年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

粗悪醤油の原因

2007年02月13日 | 福神漬
短期間で完成させた尼崎工場はその生産量年産24万石という巨大なもので、東京の工場で三ヵ年かけて経験した労働者もなく、いきなり大量生産が始まり製造工程で不具合が生じた。
1 下等品を上等品の樽に詰めた。
2 醤油を入れる容器は機械化されていなかったため熟練した樽詰めが出来ず。カビが発生した。
3 粗雑な未完成の製品を出したため返品が多く、資金繰りに支障をきたした。
この原因として
イ 汁物の調理に使ったとき、沈殿物が出た。醤油を絞る時の圧搾のしすぎ。醤油粕が出てしまった。製造に慣れると解決した。
ロ 味が乏しかった。景品販売に於いて上等品も下等品も同条件だっため、下等品が売れ、従来馴染んだ旧来の製造方法でつくった醤油に比べて味が乏しかった。
ハ 香りが乏しい。塩が逃げるといわれた。原料の未熟性と製造の不慣れ。
とにかく急拡大の混乱が経営上の問題となっていった。
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明治初期の関東の醤油事情

2007年02月12日 | 福神漬
醤油から世界を見る 田中則雄 都立中央図書館所蔵
142頁
明治維新時の関東の醤油事情
① 江戸における武士の減少で需要が減った。
② 蒸気船の発達で、品質の良い関西の酒が関東に安定して入荷し、関東の地回りの酒造業を圧倒していった。関東の酒造業者は醤油醸造に転換するものがあり、醤油がだぶついていった。明治8年醤油税廃止以後は価格も低下したと思われる。
③ このような醤油状況時に東京醤油会社がキッコーマンを中心として設立し、海外にだぶついた醤油を輸出しようと努力したが中国産の安い醤油にたちゆかなかった。明治22年解散となる。後にこの時の努力が実を結び海外に醤油輸出の道が開かれる。

明治19年に醤油と砂糖で味付けた7種の野菜を漬け込んだ福神漬が現れるには少なくとも醤油と砂糖の価格の低下が必要である。さもなければ一時の食べ物で終わってしまっていただろう。明治30年代の終わりに砂糖王とも言われた鈴木藤三郎が精糖から手を引いて醤油に向かったのは当時でもかなり話題となっていた。



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明治の醤油の広告販売

2007年02月11日 | 福神漬
日本醤油醸造は旧式醸造の販売業者と対立したため、販売政策として膨大な広告費かけ新聞・雑誌・また当時としては珍しいイルミネーションを応用した広告をするなど宣伝機関を利用した。また販売者には徹底的にご馳走攻略行い買収していった。全国1万5千軒とも言われた当時の醤油業界を極度に刺激し,新旧の販売業者の対立を招いた。
 年産24万石の生産規模で始まった兵庫県尼崎工場での出荷は明治42年5月から始まった。9月からの特売は景品付きで取引高で景品が増える販売意欲を刺激する方法であった。例を挙げると百円以上は大樽一挺、一万円以上大樽130挺と売り上げが増えるに従って景品が増えるようになっていて33段階に分かれていた。

みそ・しょうゆ始祖法統燈円明国師 中瀬賢次著より

しかし,急造の尼崎工場の製品は不良品が多く出来たり,木樽の製造になれず未完成の製品が出荷され不評が出ていた。販売不振は日本醤油醸造の社内対立を招き内紛となっていった。

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報徳思想と巨大資本

2007年02月10日 | 福神漬

鈴木藤三郎が精糖業の社長を辞した時、売却した株の資金で醤油醸造の研究に向かった。東京小名木川の工場で試験操業した結果、今までより安くカビの出ない醤油が生産できた。この評判を聞きつけた人は鈴木が小規模で醤油生産を始めようとしたところ、安価にできる醤油を製造することは国民経済に役にたつのであるから、出資者を募り初めから大規模に行ったほうが報徳の考えに沿うのではないかと諭され、資本金一千万円という、当時としては巨大な資本金で始まった。新聞広告にも常に『資本金一千万円・日本醤油醸造㈱』の文字が入っていた。

鈴木藤三郎が信奉していた報徳思想は「勤労、分度、推譲」の三原則を基本とします。
【勤労】は生活の基本であり自助努力とともに知恵を働かせて労働を効率化し、社会に役立つ成果を生み出す。
【分度】収入の枠内で一定の余剰を残しながら支出を図る。
【推譲】は、余剰、余力の一部を、各人が分に応じて拠出します。

この資本金一千万円は旧式醸造の醤油製造業者の警戒を招き、販売に苦労することとなった。

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日本醤油醸造の大広告

2007年02月09日 | 福神漬
明治41年6月21日 東京朝日新聞
日本醤油醸造株式会社の東京の多くの新聞に出した広告。当時、各新聞にこのような大きな醤油会社の広告はない。販売網を閉ざされたあせりがあったのだろうか。巨大資本で発足したが醤油の販売が既存醤油会社の抵抗で思うに任せず資金を消耗していった。
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キッコーマン国際食文化センターにて

2007年02月08日 | 福神漬
京都醤油史蹟 序 及び3巻より
明治2年よりあった醤油税(登録・免許・醸造税)が明治8年6月20日廃止となった。その後富国強兵のための財源として明治18年より営業税・醤油税が制定される。
明治21年営業税と造石税となり、明治29年営業税を削除する。
明治18年5月から自家用醤油に課税する。醤油営業するものにあらずして自家用に製造するもの同居の家族・雇い人一人一ヵ年一斗5升の割合を超えてはならない。自家用醤油の規定は貧しい人が醤油を買えない人を守るためであったが実際は貧しい人ほど醤油を購入していて金持ちが自家醸造していた。税を徴収する効率が悪く廃止となる。醤油税は大正14年廃止となった。
 醤油沿革史 田中直太郎著
 明治14年から17年にかけて京都における醤油の価格は下げていて上醤油一升当り7銭5厘から9銭。下醤油は3銭5厘から4銭だった。このころ日本全国の醤油は地域内の流通から汽船・鉄道を利用した醤油だ出回り始めた。また明治8年の醤油税の廃止で出回る量が増えた。
 
缶詰のラベルの本を見つける。缶詰協会の本で,マルト印の現・藤田缶詰(京都市)の漬物の缶詰のラベル発見。福神漬・奈良漬もあれば驚くなかれ京都名産の千枚漬もあった。何時の時代だったのでしょうか。
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ヒゲタ醤油の挑戦状

2007年02月07日 | 福神漬
明治41年1月8日 東京朝日新聞 広告
醤油は本邦特産にて、この頃欧米各国の嗜好を引くに至り、輸出は年々増えている。その醸造方法は良し悪しは売れ行きの消長に現れる。我がヒゲタ印は元和2年(1916年)創業以来290年余の久しき得意先のご愛顧に報い、かつ将来海外における名声を維持するため醸造方法に於いても古来の規範に基づき文明の学理に鑑み避けるべきは避けて製造いたしております。近年機械の利用が進み、日本醤油醸造会社の設立を見るに至ったのはおそらく醤油醸造方法に於いて新旧革守の決する時が来たようです。顧客諸君は一時、愛顧の一部を彼の商品の購入に当て、嗜好の適否、経済の得失を比較の上、その判断の結果に従うことは言うまでもない。
これ一時の栄枯を考えることなく本邦の特産醤油のためと、深く顧客に希望するところであります。

千葉県銚子港 田中 玄蕃

この広告の文章は難しく一応ヒゲタ醤油の日本醤油の製品に対する挑戦状と感じた。また鈴木藤三郎は銚子のヤマサ醤油に販売の提携を申し込んだが断られている。
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醤油問屋組合の抵抗

2007年02月06日 | 福神漬
明治40年に発足した日本醤油醸造はいきなり当時としては破格の資本金一千万円という巨大資本金で活動し、東京小名木川の工場ではいきなり醤油王と知られていたキッコーマンの生産規模(年6万石)と同じくらいの生産高で始まった。当然日本全国の1万5千軒の旧式の醤油醸造家と販売方面でぶつかった。当時の醤油の販売方法は盆と暮れに決済する方法であったため、日本醤油醸造の製品を販売した所は直ぐに決済を要求されていたので中々得意先が増えなかった。
醤油仲買商組合の会合で「もしも、小売店が日本醤油の製品を販売したならば、醤油の代金を直ぐに回収し、その後(旧式醸造の)醤油を扱わせない」と決議していた。小売店は醤油問屋から半年分の醤油を前借しているようなものであったため日本醤油の製品は問屋を通じて販売できなくなった。

しかし、日本醤油醸造は新聞広告を大々的に行い世間の気をひく現品つき大特売を行い拡張していった。販売網が確立する前に過剰な生産能力は無理な販売政策を行なうようになっていた。
1908年(明治41年)尼崎町向島(現尼崎市東向島東之町・同西之町)に敷地約2.8haの第二工場を建設しました。当時日本最大であったキッコーマンの6万石をはるかに凌ぐ、24万石の生産が可能な巨大工場でした。
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醤油新式醸造の記事

2007年02月05日 | 福神漬
明治40年12月4日東京朝日新聞
醤油新式醸造
鈴木藤三郎氏が苦心の結果発明せる醤油の新式醸造はその結果良好により、この方法によれば従来醤油醸造に一年以上を要したものをわずか二ヶ月にし従来の品と変わらず良品を醸造しうるのみならず醤油には免れざるカビが少しも生じることも無かった。この器械によりこの方法を用いればいかに多大な需要にも応じることを得て、全く斯業の上に一新生面と聞きたるものにつき(今回一千万・払い込み250万円)の資本をもって日本醤油醸造株式会社を組織し、既記の深川小名木川工場並びに目下摂津尼崎工場にこの新式醸造を持って盛んに醤油の醸造に着手する由。製品は不日中に発売すべく将来は大いに海外輸出を図る計画にて目下米国に委員を派遣しその調査中なりという。

当時、醤油業界は欧米等に輸出することに関心があった。戦国時代から南蛮船によって醤油は輸出され、日清・日露戦争後中国大陸・朝鮮半島に日本人進出し、ハワイ・米本土にも日本人移民があり醤油の需要が出た。昔から醤油にカビが出るからだろうか福神漬製造時に調味液となる醤油を加熱殺菌している。
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明治40年 日本醤油醸造の発足

2007年02月04日 | 福神漬
明治37年春から東京小名木川の鈴木藤三郎の邸宅内の試験工場で三年の月日と14万円の経費をかけ,醤油菌の発酵熟成を促進して物理的に促成醸造する方法であったため、従来の醸造方法で製造された醤油と品質・栄養価が変わらなかった。都内の料理店での使用試験や外国等に輸出し商品のテストをした結果、充分事業化の見通しがついた。
従来の醤油と違う所は①醸造期間が短いため資本の回転が速く約9倍の差があった。②一万石の醤油を作るのに旧式の醸造方法だと標準労働力は100人だが新式だと10人ですんだ。③醸造期間が短いので醤油製造工場に広い敷地が必要でなかった。
 以上のことから製造原価が2~3割安く出来るようになった。
明治40年6月10日資本金一千万円で日本醤油醸造株式会社が発足した。
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明治の食品機械の発明王

2007年02月03日 | 福神漬

鈴木藤三郎の特許を一覧表によると精糖,製塩、製茶、醤油醸造機、乾燥機等食品製造に必要な特許を明治31年から大正2年までに159件取っています。
その主なものは
1 氷砂糖製造装置 明治36年
2 製塩装置    明治37年
3 醤油醸造機   明治37年
4 低圧蒸発缶   明治40年
5 麹製造装置   明治41年
6 鈴木式製穀機  明治41年
7 製茶機     明治44年
8 生糸乾燥装置  明治44年
9 魚粕圧搾機   大正2 年
英・米・伊・仏等の外国2カ国から16カ国の国から特許をとったものは22の発明となっている。明治産業革命期の我が国の発明王の一人である。
鈴木藤三郎は精糖業の社長を辞してから、醤油製造関連の機械の発明に没頭し、東京小名木川に醤油の簡易な試験工場を造りテストした。
当時の醤油醸造の欠点は醸造期間が一年半から2年の熟成時間が必要で需要が急増しても増やすことも出来ず更に醤油醸造のための倉が多数必要だったし、その管理に経験が必要で規模拡大が困難であった。
明治37年に特許をとった醤油醸造機は温度調節が出来,諸味桶を回転することにより醤油菌の発酵を促進する機械であった。二ヶ月で醤油が出来るようになった。
 鈴木藤三郎伝より 
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静岡県立周智(しゅうち)高等学校

2007年02月02日 | 福神漬

静岡県の掛川市には二宮尊徳が説き広めた報徳思想の普及を進める大日本報徳社があります。社会経済と道徳の融和を訴え、私利私欲に走るのではなく社会に貢献すれば、いずれ自らに還元されると説く。たらいの中の水に例えることも多い。掛川市のとなりの森町も当然影響を受けていて鈴木藤三郎は明治39年私立周智農林学校を創立しました。この学校は静岡県周智郡森町にある今の静岡県立周智高等学校です。森町史によると、「着実にして強健な人格を造り国家中堅たる有為の農民を養成する」が私立周智農林学校の設立趣旨だった。
日本精糖や台湾精糖の社長をその事業が順調になるとさっさと社長を辞めてしまう鈴木藤三郎は財をため私利私欲に走るより社会貢献という報徳思想の影響があります。
静岡県立高等学校長期計画に基づき、県立森高等学校(全日制課程普通科)と県立周智高等学校は統合して平成21年度開校予定です。

なお,現在森町には大きな漬物の製造工場があります。福神漬をつくっているのでしょうか。
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日糖事件 明治の大疑獄

2007年02月01日 | 福神漬
鈴木藤三郎が日本精糖の社長を解任された後、日本精糖の新経営者は無謀な積極策を取り、精糖所の買収・砂糖関税改正・精糖官営をたくらんで代議士20数名の買収をおこない日糖事件を起こした。
 
砂糖は世界商品で、江戸時代でも茶道の普及で砂糖の輸入がふえ銀貨の国外流出が激しかったため、国産化を進めたこともあった。
 明治政府は富国強兵のために正貨=金を浪費することはゆるされなかった。砂糖消費量の増大は不平等条約による低関税であったため国産砂糖より低価格で、輸入制限することは出来ず金の流出を招いていた。日清戦争で台湾を領土とした日本は砂糖を台湾の基幹産業として保護育成を計り自給をめざし正貨流出を阻止しようとした。しかし同時に日本本土の精糖業者と競争することとなり、砂糖関税の戻し税の問題が生じていた。このような時に日糖事件がおきたのである。
 とにかく明治半ば以後砂糖の価格の低下で漬物に使用できるような環境になった。醤油と砂糖の価格の低下が福神漬の成立に必要となる。
 鈴木藤三郎は「醤油エキス」の製造法の研究中に、その原料となる醤油そのものの製法の研究をした。すると江戸時代から当時までほとんど進歩がなく、醤油醸造に一年半から2年の歳月かかかるのを知って、戦争が長引いたら醤油エキスを作るための醤油そのものが尽きてしまうだろうと考えた。そして、間もなく醤油を短期間で製造する促成醸造方法(明治37年4月特許7247号)を発明した。
     鈴木藤三郎伝より
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