年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

明治の醤油の広告販売

2007年02月11日 | 福神漬
日本醤油醸造は旧式醸造の販売業者と対立したため、販売政策として膨大な広告費かけ新聞・雑誌・また当時としては珍しいイルミネーションを応用した広告をするなど宣伝機関を利用した。また販売者には徹底的にご馳走攻略行い買収していった。全国1万5千軒とも言われた当時の醤油業界を極度に刺激し,新旧の販売業者の対立を招いた。
 年産24万石の生産規模で始まった兵庫県尼崎工場での出荷は明治42年5月から始まった。9月からの特売は景品付きで取引高で景品が増える販売意欲を刺激する方法であった。例を挙げると百円以上は大樽一挺、一万円以上大樽130挺と売り上げが増えるに従って景品が増えるようになっていて33段階に分かれていた。

みそ・しょうゆ始祖法統燈円明国師 中瀬賢次著より

しかし,急造の尼崎工場の製品は不良品が多く出来たり,木樽の製造になれず未完成の製品が出荷され不評が出ていた。販売不振は日本醤油醸造の社内対立を招き内紛となっていった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする