この頃東証株価指数が急上昇していて、新聞紙上とかテレビでバブルの時代を思い出させる。ところが34年前に何があったのかはすぐに記憶が出ない。計算上ではすでに築地で働いていて、40歳前後なので十分記憶があるはずだが、新聞縮刷本で当時を知るが実際生活上では昼間は築地で半分肉体労働の仕事をしていて、家に戻ろとメシ.フロ・寝るの世界で築地はまだ盛況の時だった。今度の1989年の出来事を新聞縮刷版で知ったのが、神田から大田へ青果市場が移った年だった。ここから水産売り上げ日本一の築地市場の下落があったとは当時は誰も思っていなかっただろう。少し築地市場の駐車スぺ-スが空いてきて、雰囲気は市場内で分割して再整備出来ると思っていたし、実際工事が始まり、400億円かけて、次の工事の工程でとん挫した。理由は簡単で分断された位置に店舗が当たった時、工事期間の数年で店舗の客が他の仲卸に行ってしまうし、当然だが従業員の給与も減らすしかないし、我慢できない人は移転しない店舗に移ることもある。市場内の働き場所の移動はあって、拒否はできない。いつかは独立して自分の顧客となることもあるし、量販店の目利きバイヤ―となることもある。
この辺の人の動きの激しい築地の世界は外部の人達には本音が伝わらない。足の引っ張り合いは良くあることで他の人の悪口を言うことは出来ない。もしかすると親戚だったということもある。自分は競輪というギャンブルをしたことがないが築地で知識として競輪というものが話題になった時、基礎知識を聞いたことがある。競輪学校の同期生とか練習仲間、師弟関係もあるという。自転車は先頭が風圧で不利になるので、日頃の練習の工夫があるという。そこで実力とその他の部分を考え車券を買うという。聞いていていて、結構深い。同様なことも築地であって商材の不足している時や余っている時に助け合いしているようだ。
1989年はまだかすかに記憶に残るが呼び水というか記憶の回復には世間の様子が記憶から消えている。ふと思ったのだが芝浦のジュリアナ東京を思い出した。バブルの記憶の象徴でもある。チョット歩くが都営浅草線三田駅に近いはず。まだボ―リング場が残っている気がする。