年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

福神漬物語 20

2009年11月15日 | 福神漬
明治42年11月17日東京朝日新聞
甘精(サッカリン)入醤油の処分
大阪府及び兵庫の警察部にて押収した甘精(サッカリン)入りの日本醤油醸造約一万石の処分に付き両府県とも内務省に指令伺い中であると既記の通りなるが同省において他の純品と混合して販売を許すとなれば身体に害を及ぼすようなこともないといえども飲食物取締規則・人工甘味質取締規則を無視することになり、今後の取締に一層の困難を生ずべく、さりとて全部廃棄を命じると国家経済上の損失となる等の議論まちまちとなり直ぐに結論が出なかった。科学上サッカリンを分解する方法はあるだろうか、その方法があっても行なわれ難く結局は廃棄の外に道ないという説が最も多数を占めている。


明治42年11月18日東京朝日新聞
不正醤油処分は如何

その筋に中毒者なきか
日本醤油醸造の不正醤油は大阪府における約450石、兵庫県における約1万石の他に岩手県においても約400石の発見があり、同社がこの不正醸造関係はよほど注意深い計画のもとに行われたるものの如く、かのサッカリン(輸入)課税問題の出ると約百万円近くの見込み輸入決行し現在なお当該品(サッカリン)を多数貯蔵しているならばこの不正醤油は上記一府二県に限らず、おそらくはその販路とともに各府県にわたり、発見することは難しいことではない。むしろ東京においてその発見がないことが不思議でならない。ことにその罪悪はサッカリンの甘味を付与することに止まらず防腐剤としてホルマリン含有の疑いありというに至ったのは食料品衛生上近来に無き大事件である。

 サッカリンの関税
明治39年11月1日よりサッカリンの輸入関税が斤15銭から60円となったので、これを見越して輸入が急増した。
東京読売新聞データベースより1斤は約600G 関税が400倍となった。これでは砂糖の代わりにサッカリンを使う必要性が薄れる。
サッカリンの密輸が増加しているとの報道。
明治41年12月24日 東京読売新聞

ウヤムヤなる内務省
大阪府は処分に関し内務省の省内会議の結果を待って16日大阪府宛形式的な通達を発した。しかも、その要旨はすこぶるあいまいなもので単に危害なき範囲に於いて相当処分をなすべきという。さらに兵庫県の処分に於いては更に石数の多さだけでなく安東防疫事務官が高知市にペスト視察に出張の途中に立ち寄り本省の内意を県当局者に伝達することになるようだがその内意なるものが結局上記の通達と同じものにてこれに付加して意見を述べるに過ぎず、即ち省内にては軟風吹きすさみ公衆衛生上の影響を無視してサッカリン検出の操作と同時にエーテルを混入してこれを検出しないようにするか若しくは他の純良なる醤油と混合し試験上サッカリンの痕跡なき程度までに希薄して販売を許すべしとの論があった。塚本参事官が強硬な立法の精神より決してこれを看過すべきでないと内務省指令までもなく規則を励行して廃棄すべきが当然である。ことに良品との混合の結果、試験上これを検出することが出来ないといっても事実はサッカリン混合であるので当局者としてこれを許すべきに非ずと論じていた。何故かついにウヤムヤに右の指令を与えたものに至ったもので尚その文中にては当事者と云々の文字さえあったという至っては甚だ怪しいことである。
輸出計画
聞くところによると山根正次氏は当該醤油の処分に関し会社側となり内務省当局者を説得するにサッカリン取締規則の制定する当時の中央衛生会議における説明その他を見ると立法の精神は直接身体に危害を及ぼすというにあらずして砂糖消費税の関係上必要であったのをもって必ずしも廃棄を命ずるにも及ばざるべくと同時にその処分としてこれを満漢地方に輸出せば会社のみならず国家もまた損失をまぬがれるとして、黙認を得ようとして目下運動中ということだ。しかし満漢といえども需要者はわが同胞ばかりでなくすでに不良品であることが知れ渡ると将来他の純良品までも悪影響をきたす懸念あればこの成り行きには注目すべし。

満漢とは今の中国東北部のこと。すでに日本産醤油の中国人へ売込みが始まっていた。
明治42年11月19日大阪朝日新聞
▲希薄処分で済ます意向
昨紙東京電話により日本醤油の処分に対する内務省の方針は結局危害無き程度に於いて相当処分を命ずることに決定。その旨大阪兵庫の両府県知事に向かって通知したる旨記載して於いたが18日安東防疫事務官が神戸及び高知へペスト予防の用件にて出張の途、大阪警察本部に立ち寄り、内務省における意見が右の如く決定したる詳細を伝えし模様であるが何分結末が結末であるので府当局者は「安東防疫官は所管外の事なれば一向取り止めたる意見も無かった」云々と綺麗に逃げ内務省への思惑をはばかり、明白なる答えをなさず、されど実際は希薄して販売を許すというに相違ない。当局者の一部には内務省の腰の弱さ憤慨し、今後飲食物の取締は到底理想通りにはいかぬとつぶやいていた。中にこれを解説するものが例え希薄にして販売を許すにしても甘精(サッカリン)が検出せぬ程度まで希薄にせんとすれば純良品十石にサッカリン入り醤油一石より混ぜることできず、会社が押収品は一万石以上あるので今後十万石以上の純良なる醤油を製造する事が出来るのだろうかどうか云々と。かくて喧しかった醤油事件は愈々竜頭蛇尾に終わろうとする。
 このような記事を書いたところ神戸より電報があり、安東防疫事務官は元町旅館に休憩中訪問した記者に向かって「法文上は醤油事件の処分は地方長官に一任しているので中央政府は軽々しく干渉せざる方針である。同社は宜しく自ら公衆に危害を与えぬ方法を講ずべく地方長官はその方法を講ずるや否やを待ってしかる後処分するを穏当と思う。不正であるからといって疾風迅雷の如く急拠に処分すれば法の精神に反するだけでなく、また極めて不親切な行為と信じていて何しろ今回の事件は犬が犬糞にぶつかった感がある」云々とかっかと大笑いして語った。

明治42年11月25日大阪朝日新聞
○ 飲食物と衛生
▲ 本年一月以来の検査
近頃科学の進歩につれ天然の産物でなく種々なる化合物を配して食う物飲む物を造るようになった。飲食物には滋養を目的にする物と嗜好を目的にするものとの別があるから一概に言うことは出来ないが、例え嗜好を目的に物でも滋養分がないよりは少しでも含んでいたほうがよいということは今更言うことではない。然るに人工化合物の使用がさかんとなるに連れて只その形なり色なり味なりを天然産物に真似るというにすぎない物が多くなった。それも只滋養分がないだけならまだしもだが中には人体にとんでもない害を与えるものがある。これを取り締まるためその筋にて(警察のこと)は絶えず専門の人を派して『有害性着色料』『飲食物器具』『人工甘味質』『清涼飲料水』『氷雪』『飲食物防腐剤』等の検査をやっているが西洋などのように商売人の道徳が発達して居らぬと、需要者の知識が進歩しないので容易に改善しない。試みに府下の本年一月より十月までのこれらの物の検査した統計を調べてみると総件数8794件、人体に危害のある規則に抵触した物と認められて廃棄若しくは改造を命じられた物946件、すなわち総件数の一割がよからぬ物ということになる。中でも例の使用を禁止されている鉛を使った飲食物容器は検査件数の4割を占めている。只割合によくなったのは子供のおもちゃの着色料でこれは案外有害着色料を使っていない。サッカリンを使っているのが多いと思われる菓子類は比較的少なく百中の二(2%)くらいに過ぎないが野菜果実類の製品(缶詰・ジャムの類)には百中六(6%)くらい使っている。清涼飲料水ではラムネが一番成績が悪く第一原料水の選択が悪くしているのが多い。氷は人造が盛んになって今年の検査では一つも出なかった。それから防腐剤を適量以上使用しているのはもちろん清酒で約二割七分はいけないものであったという。とにかく飲食物の取締はいつまでも緩めることは出来ない。

明治末期の食品の取締の状況で今とは時代が違って内容が異なる。明治時代の基本的考えの中に『富国強兵』があって,身体に害があったり栄養を与えない食品は嫌われた。

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福神漬物語 19

2009年11月14日 | 福神漬

明治42年11月11日大阪朝日新聞
○薩可林(サッカリン)問題
▲有害ならず 東京帝国医科大学 林医学博士談
いま仮に『サッカリンは有害であるか?』との問題を出されると『有害である』と答えることは出来ない。但しこれは程度問題にして平素から多量に飲用すれば人身すなわち胃腸を害し腎臓を害するは事実なり。されど未だにこれがため中毒した者または他の病気を引き起こした者等実際に聞いたことはない。ドイツにおける甘味素取締規則(ジュース・スットプ)はサッカリン並びにドユルチンその他腹中に入り変性せず原型のまま排泄されるものにして栄養無き物はすべてその飲用を禁止しているけれど、有害なるがゆえにこれを禁止すると言う条文はない。これはいわゆる使用程度の如何に関するがゆえわが国の社会衛生上多少とも消化機能を害しかつ栄養分なきものとしてこれを飲食物の使用に禁じたるはけだし当然の処置であるけれど醤油のごときものに混入される時はたとえば一斗樽の醤油を家族5人にて3~4ヶ月間に使用するにつき体内に入って栄養とならないが害を及ぼすようなことはないことは明らかである。
▲ 有害無害の断定
サッカリンの有害無害については前後3日にわたり専門家の説を糺して記載した通りであるが何れの諸説も大同小異にしてサッカリンは決して有害物となるものでないがその容量が多ければ消化機能に多少の害を与えるという。学者の頭が国法という観念を離れて露骨に薬物その物のみの解釈を与えることに躊躇するむきがあるのは遺憾であるけれどこれはやむなき事情もあるべし。要するに政府が産業保護と一般衛生取締の必要上法を以ってこれが使用を禁止しているものを密かに使用するごときは罪悪なれど酒・醤油・菓子のごとき物に甘味を助けるために使用するとしても直ちに害を与えるものではないことは明らかである。

明治42年11月13日大阪朝日新聞
○ 日本醤油の処分如何
薩可林(サッカリン)のかどを以って封印差押えられた日本醤油の処分に関し警察部において二説あり、ひとつはサッカリン含有が希薄であるならば有害でなく故に現在混入している醤油に対して新たに他の醤油を混入しサッカリンが科学的に反応を起こさない程度に希薄すれば衛生上何の危害がないようにすれば廃棄処分を命ずるに及ばずといえる。もう一つは例え希薄にしても衛生上無害といえどもサッカリンの混入していることが明白なるものは法律命令に照らし純然たる不正品であるので程度の如何によらず廃棄させるものである。いわんや人工甘味質取締規則には量の多少に関係なく絶対に使用を禁止している物である。両説もそれぞれ理由があるために未だ不正醤油の処分を断行すること出来ず。従って日本醤油会社は新規販売を差し止められこのままむなしく日々を経過している。醤油醸造を中止している有様なのでこれはひとり衛生警察上の問題にとどまらず約2万石の醤油を廃棄し、かつ今後日本醤油醸造会社をほろぼすことは経済上及び国家の収入にも多少の影響あることなので大阪税務監督局にては二~三日前局員を派遣して実地調査して実際警察部の試験に相違がないのを確かめたものでその処分に関して別に一説あって、すなわち化学反応が出ないほどに希釈すれば分析技術上サッカリンの存在を証明することが出来ず当然自由に販売して差し支えはなくかつ化学反応なきまで希薄することによって衛生上有害物となり、しかも経済上価値ある醤油を無意味に廃棄することは国家経済上の損失を招くことになるという議論となった、これはかってホルマリン混入の酒について警察部と協議して同様の処分をした前例があったと言える。
明治42年11月14日大阪朝日新聞
○飲食物の危険
所長会議のため来阪の内務省衛生試験所技師田原薬学博士を13日大阪衛生試験所に訪ねて飲食物に関する談話を聞いた。
▲飲食物と公徳
最近、醤油中にサッカリンを発見したところから、サッカリンの有害無害について種々な説もあるようだがそんなことは詮議だてをする必要はない。人間の生命をつなぐ飲食物は純良なるが上に純良なるものを選ぶようにせねばならぬ。全体が染め粉で色を付けてサッカリンで甘味を付けたようなものは例え無害であっても栄養上何の効果もないから、贋造物(にせもの)というのが至当であって現にロシアなどでは国内でサッカリンの製造を禁止している。日本の政府が禁止したのは単に公衆衛生上から見て当を得た話で禁を破っても使用する者が多い今日で公然と許すとなればすべての物に乱用して始末に終えぬ。ようは商人の公徳如何によるが競争が激しくなればなるほど贋造物が出やすいからやはり厳重に取締る外はない。
▲飲食物科学者
欧州には飲食物科学者というものがある。その者は薬剤師と同じように綿密な試験を受けて飲食物巡視員に採用され絶えず巡視しているから滅多に怪しいものは販売されない。また、衛生試験所も至る所にあって個人が使用せんとする飲食物の試験を願って出るものや商人の販売品を試験しこれに証明を与える。されば商人は自家商品の価値を保つために進んで試験所の監督を受けるようにしている。スキさえあれば不正手段を用いようとする日本商人はとても差が大きくて同じ扱いはできない。

内務省衛生試験所技師田原薬学博士はこの事件の前の年「味の素」の無害の証明書を発行している。味の素の創始者鈴木三郎助の食に関する販売政策は今でも先進性がある。すでに当時サッカリンの取締りが盛んに行なわれており、政府の税収確保のために取締っていたのは明白であったため、予め無害の証明を取る必要があった。

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福神漬物語 18

2009年11月13日 | 福神漬
明治42年11月5日大阪朝日新聞
日本醤油の運命
兼ねてからよからぬ風聞の絶え間なかった日本醤油醸造株式会社はついに大失態をおこし株主はじめ一般需要者に向かって謝罪する状態に至った。とにかく会社製品の信用は地に落ち、もし内務省がこの際柔軟な処置に出ても一度落ちた製品の信用は容易に回復することは出来ず、従って現在の製法はある程度変更せざるを得ない。聞くところによると甘味を付加する点においてサッカリンに代わるには砂糖またはブドウ糖を使用すれば格別問題がないのに経済性のため使用したものである。同社の今日の損害は百万円以上(表面的にはまだ発表されていない)、主として醸造上及び販売上から起こるもので、資本回転上、普通醸造法のように六ヶ月以上の期間を延ばすことはできず、さらに醸造法を変更しても失墜した信用を回復する策に出ても切迫している会社の運転資金を如何にすべきか、目下大阪市内にて同社の無担保手形では僅かにしかならない。ただ田島社長の裏書にて事情を知らない某銀行より融資を受けた借入金も遠からず返済期限が到来するので、この際未払込株金を払い込ませる方法もあるがそのためには対株主の醸造法への信頼を得るしかない。会社内外の欠損金を隠蔽している今日姑息な手段では会社の運命も維持することも出来ない。この際大英断を持って会社内部の大改革を施し公衆に謝罪するほか策がないだろうと関係者は語っていた。

明治42年11月6日大阪朝日新聞
日本醤油会社の大失態
近年産業の進歩は、機械力を応用して自然力に打ち勝とうとしている。一個人の出資としないで数千人、数万人より出資を求め、大仕掛けの会社組織と事業経営を為そうとしている。かかるがゆえにあらゆる産業が古式をそのまま踏襲し、一子相伝的に経営するものは、徐々に敗北者になるような観ある。しかし、静かに考えてみると、科学の大進歩とてここ百年来のことであり、軍事上、政治上、ことに産業上に学問の応用が旺盛となったのはここ三四十年のことである。しかもなお日進月歩の途上にある。日進月歩とは昨日採算が取れていたものが今日は不採算となる、今日の経営状態が良好であっても来月は大改革を要する状態となっていて油断もすきもない世の中のたとえでもある。うっかり生半熟の試作を信頼して、大仕掛けの経営を為そうとして、とんでもない大失態の素となるものである。数日にわたり本紙に連載した60日醤油の醸造元である日本醤油醸造株式会社(資本金1千万円)の大失敗、すなわちこのたとえの例となっている。同社は明治40年に創立した新会社で、従来二年余の時日を費やせねば完全なる醸造を得難かった醤油をわずか二ヶ月に短縮し。内地の醤油需要を一手で充たすのみならず、海外に輸出して日本醤油をあまねく世界の津々浦々に味あわせようと凄まじき意気込みと目論見をもって出資株主を募集し、あっという間に集まった大会社であった。

明治42年11月6日大阪毎日新聞
日本醤油株の投売り
日本醤油株は一時7~8円の相場を保っていたがその後5円台に落ち込み昨日は更に低落を進め当限2円30銭の一値、中物2円55銭寄り付き2円60銭引け、先物3円5銭寄り付きの3円10銭引けという殆どボロ株のような価格を示すに至った。前述のような相場は実際の売買値段にあらず、いわゆる市場の言い値をつけたもので当限の如くは某商店より1円50銭売りを叫び、むやみに安値を唱えるのも不穏当であるというので手控えている有様である。17円50銭の払込の株式はわずかに2円30銭となったばかりではなく現物市場にては相手なしという状態で実際の値段は幾らになるだろうか認めがたいものがある。このような激落をもたらした原因はかねてからの同社製品の不評からすでに株式の下落をもたらしたものであるから株の売物があっても買い手は無き状態であるので到底株価回復する様子は無い。折からここ二三日来不正製品の検挙となりしかも事件の内容を見れば同社の損失は莫大なものに上がり。あるいは会社の存立もおぼつかないと伝えられた結果、全く投売り相場となり、市場の伝える所によると従来同社の損失額150万円に加えるに今回の不正品の損失とすれば一層巨額となり資金の固定と損失を加えれば350万円の払い込み資本も余す所わずかなるかも知れずこの際営業方針を一変する方法を見つけなければ鈴木式醸造法を踏襲すれば自滅に至る他無いという者が多い。株式が無価値と等しい相場となるのはあえて不思議ではない。

この株価の動向が東京兜町にあった株券担保で融資する帝国商業銀行の経営問題となってゆくとは当時はまだ解っていなかった。
 日露戦争後にミニバブルが崩壊し、遅れた不況のため銀行の経営危機となった。ここに福神漬が少し関係してくるとは誰も想像できないだろう。
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福神漬物語 17

2009年11月12日 | 福神漬
明治42年11月4日 東京朝日新聞
不正醤油全滅
日本醤油醸造株式会社尼崎分工場の製品に多量のサッカリンを混入したる為、大阪出張所の1600余樽(一万円)を押収したるは昨紙に記載の如し、然るに会社側にはしばしば隠蔽策を講じたるも片端より看破され二日午後に至り尼崎醸造所に於いて星野技師自ら売品全部にサッカリンを混入したる旨を白状した。(大阪)警察部にて事態極めて重大なりとその処分に付き内務省に伺い方針確定の上全国に販布せる同社製品の数万石はことごとく廃棄を命ずるに至るべく会社の損失はほとんど計算できない。
 同社製品は売出しの当時より評判悪く芳香と甘味において著しく欠けているところがあってこの悪計を企てたるものにて技師の手一つにて該薬品の混入をなし職工すらこの不正手段を知らなかったとはよほど注意したるものと見えた。
 尼崎工場の建築には多額の固定資本を要し、一方製品はさらに売れず紛議を重ね、結局大将軍毛利公爵家令田島信夫氏が社長となり岩下清周氏が取締役に加わり某銀行より多額の融資を受け営業を続けている有様なれば今度の打撃の結果については非常に悲観している者が多い。

日本醤油醸造は資本金一千万という資本で始まったので、出資者が株価下落の心配があった。
明治42年11月4日 東京朝日新聞
甘精使用について(サッカリン)
醸造試験所某技師は大阪警察本部の検挙しつつある甘精事件について語って言う。
日本醤油醸造株式会社が甘精をその製品醤油中に入れたということはもとより着味に用いたるは明らかな重大問題である。通常醤油の着味はとしては野田(千葉県)等にては、飴(グリコース)を用い着色用としては焼糖(カラメル)を用いつつある次第にて日醤も同じく飴・グリコースを用いならば今回の失態は無かっただろう。思うに現今サッカリンの輸入税は百斤60円にて随分高価に当れば到底飴や砂糖の代品として儲かるべくものにあらざるに、もし日醤が事実サッカリンを使用せしば数年前に見越し輸入された残品であるだろう。何れにせよ欧州諸国と同じ本邦にても法律をもって飲食物に混入を禁じている以上あえてその禁を犯したるは日醤会社の大失態と言わざるを得ないという。而してサッカリンが果たして衛生上有害であるか否やは未解決の問題にて、たとえ有害でなくとも、また滋養物にあらず、ことにサッカリン使用増加は各国ともその財政上少なからざる打撃を蒙るものなればこの点よりこれの使用を禁じるを得策とする云々。

サッカリンには高価な輸入税がかけられたので大量の駆け込み輸入があった。
梢風名勝負物語 日本金権史 砂糖と醤油 村松梢風著
サッカリン問題は鈴木藤三郎にとって皮肉なことだった。
明治34年10月「人工甘味質取締規則」内務省令第31号として発令。
この規則は販売用の飲食物にサッカリン等の人工の甘味の使用を禁止しただけで。治療の目的で使用したり、個人で使用することは許されていた。
この規則が発令した明治34年10月から砂糖消費税(税率30%)が実施されていた。鈴木藤三郎は前年に創立した台湾精糖と日本精糖の社長であった彼は砂糖消費税を実施するには時期尚早と強く反対した。しかし、税収を確保する必要があった明治政府は糖業者を保護するため、砂糖消費税に実施と同時に人工甘味質取締規則を発令したのだった。鈴木藤三郎の運動で作られたサッカリンの取締規則で日本の精糖業は長い間保護されたのだった。
 それでも安価な食品を作る業者はサッカリンを秘密に使用するものが絶えなかった。そのため糖業にかかわる業者たちは「サッカリンは毒物である」という宣伝を行なった。その方法はあらゆる機関を利用した。先ず、学者を買収してサッカリンは毒物説を流布させ、論文を書かせた。ビタミンを発見した鈴木梅太郎博士に、砂糖会社の資金で三越等の各所で「サッカリンは毒物である。」という講演をしてもらった。
精糖業者の努力と(日清・日露戦争の)戦費をまかなう明治政府は砂糖消費税収確保の取締のため、いつの間にか世間は「サッカリンは毒物である。」と信じるようになっていった。明治の当時は食品の取締は警察署が行なっていたので、各地の警察はサッカリンの使用の有無を度々調べていた。
 鈴木藤三郎が率先して運動したサッカリンの取締り規則で彼が挫折したことは「因果は回る小車のごとし」という古い例えに鈴木藤三郎は良く当てはまる。
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福神漬物語 16

2009年11月11日 | 福神漬
福神漬物語 16
明治42年11月3日 大阪朝日新聞
発覚の端緒
(警察)本部が不正品として認めたのは三四日前のことにして某署より提出した小分け醤油を試しに分析したところ多量の薩可林(サッカリン)を検出したので容易ならぬ次第と直ちに押収先に(警察署の)技師を派遣して取り調べたところ日本醤油会社より発売の品と判明した。しかし、本部にてはかえって不審を抱き、巨額の資本を有する会社がそのようないかがわしい手段を行うとも思われず、あるいは小売業者の仕業ではないかと一時人手を分けて各方面を取り調べたところ同様の不正品を発見したので、すべて同社のより発売の際混入としたものと見込んで、さらに大捜索をしようとする際、早くも同社重役もこのことを探知して非常に驚き早速本部に出頭の上、『見本品7樽に限り混入した』旨自白し、何分目下売り出し中にてすくなかざる打撃を受けることなればあくまでも秘密にしていただきたく旨懇願した由なるが本部にてはその申し開きを疑い、内密に他方面に取り調べたところやはり同様に薩可林を検出した。
多数の押収
今は猶予ならず(11月)一日夜より二日朝にかけてxx警部は三名の技師とともに大阪西区幸町通2丁目の貯蔵倉庫及び横堀7丁目の大阪出張所に臨検し合計1600樽(この代価約一万円)を押収して、ことごとく封印を施し引き上げ、専ら分析試験中であるが尼崎工場は兵庫県の管轄に属することなので試験の結果によって不正品と定まれば相応の照会をするはずであるという。

醤油小売業者の仕業とは当時は樽詰の醤油を消費者に小分けして販売していた。

明治42年11月3日 大阪朝日新聞
会社内の混乱
大阪出張所にては多数の封印を受けて、三塚主任は大狼狽を極め、その旨を直ちに尼崎工場に電話したので社員技師等はほとんど工場を空にして来阪し前後策につき頭をいためていた。鈴木藤三郎主任技師は東京本社に帰社中だったが至急電報により11月1日に尼崎に来て、2日重役を招集し、種々質疑をしていた様であった。同主任技師の談によると『実にゆゆしき失態を演出したものにして、各のごときことが新聞に発表される事態となれば実に会社の死活に関係する。製造所においては断じて左様な(=サッカリンのこと)薬品を投入したこともなければ販売所が顧客の好みに合わせたため、つい混入したためだろう。押収の全部に混入したことは偶然のはずである。元来特別醸造法によるものなれば外気に触ること少なく外部より黴菌が侵入しない限り腐敗することはない。現に横須賀海軍経理部主任渋谷主計中監に練習艦宗谷、阿蘇が遠洋航海の際に試用を願い、赤道直下を二回通過してもなお異常なき証明をいただいた。』と説明していた。

明治42年11月3日 大阪朝日新聞
秘密薬は何?
されば別に聞くところによれば同社物品購買科目に香味料の一目があり砂糖をC、飴をB,染色料をK.と称し購入、なお外に東京本社より直送し工場技師が絶対秘密に取り扱いしているドイツよりの輸入の薬品がある。これが薩可林であろうか、又ホルマリンも分析用と称して大阪道修町の某薬店より購入している模様なれば社長が工場において混入することはないという証明はなお十分に信頼を置くに足らない。

明治42年11月3日 大阪朝日新聞
海中に投棄
一説により販売店より腐敗のため返品した多数の醤油を密かに船に積み尼崎沖に投棄したとの風評があるがそれは盛夏の工場を掃除した赤色の水を樽に入れ投棄したものが噂になったものである。要するに、混入と否かとは押収全部の試験を待って黒白判明するべし。因みに同社はある方面にもみ消し運動に着手したと伝えられている。

後の記事によるとある方面のもみ消し運動とは内務省に働きかけていたこと。明治の当時,内務省は衛生を管轄する警察の上部官庁だった。

明治42年11月3日 大阪朝日新聞
会社の窮状
鈴木主任技師の理想は第一回製造に失敗し、また樽の製造等他の副事業に固定資本をおびただしく投入したため、負債二三百万円の多額にのぼり、ついに十月一日に同技師は責任を負って社長の席を降り毛利公爵家令田島信夫氏社長となり、同氏の裏書により市内の銀行より資金の融資を受け醸造を続けているも品質のよいものを生産しようとすると醸造期間を延長せざるを得ないし、それを延長すると生産量が非常に減少し、従って相当の利益をあげることは出来ず。やむなく依然短期製造を続けていれば腐敗変質を招くは自然で、防腐剤の使用を招くは必然というものである。

大阪朝日新聞の記事の結論としてサッカリン混入は不完全な醸造から来ていると結論としている。
樽の製造等というのは樽製造の機械を海外から輸入したが西洋の樽はワイン・ビールの醸造用の機械で中太りの樽用なので日本の樽には使えなかった。(鈴木藤三郎伝より)

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原胤昭から 

2009年11月10日 | 福神漬
原胤昭から 
今でも銀座にある十字屋の前身を戸田欽堂らとつくり、最初はまだキリスト教関係の布教が完全に自由になっていない時代であった。原はそこの従業員だった人に店を譲り、自身は神田須田町に三好野絵本店という錦絵問屋か紹介されて本屋のような店を開いた。ここは神田雉子町にあった團團珍聞からほんのわずかの距離であった。
 原胤昭が出版して獄に入る理由となった錦絵は明治16年9月5日
神田須田町25  画工版元 原胤昭 となっていて小林清親の名は隠されていて、小林が獄に入ることを免れた。
明治16年(1883)7月19日、自由民権運動を弾圧した「福島事件」の裁判が東京高等法院で始まると。小林清親・画・原胤昭・文の風刺画が発売禁止処分になり、これに抗議する形で無料配布した原には、軽禁固3ヵ月の刑が科せられ、石川島の獄(今の中央区佃)に入獄となった。石川島はかっての佃島の人足寄場をつくろった獄舎があり、旧時代の牢名主が権力を持つという風潮が維持されて、罪人の虐待は公然と行われていた。原自身、13歳から父とともに与力を勤め、年齢の若い身ながら人足寄場見廻り役をさせられていたことを考えると、30歳にして身分が逆転して囚人として入獄することは運命のいたずらとしか考えられない。[『開化の築地・民権の銀座』太田愛人p92]
女子学院の村瀬先生の礼拝から
「西洋にはクリスマスカードというものがあることを知り自分でも錦絵作家(多分小林清親だろう)に絵を作らせカードを発売したりします。その錦絵とも関係があるのですが、会津で起こった福島事件にも関係します。これは新しく来た県令の悪政に県議会の人々が抵抗して戦い、投獄された事件ですが、原はこの人達を支援して錦絵を売ったり配ったりしたので、自分も思想犯として獄に入れられます。このときに獄中での環境の悪さ、待遇の悪さを身をもって感じます。原自身もチフスで死にそうになり、実際に友人(田母野秀顯か?)は死にました。こういう経験から原は受刑者に目を向け、受刑者を懲らしめるだけでなく更生させなければいけないと感じ、そのために働き出します。後には日本初のキリスト教教誨師になり、生涯をかけて刑期を終えて出獄してきた人の保護活動をします。」

田母野秀顯の死は同じ獄中にいた花香恭次郎によって同志に伝えられ、谷中墓地に埋葬されました。原胤昭の作り配った福島事件の錦絵「天福六家撰」は田母野秀顯・花香恭次郎・平島松尾の三人でした。原と田母野ともチフスに罹り、獄中で出会い原は生き返り、数日後田母野は亡くなりました.天福(てんぷく=転覆)を意味しています。ここに福という字が隠されています。もしかすると福神漬には復讐という意味が隠されている可能性があります。

戸田欽堂は大垣藩主の家系である。ペリー来航時、浦賀奉行であった幕臣戸田伊豆守氏栄が本家の大垣藩の小原鉄心に応援を頼み、大垣藩士130名を浦賀の警備に要請した関係です。花香は戸田伊豆守の5男なので民権関係で周知の関係であったかもしれない。

山口昌男 1997 国立近代美術館 より
錦絵は明治初期の絵入り新聞を賑わしていたが、小林清親や久保田米僊は、ポンチ絵や時事的な挿絵によって社会的現実を加工してイメージに仕立て上げた。小林清親の場合は原胤昭の十字屋とのつながりから自由民権の運動と奇妙な関係にあった。久保田米僊ははじめは京都にあって京都版「圓珍新聞」である「我楽多珍報」の連中と滑稽を主旨とするグループを形成した。その関係から初期(明治三十年代)の三越の知的グループにも息子の米斎ともども加わった。更に「仲間二連」好みの性格により、インディペンデントな根岸党(幸田露伴など)にも加わった。

福神漬が缶詰になったころは明治16年の第一回水産博覧会の後と思われるので、酒悦主人が戯作者梅亭金鵞に命名を依頼した時期と重なる。さらに梅亭は團團珍聞の主筆でもあった時期である。

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衆議院憲政記念館特別展から

2009年11月09日 | 福神漬
衆議院憲政記念館特別展
激動の明治国家建設
明治10年の西南戦争から明治憲法発布・国会開設までの文献が系統だって実物を展示してあって、行く価値がある。
 福神漬の誕生と拡販の行方は明治という時代に翻弄された食べ物でもあったと感じる。最初は簡単な調べごとだったが今ではその奥の深さが感じてきて戸惑いを覚える。
 福神漬が命名された時期が丁度自由民権運動が過激になって自滅する時期で下谷の人々の中の非薩長・旧幕臣の人達の憤懣が感じられる。松方デフレによって農民層が困窮し、都市労働者が誕生し、西洋から新しい思想が下谷の人達から広まってゆく過程が同時についてくる。
 明治初期10年頃までは築地・銀座・新橋が東京の中枢だった。しかし隅田川の土砂の堆積で築地に直接船を着けることが困難だった事と新橋ー横浜間の鉄道が開設され、築地の外国人居留地から横浜に移転する人が多くなり、築地はさびれた。明治10年代に繁盛したのが上野・神田・銀座だった。このような時代背景があり福神漬という名称が旧幕臣戯作者よって付けられ上野池之端から誕生したのである。
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玉乃世履(たまのせいり)

2009年11月08日 | 宅老のグチ
玉乃世履(たまのせいり)
山口県岩国の吉岡達生医師の著書を読むため国会図書館に向う。この人物は今ではまったく歴史書に無視されている人物だが谷中霊園の中では最大級の大きな墓石であるという。
谷中墓地甲9・17側
 山口県岩国の人だが明治16年福島事件の高等法院の裁判長であった。政府の裁判干渉と無罪に出来ない事情があって、明治19年に自殺したというのでどの様なことか調べることとなった。吉岡達生医師によると玉乃自身が糖尿病になり、岩国の人の期待を裏切ることが出来ず(裁判官を辞職すること)ウツになって自殺したとのことである。当時の高等法院(今の最高裁判所)の裁判官には定年という制度がなかったためである。また岩国の人にとって明治政府にツテを求める人物が彼しかいなかったという。
 なぜこの人物が気になったかというと先日台東区中央図書館で内田魯庵全集を何気なく読んでいたら、福島事件のことが書いてあった。この事件の裁判が明治16年夏のことなので内田魯庵16歳のことである。彼はこの裁判記録を読んでいた。今ではネットでこの福島事件の裁判記録を読むことが出来るがかなり難しい文章である。名裁判官であったという。
 30回の裁判で125人分の傍聴席は満席で、傍聴券するため夜中から並んだ人のため食事を出す業者も現れたという。中での花香恭次郎は一番若く演説が巧みだったので女性に人気があったという。
福島事件の被告2名が(田母野・花香)同じ谷中墓地に眠っている。裁判官と被告が同じ墓地で眠っていて玉乃は彼らに冤罪をわびているのだろうか。
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福神漬物語 15

2009年11月07日 | 福神漬
しょうゆの事件報道の始まり

明治42年11月2日 大阪朝日新聞
この頃は中国ハルピン駅で暗殺された伊藤博文の国葬の報道がにぎわしていた。
後日談から何者かが大阪朝日新聞に内部情報を提供し、警察に通報したようである。
醤油にも劇薬
▲ (大阪)警察本部の検挙
先に清酒中に防腐剤として劇薬のホルマリンを使用するものあり、その筋の知るところとなり、多量の廃棄を命じられたが近頃に至り某会社の製造販売する醤油中にも甘味をつけるために薩可林(サッカリン)を用いたる上、さらに防腐剤としてホルマリンを使用していると警察本部において探知し二三日前より衛生課の二三の技師は(大阪)西署その他と協力して販売店につき現品押収の上分析に付したるがその結果はなお不明なるも製造元はこのために大恐慌を起こし、一方現品の隠匿に努めると同時に『サッカリンその他を混入したものはわずかに販売店に配布したる見本品7樽に限りにして、これは顧客に一々試味を受ける際に甘くなくては悪い品のように思われるため止む得ず混入したものであって、ひとつの販売政策に過ぎず、その証拠に他の商品及び倉庫貯蔵の何千万石には一滴も左様のものは混じっておらず、何分将来の信用上にも重大の関係を及ぼすことなれば十分秘密の間に調査されたし』云々を半ば自白的に願い出でたるも、もちろん信用すること出来ねば(11月)一日技師数名は製造場に臨検した。一説には会社の製造法が不備のため多数の腐敗を見るに至ってこれにホルマリンを入れて無理に腐敗を止めて、年末前の売れ行きを見込んで法外の安値で発売を試みたるものと言える。とにかくこうも飲食物に劇薬や有害物が放り込められるようでは少しも安心することは出来ず当局者の厳重な取り締まりが望ましい。

この当時は保健衛生の管轄は警察であった。技師とは警察の技師である。今では保健衛生は保健所の管轄であるが表示偽装問題は警察の生活安全課の担当となる。
明治42年11月3日 大阪朝日新聞
不正醤油の検挙続報 ▲1600挺の押収 
▲ 会社内の混乱
醸造元の本体
昨紙(11月2日)醤油にも劇薬と題して某会社が醸造の醤油に甘味料として、薩可林(サッカリン)を混入した上腐敗を防ぐため劇薬ホルマリンをも混入し乱売したのがこのほど発覚し大阪警察本部の手において検挙中の趣き記載したが某会社とは日本醤油醸造株式会社のことにして資本金一千万円、本社及び第一工場を東京深川区小名木川通に、第二工場を摂津尼崎町に置き、かの大伏魔殿たりし大日本精糖の前身日本精糖の社長だった鈴木藤三郎氏が最近の学問を応用して従来は早くて十ヶ月遅ければ二年内外の時日を要していた醤油界のレコードを破り、わずか二ヶ月内外において完全なる醤油を生産しうると呼号し社長兼技師長となり、(目下は社長を辞して取締役兼技師長)八万五千坪の広大なる敷地内に建設した工場において一ヵ年24万石以上生産の予定でどしどし醸造していたものである。
 
食品業界の不祥事の言い訳は昔と今もあまり変わらない。醤油の価格低下と品質向上なくては福神漬普及に繋がってくる。

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福神漬物語 14

2009年11月06日 | 福神漬
醤油問屋組合の抵抗
明治40年に発足した日本醤油醸造株式会社はいきなり当時としては破格の資本金一千万円という巨大資本金で活動し、東京・江東の小名木川工場では醤油王と知られていた千葉県野田のキッコーマンの生産規模(年6万石)と同じくらいの生産高で始まった。当然日本全国の1万5千軒の旧式の醤油醸造家と販売方面でぶつかった。当時の醤油の販売方法は盆と暮れに決済する方法であったため、日本醤油醸造の製品を販売した所は直ぐに過去の販売代金の決済を要求されていたので中々得意先が増えなかった。
 醤油仲買商組合の会合で「もしも、小売店が日本醤油醸造の製品を販売したならば、醤油の代金を直ぐに回収し、その後(旧式醸造の)醤油を扱わせない」と決議していた。小売店は醤油問屋から半年分の醤油を前借しているようなものであったため日本醤油醸造の製品は旧来の問屋を通じて販売ができなくなった。しかし日本醤油醸造は新聞広告を大々的に行い、世間の気をひく現品つき大特売を行い拡張していった。販売網が確立する前にできた過剰な生産能力は無理な販売政策を行なう運命となっていった。
1908年(明治41年)尼崎町向島(現尼崎市東向島東之町・同西之町)に敷地約2.8haの第二工場を建設しました。当時日本最大であったキッコーマンの6万石をはるかに凌ぐ、24万石の生産が可能な巨大工場でした。
しかし,急造の尼崎工場の製品は不良品が多く出たり,容器となる木樽の製造になれず未完成の醤油が出荷され不評が出ていた。販売不振は日本醤油醸造の社内対立を招き内紛となっていった。


粗悪醤油となった原因
短期間で完成させた尼崎工場はその生産量年産24万石という巨大なもので、東京の工場で三ヵ年かけて経験した労働者もなく、いきなり大量生産が始まり製造工程で不具合が生じた。
1 下等品を上等品の樽に詰めた。
2 醤油を入れる容器は機械化されていなかったため熟練した樽詰めが出来ず。カビが発生した。
3 粗雑な未完成の醤油を出したため返品が多く、資金繰りに支障をきたした。
この原因として
イ 汁物の調理に使ったとき、沈殿物が出た。醤油を絞る時の圧搾のしすぎ。 醤油粕が出てしまった。製造に慣れると解決した。
ロ 味が乏しかった。景品販売に於いて上等品も下等品も同条件だったため、下等品が売れ、従来馴染んだ旧来の製造方法でつくった醤油に比べて味が乏しかった。
ハ 香りが乏しい。塩が逃げるといわれた。原料の未熟性と製造の不慣れ。
とにかく急拡大の混乱が経営上の問題となっていった。

明治後期産業発達史資料 第460巻 469頁
日本醤油醸造の醤油製造における温醸法の欠点とその理由
温醸法は醤油もろ味を加温して熟成を早める原理。
① 温醸法は香気におとる。
醤油の香気は「エステル」「チロソール」及び大豆小麦の芳香の混合したもので、加温により揮発する。また、短期醸造ではエステルの生成量が少ない。
② たんぱく質の分解が進まず。アミノ酸の量が少ない。

酵母の発酵が不十分であると糖分のためにもろ味中のアルコール発酵が出来ずエステルが作られにくくなる。温醸法では乳酸・酪酸・酢酸等の発酵が盛んになり、酵母の発育を不十分となる。
「味の素」の最初の製品(グルタミン酸)は日本醤油醸造に納品され、足りない醤油の旨みに使われることとなった。

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松方デフレ

2009年11月05日 | 福神漬
松方デフレ
 梅亭金鵞が池之端酒悦主人に福神漬の名前をつけた頃(推定される命名の時期は明治16年夏から18年の頃)は松方デフレといわれた時代だった。農村の不況と酒税等の増税で貧富の格差が拡大してゆく時代であった。そんな時に漬物に金を払って購入するはずもなかった。また缶詰入りなのでコストもかかって販売には苦労したと思われる。
「この漬け物を常用する時は、他に副食がなくても済むので贅沢をせず、知らず知らずに金も貯まって福が舞い込む」とキャッチコピーまで考え出してくれた。この宣伝文句はデフレの時代という背景がある。福神漬は発売当初から爆発的に売れたことはなく、当時の富裕層や料亭等の特定の人達から広まってゆくのである。

平成のデフレ時でも高額の食品は販売に苦労している。明治の福神漬はヒゲ・ネコの間から広まった。解るかな?
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福神漬物語 13

2009年11月04日 | 福神漬
鈴木藤三郎が精糖業の社長を辞した時、売却した株の資金で醤油醸造の研究に向かった。東京小名木川の工場で試験操業した結果、今までより安くカビの出ない醤油が醸造できた。この評判を聞きつけた人は鈴木藤三郎が小規模で醤油生産を始めようとしたところ、安価にできる醤油を製造することは国民経済に役にたつのであるから、出資者を募り初めから大規模に行ったほうが報徳の考えに沿うのではないかと諭され、資本金一千万円という、当時としては巨大な資本金で始まった。創業当時の新聞広告にも常に『資本金一千万円・日本醤油醸造㈱』の文字が入っていた。当時の資本金一千万円という株式会社は日本にも何社もなかった。
 この資本金一千万円は旧式醸造の醤油製造業者の警戒を招き、販売に苦労することとなった。日本醤油醸造は旧式醸造の販売業者と対立したため、販売政策として膨大な広告費かけ新聞・雑誌・また当時としては珍しいイルミネーションを応用した広告をするなど宣伝機関を利用した。また販売者には徹底的にご馳走攻略行い買収していった。全国1万5千軒とも言われた当時の醤油業界を極度に刺激し,新旧の販売業者の対立を招いていた。

年産24万石の生産規模で始まった兵庫県尼崎工場での出荷は明治42年5月から始まった。9月からの特売は景品付きで、取引高で景品が増える販売意欲を刺激する方法であった。例を挙げると百円以上は大樽一挺、一万円以上大樽130挺と売り上げが増えるに従って景品が増えるようになっていて33段階に分かれていた。

  みそ・しょうゆ始祖法統燈円明国師 中瀬賢次著より
この時の無謀な規模の発足が福神漬に後々色々な影響を与えてくる。
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福神漬物語 12

2009年11月03日 | 福神漬
日本醤油醸造事件
鈴木藤三郎は精糖業の社長を辞してから、醤油製造関連の機械の発明に没頭し、東京小名木川に醤油の簡易な試験工場を造りテストした。
当時の醤油醸造の欠点は醸造期間が一年半から2年の熟成時間が必要で需要が急増しても増やすことも出来ず更に醤油醸造のための熟成の倉庫が多数必要だったし、その管理に長い経験が必要で規模拡大が困難であった。
明治37年に特許をとった醤油醸造機は温度調節が出来,諸味桶を回転することにより醤油菌の発酵を促進する機械であった。二ヶ月で醤油が出来るようになった。 
明治37年春から東京小名木川の鈴木藤三郎の邸宅内の試験工場で三年の月日と14万円の経費をかけ,醤油菌の発酵熟成を促進して物理的に促成醸造する方法であったため、従来の醸造方法で製造された醤油と品質・栄養価が変わらなかった。都内の料理店での使用試験や外国等に輸出し商品のテストをした結果、充分事業化の見通しがついた。
従来の醤油と違う所は
① 醸造期間が短いため資本の回転が速く約9倍の差があった。
② 一万石の醤油を作るのに旧式の醸造方法だと標準労働力は100人だが新式だと10人ですんだ。
③ 醸造期間が短いので醤油製造工場に広い敷地が必要でなかった。
 以上のことから製造原価が2~3割安く出来るようになった。
明治40年6月10日資本金一千万円で日本醤油醸造株式会社が発足した。
明治40年12月4日東京朝日新聞
醤油新式醸造
鈴木藤三郎氏が苦心の結果発明せる醤油の新式醸造はその結果良好により、この方法によれば従来醤油醸造に一年以上を要したものをわずか二ヶ月にし従来の品と変わらず良品を醸造しうるのみならず醤油には免れざるカビが少しも生じることも無かった。この器械によりこの方法を用いればいかに多大な需要にも応じることを得て、全く斯業の上に一新生面と聞きたるものにつき(今回一千万・払い込み250万円)の資本をもって日本醤油醸造株式会社を組織し、既記の深川小名木川工場並びに目下摂津尼崎工場にこの新式醸造を持って盛んに醤油の醸造に着手する由。製品は不日中に発売すべく将来は大いに海外輸出を図る計画にて目下米国に委員を派遣しその調査中なりという。

当時、醤油業界は欧米等に輸出することに関心があった。戦国時代から南蛮船によって醤油は輸出され、日清・日露戦争後中国大陸・朝鮮半島に日本人が進出し、ハワイ・米本土にも日本人移民があり醤油の需要が出た。昔から醤油にカビが出るからか福神漬製造時に調味液となる醤油を加熱殺菌している。

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○○珍聞

2009年11月02日 | 福神漬
明治10年西南戦争の頃、日本では錦絵に漫画を描き政府や体制側を批判や揶揄(やゆ)をしていた。体制側は政府批判の検閲の目を光らせ、新聞雑誌発行禁止や記者、編集者を投獄することで弾圧した。この弾圧を免れるため執筆者たちは様々な工夫を凝らし、薩長政府を批判していた。このような雑誌の代表が○○珍聞である。○○は伏字のことで、検閲を免れるための工夫でもあった。筆禍を恐れて直言直筆できない新聞雑誌に代わり、諷刺精神をもって政府の施策を批判するという趣旨で発刊した。自由民権運動の盛んであった明治10年代は爆発的に売れたという。
 ただ今となって○○珍聞はその時代の空気が読めず、当時の人がひと目で理解できることが今ではまるで判じ絵のようになったかもしれない。当時の読者は○○珍聞の謎解きを楽しんでいたようである。梅亭金鵞が福神漬にどんな謎々を入れたのだろうか。

 社主野村文夫は同じ芸州藩出身の既に洋画家として名を成していた本多錦四郎に漫画を、戯作文を梅亭金鵞に執筆を依頼した。明治15年から小林清親が風刺漫画を書いていた。小林清親は自由民権運動を支援支持の姿勢で福島事件関係者の錦絵を描いたりしていた。
   出典 自由民権期の漫画 前田愛・清水勲編
 そんな時に酒悦主人が團團珍聞(○○珍聞)の主筆であった梅亭金鵞に商品名を依頼したのである。まともに七福神めぐりから福神漬と名付けたと考えてよかったのだろうか。
 ペリー来航時の浦賀奉行戸田伊豆守氏栄の子孫(花香恭次郎=5男・鶯亭金升=3男の長子)が團團珍聞に関わってくるのは偶然のことだろうか。
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花香恭次郎の墓碑から

2009年11月01日 | 福神漬
花香恭次郎の墓碑から
谷中墓地にある自由民権運の壮士だった花香恭次郎の墓碑は、同じ福島事件の被告だった愛澤寧堅の起草した文章だった。全文の読み下しは河野磐州伝下巻に書いてある。
愛澤寧堅は、1849年高瀬村(現在の福島県浪江町高瀬)の郷士の家に生まれました。自由民権運動に加わり,
1879年福島県会議員となり河野廣中らとともに自由党の幹部として活躍しました。福島事件で国事犯として逮捕され6年ものあいだ牢獄につながれました。1892年(明治25)の総選挙に自由党から立候補して当選した。何回も選挙で当選し国政に関わりました。福島事件で同じ獄にいた花香から彼の経歴を聞いたと思われます。
安達憲政史 平島松尾著から
又碑文の書は加波山事件の河野広躰である。彼は明治27年釈放されていた。
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