ちょうど1年前は腸閉塞で入院していて、やっと今頃は退院となった。退院直前に暇になって入院直前に借り、病室に持ち込んだ本を読みだした。ドンナ訳か1冊しか持ち込まなかった。
血塗られた慈悲、笞打つ帝国。 -江戸から明治へ、刑罰はいかに権力を変えたのか?- ダニエル・V.ボツマン著 小林 朋則訳2009.10出版
今再び読みだした。引っ越し問題がなければ購入しても良い本と思える。当時の病室で読んでいた時、看護師さんがこの本を見て不思議そうな顔をしていた記憶がある。表題から想像していてホラ-小説と思ったかもしれない。だいたい病室には患者はホラ-系の本を持ちこまない気がする。学術書でさらに日本の監獄制度を異国人から見た本と説明し付箋がいっぱい付いていたので不思議がっていた。当時の気持ちは何で持ち込んだのかと思っていたが長期入院も予想していて、あの痛みから本を読む心境まで行かないと思っていた。テレビはイヤホンを持ち込んでいたがコロナ談義と2021年のオリンピック開催問題で面白くなく見ていなかった。結局入院中はIpadと読書で、2000円の通信料が4000円を超した。看護師はIphoneでデ―タ収取し送信していたので、病院内にフリ-WIFIを入れても問題がない気がする。
この本の副題に『江戸から明治へ、刑罰はいかに権力を変えたのか❓』とあった。前書きに徳川幕府刑事図譜があって、そこから研究が進んだようだ。図譜は明治中期(1893年.明治26年)出版されているので、明治政府の意向が反映されていて、いかに徳川が遅れていて、明治の文明開化後に牢獄が改善されたかを示す本だった。
アマゾンの書籍紹介をコピペする。今でも古書は価格は下がっていない。
・江戸時代、なぜ残虐な刑罰が日常茶飯事だったのか?
・江戸幕府は「慈悲深い」権力者というイメージ戦略を、いかに成功させたか?
・ペリー来航の重要な任務は、「治外法権」を認めさせることだった。
・明治政府は、なぜ、旧来の刑罰改革を急務の課題としたのか?
・植民地・台湾に、帝国日本が驚くほど壮麗な監獄を作ったのは?
・日本の資本主義の台頭を、囚人労働がいかに支えたか?
・江戸幕府は「慈悲深い」権力者というイメージ戦略を、いかに成功させたか?
・ペリー来航の重要な任務は、「治外法権」を認めさせることだった。
・明治政府は、なぜ、旧来の刑罰改革を急務の課題としたのか?
・植民地・台湾に、帝国日本が驚くほど壮麗な監獄を作ったのは?
・日本の資本主義の台頭を、囚人労働がいかに支えたか?
ーー江戸から明治へ、刑罰がいかに社会秩序の基盤となり、
権力を形成・変革してきたのかを、解き明かした画期的論考!
権力を形成・変革してきたのかを、解き明かした画期的論考!
自由民権運動福島事件の被告人花香恭次郎の経歴を調べていくうちに、今の銀座8丁目にあった公益問答新聞で新聞記者となったことから、歴史に残る人物となった。公益問答新聞社主は服部誠一(撫松)で二本松藩で明治2(1869)年公用人として東京勤務。(今の感覚だと県の東京情報収集役・接待費を使える)彼の著書『東京新繁盛記』は大いに売れて出版関係の会社を興した。そこに記者として勤めたのが花香恭次郎で、西南戦争の記事方針で服部と意見が異なり退社し、東北へ向かった。服部の本は漢文戯作で、 成島柳北の柳橋新誌の続編と抱き合わせ販売で売れたという。柳橋新誌は中国の板橋雑記に影響を受けている。
中国古典文学大系56 記録文学集 平凡社
板橋雑記に次に獄中雑記というのがあって、中国の投獄事情が書かれていた。どうやら日本の刑罰方法と似ていた。今の中国の法制度の本はまだ読んでいないがやはり中国がアヘン戦争を重視しているのか、薬物系の犯罪の刑は日本より重いと感じる。
成島柳北は筆禍がもとで讒謗律違反に問われ、明治9年の2月から6月までの四ヶ月間鍛冶橋監獄に収監された。 出来たばかりの西洋の監獄に似た木造二階建ての監獄に収容された。衛生面では西洋に近づいたが、石作りではなかった。
明治三年一二月,東京鍛治橋内に,未決囚の一時拘禁所である監倉事務取扱所が新設され ていて、河鍋暁斎が酒乱事件の時に収容された可能性がある。記憶を無くすくらいの酔い方で、牢獄の記憶から書いた大番屋図は疑問点が残る。