能久親王御事蹟の本を検索すると、思いもかけない図書室が出てきた。入ったことのある九段下駅の隣の昭和館の4階に図書室がある。後は国会図書館が所蔵しているがここは時間の制約があって、昭和館を選んで本を出してもらった。新規の利用者は図書館カ-ドを作る。
二人ほどしかいない図書室は落ち着く。出てきた本は予想外に厚く、395ページほどの厚さ。数回通うことになりそう。
森鴎外も台湾教育委員会の本も能久親王の自伝本というより、明治以降の記録と感じた。ただ輪王寺宮として生きていた時の無念さが全体に重く感じる。
上野動物園の入り口前にある小松宮殿下の騎馬像は台東区教育委員会の説明版になぜ上野公園のこの位置に選ばれたかははっきりとした記録が無いという。輪王寺宮は戊辰戦争後に一時は逆賊扱いされた人物である。
北白川宮能久親王の評伝は数少ないが歴史小説家吉村昭著『彰義隊』、森鴎外の能久親王年譜、鴎外の編纂による能久親王御事蹟がある。
吉村の本は彼が日暮里付近という地縁で詳細に下谷の庶民の気風を今に伝えている。森鴎外の本は日清戦争時の能久親王の事蹟の記述でこのことがヤマトタケル伝説と靖国神社遊就館の北白川宮の展示に繋がる。
もともと靖国神社は戊辰戦争の時以後の政府軍死者を祀るところで日本各地にある護国神社の総本山となっていて、基本的には皇族は祀られていない。ところが北白川宮は台湾で征討中に死去して、後に台湾神社が創られ、祀られた。戦後に廃社となり、靖国神社に祀られることになったという。
能久親王は国葬となり国から正式に赦免となった。死後も扱いは難しく、遺体は豊島岡の皇族墓地にあるが彼を嫌っていたイジメていた有栖川宮熾仁親王の墓の隣接地に葬られているという。本当なのだろうか。
港区の有栖川公園内の都立中央図書館で、銅像を見ていてふと思うことがある。
有栖川宮幟仁親王の第1王子有栖川宮熾仁親王。17歳のときに当時6歳の皇女和宮と婚約しましたが、のちに和宮は「公武合体」の目的で14代将軍家茂と結婚させられてしまいます。熾仁親王が反幕府・尊王攘夷派となったのは、この婚約破棄がきっかけとも言われています。恭順の意思を示していた輪王寺宮を厳しく当たり、さらに日清戦争中に従軍の願いを退け、有栖川宮が死去すると大阪第四師団長から近衛師団に転属となり、日清戦争の講和会談中に従軍となった。その後台湾情勢が不穏となり、台湾に向かった。台湾では現地の抵抗もあったが日本軍人の大半の戦死者はマラリア等の感染病による死者という。このことが北白川宮が天皇の命令で日本各地の平定に駆り出され、戦地で亡くなったヤマトタケルの伝説と結びつけられ、今に残るヤマトタケルの銅像の顔は北白川宮の顔に似しているという。
上野動物園の正門前にある小松宮の騎馬像はこの位置の根拠が台東区教育委員会の解説案内で疑問を呈している。やはり下谷の人はこの地に銅像を設置したかったという想いを感じる。先に北の丸の近衛師団前に銅像が出来てしまったこともある。