中国の清時代(1843年)魏源が著した地理書(海国図誌)を吉田松陰は萩の野山獄で読んでいたようだ。この本にはアメリカの監獄事情が書かれていて、江戸時代は牢屋と言われていたのを区別して監獄という言葉が出てくる。
江戸時代の罪と罰 氏家 幹人著2021年11月
松陰は安政2年に牢獄改革案を出していて、海国図誌の影響を受けている。松陰のほかにも山田方谷も獄の制度を西洋に学べとある。海国図誌には西洋の牢獄事情を理想的に書かれているが実際はアメリカの監獄も酷かったようだ。松陰の最初の獄中体験は江戸小伝馬町牢獄だった。その体験を『江戸獄記』に書いてあって、庶民の入る牢の病死者が日々3人ほど亡くなるという。一方揚屋(武士層)・女牢・百姓牢の死者は少ないという。
高野長英が嘉永3年10月末に惨殺され、高野を匿った4人のうち、記録残る獄死者は松下寿酔で宮野信四郎は新島に流罪となり、記録もある。(藤岡屋日記・新島村史・流人編)しかし他の2名の流人先と思われる八丈島と三宅島の記録がない。嘉永3年12月に南町奉行遠山景元(金さん)によって流罪の判決後に、小伝馬町の流人牢で収容中で翌年4月に流人船が出るまでの期間で流人牢内で病死した可能性がたかい。この記録を都立公文書館で探したが今のところ見つからない。
血塗られた慈悲、笞打つ帝国。ダニエル・V.ボツマン著
明治の監獄行政の骨格を作った小原重哉は監獄の衛生状態を提言して改善した所1870年(明治3年)に東京の監獄での病死者1176人から1871年には144人と激減した。ちょうどこの時期に狩野派画家と知られている河鍋暁斎が上野不忍池の料亭での書画会で酒に酔い、放言をし大番屋(未決犯を収容する)に投獄された。江戸と明治の過渡期で、暁斎は釈放されても、傷んだ体を治すため伊豆へ向かった。
江戸時代の牢屋で庶民の牢屋は持参金や差し入れの金銭で待遇が変わる。(地獄の沙汰も金次第ということわざが残る)。未決犯から付け届けを受けとる慣習があった。今は消えたが昭和の時代に大学病院の医師に手術前に金銭を出す習慣があった。
毒舌の大八木醇堂 が明治なって記録を残し、幕府老中は死罪の押印をためらっていて、今の日本政府の法務大臣が死刑執行の書類に決裁にためらうと同じだった。
河鍋暁斎の収容された大番屋の記録が見つからない。どこのあるのだろうか?