年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

2月28日閏(うるう)を意識する日

2024年02月28日 | 福神漬
4年に一度ある2月29日。今年はうるう年で明日は意識する。4年前の2月29日に生まれた人の誕生日は今まで無く、冗談に明日は1歳。年取ると誕生日は何か死への一歩前進と思うようになってきた。この閏という月日の挿入が具体的に意識したのは、明治の上野戦争だった。1868年には閏月があって、通常は新暦(太陽暦)と旧暦は一月ほど違う。従って中国の旧暦正月(春節)もひと月ずれるし、動く。上野戦争(彰義隊)は旧暦5月15日であった。ところが閏月があって、ネットで新暦換算の上野戦争の日を調べると、7月4日説が多く、少ない事例で3日と6日がネット検索で出て来る。どうでも良いのだが歴史教科書でこの換算のミスは痛い。古文を習っていた時、古い時代の花を意味しているのが梅の花でいつの間に花を意味する言葉が桜となった。ここでまたネット検索すると紀貫之は花という言葉を使った時は梅を意味していた。もう少し後の時代で和歌を送りあっていた人が梅を意味して花という言葉を使っていても、誤解して桜のような意味のある花を使って返歌した事例があるようだ。

 都営新宿線九段下駅で降りて、靖国神社へ向かうと、上り坂で最初に大鳥居が見える。さらに歩くと大村益次郎の銅像が見える。手に双眼鏡をもって上野方面を見ている。彰義隊の立てこもる上野の地での戦争の指揮をしたのは大村で半日で終わらした。
 大村の作戦 
新暦の東京の7月は梅雨時で、長雨があって、家屋に水がしみていて、風が吹かない限り、大火とはならない。従って上野戦争の記録では寛永寺が焼失したのは彰義隊による放火である。台東区の郷土資料の所で上野戦争での焼失範囲が意外と小さい。風が吹かなかったと思う。
戦争開始を事前に江戸庶民にも知らせ、見物人と抵抗派と分ける。
抵抗する人の逃げ道を用意する。新政府軍は寛永寺の西側から攻め、正面の所は薩摩の人達を当てた。戦闘が開始し、すぐに強力な大砲を打たず、遅れて攻撃した。これも意図ある作戦だった。大村は江戸にいたことがあって、気風等を熟知していた。
 この見事な作戦は日和見の江戸市民をあっという間に新政府の方に傾けた。この様子は千葉県市川市の新政府と旧幕軍との戦いで兵糧の支援の差が現れる。
 この半日の戦争は下谷の人達をがっかりさせた。上野の戦闘が長引いたら、官軍にゲリラ攻撃を考えていた町民もいた。江戸の気風を知らない西軍の下級武士たちによって、花見の場の上野寛永寺の楽しみを奪った。新政府が上野公園を整備するに従い、博覧会・動物園等が出来、行楽地となってきて、さらに文明開化を実感する場となった。そんな博覧会会場で福神漬創製者酒悦主人が缶詰を見て、持ち運びできる食品として福神漬を創製した。命名者は江戸時代末期の戯作者。ここに何にも新政府批判が含まれていないと今までの福神漬命名伝説であった。しかし15年も調べていると周囲の人物の様子が明治政府批判の人が多い。福神漬が創製した時期は、下級武士の仕事がない時期であった。
 西南戦争で刀の時代が終わる。日清戦争で日本国民が生まれる。それまでは旧藩意識が残っていた。そのすき間の明治16年から23年までの時期に福神漬が出回ってきたが本格的な文献に出て来るのが日清戦争後である。
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