年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

ロシアのGDP成長率の上方改定

2024年12月06日 | 宅老のグチ
様々な経済情報を知ると、イマイチ納得のいかない数字がある。今年の2024年9月のロシア財務省がGDPの年初の見込みの2.8%から改定で3.9%と発表し、IMFも3.6%と上方修正した。平和な日本よりはるかに高度成長である。
このことを知ってから、戦前の日本の文献を読んでいて、戦争というものがいかにGNPを見た目と気分を良くすることが解かる。多くの左翼系の昭和史を読んでいると、時々論理に整合性が欠けている感じていて、特に叔父がなぜ農業と教育の理想を求めて師範学校へ進学している話を親族から聞いているので、なぜ死の可能性が大きい飛行機乗りに志願したかずっと不明だった。
 新宿の住友三角ビルの総務省平和祈念展示資料館で敗戦後のロシアへ抑留された人の講演を聞いていた時、なぜ行かねばならなかったと思うと同時に左翼系の戦前史で日本の農民が強制的に行かされたということになっている。最も教科書の様に短い時間で少ないぺ—ジで説明できないし、仮に量の制限がなくても今でも論争があるのに無理と感じる。自分自身も叔父の遺書等の記録がなく、親族の印象を聞くだけでそれがとても正しいとは思えない。戦後の歴史と伝わる映像で当時の気持ちを理解できるとは思えない。ただ言えることは二度とあのつらい思いを記録し、起こさないようにするしかないと思うしかないというのがいまの本音となる。
 満蒙開拓団の本を読んでいて、今の長野県八ヶ岳の東の地域は、明治の自由民権運動時に、埼玉県秩父地方から逃げてきた闘争家が捕まった。秩父と長野東部は道で繋がっていた。ところが鉄道が北の方の横川と軽井沢の所を結ぶと急速に秩父と長野東部の道の通行人が減り、衰退した。道の通行が減るということは旅人からの情報が減るということになる。さらに明治の絹産業は横浜・八王子・高崎線となり、シルク鉄道となり、さらに奥秩父から長野小海方面が絹に支配され、昭和の初期のアメリカの大恐慌で絹が売れなくなり、各絹産地が米作に農家人を増やし、大豊作となり、米価が暴落し、農家の女子が遊郭に売られる時代となった。このことは加藤完治が山崎延吉と共に講演会の後に、中農の人達との懇親会で、宴席に出ていた貧農出身の芸者さんに親の都合で売られたのにと嘆いて、宴席から帰らせたという逸話が残る。中農の人達は安城農林学校の教えを知りたいというのが加藤は小作人の気持ちを理解していないと思っていたようだった。
 中国との紛争が徐々に拡大すると、軍隊に人手が奪われ、農家も人が足りなくなり、野菜も漬物も値上がりし、農業も人手不足となっている様子が文献で見かける。しかし左翼系の日本史では貧農史観でこの辺りは無視されている。満蒙開拓団の先遣の人達の話が日本国内に伝わると、国の言っている楽土と違っている様子が伝わり、自発的希望者が激減している様子があって、そこから強制動員の方向に向かっていった。この辺りが戦後まで生きて農業指導をした加藤完治の言動から、こんなはずではなかったと思いなおし、日本農業の再生に向かっているが今でも日本農業は苦闘している。
 ロシアは戦争で高度成長をしている。しかし永遠に続く戦争は人類史にはまだ記録がない。いつかは終わる。近現代史ではほぼ4年で終わる。後は長い戦後史となる。どうもウクライナの戦後は小型兵器の拡散でいつでもどこでも戦場となりそうである。ウクライナの戦後はテロの手段がドロ-ンとなるのが予想できる。
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