荒川区中央図書館郷土資料の所で、南千住の回向院の本を読んでいた。
この寺院は検索すると普通は上位に出て来る回向院は両国にあるところが出る。この両国回向院は10万人の死者を出した振袖火事という名で知られている明暦の大火の犠牲者を埋葬する地となり、後に江戸市中の無縁の人を埋葬する地となり、両国周辺がにぎわったという。南千住の回向院は過去は両国の回向院の別院だったが慶安4年小塚原刑場での刑死者を供養するための寺院となった。1771年に蘭学者たちが刑死者の人体解剖に立ちあった記念碑がある。近代医学の始まり。
嘉永3年10月末に逃亡者高野長英が南町奉行配下の与力たちによって、捕縛時に急死した。撲殺と思われるが記録上では逮捕時に抵抗し、自死となってい記録の一部が不明で、多分と思って南千住の回向院に記録があると思うがネットでは20万人という。そこで下記の本を読んだ。
小塚原刑場史 -その成立から刑場大供養まで 著者名 黄木 土也
この本のあとがきで、江戸時代でも死刑判決はか出しにくい判決で、流罪とする幕府上層部の人がいたようだ。今の時代でも在任中の死刑執行を決断する法務大臣が少ないと感じる。そうなると上川氏はすごい人でもある。オウムの死刑囚の執行を決断した。
徳川家斉の時代で死刑が300名牢内死が1000名以上、行き倒れ人が1000人以上といおう記録がある。つまり南千住の回向院の20万人の刑死者の割合は意外と少ない気がする。もしかすると所在不明の長英逃亡を助けた松下家の3人の行方が判るかもしれない。
この寺院は検索すると普通は上位に出て来る回向院は両国にあるところが出る。この両国回向院は10万人の死者を出した振袖火事という名で知られている明暦の大火の犠牲者を埋葬する地となり、後に江戸市中の無縁の人を埋葬する地となり、両国周辺がにぎわったという。南千住の回向院は過去は両国の回向院の別院だったが慶安4年小塚原刑場での刑死者を供養するための寺院となった。1771年に蘭学者たちが刑死者の人体解剖に立ちあった記念碑がある。近代医学の始まり。
嘉永3年10月末に逃亡者高野長英が南町奉行配下の与力たちによって、捕縛時に急死した。撲殺と思われるが記録上では逮捕時に抵抗し、自死となってい記録の一部が不明で、多分と思って南千住の回向院に記録があると思うがネットでは20万人という。そこで下記の本を読んだ。
小塚原刑場史 -その成立から刑場大供養まで 著者名 黄木 土也
この本のあとがきで、江戸時代でも死刑判決はか出しにくい判決で、流罪とする幕府上層部の人がいたようだ。今の時代でも在任中の死刑執行を決断する法務大臣が少ないと感じる。そうなると上川氏はすごい人でもある。オウムの死刑囚の執行を決断した。
徳川家斉の時代で死刑が300名牢内死が1000名以上、行き倒れ人が1000人以上といおう記録がある。つまり南千住の回向院の20万人の刑死者の割合は意外と少ない気がする。もしかすると所在不明の長英逃亡を助けた松下家の3人の行方が判るかもしれない。