年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

本多静六から出口せいのことが気になる

2024年12月05日 | 宅老のグチ
出口せい 出典 日本キリスト教歴史大事典
1843年生まれ 弘化元年・天保15年
1911年に死去する 明治44年 青山墓地に眠る。
 出口せいは一橋家の譜代の家臣だった、本多家に生まれる。実兄は本多敏三郎(明治になって普と改名)で出口せいは実妹となる。
 本多普の経歴は、久喜市の本多静六の記念館で彼の履歴書の下書きを見ることが出来る。
一橋家の家臣として、徳川慶喜に従い上京した所から始まり、彰義隊結成、維新後に勤めた役職と続き、横浜正金銀行を明治21年に退職したことまで記述してある。横浜正金銀行は貿易の決済を行う外国為替の銀行である。彰義隊結成時に隊長として選ばれたが、すぐに落馬し、骨折治療中に上野戦争が終わり、悔しい思いが残っていた。維新後に一橋家の家臣だった渋沢栄一の計らいで、官職につき、上司の外遊に付き添うこととなり、普の子供の銓子を出口せいの所に外遊中にあづけた。
 出口せいは出口家に嫁いだが夫を亡くし、すでに30歳を過ぎていたので、自立を考え1872年明治4年築地居留地のカロ―ザス夫妻を頼り、求道生活を始める。この様な話は旧幕臣子女の生きる道の記録が多々残っている。出口せいは和漢の素養があったため、A6番館に寄宿し、そこに学びに来た女子に日本の教養を教えるようになったという。このA6番館女学校は多くのキリスト教系女子教育の始まりとなる。離れたり統合したりして今に至る。
1874年10月18日に受洗する。築地の教会で受洗した人物に千村五郎、戸田欣堂、原胤昭、田村直臣等と共に芝に東京第一教会を創る。
 出口せいの評伝を読んでいると、明治の初めの20年代までの混乱期に、封建的な家の考えとキリスト教信仰との間で、女学生が苦悩している時の相談者となっている。同様の様子が判る、明治の少年の投書雑誌の『穎才新誌』(えいさいしんし)は、近代日本ではじめての全国的子供向け雑誌。
 初めの頃は研究によると13歳ころの年齢が多く、女子の投書が37%も占めていたが、次第に男女別学となると男性の投書が増えていく様子が見える。復刻版が東京町田市の自由民権記念館図書室で読んでいた時、明治の初めの少年少女たちがこのような言論戦を投書と言う手段で論争していることに感銘を受ける。言葉使いが漢文調から変わっていく様子が見える。
 出口せいは一度北陸の方に行き、東京に戻り、四谷鮫が橋の貧民街で活躍した。
巣鴨教会の森下憲卿牧師の出口せいの記録があるようだ。自分はキリスト教信者ではないが福神漬を調べてゆくと、薩長政権に対抗する人たちのよりどころと言うか、利権や思想を求めキリスト教に接近する様子が見える。従って明治憲法発布後に日本キリスト教会は苦難の道となる。
コメント
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