年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

明治時代のべったら市周辺の景況

2006年08月24日 | べったら市
べったら市の開かれる大伝馬町・堀留町界隈は織物問屋が集中してあります。東京の中心地で政治経済の影響を受けていた。江戸時代は伊勢商人が活躍していたが明治時代は近江商人が活躍し洋反物を扱った。木綿店が江戸時代の大伝馬町なら金巾(カナキン)・モスリンを扱った堀留町が明治・大正時代の織物問屋の主役だった。

金巾とは平織の綿織物で海外からの輸入品の方は品質が良く、更に細い糸では国内の製品とは比較にならないほどだった。従って、明治中頃から輸入金巾によって農村部で家内工業的に行われていた昔ながらの木綿産業は破壊された。
モスリンとは
日本ではふつう『羊毛の平織物』をいう。薄地で柔らかく、無地染、友禅染などに加工し、じゅばん、半天などの和装に用いられた。明治の初めの頃にはモスリンは化学薬品で単色で染めてあって色鮮やかであった。明治初期には日本で染めることはできず明治14年になって、国内で染める技術ができ、明治20年頃に内地染めが普及し、和装に用いられ大正期になって大流行した。つまり,明治時代は舶来モスリンで大正時代は国産モスリンの時代と言える。
日清戦争後、日本の産業革命がおこり、明治維新の際に変化しなかった農村部が急速に変化した。農産物の商品化と商業的農業が始まり、都市近郷農家がベッタラ市に参加して来るようになる。明治40年代、べったら市の浅漬商が533軒(読売新聞・明治43年)とかの数字の記事が出てくるようになった。今では面影はないが明治末期・東京一の祭りの混雑と言われた。

明治20年代後半からこの街に織物問屋が群生化し,大正8年が最盛期で翌9年より第一次世界大戦後の不況に見舞われ,大正12年の関東大震災によって大伝馬・堀留・人形町界隈は火災によって壊滅的打撃を受け、その後災害の無かった関西問屋の関東進出でべったら市も寂れた気がします。

参考 日本橋・堀留東京織物問屋史考 白石 孝著

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