年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

若月紫蘭のべったら市②

2006年08月27日 | べったら市
明治のべったら市②
万朝報の記者であった若月 紫蘭の「東京年中行事」下巻には年後半の東京の行事が書かれています。
ベッタラ市 続き
 試みに「さあいらっしゃい、いらしゃい、安くてうまいの」と元気よく叫んでいる店先に立って三本より出し幾らだと聞くと、45銭だと言う。まあと驚いて逃げ出そうとすると、粕のついた汚い手で容赦もなく人の袖をひっ捕まえて「旦那旦那、これから負かすのが旦那の腕だ」という。こうしてたいていが一本6,7銭位までは負けてしまう。年によって大根の出来に従って値段の相違があれど、先ず5,6銭が安い時の相場である。わずか4、5町の所を一時間もかかって大伝馬町へ出て、恵比寿神社に参ってみると、東京一という大市を持っているにもかかわらず、ご本尊様の鎮座ましますお宿の,テモさっても小さいこと,勿体無いが、まるで裏店の便所といってもいいくらい、それでいてお賽銭が雨アラレと降るところは、さすが東京である。
(べったら市の記事には明治20年代後半より浅漬大根の価格が出て来る。当日の天候やその年の大根の出来によって価格が変動する。しかし、大伝馬町界隈の景況がよければ縁起物だからといって、価格は上昇していた。夜遅くになると帰り支度をする頃までも残っていると浅漬はかなり暴落した。雨天にならならなければ露店商の利益はかなりあった。品質のことに言及してくるのは明治末期から大正初めにかけての頃である。また、べったら市の大根の相場によって農家の大根栽培意欲が増加し、農会等の指導によって品種改良が行われた。明治30年代に作られた三浦大根はその一例である。東京一の大市とは人出と混雑・露店の売り上げが多いこと・今では信じられませんが明治末期の話です。東京都中央区の区の見解によると平成の現在でもべったら市の露店は500軒くらい出ているそうです。)
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