年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

醤油問屋組合の抵抗

2007年02月06日 | 福神漬
明治40年に発足した日本醤油醸造はいきなり当時としては破格の資本金一千万円という巨大資本金で活動し、東京小名木川の工場ではいきなり醤油王と知られていたキッコーマンの生産規模(年6万石)と同じくらいの生産高で始まった。当然日本全国の1万5千軒の旧式の醤油醸造家と販売方面でぶつかった。当時の醤油の販売方法は盆と暮れに決済する方法であったため、日本醤油醸造の製品を販売した所は直ぐに決済を要求されていたので中々得意先が増えなかった。
醤油仲買商組合の会合で「もしも、小売店が日本醤油の製品を販売したならば、醤油の代金を直ぐに回収し、その後(旧式醸造の)醤油を扱わせない」と決議していた。小売店は醤油問屋から半年分の醤油を前借しているようなものであったため日本醤油の製品は問屋を通じて販売できなくなった。

しかし、日本醤油醸造は新聞広告を大々的に行い世間の気をひく現品つき大特売を行い拡張していった。販売網が確立する前に過剰な生産能力は無理な販売政策を行なうようになっていた。
1908年(明治41年)尼崎町向島(現尼崎市東向島東之町・同西之町)に敷地約2.8haの第二工場を建設しました。当時日本最大であったキッコーマンの6万石をはるかに凌ぐ、24万石の生産が可能な巨大工場でした。
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