年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

本多静六の本

2024年12月01日 | 宅老のグチ
本多静六は戦後の昭和27年に亡くなった人が今復活しようとしている。東大の教授でありながら、先の戦争協力者にもならず、戦後も蓄財を書物に著わし世間を驚かした。ある知識人はマルクス主義に汚染されない戦後まで生き残った明治人という。
 数冊ほど図書館で借りたのだが一冊を残して、すぐ借りることが出来た。そして残りの一冊の予約状況を調べると、なんと自分以外に予約者がいて、遅れているようだ。本多静六はそれほどの人物なのだろうか。借りた本も出版時期がまちまちで、ブ-ムのような人物ではないのでさらに気になる。このことから本多静六の記念館がある埼玉県久喜市に行って見たいと思うようになって来た。ネットで調べると東武線久喜駅からバス便で途中まで行き、そこから歩くようでどんな扱いなのだろうか。
ところで本多家はどんな家柄かと調べると静六は養子だった。さらに染谷亮作と本多家は縁戚関係で染谷は帝国大学農科大学(今の東大農学部)の入学時の保証人となり、さらに本多家の書生となり、住み込みながら勉学に励みます。本多静六の妻銓子(セン子)は優秀な女性で本多敏三郎(後の普)の長女と生まれ、明治の初めの官立女学校の入学し、叔母の出口せい(普の姉)に可愛がれ、キリスト教信仰することになり、英語を学び、14歳の時に日本の子爵夫人の通訳をしたという。
 明治14年に日本の女子が近代医学を習得する能力があるかどうかのテスト生として成医会講習所の入学し、明治22年に日本で4人目の公認女医となった。一番目の公認女医は埼玉県の荻野吟子で明治18年に合格しました。
 本多銓子の父の本多敏三郎(後の普)は彰義隊の結成時に一時頭取となりましたが頭取となった直後に落馬し、骨折し、上野戦争に間に合わず、悔いる人生でした。しかし渋沢栄一の取り計らいで明治なって官職についたようです。この辺りは上野の複雑な物語が感じられます。
 出口せいは本多敏三郎の姉で出口家に嫁ぐが夫と死別後に明治5年に築地外国人居留地A6番学校に住むことになる。この辺りは戸田欣堂・原胤昭の物語となり、自由民権運動の物語となってくる。
福神漬の人脈は複雑と感じる。江戸時代から明治にかけて、多くの家が没落し、生き残るために優秀な子弟を求め養子縁組が行われ、さらに女性が嫁いだ家でも夫が亡くなれば、生活を維持するための行動が受け身ではない様子が見える。
コメント
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