年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

年金支給日のこと

2022年12月16日 | 宅老のグチ
コロナ下で年金支給日の記帳はネットで確認するだけになった。多くの生活用品かクレジット払いとなって、現金の出番がずいぶん減った。特に1円玉の戻りそうなところが現金支払いで解除する行動となる。従ってポイントや98円とかの紛らわしい金額も1円単位のつり銭が戻ると不快になる。今は5円玉も不快になりつつある。そういえばすでに流通している新500円玉にまだ触ったことがない。自販機の改造は終わったのだろうか。最近130円とかの表示が増えて次第に物が上がっている感じがする。
 年金支給日と月末には警察官等がATMの所にいて、圧を感じる。暗証番号を5以上あるので、時には間違って、家で確認することもある。家にはメモがあって他の人には理解できないメモでこれを解読できなかったら認知症の始まりとなる。耳の聞こえが悪くなってそろそろ補聴器と考えているが、この前の試しでアップル対応の補聴器は30万円近く、さらに空気電池が一週間ほど、そして補聴器自体が数年の寿命という。

 長生き地獄 松原惇子著2018
 この本を借り出し読む。15日に借りだしたので返本時期は1月初めとなる。今2025問題で高齢者の金銭の関心が強く、出版物は売れているようだ。高齢女性はこの本が参考になりそうだ。日本のデ―タでは90歳の人口の内女性が80%以上占めていて、男性は20%もない。従って長生き不安は女性の方があって、専業主婦として生きていて老後の不安は増す。ところが医療関係がまだ旧来の思考が残っていて、緊急事態になっても責任逃れで延命治療をする様だ。本人の意思が延命を望まなくても、確認できなければ生かす治療しかない。そういう点でガンは80歳を過ぎれば良い病気と言える。脳梗塞等の病気は適切な治療と介護があれば長生きできる。しかし費用が掛かり、行動制限があって生きがいが見えない。ほとんどの人が適切な寿命は85歳という。統計でも85歳になると介護の状態になる人が急に増える。当然今の日本人は自宅生活を望む人が多く、親族・家族が介護を担いデイサ-ビスを利用するのが多数派だろう。保育園から老人園となるかもしれない。朝に迎えが来て通って風呂に入り、食事して夕方に戻る。100歳で亡くなった母は時々保育園児のように急に行ききたくないと言い出す日があった。やはりデイサ-ビス内の老人たちのトラブルは認知症があっても記憶に残るようだ。
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金沢文庫駅に降りて

2022年12月15日 | タクワン
京急金沢文庫駅で降りて、金沢文庫へ行った。駅から15分程度の歩き。上り坂で稱名寺という寺の一部にある。寺付近の海抜は9M近いので結構登ったことになる。ここの訪問は二回目となるが前回の記憶が消えている。それでも一回目の訪問の動機は中の展示物の説明から記憶が戻ってきた。江戸時代の沢庵和尚が山形県に幕府のとがめで配流された。その後赦免されて江戸に滞在している時に、鎌倉の寺院を訪問した。戦国時代の後の訪問で寺院の保護者が無く、建長寺なども荒廃していたようだ。そこで沢庵は江戸幕府と対立するのでなく、幕府と協調するように変わった。京都大徳寺の所で共に禅を学んだ茶道千宗旦、幕府剣術指南の柳生宗矩らと交わり、宗教顧問、公家との交流に活躍した。そんな経歴がタクワン漬の名称の中に潜んでいる。従ってタクワン漬は沢庵和尚が創製したのでなく普及者ともいえる。名称の中に何らかの比喩が含まれている。どのような意味の比喩かまだ解明できないが文献で元禄時代の茶懐石の記録から、香の物という言葉に混ざってタクワンという表記が出てくる。普通名詞化されたのだろう。
 沢庵和尚が鎌倉に旅行した時、金沢文庫も訪問した様だ。ここには中国にも無くなった仏教書が保存されている。文庫というのは図書館ということであった。
 金沢文庫のある稱名寺庭園は何か平泉の毛越寺の浄土庭園の小型と思った。毛越寺 庭園は再現できていないが、稱名寺庭園の中之島に架かる橋が再現され当時の面影を記憶に残す。 

 稱名寺境内の右隅に場違いな巨大な忠魂碑がある。説明版もなく、台座の文字も植木で隠され解読できず。家に帰って調べると(忠魂碑 陸軍大將 本庄繁書 )昭和の初めに明治から満州事変までの地元の戦死者への慰霊碑のようだ。
 寺院の境内の碑は碑を設立したその時代の雰囲気を著わしていると感じる。

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初代国立劇場さよなら公演 2023年1月遠山桜天保日記 これがどうして気になるのか

2022年12月14日 | 福神漬
築地市場に勤めていて、移転問題がどこから来ているかを調べていた。大方の史料では明治の日本橋魚河岸等の移転問題も基本は条約改正が根底にあることに気が付いた。日本の繁華街をレンガつくりにし西洋と変わりない風景を見せようとした。しかし銀座の隣というべき所に日本橋魚河岸があって、西洋人から見て不衛生とみられる風景があった。そこから日本橋魚河岸の移転問題が東京、いや日本の重要な問題となっていることに気が付く。最終的に日本橋魚河岸が移転になったのは関東大震災の戒厳令で魚河岸での路上販売が禁止され、そのうちに他の地域で市が復活し、なし崩し的に日本橋魚河岸の地位が下がった。本当に中央卸売市場法が出来、関西から中央卸売市場が出来た。これも物価高騰、買い占め防止、生産者に速やかな支払い等の目的があった。
 このような都市行政が日本のどこから来ているかと遡ると嘉永年間の株仲間再興令にたどり着く。すると当時の南町奉行遠山景元、留守居役筒井政憲、老中首座・阿部正弘 の記録が出てくる。
棚橋正博著『捏造されたヒ-ロ-、遠山金四郎』という本がある。ある著名な日本史学者が遠山景元の評伝がないのは解釈が難しいという。実際のこの本で北町奉行時代には遠山は歌舞伎役者を弾圧している。本を出版したところの宣伝文は次のようになっていいる。
「遠山の金さん」こと遠山金四郎景元は、本当に桜の彫物をした庶民の味方の名奉行だったのか。ドラマでおなじみのヒーロー像に真っ向から挑戦する、新説歴史ドキュメント。
 今度の三宅坂国立劇場の最終公演の演目で歌舞伎を救った遠山の金さんとなっている。歌舞伎の弾圧者か救済者かをどう表現するのか気になる。
 天保の改革で株仲間を解散させ、十年後に不都合と言って株仲間再興令を出しても、不信感が商人の中にあって元に戻らなくなり、幕府の崩壊が促進された。これらの政策は日本という閉じられていた国の経済なので研究が進んでいて面白い。それでも遠山の行動の解釈が難しい様だ。
 不思議なことに北町奉行の印象がある遠山の在任期間は(天保11年(1840年)3月2日 - 天保14年(1843年)2月24日) までで、南の方が在任期間が長い(弘化2年(1845年)3月15日 - 嘉永5年(1852年)3月24日) 。
 高野長英が捕縛されたのが嘉永3年10月30日で管轄は南町奉行だった。当然12月の判決は南町奉行遠山景元が決裁した。
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遠山桜天保日記のチケット購入で悩む

2022年12月13日 | 宅老のグチ
12月13日から国立劇場の建て替え前の最終年の興業のチケットが販売される。2008年に国立劇場で上演したものを時代に合わせて遠山桜天保日記を再演という。天保の改革で歌舞伎が贅沢だと言って消えそうだったのを北町奉行の遠山景元が救った。この出し物は明治26年に竹柴其水の苦心の作品で、当時も成功した様だ。だた台本の内容を見るとかなり複雑で当時の観客が知っていた天保に時期と昭和の時代では台本作成で難儀した様だ。今回は基本の2008年の台本があるので前回ほどは苦労しないだろう。明治の初演時には入れ墨が桜でないと研究書には書かれている。桜吹雪は長谷川時雨の歌舞伎台本から始まった。最後のお裁きの場で片肌脱いで桜吹雪の刺青を見せるまでの筋をどう改変しているのだろうか。
自分の歌舞伎との付き合いは少ない。記憶にあるのが義経千本桜、コク-ン歌舞伎の佐倉義民伝くらいしか記憶にない。旧歌舞伎座は昭和の30年代に20年にわたって行なわれた三波春夫の8月の歌舞伎座公演で母のつられて見た記憶しかない。義経千本桜は新橋演舞場だった気がする。まだ新歌舞伎座は入ったことがない。そんな歌舞伎通でない不通の人が来年の歌舞伎のチケット購入を予定している。日々シルバ-パス利用で交通費を節約している自分には1等席が12000円となるとためらう。2階席は8000円、3階席は3500円で今考えているのは3階席。どれだけ初日のチケット予約で埋まるのだろうか。なければまた大谷図書館で台本を読むしかない。  
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多摩川歩行53Kの6 立川市から是政橋まで

2022年12月12日 | 宅老のグチ
多摩川歩行53Kの続きを日曜にした。JR立川駅で多摩モノレ-ルに乗り換え、柴崎体育館駅 で降りた。本来ならシルバ-パスで行くところだが、地図を見ると多摩川と線路が離れ、駅と住宅街を走るバス便しか調べることが出来ず、さらに多摩地域は不慣れで、西武バス、京王バス、小田急バス・立川バスなどがあって、どう遠距離に行けるか、接続はと考えることを止め、JRで立川まで行き、そこから多摩川まで歩こうと計画したがバス便が探せず、多摩モノレ-ルなら遠くから見えるので一度は利用しようと、出発地は柴崎体育館駅 とした。多摩モノレ-ルは豊洲市場を通過するゆりかもめ線や日暮里発の舎人ライナ―と似ている。立川北口から二駅で110円。かなりの高架線なので遠くまで良く見える。これなら羽村から川下りで柴崎体育館駅 でゴ-ルとする計画が出来そうだ。
 多摩モノレ-ルが通っている立日橋から多摩川河口まで39Kという掲示を見た。すでに53Kの半分以上は歩いたことになる。次回となる羽村からの行程で立日橋から拝島橋まで6.5Kとあった。これでは羽村から柴崎体育館駅 まで15Kは予定しないといけないと感じる。
 立川から府中市是政橋まで歩いたが、日曜日のこのコ-スの歩行は危険だ。都内の土手道歩行は危険と感じなかったが、国立市付近の道路にスポ―ツ自伝車との接触注意の掲示があった。かなりの速さで自転車走行していて、ママチャリや電動自転車の方が少ない。後ランナ-が多かった。それぞれの速さが違うので事故もあるだろう。驚いたのは立川と国立の境あたりで土手道が途切れ、住宅地を歩行することになった。これが地図を見ていて本当に道があるか疑問に思っていた。
 土手道を歩きながら立川北口駅で行列のあるのを見て思った。9時50分でどうやらパチンコ店の開場待ちのようだ。隣の立川南口駅付近所にも同じ行列があった。
 歩きながら今の予算作成で防衛費の財源問題があるがパチンコの貸し出しに税金をかけて、法的問題がある景品買いシステムを合法化したほうが良いと思った。そうすればレジャ-産業として上場も出来る。今の最大手の企業は売り上げが多いのに上場基準の法的問題で阻止されている。他の公営ギャンブルの施設提供会社が上場している。現状ではパチンコ企業がス-パ-などを運営して節税しているが社員の中でやはりパチンコ屋と思っているようだ。ここの部分を打破しないと中国資本に日本の余暇産業が支配されるように歩きながら考えた。土手道は景色が良く、考え事によい。しかし日曜日は雑念で歩くことはスマホを操作しながら歩くと同じ危険があると感じた。
 国立市に入って最初は谷保あたりでJR南武線を降りて、谷保の天満宮を参拝しようと思ったが是政橋からの距離が短く、いつかはとなった。Yahooと入力する時に間違えて谷保となる時があった。電車の駅名で(谷保)とあって野暮天の谷保は野暮・ヤボではなかった。
 府中に入って是政橋が見えてきたとき、府中の森の物産販売所が見え、トイレを利用した。そこから昔の水路跡のような道を歩き、西武鉄道多摩川線の終点の是政駅を探した。普通の商店街が無く、気が付いたら線路が見えた。駅に入ると10分に1本程度の便があるようだ。そこにサイクルトレインとあってどうやら平日は9時から17時、土日は終日1両目に自転車持ち込みで乘れるようだ。こんな鉄道会社があるからこの付近はスポ―ツ自転車が多いのだろうか。ヘルメットとフェイスガ-ドを付けて居る人が目立った。ファッションサイクリストばかり。パチンコ屋で開店待ちしているよりはましだろう。
 何時かは府中の東京競馬場の混雑を体験したい。是政橋を渡りJR南武線南多摩駅より帰る。11日の歩数24000歩、14Kで残りも14k程度か。羽村からの下流の土手道情報が見えない。体調が悪かったらどこの鉄道に乗ればよいのだろうか。高尾山に行く京王線はどんどん離れる。頼りは立川バス。でもシルバ-パスではどのような乗り方をするのだろうか。都内のバスは均一運賃だから、乗車前に提示するだけで済む。やってみれば何とかなるだろう。調べたら整理券を取って、降車時にシルバ-パスを見せるようだ。

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シルバ-パス利用で赤坂迎賓館見学

2022年12月11日 | 宅老のグチ
前の赤坂迎賓館見学企画が休館の確認を怠り失敗した。その時は大江戸線国立競技場前駅で降りて、スマホで検索し、たどり着いたが休みでそのままJR信濃町方面に歩き、都バスで帰った。今回は大江戸線青山一丁目で降り、約18分ほどで観光客用の入り口に歩いて着いた。予約しないでもすぐに入れた。手荷物検査の後、建物内と庭園見学を選択し、1500円の支払い。ここはどうもカ-ド払いは別の所のようだ。明治の終わりの頃の設計なので車いす見学はたぶん無理だろう。キンキㇻ金の室内。何か欧米建築文化に劣等感があったと感じる。まず庭園散歩で下谷の三菱岩崎邸の巨大なものしたと感じた。現役の外国からの賓客の接待となるが、プーチンロシア大統領就任式の印象があって、時代遅れの感がする。やはりアメリカ大統領が車から歩いてゆく光景が好きだ。テロを恐れない。
 庭園散歩後に前園を見て、建物の中に入る。迎賓館の建物の入り口は庭園に行く途中にあって、入り口で入場券の確認と中はスマホでも撮影禁止だという説明を受けた。室内のTV報道があるのにと思いつつ、廊下のいたるところに監視カメラが見えるように設置されていて、いたずら書きを監視していると感じる。今は工事中ということで正門から出る。そこで正門の警備している人にこの周辺の地図のありかを聞いたが知らないという。次にJR以外の乗り場所を聞いたが知らないようだった。種明かししてシルバ-パス利用で歩き回っているというとなっとくしたように笑った。仕方なく来た道を戻らず赤坂見附の方に向かい、元赤坂に出る。赤坂豊川稲荷に参拝しようとしたが参拝方法に疑念があって、何人かの参拝方法を見ていたがマチマチで今回は参拝見送り。
家で伏見稲荷で調べると『本殿の前まで来たら、鈴を鳴らしてその清浄な音で清め、賽銭は投げずに近くから静かに入れます。そして「二拝二拍手一拝」の作法でお参りします。まず約九〇度腰を折って二度深く頭を下げ、次に二度拍手を打ちます。
静かに心中で祈願をした後、もう一度頭を下げます。本殿での参拝を済ませた後、各末社や奥社奉拝所、稲荷山といった境内各所を巡拝するのが正しい参拝なのです。 』
 これが愛知県の豊川稲荷の参拝方法では『手を洗い口をすすぎ衣服を整え姿勢を正します。
合掌し「帰命頂礼(又は南無)豊川枳尼眞天(キミョウチョウライトヨカワダキニシンテン)」と唱えて拝礼します。
上記の2を3回繰り返します。
「尸羅婆陀尼黎吽娑婆訶(オンシラバッタニリウンソワカ)」と21回(7回でも可)唱えます。』
またある人の説ではこの参拝のしきたりは明治政府が決めたもので、気にすることはないという。本質は敬うことのようだ。ということで今回の参拝見送りも失礼ではないことにする。
 事前に青山で高野長英の隠れ家の碑があることを事前に調べていて、南青山5-6-23の所のビルの柱に埋め込まれているという。そこで赤坂から国道246号線を渋谷に向かって歩く。表参道駅付近の信号が南青山5丁目となっていて、付近の地図で高野長英の隠れ家の碑が見つかった。その後JR渋谷駅が近いので歩いてゆくと青山学院大学図書館新築工事現場に出会った。そういえば刀豆の民俗的文献発見は共古随筆から始まる。山中共古牧師の最晩年の仕事は青山学院の図書館長だった。渋谷駅方向に行くと間も無く下り坂に出会い、渋谷駅のバス停まで行った。歩数は15000歩。晴天、適度な寒さ。
 三宅坂の田原藩生まれの渡辺崋山との長英最後の地との距離は1時間ほどの歩行距離となり、そして新春に三宅坂国立劇場で遠山桜天保日記が上演される。校倉作りの劇場の見納めとなる。日々風景が変わる東京。全ては耐震で正当化される。
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老柴犬のため新聞再購読の決断

2022年12月09日 | 築地市場にて
7月に転居し、家計費節減ということで、新聞購読を止めた。同時にテレビも家が狭いのでこれも無くし、すでに5か月たった。ようやく転居した家の大きさが半分になり、毎日不用品を整理し、ようやくすっきりしてきた。転居によって、盲目となっている老柴犬が家の位置関係が理解できないようで、毎日のように粗相をする。一応粗相の前にしぐさで催促の合図(外で用を足したい)を見落とすと濡れていたり、排泄物の塊が落ちている。この対策としておしっこシ-トをホ―ムセンタ-で買った養生テ-プで、巨大なトイレを造るのだが、二回に一回ほどシ-ト外の所で用を足す。また寝るときに旋回して寝るのでおしっこシ-トが乱れ、シート外に粗相する。この対策として新聞紙を敷いたらということで新聞購読 を再開決断となった。ネットで来年1月からの購読を申し込んだら、すぐに電子版の新聞が読めるようになった。今時法人以外で新規新聞購読があるのだろうか。前に住んでいたところの新聞配達店はお宝屋という不用品買い取り業者の店に変わった。新聞購読が減ればチラシ広告も減り販売店経営の魅力も消える。

 築地の大谷図書館へ行くのに大回りして新橋駅から旧築地市場へ歩いてゆく。新大橋通りの築地浜離宮ビルの前の交差点名が旧青果門前となっている。18日からどう変わるのだろうか。築地市場の正門前から朝日新聞東京本社を見ると薄汚れて見える。その後ろにあの電通ビルが見える。築地場外市場周辺は工事だらけで、多分宿泊施設だろう。銀座で買い物で築地で食事。

 ちょとコロナ前の店舗がどうなったか記憶が戻せない。 何年後に築地に立っているホテル街の名称がxxx東銀座インとなっている気がする。もちろん朝食は築地場外市場で、さらに24時間営業のすし屋もある。これならホテルの中に食堂はいらない。あの巨大な旧築地市場がドンドン更地になってゆき、古いものが消えて、朝日新聞の後ろに夕日が沈む。
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オミクロンワクチンから築地の遠山の金さん台本を見に行く計画

2022年12月09日 | 宅老のグチ
12月8日5回目のワクチン接種。最初の2回は大規模接種会場で、1回の人数が30分刻みで100人程度の会場、2回目は町医者で接種後の副反応の待機時間が長く感じた。4回目は企業の体育館で1回の人数は30人程度。そして今回は区の施設。いずれも歩いて行った。5回目の接種はオミクロン型のファイザ-にした。
やはり今回も予約時間の数分前に着いたが、実際の注射時間まで15分ほど経ち、さらに待機時間で15分、従って30分はかかった。結局今までのコロナ注射は町医者の待機時間を含め25分ということか。
 そのあと今日の歩行数が少ないのでタ―ミナルの書店の本屋で自分の関与した本があるかどうかの確認したがまだ店頭に並んでいない。戦史の所は随分少なくなった。
 家で中央区の築地の松竹大谷図書館の遠山桜天保日記の台本の閲覧予約を入れる。前回はいつだったのだろうか予約時間を電話し、出してもらう本を検索して伝える。コロナ以前は予約しないで行き、そして貸し出し本をメモで伝えて10分ほど経って出てくる。20人ほどは入れる部屋だが今は5人程度に制限されている気がする。それでも2時間という制限では地方から来た人は無理だろう。その歌舞伎座周辺のアンテナショップで梅関係の漬物を探してみたい。さらに中央区の本の森にも行ってみたい。
 直接都営浅草線東銀座で降りても良いのだが大回りして、大江戸線築地市場前とか新橋で都バスの豊洲市場行きに乗って、朝日新聞前で降りても良いだろう。確か旧築地市場を貫通する地下トンネルが12月18日の開通する。多分歩道もあって築地大橋からレインボ-ブリッジと浜離宮舟付き場を見てみたい。この浜離宮から浅草行きの水上バスがあって、1回乘ったことがある。この後浜離宮と旧築地市場との間の築地川(堀みたいだが川)にある仮設通路がいつ撤去されるのだろうか。ここに銀座ヨットクラブといういかがわしいバブル時代の会員権販売していて、ネットで見た時は銀座から海に出て散骨サ-ビスもあった記憶がある。これも河川法とか問題で撤去され、仮設通路が出来たが中央区が工事用の通路と主張し、年末の繁忙期だけ使用させ、多くの青果の小売業者が大田市場に行き、築地市場青果部は銀座周辺の納品業者へと変化し、コロナでダメ-ジを受けてしまった。大田市場青果部は量販店対応だったので影響が少なかった。
 築地川の停泊しているヨットで新橋十仁病院というの美容整形の名前があるのがあった。いつの間に新橋から消え銀座に移った。多分通路が撤去されればボラという魚が入れ食いで釣れる気がする。
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開戦記念日12月8日日本、アメリカは12月7日

2022年12月08日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
地球が丸く、時の基準がイギリスにあって、日本は極東となる。太平洋の真ん中で日の扱いが変わる。ワールドカップの開催時間は現地の時間と西欧の時間に合わせられ、日本の都合での時間ではないことを感じる。
 叔父の記録が載っている本が12月8日に本屋に並ぶ。多分日本史の中で戦史を扱うところか、最近の情勢から台湾コ-ナ-かもしれない。信州長野の浅間温泉の世田谷区の学童疎開からこの本の連載が始まる。訓練で松本に集まった陸軍特攻隊員と世田谷区の代沢小学校の学童との交友と戦後史となる。その交友のあった特攻隊員は台湾に赴任し、昭和20年に一部の人たちが沖縄で散華した。叔父の飛行204戦隊も遅れて台湾に向かい、特攻した。そんな記録の本が出る。

 特攻というものの評価は時代と共に変わって、特に戦争が終わる前には英霊で、敗戦後は犬死と言われ、戦争終結を遅らせた戦犯扱いされた特攻遺族もあったようだ。そんな仕打ちの中で、20歳前後の男盛りの優秀な男性を失った農家が多いと感じる。特に少年で飛行機乗りにあこがれた少年飛行士の手記と遺書を読むと悲惨さが心にしみる。同様に知覧の慰霊祭に参加人たちの帰りの送迎バスの中で1時間ほどの間に漏れ聞く話では誰誰さんが亡くなって寂しいという話をしていた。もう77年以上の月日が経って、映像音声は残ているがどうも為政者の都合の良い報道の仕方となっている。
 今ウクライナで戦争中だがロシアの前線で戦っている招集兵は訓練期間が短く、さらに激戦の前線に配備され、死者が多いと感じる。貧しいロシアの人の男の子が家が貧しい故に海外に逃亡することが出来ず、兵隊になっているようだ。何か第一次大戦のドイツとフランスの前線と似ている。この時に武器が発達し、潜水艦、戦車、毒ガス・爆弾投下する飛行機等の大量殺人兵器が開発された。
 今度のウクライナの兵器開発が進んでいてさらに実戦で鍛えられているのでウクライナとロシアの戦後はヨ-ㇿッパの中で戦前のドイツのようになる気がする。このウクライナが暴走した時誰も口出しできず混乱が加速される。唯一抑えられるのはトルコだろう。その理由はボスポラス海峡 を封鎖すればロシアもウクライナも海運が消える。黒海艦隊が日露戦争で壊滅したバルチック艦隊となる。
 アメリカの軍隊がアメリカの独立後に一部の時を除いて戦争が数年おきに続いている。戦前の日本も戊辰戦争、西南戦争、日清戦争、日露戦争、第一次大戦、シベリア出兵、中国東北部の紛争、満州事変、そして太平洋戦争と続き、兵器開発が進んだ。多分ウクライナも兵器開発が進み危険な国になるかもしれない。中国とイスラエルが武器の先進国なのがいつも危機感があって、日本は過去の後遺症から惰眠中である。日本史で対外危機から武力国家と立ち上がるのが早いと感じる。種子島に鉄砲が伝わり、日本全国に広がったのが異常に早いと感じる。明治維新もアメリカ南北戦争終結後の武器余りが日本に来てさらに進歩した様だ。それには朝鮮半島への危機感があった。やっぱり長州は東京より朝鮮半島が近い。
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12月にしては天気予報で雨が多いと感じる

2022年12月07日 | 宅老のグチ
昔と言っても自分が生きていた時の12月から1月のかけて晴天が多く、インフルエンザの流行もあって、空気を乾燥させないようにしていた。木造家屋が多く、さらに暖房手段が石油スト-ブなどがあって火災の危険は今より多かった。学校の石炭スト-ブで家から持ってきた弁当を温め、沸騰したお湯で食べたことを思い出す。給食となり微かな記憶と木造校舎の床が雑巾がけの掃除でささくれ立っていて、とげが手に刺した痛い記憶がある。それも小学校の卒業時に鉄筋コンクリ-トの建物になり、それが今改築計画となる。耐震と災害時の避難場所として上げ底の学校のようだ。地球温暖化で海面が上昇するので、ハザ-ドマップでは水没する地域となっている。
 5日は曇天で出かける気が起きず、近所のホ―ムセンタ-で900円程度の買い物。じっとしていると体力が落ちる。少し作文を出さないといけないのだが学校と違って締め切り期日もなければ成績表もない。あるのはボツ原稿ということになる。構想として小林清親と福島事件の関係者の話込みが誰であるかの解明。清親の娘の逸話で福島の人が小林邸で話し込んでいたという。いつの誰だがということだが福島事件の平島松尾と考えている。原胤昭が小林清親に絵を描かせた。その理由として神田須田町で田母野秀顕を描いた浮世絵を福島事件判決後に販売し、販売禁止の処置を受けたのち、タダで配ったのが平島松尾と花香恭次郎だった。花香は明治23年にコレラで死去した.田母野秀顕も石川島の獄中で病死している。
 忘れ去られた人物の記憶の取戻しは親族・遺族の義務かもしれない。明治維新で賊軍や非薩長の人たちは記録が少なく、言い伝えしか残らずさらに時間で風化しつつある。親族・遺族でない人の務めは故人の想定外の事実の探求しかない。彼らが福神漬の比喩の調査で調べているとはだれも親族は思わないだろう。比喩は明治政府の言論弾圧から逃れる手段で日本では和歌の本歌取りとか見立てという言葉の文化がある。俳句のその中の一つで、根岸は正岡子規の東京の拠点でもあった。根岸党という文学者の交友仲間が明治の10年代後半にあった。
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雨の日に、記事の整理整頓

2022年12月06日 | 趣味としての漬物
昔に書いた記事で、回想法ということで、誤字、意味不明な分を直しつつ再度アップしてみたい。
 大根河岸
大根河岸は東京都中央区の銀座のとなり、京橋から比丘尼橋(中央区八重洲2-11)にかけての約200mの区間である。築地市場の青果部は京橋にあった大根河岸の市場が昭和10年に移転して発足したもので、すでに70年余の歴史になる。“京橋大根河岸”(中央区京橋3-4)の碑に書いてあるように江戸の京橋にあった市場に大根の入荷が多かったためである。
 江戸時代から明治、大正と大震災まで、銀座という街とともに親しまれたのは、銀座の北の入り口に庶民のための青果市場があった。現在でも野菜の大根は青果市場では重要な位置を占めている。

三白という野菜は大根・白菜・キャベツのことで、漬物用としてはキャベツは少ない。ドイツではキャベツの発酵した漬物がある。日本のダイコンの歴史は古く、品種も多いし、加工する漬物としてタクワン漬がある。また料理の種類も多い。
八重洲2丁目 比丘尼橋(現在名は城辺橋)は、江戸城東側の外濠より流れ出る京橋川に最初に架かっていた橋である。比丘尼とは、出家した尼僧を指したが、江戸時代には尼の姿をした私娼のこともいい、この橋の近くに比丘尼宿があったため橋の名前がついたといわれている。
 広重? 「名所 江戸百景より」
びくにばし雪中

喜田川守貞の近世風俗志には「今の世、獣肉割烹の店,招牌の行燈等に必ず山鯨と記すこと三都しかり也」と出ている。山くじらは、獣肉全般を指すこともあったようで
歌川広重?の浮世絵「名所江戸百景 びくにはし雪中」の中に、雪景色を背景に山くじらと書かれた大きなのぼりが描かれている。また同浮世絵の中の「○やき」とは焼き芋の屋台のこと。また十三里とは川越産の芋のこと、江戸より川越まで十三里、
栗(9里)より(4里)うまい  9里+4里=13里
 大根河岸と芋の関係は川越との新河岸川舟運の歴史のつながる。大根河岸は新河岸川にも2ヶ所ある。北区赤羽3-27地先(袋村河岸)、板橋区小豆沢4-27(小豆沢河岸)
江戸時代は今より平気で(放屁)の話が会話に出てくる。風刺画で屁のガスが大砲のように書かれ、吹き飛ばされている。川越は焼き芋のイモの産地と知られ、食した後の放屁を比喩されている。

 結構間違っている所もあって、18年の歳月を感じる。キムチで・寄生虫事件が中国と韓国で勃発し、今でもキムチの言葉とか発祥地争いが続く。この騒動のとばっちりが日本の漬物業者を直撃した。戦後の朝鮮漬の流れで、不景気になって価格競争となり、キムチのタレで一夜漬の白菜漬にキムチのタレを混ぜて白菜朝鮮漬として販売した。そこから韓国風に白菜の葉の中に薬味等を挟み込む丁寧な味付けと、熟成発酵した朝鮮漬を従来の手抜きした商品と差別化するため韓国風の名前の付けて販売単価を上げた。
 ところが韓国風の名前が付いていたため、寄生虫キムチ騒動で売り上げが減少した。そこで日本の漬物業者が節操もなく、韓国産と区別するため(和風キムチ)と国産白菜使用と表示し、韓国のイメ―ジのあるキムチの売り場を排除した。量販店のバイヤ―も漬物の中でキムチの売上が占める割合が高く、売り場を空けておくことは出来なかった。今は再び韓国アレルギ-が消えマンネリ化した日本キムチから韓国産キムチを取り戻しつつある。
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埋葬許可証とは何なのだろう

2022年12月05日 | 宅老のグチ
ふと埋葬許可証とは何なのだろうと思った。
9歳の時父を亡くし、母子家庭となって、働く母に代わって、名代となって法事の席に出席していた。時には葬儀場でお骨拾いまで参加した。そして葬儀場の係員が収骨の場で遺骨の状況を説明し、解説しているのを聞いていた。喉仏の骨が合掌している姿に似ていると説明していた時、仏教徒なら納得がいくが異教徒ならどう思うのだろうかと思いながら聞いていた。収骨された遺骨は白い円筒形の陶器に入れられ、木箱に入る。木箱の隙間に収骨の係員が埋葬許可証を入れ、これはお墓に入れるとき大切な書類という。他の家の遺骨なので気にはしていなかった。
 いま墓じまいとか地方にある実家の墓を都会の通いやすい墓地に動かすことが増えていて、そこに埋葬許可証の問題が出てくる。


2018年の研究発表で米ジョンズ・ホプキンス大学のスティーブン・サルツバーグ教授らは、人間の遺伝子の数が現時点で2万1306個になると発表した。将来のDXお墓にはこの遺伝子情報とDX遺影(音声・写真・動画等)の永久保存墓も仮想寺院で保管されるかもしれない。 

 日本の法律、特に民法関係は過去の歴史を引きずっている。
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中央区を郷土にしようとする(本の森ちゅうおう)

2022年12月05日 | 宅老のグチ
東京都中央区京橋図書館郷土資料室で築地市場移転時に調べごとを地下のうす暗い所で司書さんと話しながら資料を読んでいた。12月4日に少し離れたところに本の森ちゅうおうと新築の図書館が出来た。移転初日に住所変更の手続きを死に行き、中を見物した。何か本を読みながらお茶を飲める場所という感じがする。郷土資料は今まで閉鎖書庫で今度は開架書棚で手に取りやすい。ただ残念なのは中央区の図書館の歴史が古く、所蔵している本も古いのが多く、紙質が悪い昭和30年代以前は貸し出し禁止で予約し、図書館で読む形になっていて、読みたい本が置いていない。

JRの八丁堀駅に近いので所蔵資料は時代劇作家には会えるかもしれない。今のところ高野長英関係と南茅場町の三菱と町奉行与力たちの資料で福神漬の裏話の解明につながると思っている。まだ時間が経っていないので築地市場の移転騒動の本が少ない。今となって東京都の中央卸売市場に地下の汚染の状況がのっているが誰も地上の豊洲市場の汚染は気にしていない。
 市場で流通する食品は市場内の滞在時間が短く、汚染があれば市場で働く人が最初の犠牲者となる。中国でも騒いでいた生鮮市場の汚染は表面に付着していたと思っていたようだ。
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4の日に行くところ 巣鴨

2022年12月04日 | 宅老のグチ
今まで混雑していると予想し、コロナ下で行くのを避けていた巣鴨のとげぬき地蔵へ4日に行くことにした。今までは都電荒川線でゆき、地蔵通りを抜けて、三田線の巣鴨駅まで歩く。最近は歩く距離を減らすため,都営三田線西巣鴨駅と都電荒川線新庚申塚駅とを乗り換えるようにしています。これならシルバ-パスで無料です。
 一度早稲田まで乗って早稲田大学演劇博物館で鶯亭金升の23歳までの住所を調べてみたいと思います。
 さらに12月4日に中央区京橋図書館が移転し、本の森ちゅうおうがオープンします。ここもついでに寄りたいのだが中央区のミニバスコ-スのようで、シルバ-パス利用では浅草線宝町駅でで降りるしかないと思うので都バス等の下調べをしたい。中央区京橋図書館の郷土資料室は地下の地下にあって、まるで病院の霊安室のような雰囲気があって、江戸時代の怨念が出てきそうといつも資料を読みながら思っていた。こんどの図書館の位置は八丁堀に近いし高層階で窓があってどんな気持ちで資料を見ることが出来るのだろうか。こんどの郷土資料室は上層階なので台風が来て浸水しても安全な気がする。水没した等々力の東京都市大学の図書館はくぼ地の地下にあった。中央区も他の区の郷土資料は一度失われると見つけることのできないものが多い。マイナ-な漬物のような食品は日々の事業継続労働で記録を残さず消えてしまう。十年以上継続した食品はそれなりの存在があったはず。
 うたかたの泡、かつ消えかつ結ぶのが食品の世界。
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台湾から沖縄に出撃した叔父たちの記録が出版された。もう書店にあるようだ。

2022年12月03日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
十数年前に鹿児島県南九州市の知覧特攻平和会館 に息子が訪問し、丁度叔父の特攻命日の来たということで急に特攻遺族扱いされた。それまでは父が養子に出ていて、血は繋がっていても特攻遺族の資格はないと思っていて、詳しく叔父の軍歴を調べることもなく過ごしていた。築地の移転の仕事が終わり残務整理と引継ぎが終わり、夕方のTVを見ていたら、父の写真帳にある写真と同じ写真がテレビに写っていた。早速調べ始めたのだが情報が少なく調べるあてなく、大田区の昭和のくらし博物館で事情を話したところ、下北沢で活躍している特攻の本を何冊も出している作家のきむらけんさんの出会い集めた資料を渡し、そこから台湾からの特攻の調査が進み、コロナ下で台湾に行くことも出来ず、リモ-ト取材で原稿が出来たようだ。きむらさんとの記録のことで何回か電話で聞いたが、叔父たちの陸軍飛行204戦隊は日本陸軍の命令による最後の特攻という。沖縄本土での抵抗が終わって、もう沖縄に飛行機で特攻に行く必要が無いのに、破損した部品で何とか飛べるようにした4機で特攻に向かったようだ。戦後に204飛行隊の戦友たちの文章を靖国神社の図書室で読んでいて思わず涙が出た。叔父の特攻は戦果が期待されていたが、最後の特攻は沖縄まで飛べるかどうかの期待だった。このようなことが多分この本に詳細が書かれていると思う。

 邱垂宇先生は小さい時に日本の特攻隊員にあこがれ、台湾の航空業界の重鎮として今でも活躍している。名古屋での台湾航空事故調査団(中華航空140便墜落事故)でも活躍した。
 
台湾出撃沖縄特攻: 陸軍八塊飛行場をめぐる物語
きむらけん著 12月8日出版販売開始。

 この本と表裏の関係のある中田芳子著『十四歳の夏―特攻隊員の最期の日々を見つめた私』も重販となったようだ。今気になる台湾情勢がこんなことになるとは叔父のいたずらかもしれない。

 お世話になったり迷惑をかけたところ一覧
平成30年4月より登録文化財昭和のくらし博物館 の学芸員 小林様
北沢川文化遺産保存の会主幹 きむらけん様
桶川飛行学校平和祈念館の学芸員様
歓喜院(真言宗豊山派)住職様 栗原義雄の墓がある。
春日部市川辺小学校 栗原義雄の出身小学校
千葉県立清水高等学校 栗原義雄の勉学した野田農工学校
埼玉大学教育学部 埼玉師範学校 叔父の成績表を探し出してくれた。
野田市郷土博物館の学芸員様
春日部市庄和図書館の司書様
野田市立興風図書館の司書様 
埼玉県立文書館 埼玉師範学校卒業者名簿を保管していた。
 昭和18年9月毎日新聞埼玉版 陸軍特別操縦の試験の結果発表。叔父はこの時落ちていた。自分の気持ちは同調圧力で受験したがわざと落ちた気がする。陸軍と海軍の両方に合格していた人がいて、一人欠員となり、繰り上げ合格となったようだ。師範学校の成績表には視力の項目があって、1.5の視力が繰り上げ合格の理由だろう。さらに226事件の栗原もあるかもしれない。埼玉県は226事件の参加していた兵士が多数を占めていた。

靖国神社 靖國偕行文庫の司書様 陸軍飛行204戦隊の戦友会の資料

 栗原義雄の軍歴
昭和18年11月1日 陸軍特別操縦1期生として入隊。
 他の1期生は10月1日入隊。どうやら繰り上げ合格のようだ。従って他の1期生より1か月訓練期間が短い。
 昭和20年5月20日 台湾台北近郊の八塊基地より夕刻に一式戦闘機隼で出撃。同日午後7時過ぎに沖縄嘉手納沖にて散華。知覧からの特攻隊と共に米軍に多大な損害を与えた。米軍の記録では5隻程の損害が確認できる。
 父の手元にあった写真は特攻が決まった後の送別会だった。前列左から3番目が叔父で、その隣の隊長が戦後にこの写真を栗原家にもってきて、特攻の状況を話した様だ。前列の人たちは緊張していて、後列はハメを外している。後列の首にタオルを掛けている人が戦後に結婚した中田芳子さんの夫で、芳子さんは90歳の現役のユ-チュ-バ-である。



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