年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

ダ-クマタ—・暗黒物質で思う・日本では砂糖だよ

2024年12月08日 | 宅老のグチ
年寄の暇つぶしは、ユチュ-ブ動画で玉石混交の作品というか・宣伝・自己主張などがあって、無難に視聴できるのが天体物と思う。それでも色々見ている内に自説を広めようとするスケベ心が見えてきて、観測器具とかコンピュ-タ-の計算速度が激早になって、理論と計算結果が合わないことが解かってきて、何か観測できないものがあると思われ、そのことの数字を仮に入れると、ようやく計算と合うというものが出てきた。これを今暗黒物質というようだが、さらにこの仮の物質を入れても、それで別の計算が合わないという。見ていると天文学者が国の予算獲得のため、小出しに理論を出している様に素人は思ってしまう。
 漬物の福神漬を今調べているが、その中で福神漬の特色となっているナタマメのことを調べている時、だんだん日本史を知らないと理解できないと感じている。福神漬の歴史には暗黒物質があって、その正体は日本史にあると思うようになって来た。つまり日本史を知らないと福神漬の本当の意味が解らないのではないかと思う。
 ナタマメは日本の植物ではない。江戸時代初めに文献で日本に中国から渡来したようだ。この江戸時代は初めは日本の徳川政権の確立期で、さらに中国・朝鮮が豊臣秀吉の侵攻に勝利したが、明国の衰退と中国東北地方の満州・女真族の勃興を招き、徐々に中国王朝の交代となる時期だった。明が滅びたのが1664年。明国の知識人が滅亡時期に日本に避難してきた。京都南の宇治に中国風の寺院がある。中国文化を広めた、黄檗宗大本山 萬福寺。1661年宇治の地でお寺を開くにあたり、隠元和尚は寺名を中国の自坊と同じ「黄檗山萬福寺」と名付けました。 その後、幕府の政策等により、宗派を黄檗宗と改宗し現在に至ります。いんげん豆の名称は隠元和尚から来ています。福神漬の伝説で創製者の一人に秋田県湯沢市の了翁禅師がいますが彼の経歴で黄檗山萬福寺で修業をしていました。あまり知られていないのですが江戸時代の長崎の唐人貿易商から万福寺に多くの砂糖が寄進され、寺の維持費となりました。その寄進された砂糖が京都のお菓子の素材となったようです。参考文献・長崎街道シュガ―ロ-ド そこから砂糖文化が江戸城の大奥の女性の嗜好品となり、最終的に制御できないほどの消費量となり、幕府の財政困窮に繋がります。
 天保の改革時に節約を求めた水野忠邦は大奥の取り締まりの女性に砂糖の節約を指示したが、大奥の返事は女性が(男絶ち)禁欲して大奥に勤めているので砂糖くらいは許されるべきと答え、膨大な砂糖消費を抑えることが出来なくなり、大奥の女性の不興から水野の印旛沼開削の失敗にかこつけて失脚し天保の改革は終わります。水野の考えた印旛沼開削工事は今でも学者の中では国防問題としているようです。浦賀を封鎖されると江戸市民の食の安定が保てないということです。
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