盃のことを「てんしき」と言うのか。」
「寺方の事でございますから、さぞかし古い時代から転失気と呼んでおられたのでございましょ~な?」
しかし、そこは生来の負けん気の強い和尚さん。
「えぇ~そらもぉ、奈良平安の時代から・・・。」
お後がよろしいようで・・・。
下げはもうひとつありまして、「呑みすぎるとブーブー言うやつがいる。」
知った振りをすると大恥をかくという一席でした。
知らないことは知らないといったほうがいいですよ。「聞くは一時の恥じ、聞かぬは一生の恥」と言いますから。
したっけ。
落語の「花色木綿」を御存知ですか。
「広い庭のある家に侵入しろ」といったら公園に忍び込み、「電気がひいてあってこじんまりしたところを狙え」と言われたら交番に盗みに行ってしまうような間抜けな泥棒が主人公。
兄貴分にも見限られ「泥棒を廃業しろ」と宣告された泥棒は、何とか自分の実力を証明しようととある長屋に忍び込む。ところが、物色している最中に何と家人が帰ってきてしまった。
あわてた泥棒はひとまず縁の下にもぐりこむ。入れ違えで入ってきた家人(八五郎)は、荒らされた室内を見るやものすごい勢いで部屋を飛び出し、何故か家主を連れて戻ってきた。
実はこの男八五郎、家賃を払えずに困っていたのだが、たまたま泥棒が入ってきたのをいいことに『泥棒に入られ金を持っていかれたから』と家賃を免除してもらおうと考えていたのだ。
八五郎からインチキの事情を聞いた家主は、「被害届を出すから」と彼に何を盗られたのかと質問をいたします。
あせった八五郎は、家主が羅列した『泥棒が盗って行きそうな物』を総て盗られたといって急場をしのごうとした。
ところが、途中で布団(裏地が花色木綿で出来ていた)が出るや、花色木綿が着物の裏地の一種だと知らない八五郎、それ以後に家主が挙げた洋傘や紋付、果てはタンスに至るまで総て「裏が花色木綿」と答えてしまったため話はどんどんおかしくなり、おまけに八五郎のインチキ話に激怒した泥棒が飛び出してきたため嘘は見破られてしまう。
結局、見つかってしまった泥棒は、家主に泥棒に入った理由を訊かれ、以前兄貴分に教わったとおり「出来心で」と答えて許してもらう。次に八五郎がインチキ話をした理由を訊かれ「つい、出来心で…」。おあとがよろしいようで・・・。
ということで「花色木綿」は出来心のことをいうのですが、噺が古すぎましたね。
ちなみに、この「花色木綿」の花の色、どんな色だかお分かりですか。ピンクだとか赤を想像した人は、八五郎を笑えません。
ではどうしてブルーを「花色」と呼んだのでしょうか。
実は花色の「はな」とは、「はなだ」という植物の名前の変化したものなのです。
「はなだ」は「縹」と書き、露草の別名なのです。青い露草からつくった染料で摺り染にした色を「はなだいろ」と呼んだのです。
ブルー・ジーンズの少しさめた色を想像していただければよいと思います。
花色に染めた木綿の布は、丈夫で色落ちせず、着物の裏地に良く使われたのだそうです。
したっけ。
おっ!今週は鍋奉行ですか。「頼もしい」「うっとうしい」とかの問題ではなく、お奉行様はいなくてはならない存在だべさ。
鍋は、一種のイベントでないかい。イベントになくてはならないものって言ったら、司会者だべさ。鍋における、鍋奉行はイベントの司会者なんでないかい。
その司会者に、文句を言ったり、うなずいたりしながら食べるから、鍋は盛り上がるんだべさ。自分の食べたいものを自分で入れて自分で食うんだら、大勢で鍋を囲む必要はないんでないかい。
「いよっ、名奉行。」とか、「だめだよ、お奉行様。煮すぎだべ。」とかいいながら食べるからこそ、鍋はなまら美味しいんだべさ。
それが嫌なら、一人鍋をすればいいんでないかい。淋しいべさ、きっと。
というわけで、ちょっと意味合いは違うけど、「頼もしい」に1票。鍋を美味しくするか否かは名鍋奉行がいるかいないかにかかっているでないかい。
したっけ。
12月(じゅうにがつ)はグレゴリオ暦で年の第12の月(最後の月)に当たり、31日あります。
日本では、旧暦12月を師走(しわす)または極月(ごくげつ、ごくづき)と呼び、現在では師走は、新暦12月の別名としても用いられています。
「師走(」は当て字で、語源は以下の通り諸説あり、正確な語源は未詳であるそうです。
その主な由来に坊主(師・師には、僧侶の意味もある)が、お経を上げるために、東西を馳せる月と解釈する「師馳す(しはす)」があります。
この説は、平安時代の「色葉字類抄(いろはじるいしょう)」に、「しはす」の注として説明されています。
現在の「師走」と漢字の意味も近く、古い説であるため有力に思いますが、「師馳す」説は民間語源説で、この説を元に「師走」の漢字が当てられたと考えられます。
また、本来は伊勢神宮や各地崇敬社の御師(神宮大麻・神札を配る祈祷師)達が各家庭を巡る事からであるとする説もあります。
その他、「年が果てる月」を意味する「年果つ(としはつ)」が変化したとする説。
「四季の果てる月」を意味する「四極(しはつ)」からとする説。
「一年の最後になし終える」意味の「為果つ(しはつ)」からとする説。
また、「十二月(シハス)には 沫雪降ると 知らねかも 梅の花咲く含めらずして」と万葉集巻第九~一六四八にあり、また、「十有二月(シハス)」と日本書紀にあります。
これからして、万葉・記紀時代には数字で書いて「シハス」と読み、「師走」とは表記しておりません。従って、「師走」は後世の当て字であることがわかります。
昔から十二月をシハスと呼んでいた、後で師走を当てたのだろうと言う説です。これは説得力ありますね。
「色葉字類抄(いろはじるいしょう)」
平安末期の辞書。二巻または三巻。橘忠兼編。天養・治承年間(1144-1181年)に成立。当時の文書・変体漢文などに用いられる語句を、頭音によって「いろは」四七部に分け、各部はさらに意味によって天象・地儀など二一門に分ける。「伊呂波字類抄」一〇巻は、これを鎌倉初期に増補したもの。
辞書大辞林
ついでですから「晦/晦日(つごもり)」についても考えてみましょう。
「つごもり」は、月が隠れて見えない頃の意味から、「つきごもり(月隠)」の音変化と考えられます。
「月が隠れて見えない頃」とするのは、陰暦で月が隠れる頃が月末になるためです。
ただし、「つごもり」のように名詞「月」の「つ」は「月」の語源である「つく」で、「つくごもり」から「つごもり」に変化したと考えたほうが良いでしょう。
12月31日を「おおみそか」と呼ぶように、「つごもり」に「大」を冠して「おおつごもり」と呼びます。
それと、忙しいことを北海道では「せわしい」と言いますが、似てませんか「しわす」と「せわしい」。
したっけ。