年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

千葉県立図書館で

2010年08月16日 | 福神漬
千葉市モノレール県庁前駅から図書館に向う。逓信総合博物館で見つからなかった山田箕之助の住所を探すためである。図書館の司書さんに依頼するが明治末期の千葉の電話帳が無かったので、個人名で探すことが出来るか訪ねた。そして出されたのが明治40年と44年の房総紳士録が出てきた。
 明治44年衆議院議員選挙の名簿であった。当時は納税額によって成人男子には選挙投票権があった。43ページに南行徳村押切のところに、納税額83円山田箕之助とあった。明治30年創業した福神漬業者で市川市史に出てくる人である。明治40年の房総紳士録には出ていない。
 また千葉県東葛飾郡誌(千葉県東葛飾郡教育会大正12年刊)を出してくれた。2186ページのところに南行徳村の産業の中で福神漬は大正8年度の生産額が9万貫とあった。1貫=3.75KG. この膨大な量の福神漬が市川市史に載るようになっていった。しかしそこには山田箕之助の名があっても『喜兵衛』の名は無い。郷土である行徳の人にも忘れ去られ、いや無視された『喜兵衛』。函館で戦死した『喜兵衛』は下谷根岸に居を構えた福島二本松藩出身の石井研堂『明治事物起源』の缶詰の始まりに載った。しかし日本に於ける缶詰の始まりにも無視され、今に至る。
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逓信総合博物館で

2010年08月15日 | 福神漬
西日暮里の浄光寺の福神漬顕彰碑の裏面にある発起人について、逓信総合博物館の中にある明治42年の電話帳でどの様な人物かを調べる。
福神漬発明者野田清右衛門表彰碑
 揮毫者 村田 保氏 どの様な理由か電話帳に記載無し
建立者 風戸弥太郎 日本和洋酒缶詰新聞社社長 京橋区新富町6-12
堀江良太郎 小川屋 神田区旅籠町1-37 食料品漬物商
田中新蔵 どの様な理由か電話帳に記載無し

内田勇太郎 神田区仲町1-2-3 洋酒缶詰商
山田箕之助 どの様な理由か電話帳に記載無し
朝比奈銀次郎 どの様な理由か電話帳に記載無し
岩堀小太郎 岩堀商店 屋号 小田原屋 神田区多町2-2 漬物缶詰問屋
西貝富太郎 屋号 萬屋 本郷区東片町81 漬物問屋
西村小市 神田区須田町8 果物商
加藤歌吉 どの様な理由か電話帳に記載無し
村田与兵衛 川村本店 京橋区本材木町3-11 漬物味噌食料品缶詰問屋
山本半蔵 どの様な理由か電話帳に記載無し
青木平四郎 日本橋区本銀町1-1 食料品缶詰業
綾部清三朗 屋号 並木屋 神田区表神保町1 缶詰漬物食料品商
細中源蔵 どの様な理由か電話帳に記載無し
須崎善四郎 日本橋区本銀町1-19 缶詰商
ついでに酒悦福神漬 堀江良太郎 下谷区数奇屋町14 日本初祖福神漬 漬物内外缶詰食料品
電話帳調査でこれだけのことが解った。しかし肝心の山田箕之助が都内の人でないことが解ったことになる。発起人の並んでいる順序から山田箕之助の意味があるように思える。
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函館市中央図書館からの返事

2010年08月14日 | 福神漬
石井研堂『明治事物起源』に日本における缶詰の始まりに出てくる函館五稜郭で戦死したと思われる『喜兵衛』に付いての問合せしたところ、返事が来た。
『戦死者名簿「戊辰己巳戦死者人名録」によれば、町人の部に喜兵衛という名前の戦死者が4人おります。その内の一人の戦死場所が、千代ヶ岡とありますので、この喜兵衛がご指摘の人物と思われます。
箱館戦争には、姓を持たない武士の枠に入らない人も沢山参加しており、「戊辰己巳戦死者人名録」の町人の部には317人の名前が載せられており、東北での戦闘で亡くなった人が140人で、箱館で亡くなった人が177人です。戦死地が千代ヶ岡とある喜兵衛は、中島三郎助と共に戦って亡くなった人と思われます。』となっていた。
 千葉県市川市行徳の漬物商人と思われる人物がなぜ戊辰戦争戦闘最後の地で戦死したのだろうか?

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餌に釣られて

2010年08月13日 | 築地市場にて

12日、築地市場東京都講堂にて東京都が薬物乱用に対する講習会を開いた。あまり参加する気もなかったのだが軽食が出るというので参加する事となった。早朝から働いている人が多いので何時も講演会等は12時頃から始まるので詰まらない講演会は眠気をもよおす。
 昨年8月の薬物乱用事件も当然出てきた・特に大麻の件は東京都の見解だと脳の記憶力に与える影響が大きいという。諸外国で一律でないのはこの事からと考えられる。
 特に薬物に関してそのあいまいな知識によって薬物中毒になり、自己の人生と共に周囲の人生を誤ることとなる。楽なことから脱出することは難しい。
 最近築地市場は注目されているので新聞記事沙汰になるとすぐに『都民の模範になるように』とお触れと講習がやって来る。
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旧盆休み

2010年08月12日 | 宅老のグチ
東京は新盆が7月なので8月の旧盆は関係ないのだが、産地の都合で市場は旧盆休みがある。明治の初めに旧暦から新暦に変わった時から混乱が残っている。
 明治の暦の改定を行った内田五観(弥太郎)、福田理軒等の活躍で新暦になったことが福神漬の歴史を調べてゆくうちに解った。さて築地市場は夏休みの世界各国の観光客が場内外ウロウロしている。仕事は飲食店需要が振るわないのか実に静かである。
 青果の方は野菜の高値が報道されてそれなりの緊張感があるが、水産の方も大衆魚といわれる商材が不漁で高くなっているようだ。あまり安値が続くと、中国の食品インフレの影響が日本にやってきて,為替次第で築地経由香港行きとなることもありうる。既に初荷のマグロは2年連続最高値のものが行ってしまった。
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練馬大根碑文から

2010年08月11日 | 宅老のグチ
昭和の初め,大根の病気が蔓延し、生産量が落ちたとはいえ、昭和15年の産額8万樽は多い。一樽の大きさが4斗樽と思われるので中味の重量が60kgとなる。大根の仕上がりが1kg以下だと思うので練馬地区で栽培される大根の数量が500万本を超える。現在の九州での沢庵大根は1アールで1000本位といわれる。この計算でいくと練馬地区で50町歩の作付となる。計算していてもこの数字が本当とは思えない。
 今の九州の生大根の漬物業者向け価格で反収15万円以下であり、以前は芋焼酎ブームで作付が減っていたが焼酎のブームも消息し、再び大根に農家の意欲が向かっているようだが残念ながら売れ行きが良くなく、作付制限になりそうである。仮に反収15万円とすると大根1本15円とすると1万本が1反(約10アール)の量となる・練馬の大根の計算の面積は50町歩となる。種の販売のデータでは4000粒/1反というのもあった。昔の練馬大根は太かったので1反当たりの本数は少ないはずである。どの数字が当時の練馬の大根面積だったのだろうか。今のうちに長老に聞くしかない。昔のことを知っている人が90歳を超える事となる。
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練馬大根碑

2010年08月10日 | タクワン
練馬大根碑 練馬区の愛染院にある記念碑。昭和15年東京練馬漬物組合員149名が大根碑の建立を計画し、これに賛助の有志の町会が加わり、亦六翁の菩提寺の愛染院に立てる事となった。組合員の持ちよった『たくわん石』を基壇にあてた。

   練馬大根碑に碑文がある。

練馬大根碑   題字 東京府知事 川西実三
                             柴田 常恵撰
蔬菜は、人生一日も欠き難き必須の食品たり。特に大根は滋味芳醇にして、栄養に秀で、久しきに保ちて替る所なく、煮沸乾燥或いは生食して、各種の調理に適す。若し夫れ、沢庵漬に到りては、通歳尽くるを知らず、効用の甚大なる蔬菜の首位を占む。
 今や声誉内外に高き我が練馬大根は、由来甚だしく、徳川将軍綱吉が舘林城主右馬頭たりし時、宮重の種子を尾張に取り、練馬の百姓亦六(今の鹿島姓の旧家)へ与えて栽培せしむるに起こると伝ふ。
 文献散逸して拠るべきもの乏しと雖も、寛文中綱吉再次練馬に来遊せしは、史蹟に載せられ、当時の御殿跡なるも今に存するを思えば、伝説が基く所ありて、直ちに斥くべきにあらず、爾来、地味に適して、栽培に務めしより久しからずして、優秀な品種を作り、練馬大根の称を得て、重要物産となり、疾く寛政の頃には、宮重を凌ぎ日本一の推賞を蒙るに至れり。
 抑も練馬の地たる鎌倉時代の末葉に当たり、豪族豊島景村来住せしより、文明中太田道灌の攻略に遭い亡ぶるまで、世々其の一族の守る所として知られしも其の名は大根に依り始めて広く著はる。而して輓近国運の伸長は歳と共に其の需用を増し、加ふるに沢庵漬として、遥かに海外に輸出さるるより、競うて之が栽培を計り、傍近数里殊に盛たるものありと雖も、尚且つ足らざるを感ぜしむ。昭和7年10月東京市に編入の事あり、都市計画の進程に伴ひ、耕転の地籍徐に減退を告げ、其の栽培の中心は傍近の地に移るを余儀なきを覚えしむ。現時沢庵漬の年産8万樽に達せるは最高潮と称すべきか。茲に光栄輝く皇紀二千六百年に当たり、奉賛の赤誠を捧げて、崇高なる感激に浸ると共に、東京練馬漬物組合員一同相胥り、地を相して、各自圧石を供出して基壇に充て、其の旨を石に刻して、後昆に遺さんと欲す。偶々其の記を予に嘱せらるるも、不文敢て当らず。予は尾張の出にして、居を此の地に営み、大根の由来と稍々相似たるものあるは、多少の遠因なきにあらず、奇と云ふべきか、辞するに由なきより、乃ち筆を呵して、其の梗概を記す。
昭和15年11月
                 (練月山 亮通 書)
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洗車後の雨

2010年08月09日 | 築地市場にて
東京では久しぶりの本格的な雨。沖縄方面で発生した台風の影響で雨になってしまった。天気予報では晴れ続きだったので車を洗った。どうも洗車の後に直ぐに雨となる。昔、洗車したら一時間もしないうちに雨になったことがあった。30度を越えない気温となりそうで今日は東京方面は熱中症は無いだろう。
 広島長崎が65年ならば、昭和20年生まれの人が65歳になる。つまり年金が満額となる。築地ではまだまだ65歳では現役で働いている人が多い。今の大学生の就職難も団塊の人達が65歳になった時どの様な行動をとるかがカギとなる。時代に対応できる年寄りは少ない気がする。しかし築地市場では経験がものを言うので超高齢者が働いている。
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林 董(はやし ただす)を探って

2010年08月08日 | 宅老のグチ

千葉県佐倉の生まれの関係で佐倉図書館まで行く。京成の駅からはなれているので
図書館の駐車は十分あった。佐倉市は戦災に遭ったのだろうか旧い建物が一部に残っていて城下町の形を残している。
『後は昔の記他 林董回顧録』によると林は佐倉の続徳太郎に儒学を学んでいる。福島事件被告人花香恭次郎も続徳太郎に学んでいる。続徳太郎は戊辰戦争の混乱期に佐倉藩の重臣として、西軍と東軍の間で交渉役となり、佐倉の地を戦火から免れさせたが維新後の立場が弱くなってしまった。西の長崎、東の佐倉といわれたくらい蘭学の盛んなところであった。花香の親族が幕末の混乱期に佐倉に行かせて蘭学・英学を学ばせようとしたのだろうか。
 また林は英国留学後、榎本武揚と共に函館に行き官軍と戦った。箱館戦争最後の日の前、千代台陣屋に林は中島三郎助を訪ね、投降を説いたが失敗した。その場に行徳の漬物商人と思われる喜兵衛は居たのだろうか。
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明治文芸と薔薇 中込重明著から2

2010年08月07日 | 福神漬
松林伯円と高野長英
福神漬と花香恭次郎の関係を調べてゆくうちに高野長英と戸田伊豆守氏栄との間に何かありそうな気がしていたがハッキリした史料が無く推測の域を超えていなかった。しかし中込氏の本によると高野長英伝を書いた高野長雲に黙殺された一冊の講談本がその元史料がかなり松林伯円の講談(開花の魁)を基に書いてあって、また事実関係が真実に近いものがあるという。伯円が高野長英事件の事実関係をどこで知ったかというと元南町奉行であった親しい筒井伊賀守政憲から彼の最晩年に聞いたと思われる。安政6年(1865年)82歳で死去。
中込氏によると伯円が講談に登場させる筒井政憲の扱いがどちらかといえばほぼ同時期に北町奉行だった遠山左衛門尉景元に比べると冷めているという。筒井は蛮社の獄の時、南町奉行であり、その事情を知る立場でありながら、筒井の次男・下曾根金三郎が取締の対象となっていて動けず、高野長英は北町奉行大草安房守高好に自首したという。しかし大草が急死し,水野忠邦の意向をそのまま淡白な取り調べをして永牢に判決したのが南町奉行筒井伊賀守政憲だった。
高野長英=>筒井伊賀守=>戸田伊豆守=>下曽根金三郎=>内田弥太郎=>花香恭法=>花香恭次郎=>福島事件=原種昭=團團珍聞=梅亭金駕=福神漬となる。
 福神漬の語り部ともいえる鶯亭金升はそれぞれの人物と複雑な関係がある。
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明治文芸と薔薇 中込重明著から1

2010年08月06日 | 福神漬
明治文芸と薔薇 中込重明著から1
中込重明氏は30代で(2004年3月)亡くなった落語・講談の研究者の貴重な調査を感じます。
明治に入っても活躍していた講談師二代目松林伯円は中込氏によると、養子先となった若林家が偶然筒井伊賀守政憲の隣であった事から始まるという。伯円が若林家に養子に入ったのが嘉永4年で、そこから出るのが嘉永6年である。(ペリー来航は嘉永6年7月)この時、若林家は今の千代田区二番町の旧日本テレビ本社付近に当たる。嘉永6年の番町麹町永田町外桜田辺全図より南町奉行時代の筒井伊賀守は数寄屋橋から転居していて、若林家の東隣に住んでいた。嘉永6年筒井は75歳となっていて、若い講談師を連日のように呼び寄せ、行く末を楽しんでいたようである。伯円は筒井との雑談から南町奉行時代の事件を聞かされていて,講談話を創作したと思われる。ただ筒井伊賀守は外交の件を伯円には話さなかったようである。その理由として、筒井の実子であった下曾根金三郎の存在がある。下曾根はペリー来航当日、久里浜海岸で戸田伊豆守氏栄と共に砲術演習を行っていた。
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松林伯圓と筒井伊賀守

2010年08月05日 | 福神漬
松林伯圓 二代目 しょうりん はくえん、1834年7月(天保5年) - 1905年(明治38年)2月。
松林伯圓は「泥棒伯圓」と異名をとるほど白波物(盗賊)を得意とした。特に代表作の『天保六花撰』は江戸南町奉行筒井伊賀守邸で講談をしたとき筒井から面白い事件を聞き講談に仕立てたと思われる。この事件は筒井が南町奉行在任20年余の中の起き、処理した事件の一つでもあった。筒井伊賀守が江戸南町奉行在任期間は文政4年(1821)2月より天保12年(1841)4月までであった。『小普請河内山宗春倅河内山三之助他三十九人悪事いたし候一件』を裁いた。松林伯圓の養子先若林家の隣に筒井が住んでいた関係で伯圓の贔屓でもあり、筒井から様々な裁判を聞いていたと思われる。「鼠小僧」の事件も筒井から聞いたと思われる。出典中込重明『明治文芸と薔薇』
 筒井は南町奉行を左遷された後、再び幕府の要職に任命された時ロシアとの外交の場に出るようになった。このとき西丸留守居役となっていた戸田伊豆守と知り合ったと思われる。戸田の3男が筒井の斡旋で養子先として長井家を紹介した。鶯亭金升は永井家の長男である。つまり戸田伊豆守の孫に当たる。
原胤昭は江戸南町奉行所与力の子として生まれたので、同じ奉行所で処理した事件を親や同僚から聞いていて、これを題材として『天保六花撰』という講談ができ、歌舞伎になったということを知っていた。それ故福島事件を『天福六歌撰』と題したのではないのだろうか。
つまり福神漬の命名された時期、場所が様々な寓意を混めることが想像される。
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幽霊の季節

2010年08月04日 | 宅老のグチ
築地1丁目の京橋図書館は元土佐藩中屋敷跡で、いま中央区の区役所の中にある。地下2階になるのだろうか中央区郷土資料室は何時も空気が気温に関係なく寒い。都心の郷土資料室の利用度は他の郷土資料室より多い気がする。
 地域や項目ごとに分類してある書籍は手に取られることを待っている気がする。本という形をとっているが墓場に参拝する感じがする。過去の事象や個人の顕示欲は良く墓地に現れていて、巨大な墓があっても、由来等がわからず訪問する人もまばらな所もある。反対に粗末な墓でも訪問する人が多く、墓地案内に記載されさらに訪問者が増える墓がある。郷土資料は墓に似ている。ブームの時は訪れる人も多いが静かな時は人を待っている。幽霊というものがあれば何時でも呼べば会える気がする。
歌舞伎座を福地桜痴とともに創った田村成義の『芸界通信無線電話』には現実から霊界を呼び出す電話があった。実に面白い設定で郷土資料室は過去を今と結び付ける場でもある。
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頭の中で

2010年08月03日 | 宅老のグチ
今年は電子ブック元年ともいえる年であるが年寄りがこれを使いこなすかが問題となってくる。どの様な新商品も初物好きがいて価格を無視して商品が売れる。この先端好みの消費者が過ぎ去ると価格と商品の諸要素の問題となって来る。IPADはまだ先端消費者だけしか購入できないようで日本での不具合がまだ見えない。秋口になれば色々な電子ブックが現れて、街の風景が変わるのだろうか。既にデジタルカメラの普及で写真屋が消えた。CDショップも消えそうで、本屋も消えるとなると街の空き店舗を埋める商売は何だろうか。情報屋というコミュニケーションの商店がないと多すぎる選択肢が迷わせるだろう。山岳ガイドが遭難を回避する仕事のように、好みの本を拡散させるガイドの仕事が出来るのだろうか。
ハリーポッターの本など印刷保管する必要がなくなればあっという間に世界中の人に行き渡る。ダウンロードランキングで左右されるか、書評家をガイドにするのだろうか。悩ましい。
幸い築地本は味というデジタルで表現できないものがあるから、生き残れると思う。
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にっぽん音吉 2

2010年08月02日 | 福神漬
にっぽん音吉 2
鎖国期間中で幕府の異国船取締がきびしかったのは異国船打払令(文政令)の文政8年(1825)から天保13年の間の18年間であった。文化5年(1808)イギリス船が長崎に上陸し、食料を奪う事件があったためである。
 この最も取締りの厳しい時期にアメリカ商船モリソン号が浦賀にやってきて、日本の若武者(中島三郎助)の砲撃にあった。モリソン号には7人の日本漂流民が乗っていたが船長の思惑で浦賀では漂流民は表面には出ていなかった。

嘉永2年イギリス船マリーナ号が浦賀に接近した。この船に『林阿多』という名前の中国人が日本語通訳として乗船していた。彼は浦賀で上陸を迫るイギリス人船長と速やかな退去を求める浦賀奉行の人達の間で板ばさみとなって通訳していた。
 『林阿多』は浦賀の二日目に浦賀与力に次のような質問をしたという。
『12年前に来た異国船(モリソン号)はどのあたりに停泊したのか?』と質問されたので与力は野比村沖を指差した。
『何処の国の船か?』
『何処の国とも知れていなかった』
『そのときはどうして砲撃したのか?』
『その頃まで異国船が日本に来て不法なことをしていたので、外国船を見つけ次第砲撃することとなっていた。しかし、その後国の制度を改め、難破船・漂流民などは救済し、水・食料を供給するように改めた』と応えると12年前の船の件に質問することは無くなったという。
 マリーナ号が浦賀・下田を退去後、異国船に日本人が乗船していたという噂が立った。にっぽん音吉の著者である春名徹氏の意見では『林阿多』は尾張廻船漂流民の『音吉』という。
 モリソン号事件は高野長英の『夢物語』の遠因となり、花香恭次郎に繋がってくる。1862年シンガポールで音吉は嘉永6年横浜で開港交渉の時通訳として活躍した森山多吉郎(栄之助)と会っている。

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