公園の誕生 小野良平著
上野公園の歴史を調べていて、明治の憲法発布までは上野の地が公園から博覧会等の国家行事のハレの場所であった。明治憲法発布後は宮城前広場が整備され、日比谷公園・鹿鳴館等が出来て、国家行事の場が上野から移っていった。明治国家は旧幕府の亡霊が上野から復活することは無いと思い始めたようだ。この頃だと思うが天保の老人という言葉が出てきたと思われる。
上野は幕府の公認の行楽地で、心情的に旧幕府に恩顧がある人が下谷周辺では多数を占めていた。さらに維新後の諸外国との交易では恩恵が少ないし、さらに新しい物から仕事を奪われることにもなっていた。
今の浅草での人力車の流行が明治の時に江戸時代の駕籠という人を乗せ運ぶ仕事を一掃した。明治に入って人力車の発明があって許可が下りたのが明治3年からで、普及に従い江戸時代の乗り物の辻駕籠が消えた。人力車稼業は失業した旧幕臣の奉公人等が従事した下層民の仕事となった。下層民の仕事は流しのタクシ―の様で貧民の仕事であって、明治東京の三大貧民窟の下谷万年町は今の東上野付近にあった。浅草近辺では地下鉄銀座線の車庫の付近にあった。欧米では馬が車を引くが日本は人が車を引くと言われた。
上野の公園が出来て、江戸時代からの行楽地として復活してきた。その時の博覧会に出品されていた缶詰を見て、酒悦主人が漬物を缶詰に入れ、持ち帰る食品としたようだ。そこに工夫があって、当時は醤油は贅沢品で漬物には醤油を使うのは無かったようだ。缶に入れ醤油で漬け、さらに味りんで甘味を付けて売り出したが、高価となって売れ行きは良くなかったと思われる。
彰義隊の戦争から上野の戦後復活の過程がどうなっていたのだろうか。文献探しの日になりそう。河鍋暁斎の改名の騒動となった、明治3年の不忍池の料亭での書画会はどんな雰囲気だったのだろうか。何か梅亭金駕の捏造文章のような気がする。
福神漬の周囲には多くの比喩が隠れていて、時間が経って記憶の検証から忘れ去られている感がある。
上野公園の歴史を調べていて、明治の憲法発布までは上野の地が公園から博覧会等の国家行事のハレの場所であった。明治憲法発布後は宮城前広場が整備され、日比谷公園・鹿鳴館等が出来て、国家行事の場が上野から移っていった。明治国家は旧幕府の亡霊が上野から復活することは無いと思い始めたようだ。この頃だと思うが天保の老人という言葉が出てきたと思われる。
上野は幕府の公認の行楽地で、心情的に旧幕府に恩顧がある人が下谷周辺では多数を占めていた。さらに維新後の諸外国との交易では恩恵が少ないし、さらに新しい物から仕事を奪われることにもなっていた。
今の浅草での人力車の流行が明治の時に江戸時代の駕籠という人を乗せ運ぶ仕事を一掃した。明治に入って人力車の発明があって許可が下りたのが明治3年からで、普及に従い江戸時代の乗り物の辻駕籠が消えた。人力車稼業は失業した旧幕臣の奉公人等が従事した下層民の仕事となった。下層民の仕事は流しのタクシ―の様で貧民の仕事であって、明治東京の三大貧民窟の下谷万年町は今の東上野付近にあった。浅草近辺では地下鉄銀座線の車庫の付近にあった。欧米では馬が車を引くが日本は人が車を引くと言われた。
上野の公園が出来て、江戸時代からの行楽地として復活してきた。その時の博覧会に出品されていた缶詰を見て、酒悦主人が漬物を缶詰に入れ、持ち帰る食品としたようだ。そこに工夫があって、当時は醤油は贅沢品で漬物には醤油を使うのは無かったようだ。缶に入れ醤油で漬け、さらに味りんで甘味を付けて売り出したが、高価となって売れ行きは良くなかったと思われる。
彰義隊の戦争から上野の戦後復活の過程がどうなっていたのだろうか。文献探しの日になりそう。河鍋暁斎の改名の騒動となった、明治3年の不忍池の料亭での書画会はどんな雰囲気だったのだろうか。何か梅亭金駕の捏造文章のような気がする。
福神漬の周囲には多くの比喩が隠れていて、時間が経って記憶の検証から忘れ去られている感がある。