年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

今は死語となった黄金列車

2024年09月15日 | タクワン
東京都葛飾区の「葛飾区郷土と天文の博物館」で、特別展『肥やしのチカラ』を見て
「黄金列車」「しもごえ鉄道」っていうのは、いまの東武日光線と西武池袋線の糞尿輸送の列車が昔そう呼ばれていました。太平洋戦争の末期、日本の敗色が濃くなり、肥料のために糞尿を輸送することが困難になっていた。そこで東京都は西武鉄道と東武鉄道の協力を得て、糞尿の貨車輸送を計画した。また、河川を利用した輸送も江戸時代と同じようにありました。主に海洋投棄に使用されました。
西武鉄道
 西武鉄道の前身である武蔵野鉄道と練馬農業との関係は深い。同鉄道の歴史は大正4年(1915)池袋-飯能間の開業にはじまるが、開業当時、沿線のほとんどは農村。輸送も練馬大根など沿線の農産物の輸送が中心で、人員輸送はごくわずかなものであった。
 第二次大戦による 食料不足の時代を迎えると、江戸時代から有名な川越芋の産地を擁した西武鉄道は殺人的な混雑ぶりを誇るまでになった。糞尿輸送は、旅客輸送終了後の深夜から早朝にかけて行い、復路はタンク貨車で野菜を輸送した。
東武鉄道
東武鉄道も貨車を使って糞尿輸送を開始した。昭和19年都心方面から隅田川を遡上してきた下肥船から糞尿を千住駅で貨車に積み替えて武里駅・大沢駅・杉戸駅など埼玉方面に肥料として運ぶ糞尿輸送を開始しました。
愛知県では名古屋鉄道が名古屋市、愛知県に頼まれて、食糧増産のためにということで近隣市町村へ糞尿列車を走らせた。
 「清戸道(きよとみち)」またの名を「おわい街道」(下肥のこと)が、練馬から江戸に通じる道だった。農家は朝の3時頃には、練馬大根を大八車に乗せて町へ出発。市場で大根を出荷したあと、町内をまわって下肥を運んだ。大八車に肥桶(こえおけ)を積んだ。また,戦後・甲州街道の新宿も同様な肥桶を積んだ車で混雑していて、進駐軍の軍人は(ハニーカー又はハニー・バスケット・パレード)と呼んで侮蔑した。
 世間がふたたび下肥という有機肥料の良さに気づくのは1990年代になってからになる。
※清戸道:いまの江戸橋、目白坂、目白駅通り、二又、円光院前、道楽橋、宮田橋、谷原交差点、大泉小、中島橋、四面塔稲荷へと続いていた道。練馬区の郷土資料館には大八車に野菜を積み、荷物の上に肥えを入れる容器の樽が積んである写真があります。東京の神田や京橋大根河岸に出荷した後に戻り路で下肥を集めて練馬に戻るのです。従って人の体内で生息する回虫はほとんどの人が持っていました。
 肥料を運んだ鉄道輸送はまた大根や沢庵漬を消費地に運ぶ手段となりました。肥料と病気の問題が沢庵の歴史を調べると必ず出てきます。大根栽培は連作すると良い大根が出来ません。

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老人の日だけど

2024年09月15日 | 宅老のグチ
9月15日は暦に老人の日と書いてある。2年前に亡くなった母は100歳の時の祝賀の時、暗殺された安倍首相が病気辞任し、急に首相が変わることになり、国からの表彰状がどの人になるか気になっていた。当時の新聞でも新規の百歳表彰者が3万人を超えていて、印刷の変更が間に合わないと思っていた。もう忘れていたが印刷は紙幣の印刷の所と思う。記憶違いがあるかもしれないが普通の表彰状より印刷の充実度が高い。なぜ記憶にあるかというとある親戚の100歳を超えて亡くなった人の葬儀に参加して、お焼香台の付近に百歳の表彰状が置いてあって、葬儀の参加者が驚いていていた。コロナのはるか前の話で、母の葬儀はコロナで簡素の極致だった。
 15日の新聞を読んでいると、今年の百歳になった人の数が出ていない。なにか厚生労働省の情報操作が新聞業界の談合と未成熟のネットニュ-スの情報収集力と忖度による小出し情報操作と見える。

 母が百歳になって、自分の親族で一番の長寿となり、どこまで生きるか気になっていた。もう経験則の範囲を超えていた。一番健康管理されていると思う皇族の様子から、百歳が男性の限界で、女性はもう少し長い。
 100歳の人の半分が101歳になって、101歳の人の半分が102歳になる様子が統計上見える。男性はこの経験側がもう少し始まりが早い気がして90歳位から翌年には半分となり、極まれな人が経験則の寿命死から逃れている。それでも120歳まで生きる人は世界で一人ぐらいしかいない。
 その死より脳の老化が早い。ここの差の時間が老後資金の問題となる。このあたりの学問的研究が少ない様でもし脳の様子が身体の老化より区別出来れば老後の資金問題が解決方法の見通しが出来る。少子の時代に過剰な預貯金を介護の設備に投資誘導する施策の考えられる。裕福な高齢者が故郷に寄付する文化も生まれる。
 特攻して亡くなった叔父の名前は埼玉護国神社から全国各地の特攻慰霊碑に名が残る。郷里の墓はいずれ消えると思うが叔父の名前は慰霊の場所に永遠に残る。その評価は時代によって変わるが名が残り、慰霊碑の周りに植えられた桜が春になれば桜が咲き、そして散り、青葉に変わる。
 諸行無常の世界となる。
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