昭和18年9月30日の毎日新聞埼玉版を熊谷の県立図書館所蔵のマイクロフィルム版をコピ-した。その新聞記事には、戦時の学業短縮のため、半年ばかり短縮された埼玉師範学校の卒業生の配属先が記事となっていた。埼玉師範学校の記事ではその年は139名の卒業者がいた。この昭和18年と言う年は師範学校の制度が戦時と言うことで改革が行われていて専門学校となった。埼玉師範学校と埼玉女子師範学校との統合した年でもあった。そのため配属先の名簿を見ると女性の名が見えない。埼玉大学教育学部100年史を読んでいても、理解できないのだがどうも統合しても一部の授業のみが男女混合で大部分は別の様に感じる。特攻で亡くなった叔父は昭和18年9月卒業となるので、急変した制度がどうなっていたかは生きていても語ることは無かった気がする。
新聞記事による叔父の赴任先は北埼玉郡の大袋小学校となっていた。師範学校の卒業式は9月23日で専門学校昇格後の第一回目の卒業生でもあった。その後29日に県から配属先が発表された。陸軍と海軍の航空士官試験に9月8日に合格発表されていて新井利雄さんは大里郡の男沼第一小学校となっていた。新井さんは陸軍・海軍の両方に合格していて、この時点では師範学校でも把握しているのに、配属先が出るということはどの様な制度だったのだろうか。自宅から通えるとか、小学校内にある寮に住むという制度化、下宿を前提しているのだろうか。戦時の様子は先生でも徴兵されている様子が見える。親族の敗戦後の川辺小学校の卒業記念写真では男性教員は年寄りで、残りは女性教員だった。
ネットで越谷市の図書館検索をすると大袋小学校の開校110年の記念誌があった。この記念誌を読むため、東武線越ケ谷駅から歩いて20分ほどの越谷市中央図書館へゆく。司書さんに依頼し閉架の所から出してもらうのだが、本の題名が 記念誌110年の歩み で少し戸惑った。かなり遠方からこの本を読みに来るとは思っていないのだろう。この小学校は越谷市で2番目に出来た学校で、1番目の学校は明治5年の創立となる。目的の叔父の名前が教員だったの所にあるかどうかを探したが、名前の順序がバラバラで見たところ栗原義雄という先生はいなかった。どう見ても数日しか先生をしていない可能性があって、小学校の先生扱いはされていないと思われる。もし可能性があるとすれば大袋小学校の卒業生の名前に栗原という名前が散見されていた。記憶に残っていないのだろうか。ただ親族の言い伝えでは、戦時中に小学生の慰問袋、慰問文が栗原家の方に来ていたという。近所の叔父の出身だった川辺小学校と思っていたが靖国神社偕行図書館の学芸員から、欠員補充の招集令状は遅れるという。
110年誌を読むと、大袋小学校には学校用の4反の農地があって、大正9年に大袋村農業補習学校を付設し定員が80名だった。叔父は小学校で農業指導を目指していて、千葉県野田農工学校を卒業し、師範学校を目指した。赴任が予定されていた時期の昭和17年の大袋小学校の卒業生は80名だった。
結局越ケ谷まで行っても叔父の経歴はまだ未解明と感じる。敗戦後80年になる来年までにある程度納得できる記録を作れるのだろうか。
新聞記事による叔父の赴任先は北埼玉郡の大袋小学校となっていた。師範学校の卒業式は9月23日で専門学校昇格後の第一回目の卒業生でもあった。その後29日に県から配属先が発表された。陸軍と海軍の航空士官試験に9月8日に合格発表されていて新井利雄さんは大里郡の男沼第一小学校となっていた。新井さんは陸軍・海軍の両方に合格していて、この時点では師範学校でも把握しているのに、配属先が出るということはどの様な制度だったのだろうか。自宅から通えるとか、小学校内にある寮に住むという制度化、下宿を前提しているのだろうか。戦時の様子は先生でも徴兵されている様子が見える。親族の敗戦後の川辺小学校の卒業記念写真では男性教員は年寄りで、残りは女性教員だった。
ネットで越谷市の図書館検索をすると大袋小学校の開校110年の記念誌があった。この記念誌を読むため、東武線越ケ谷駅から歩いて20分ほどの越谷市中央図書館へゆく。司書さんに依頼し閉架の所から出してもらうのだが、本の題名が 記念誌110年の歩み で少し戸惑った。かなり遠方からこの本を読みに来るとは思っていないのだろう。この小学校は越谷市で2番目に出来た学校で、1番目の学校は明治5年の創立となる。目的の叔父の名前が教員だったの所にあるかどうかを探したが、名前の順序がバラバラで見たところ栗原義雄という先生はいなかった。どう見ても数日しか先生をしていない可能性があって、小学校の先生扱いはされていないと思われる。もし可能性があるとすれば大袋小学校の卒業生の名前に栗原という名前が散見されていた。記憶に残っていないのだろうか。ただ親族の言い伝えでは、戦時中に小学生の慰問袋、慰問文が栗原家の方に来ていたという。近所の叔父の出身だった川辺小学校と思っていたが靖国神社偕行図書館の学芸員から、欠員補充の招集令状は遅れるという。
110年誌を読むと、大袋小学校には学校用の4反の農地があって、大正9年に大袋村農業補習学校を付設し定員が80名だった。叔父は小学校で農業指導を目指していて、千葉県野田農工学校を卒業し、師範学校を目指した。赴任が予定されていた時期の昭和17年の大袋小学校の卒業生は80名だった。
結局越ケ谷まで行っても叔父の経歴はまだ未解明と感じる。敗戦後80年になる来年までにある程度納得できる記録を作れるのだろうか。