千葉市モノレール県庁前駅から図書館に向う。逓信総合博物館で見つからなかった山田箕之助の住所を探すためである。図書館の司書さんに依頼するが明治末期の千葉の電話帳が無かったので、個人名で探すことが出来るか訪ねた。そして出されたのが明治40年と44年の房総紳士録が出てきた。
明治44年衆議院議員選挙の名簿であった。当時は納税額によって成人男子には選挙投票権があった。43ページに南行徳村押切のところに、納税額83円山田箕之助とあった。明治30年創業した福神漬業者で市川市史に出てくる人である。明治40年の房総紳士録には出ていない。
また千葉県東葛飾郡誌(千葉県東葛飾郡教育会大正12年刊)を出してくれた。2186ページのところに南行徳村の産業の中で福神漬は大正8年度の生産額が9万貫とあった。1貫=3.75KG. この膨大な量の福神漬が市川市史に載るようになっていった。しかしそこには山田箕之助の名があっても『喜兵衛』の名は無い。郷土である行徳の人にも忘れ去られ、いや無視された『喜兵衛』。函館で戦死した『喜兵衛』は下谷根岸に居を構えた福島二本松藩出身の石井研堂『明治事物起源』の缶詰の始まりに載った。しかし日本に於ける缶詰の始まりにも無視され、今に至る。
明治44年衆議院議員選挙の名簿であった。当時は納税額によって成人男子には選挙投票権があった。43ページに南行徳村押切のところに、納税額83円山田箕之助とあった。明治30年創業した福神漬業者で市川市史に出てくる人である。明治40年の房総紳士録には出ていない。
また千葉県東葛飾郡誌(千葉県東葛飾郡教育会大正12年刊)を出してくれた。2186ページのところに南行徳村の産業の中で福神漬は大正8年度の生産額が9万貫とあった。1貫=3.75KG. この膨大な量の福神漬が市川市史に載るようになっていった。しかしそこには山田箕之助の名があっても『喜兵衛』の名は無い。郷土である行徳の人にも忘れ去られ、いや無視された『喜兵衛』。函館で戦死した『喜兵衛』は下谷根岸に居を構えた福島二本松藩出身の石井研堂『明治事物起源』の缶詰の始まりに載った。しかし日本に於ける缶詰の始まりにも無視され、今に至る。