逆さ歌おばあちゃん 九十三歳 「人生これからだワ!」中田芳子さん 93歳
昭和の暮らし博物館 館長 小泉和子さん 9x歳。まだ映画で見ただけ
90歳何がめでたい主演女優 草笛光子さん 90歳この映画を観た
河鍋暁斎記念美術館館長 河鍋楠美さん この人は4年くらい前のコロナ発生時だと思うが河鍋暁斎記念美術館で年始回りの和服姿の時であったことがある。その時福神漬命名者の梅亭金駕・瓜生政和の事を話した。暁斎画談の文は瓜生政和が書いたのだが、比喩の部分が入っていると伝えた。
そして最近大田区南久が原の昭和の暮らし博物館にいた時、望月嘉代子さんという人に会った。学芸員の小泉さんとの会話で、望月さんが2年ほど前の本を宣伝して下さいとの依頼だった。
丁度自分が昭和の暮らし博物館を訪問した理由が8月終りに大学生の博物館の単位を取るための実習生にLST808の英語本の著者のコンタクト法を探ることだった。
望月嘉代子が宣伝してもらいたいという本
昭和20年、20歳の日記
出版社の宣伝文では
「戦前と戦後は別の世界」 昭和20年に20歳だった普通の女子が戦時下に綴った想い。
【風が強く、焼け跡の灰を吹きまくって、焼け跡を歩く自分に吹きつける。けれど快かった。なつかしかった。生まれたときからの自分の家に立っていると思うと、たとえそれが灰燼と帰してしまっていても、その一片の灰はかつてのなつかしい我が家のものであり、またなつかしい香をもっていた】(四月二十七日の日記より)。昭和20年に20歳だった普通の女子が戦時下に綴った想い。
本の後書き、経歴からどうも百歳の人なのだが、話した感じでは普通の80代の女性と感じる。
この本をパラパラ読みして、どうもこの女性の人生は激動の時代を生き抜いた様子が見える。
1 敗戦後の33歳の時に59歳の米軍兵士と結婚する。つまり戦後のバタバタ期ではない。極端な日本人男性不足の時代だった。
2 夫と共にアメリカ本土の米軍基地を転々と配属され、夫がなくなり、日本に戻った。
3 結婚した米軍の兵士だった夫は戦後まもなく佐世保付近に駐留していて長崎の原爆被害地を回り、被爆し、後に後遺症が出てしまう。直接の原爆被爆でないのに、米軍兵士が被ばくするとは、この様な事例は聞いたことは無い。
4 本の中で心を通わせた戦友が硫黄島の星条旗の旗を立てる戦闘で亡くなった兵士の一人だった。
私の叔父達は九州知覧から昭和20年5月20日に出撃した第五十振武隊10名ほどと、台湾八塊基地から出撃した誠204飛行隊5名の特攻隊と一名の確認機が連携作戦で沖縄嘉手納沖で米軍艦船隊に特攻し、数隻の惨害を与えた。この様子がLST808という本で書かれている。このLST808は硫黄島にも参加していた。つまり叔父たちは硫黄島で戦死した日本人兵士の仇を討ったことになる。
後に望月さんの夫となる米軍兵士はどうも硫黄島の戦闘に参加しいていたようだ。
この様な自分と望月さんと夫は一時は敵対関係だった人が平和な日本の大田区の昭和の暮らし博物館の縁側で話していた。これも今から思うとまだ叔父の霊魂がまだまだ忘れてはいけないと催促している気がする。
叔父の霊魂がチョットしつこすぎると望月さんに話したら記録の保存がすごい米軍には動画があるかもしれないと言ったら、彼女は動画があったらそれを見たいというが自分が叔父たちの一式戦闘機隼の炎上している様子は動画があっても見たくないと言った。この特攻で米軍の記録でも5隻が被害にあい、米兵士が数百名以上の死傷者が出ている。
恐ろしいことに戦後の米軍には日本と同じように戦友会があって、活動記録が日本でネットで活動を知ることが出来る。それも60年過ぎると多くの戦友会の活動が休止する。日本も同様に60年が節目の様に戦友会の活動が低迷し終わる。
昭和の暮らし博物館 館長 小泉和子さん 9x歳。まだ映画で見ただけ
90歳何がめでたい主演女優 草笛光子さん 90歳この映画を観た
河鍋暁斎記念美術館館長 河鍋楠美さん この人は4年くらい前のコロナ発生時だと思うが河鍋暁斎記念美術館で年始回りの和服姿の時であったことがある。その時福神漬命名者の梅亭金駕・瓜生政和の事を話した。暁斎画談の文は瓜生政和が書いたのだが、比喩の部分が入っていると伝えた。
そして最近大田区南久が原の昭和の暮らし博物館にいた時、望月嘉代子さんという人に会った。学芸員の小泉さんとの会話で、望月さんが2年ほど前の本を宣伝して下さいとの依頼だった。
丁度自分が昭和の暮らし博物館を訪問した理由が8月終りに大学生の博物館の単位を取るための実習生にLST808の英語本の著者のコンタクト法を探ることだった。
望月嘉代子が宣伝してもらいたいという本
昭和20年、20歳の日記
出版社の宣伝文では
「戦前と戦後は別の世界」 昭和20年に20歳だった普通の女子が戦時下に綴った想い。
【風が強く、焼け跡の灰を吹きまくって、焼け跡を歩く自分に吹きつける。けれど快かった。なつかしかった。生まれたときからの自分の家に立っていると思うと、たとえそれが灰燼と帰してしまっていても、その一片の灰はかつてのなつかしい我が家のものであり、またなつかしい香をもっていた】(四月二十七日の日記より)。昭和20年に20歳だった普通の女子が戦時下に綴った想い。
本の後書き、経歴からどうも百歳の人なのだが、話した感じでは普通の80代の女性と感じる。
この本をパラパラ読みして、どうもこの女性の人生は激動の時代を生き抜いた様子が見える。
1 敗戦後の33歳の時に59歳の米軍兵士と結婚する。つまり戦後のバタバタ期ではない。極端な日本人男性不足の時代だった。
2 夫と共にアメリカ本土の米軍基地を転々と配属され、夫がなくなり、日本に戻った。
3 結婚した米軍の兵士だった夫は戦後まもなく佐世保付近に駐留していて長崎の原爆被害地を回り、被爆し、後に後遺症が出てしまう。直接の原爆被爆でないのに、米軍兵士が被ばくするとは、この様な事例は聞いたことは無い。
4 本の中で心を通わせた戦友が硫黄島の星条旗の旗を立てる戦闘で亡くなった兵士の一人だった。
私の叔父達は九州知覧から昭和20年5月20日に出撃した第五十振武隊10名ほどと、台湾八塊基地から出撃した誠204飛行隊5名の特攻隊と一名の確認機が連携作戦で沖縄嘉手納沖で米軍艦船隊に特攻し、数隻の惨害を与えた。この様子がLST808という本で書かれている。このLST808は硫黄島にも参加していた。つまり叔父たちは硫黄島で戦死した日本人兵士の仇を討ったことになる。
後に望月さんの夫となる米軍兵士はどうも硫黄島の戦闘に参加しいていたようだ。
この様な自分と望月さんと夫は一時は敵対関係だった人が平和な日本の大田区の昭和の暮らし博物館の縁側で話していた。これも今から思うとまだ叔父の霊魂がまだまだ忘れてはいけないと催促している気がする。
叔父の霊魂がチョットしつこすぎると望月さんに話したら記録の保存がすごい米軍には動画があるかもしれないと言ったら、彼女は動画があったらそれを見たいというが自分が叔父たちの一式戦闘機隼の炎上している様子は動画があっても見たくないと言った。この特攻で米軍の記録でも5隻が被害にあい、米兵士が数百名以上の死傷者が出ている。
恐ろしいことに戦後の米軍には日本と同じように戦友会があって、活動記録が日本でネットで活動を知ることが出来る。それも60年過ぎると多くの戦友会の活動が休止する。日本も同様に60年が節目の様に戦友会の活動が低迷し終わる。