年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

負け戦と知りつつ 命を捧げる

2022年03月10日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
父の写真帳に違和感のある集合写真があって、それが父とどのような関係があるのか不明だった。中央に座っている人を含め、何か学生の団体写真で前列の人はしかめ面をしていて、後列の人の中ではある人は酒瓶を振りまわしたりタオルを首に巻いていた。何か無礼講の雰囲気があった。この写真は出版されていて(14歳の夏)の本に誰だか人物が特定されている。
 2020年7月4日にこの写真が夕方の日本テレビに映し出された。あとで番組情報を検索すると、ある女性が台北の特攻隊員の宿泊施設を訪問していたようだ。
 その後1年ほど経って、ようやくその人とメ―ル交換まで来たが、コロナ下でまだ直接にあったことはない。でも彼女は高齢のユ-チュ-バ-で画像で見ることが出来るので気分的にはあったことになっている。この写真のことで詳しく情報が得られ、撮影した日時は昭和20年5月15日台湾の陸軍施設の多い花蓮港の新川という料亭のようだった。彼女によれば、5月20日の特攻が決まり、惜別の宴会だったようだ。5日後に沖縄に向け台湾陸軍八塊基地から夕方に出撃し、日没頃に嘉手納沖で知覧から出撃した振武隊と合流し、米軍の記録に残る戦果をあげ散華した。花蓮市は台湾東海岸の沖縄よりの都市である。
 
 ウクライナの急に戦闘員になった人たちの、画像に残るコメントは悲壮感を出しつつ、自分の命を残された婦女子のためという想いが伝わる。

 叔父は23歳の命を日本の子供ために使ったという気持ちが写真から伝わる。埼玉師範学校(今の埼玉大学教育学部)に進学し、昭和18年9月30日の埼玉新聞報道では今の埼玉県越谷市の大袋小学校に辞令が出ていた。戦地に行っていた時、小学生の慰問文が生家に来ていたという。親族の話ではほんの少し小学校の教師をした様だ。軍歴では昭和18年11月から始まる。学徒出陣組と同じ。普通の陸軍特別操縦見習士官一期生の軍歴は10月1日から始まる。叔父はひと月遅れた入隊だが同期扱いされていた。

 ロシアとウクライナの圧倒的な兵器の差から、負け戦を知りつつ、命を使って未来に希望を託したという想いのコメントが残る。これで叔父の顔色が爽やかな表情だった意味をウクライナ兵士のコメントから知った。
 間も無く台湾からの忘れた特攻出撃とその後の特攻に参加できなかった人の本が台湾戦争史の研究者から出る。そのきっかけを作った自分の家族は叔父に対して慰霊したと思いたい。
 落ち着いたら、台湾と沖縄の嘉手納の自衛隊基地で第204飛行隊 (航空自衛隊)なので隊員の食堂で福神漬をたっぷり添えて想いにふけたい。叔父の陸軍飛行隊も204だった。その後LST808が被災した伊江島で小石を拾い、叔父の墓に埋葬したい。LST808は硫黄島に参加した船だった。
コメント
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