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 年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

もう祭日は減らすべきではないのか

2024年09月16日 | 宅老のグチ
3連休で出かける気がしない。特に今週は韓国から人が日本にやってくる。こちらは東京だからあまり変わらないと思うが距離的に近い九州は台湾・韓国民が観光地を占拠する気がする。台風13号が今日中国の上海市に上陸する。次の14号もほぼ同じコースで上海を目指す台風の予報が出ている。今年の台風は共産中国に嫌がらせのヨーナ台湾を避けて、勢力を落とさないで中国本土に向かう。予報では14号が過ぎると秋雨前線が南下し、長い猛暑が終わることになる。この様な予報だとほぼ今週で全国のコメの収穫が終わる。
 毎日用もないのに近所のス-パ-を数か所回り、米の売り場をチェックする。この様子で来年のコメ騒動の始まりがよそうできる。多くのマスコミの言うことは農林水産省の宣伝下請けで、農家の味方でないことを感じる。虐げられた日本農民の最後の抵抗が見える。どんな仕事でも、収入が魅力で無いと後継ぎが継続しない。
 今年の高校生の求人倍率の高さがバブル時を超え、20倍以上という。この様な様子を見ていると、十日以上の有給休暇を提示できる企業がこの求人競争の勝つ気がする。多くのアジア系を除く訪日観光客は
十日以上の休みがある。それか退職して長期の旅行をする。再就職文化があるのだろう。言語取得の動機は使うことにある。グーグル翻訳がAIスマホで定型的会話はすでに出来るようになった。自動翻訳の精度はまだ小児ほどだが徐々に制度が上がっている。
 今年の高校生の求人倍率から、昔のように月一回以上の定休日のあるス-パ-が求人戦争で勝つ気がする。そして年金不足者が70歳になっても働く時代が来た。
 年金生活者なので毎日休日、祭日は混み方とバス便時間が異なる。不便だ。病院も変則休み。人口の30%が高齢者で祭日の経済効果より、不便の効果が気になる。
 
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今は死語となった黄金列車

2024年09月15日 | タクワン
東京都葛飾区の「葛飾区郷土と天文の博物館」で、特別展『肥やしのチカラ』を見て
「黄金列車」「しもごえ鉄道」っていうのは、いまの東武日光線と西武池袋線の糞尿輸送の列車が昔そう呼ばれていました。太平洋戦争の末期、日本の敗色が濃くなり、肥料のために糞尿を輸送することが困難になっていた。そこで東京都は西武鉄道と東武鉄道の協力を得て、糞尿の貨車輸送を計画した。また、河川を利用した輸送も江戸時代と同じようにありました。主に海洋投棄に使用されました。
西武鉄道
 西武鉄道の前身である武蔵野鉄道と練馬農業との関係は深い。同鉄道の歴史は大正4年(1915)池袋-飯能間の開業にはじまるが、開業当時、沿線のほとんどは農村。輸送も練馬大根など沿線の農産物の輸送が中心で、人員輸送はごくわずかなものであった。
 第二次大戦による 食料不足の時代を迎えると、江戸時代から有名な川越芋の産地を擁した西武鉄道は殺人的な混雑ぶりを誇るまでになった。糞尿輸送は、旅客輸送終了後の深夜から早朝にかけて行い、復路はタンク貨車で野菜を輸送した。
東武鉄道
東武鉄道も貨車を使って糞尿輸送を開始した。昭和19年都心方面から隅田川を遡上してきた下肥船から糞尿を千住駅で貨車に積み替えて武里駅・大沢駅・杉戸駅など埼玉方面に肥料として運ぶ糞尿輸送を開始しました。
愛知県では名古屋鉄道が名古屋市、愛知県に頼まれて、食糧増産のためにということで近隣市町村へ糞尿列車を走らせた。
 「清戸道(きよとみち)」またの名を「おわい街道」(下肥のこと)が、練馬から江戸に通じる道だった。農家は朝の3時頃には、練馬大根を大八車に乗せて町へ出発。市場で大根を出荷したあと、町内をまわって下肥を運んだ。大八車に肥桶(こえおけ)を積んだ。また,戦後・甲州街道の新宿も同様な肥桶を積んだ車で混雑していて、進駐軍の軍人は(ハニーカー又はハニー・バスケット・パレード)と呼んで侮蔑した。
 世間がふたたび下肥という有機肥料の良さに気づくのは1990年代になってからになる。
※清戸道:いまの江戸橋、目白坂、目白駅通り、二又、円光院前、道楽橋、宮田橋、谷原交差点、大泉小、中島橋、四面塔稲荷へと続いていた道。練馬区の郷土資料館には大八車に野菜を積み、荷物の上に肥えを入れる容器の樽が積んである写真があります。東京の神田や京橋大根河岸に出荷した後に戻り路で下肥を集めて練馬に戻るのです。従って人の体内で生息する回虫はほとんどの人が持っていました。
 肥料を運んだ鉄道輸送はまた大根や沢庵漬を消費地に運ぶ手段となりました。肥料と病気の問題が沢庵の歴史を調べると必ず出てきます。大根栽培は連作すると良い大根が出来ません。

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老人の日だけど

2024年09月15日 | 宅老のグチ
9月15日は暦に老人の日と書いてある。2年前に亡くなった母は100歳の時の祝賀の時、暗殺された安倍首相が病気辞任し、急に首相が変わることになり、国からの表彰状がどの人になるか気になっていた。当時の新聞でも新規の百歳表彰者が3万人を超えていて、印刷の変更が間に合わないと思っていた。もう忘れていたが印刷は紙幣の印刷の所と思う。記憶違いがあるかもしれないが普通の表彰状より印刷の充実度が高い。なぜ記憶にあるかというとある親戚の100歳を超えて亡くなった人の葬儀に参加して、お焼香台の付近に百歳の表彰状が置いてあって、葬儀の参加者が驚いていていた。コロナのはるか前の話で、母の葬儀はコロナで簡素の極致だった。
 15日の新聞を読んでいると、今年の百歳になった人の数が出ていない。なにか厚生労働省の情報操作が新聞業界の談合と未成熟のネットニュ-スの情報収集力と忖度による小出し情報操作と見える。

 母が百歳になって、自分の親族で一番の長寿となり、どこまで生きるか気になっていた。もう経験則の範囲を超えていた。一番健康管理されていると思う皇族の様子から、百歳が男性の限界で、女性はもう少し長い。
 100歳の人の半分が101歳になって、101歳の人の半分が102歳になる様子が統計上見える。男性はこの経験側がもう少し始まりが早い気がして90歳位から翌年には半分となり、極まれな人が経験則の寿命死から逃れている。それでも120歳まで生きる人は世界で一人ぐらいしかいない。
 その死より脳の老化が早い。ここの差の時間が老後資金の問題となる。このあたりの学問的研究が少ない様でもし脳の様子が身体の老化より区別出来れば老後の資金問題が解決方法の見通しが出来る。少子の時代に過剰な預貯金を介護の設備に投資誘導する施策の考えられる。裕福な高齢者が故郷に寄付する文化も生まれる。
 特攻して亡くなった叔父の名前は埼玉護国神社から全国各地の特攻慰霊碑に名が残る。郷里の墓はいずれ消えると思うが叔父の名前は慰霊の場所に永遠に残る。その評価は時代によって変わるが名が残り、慰霊碑の周りに植えられた桜が春になれば桜が咲き、そして散り、青葉に変わる。
 諸行無常の世界となる。
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また台風が来ていて

2024年09月14日 | 宅老のグチ
台風13号が連休中の日本を通過して、中国大陸の中心に向かう予報円となっている。今の処たいした台風のようではないが中国南部を通過した台風11号は自分の予想した規模より急発達して大被害のようだ。情報隠しが少ないベトナムでも映像を見るとすごさが解かる。中国は停電と情報隠しで終わるが、衛星画像が出てくれば、被害は解る。驚くのは風力発電機の施設が街路樹の様に折れて破壊されている。中国でも事前予報で避難していたようだが想定以上の台風であったようだ。軍隊が災害派遣して活動している動画が何か政府の宣伝画像様に感じる。日本だと被災者が画像に出て来るがやらせ感があって、企画して形の災害報道と見える。今度の13号台風は雨台風か風台風か判らないが、いつも台湾が台風を弱くして大陸に行っているのが直撃ということに予報ではなりそう。
 秋野菜と米の収穫、果物の風の影響での品質劣化が予想される台風は10月まで来てほしくない。今年の秋は農家が忙しい。自宅のコメは二日前に5キロ購入。極力コメ消費を抑えているが新米はおいしい。

2040年の日本   
著者名 野口 悠紀雄 
出版社 東京 幻冬舎 
出版年月 2023.1 
 まだ出版して2年も経たないのに、この本の著者の予想した中国がGDP世界一の予想が今は幻想となった。間も無くGDPがインドに日本は抜かれるが、比較的に若者の失業率が低く、不満があるのが高齢年金者たちだろう。

 未来予想本は変化が激しく、現実の方が先行している。時間というもので世論誘導がなされていて、現実を誘導しようとしても、天候等の制御できないもので目論見が失敗する。今度の13号台風はどうなるのだろうか。
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樽 沢庵漬の容器の話

2024年09月13日 | タクワン
戦後、樽を使っていた食品(醤油、酒等)がプラスチックの容器に変わると、桶樽の職人は仕事を変えねばなりませんでした。一部の高齢の職人は高度成長経済の中で人手不足の漬物業界で樽の修理をしつつ、生活していました。重石をのせるため、漬物に向くプラスチックの漬物用の樽は中々出来ませんでした。量が少なく、価格が高かったためです。静かに消えていったに日本の万能の容器・スギの木樽を考えて見る。
漬物と樽の歴史
普通、杉材の板を合わせて竹のタガ(輪)で締めたもので、正式名称を「結樽(ゆいだる)」といいます。15~16世紀に急速に普及した結桶・結樽は、その優れた特性から、産業や生活のさまざまな分野に取り入れられていきます。特に、醸造業や液体の輸送業(酒・醤油等)の分野でその有効性が発揮され、江戸時代の諸産業の発展の基盤を担っていました。樽は繰り返し何度も使え、資源を大切にするリサイクル容器だったわけで、不要になればバラすのも簡単で便利。空き樽も回収され流通していました。また、樽は適当に壊れ、樽製造の需用が創出され、スギの林業経営が成り立ちました。

桶と樽 : 脇役の日本史
小泉和子編
この本との出会いが自分の人生に変化がきました。
桶と樽の違いから、最初は九州大宰府付近の井戸の囲いのような底の無い木の筒のようで、井戸の中に土砂が入ることを防いでいたようです。遺跡発掘の年代調査で徐々に東進し、室町時代に九州から京都に着いたようです。
 タクワンの4種類の材料・資材が今の大阪府堺の地に集まったのです。
 瀬戸内の塩、干しダイコン、清酒醸造の過程で精米技術の発展があり、それに伴って米ぬかが余ってきた。そして杉の樽の発達。
 日本酒は樽が出来るまで壺や甕で醸造されていて、室町時代の物品税の酒壺税で、脱税するため、木の樽は夏場は解体して逃げていたようです。壺や甕より樽は軽く運搬にも容易でした。

結桶(結桶に蓋をつけたのが結樽)の歴史
 日本では11世紀後半の北部九州地域に発掘調査で井戸枠として作られた底のない結桶が出土してます。13世紀後半から14世紀になると瀬戸内以東の地域でも少しずつ出土例が確認できるようになります。絵巻物などの絵画資料や文献資料でも13世紀末から14世紀初頭にかけての時期から結桶の存在が確認できるようになります。15世紀から16世紀にかけての時期になると各地で結桶の出土が目立つようになります。結桶はゆっくりと各地に広がりました。
 15世紀以降結桶(結樽)が急速に普及してくる原因として結桶(結樽)製作技術の革新があったことが思われます。草戸千軒町遺跡で14世紀代に井戸枠として作られた桶の側板の側面に (やりがんな)と呼ばれる工具の痕跡が確認できます。やりがんな というのは、日本に古くからある大工道具で荒削りです。しかし15世紀の井戸材を観察すると、台鉋のような工具で一気に加工されていることが確認できます。台鉋は、製材用の縦挽鋸である大鋸などとともに室町時代に中国から渡来して日本に定着したといわれる工具ですが、 やりがんな に比べて正確で効率的な加工が可能になったと考えられます。隙間の出来ない木材加工が出来るようになりました。杉の木材の特性を生かした樽が誕生しました。壷や甕より軽く液体の漏れない容器が樽です。

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米ぬかを調べるために、麻布十番から都立中央図書館

2024年09月13日 | 宅老のグチ
猛暑というか激暑の日に米ぬかの文献探しで都立中央図書館へ行く。やはり都営の浅草線と大江戸線は異国人観光客で人が少ないのに荷物で混んでいる。
 アルゼンチン大使館の前のマンション建設が告知版によるとほぼ最後のコンクリ-トの打ち込みのようだ。この前に韓国大使館前の港区立の小学校の工事も最終段階だった。何か麻布十番は建設工事のど真ん中という感覚がある。良く例えで土地の価格から足の靴の土地はいくらと言っていたがもう渋沢栄一が一枚でなく、重なっている。建設工事は一部を除いて遅れてはいないようだ。
 図書館へ付いたのが11時少し前。早速図書の検索をするのだが、ほぼ海面の高さから図書館の海抜30Mを超える高さまで登ったので、汗が噴き出す。家では頻尿気味が図書館の丘昇りで汗が出て、トイレに行くことは稀となる。
 検索で米ぬかと入れると30冊を超える資料が出るが雑誌が多く、勘で出すのはやめて本を探す。
日本の食生活 安武律著 日本の食生活 全国食糧振興会 1993年刊行
 出された本を読むと、米ぬかの効用と全国各地の米ぬかの利用食文化が出ている。ほぼ漬物が多い。中身をパラパラ読みで、じっくり読んでみるか、古書の購入とするか決めかねて、家で判断することにし、3階の資料を探しに行く。
 3階には戦争の本があって、特攻の本を読む。
特別攻撃隊全史 この本は開架で叔父の昭和20年5月20日に鹿児島県知覧町から出撃した陸軍第50振武隊員9名を書き写す。小飛13というのが少年飛行兵養成所の出身で特攻時の年齢が若すぎる。大正の震災前後に生まれ昭和の時代に何も良い事は無かったのだろうか。第50振武隊は台湾と共同の作戦で、想像だが三角小屋での特攻までの待機時間が叔父達より長かったと思われる。
 もう一冊は今の観光地化した知覧の特攻平和会館の様子が描いてある本。読んでいると早田ひな発言が今の日本スポ―ツの人に沁みとおっているいる様子が見える。頭ごなしの訓話より、自分で追い込まれた時の対処の仕方を見つける場となっていて、広島・長崎の様に見た後も、周りの風景が記憶の咀嚼となり、残る気がする。鹿児島のビルまでは長い帰り道である。
 根気力が2時間で消え家に帰り、米ぬかの古書を検索する。出てきたので購入。
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沢庵漬を調べるため、品川区立歴史館へ

2024年09月12日 | 宅老のグチ
昨年秋に改装された品川歴史館へ、2026年京都二条城で開催される、寛永行幸400年の予備知識で、沢庵漬の命名由来(品川区の学芸員は否定している・自分も同意)の周辺を再度調べるためにいってみた。
 タクワン漬の文献があるのは東京では味の素食の文化センタ-図書室、練馬の石神井公園ふるさと文化館、板橋区立郷土資料館、中野区歴史館等がある。さらにタクワン貿易と言うことで、横浜の海外移住資料館がある。
 多くのタクワン漬の文献はそれぞれの視点が異なっていて、重なるところが少ない。ただ板橋区と練馬区は戦後に人口が急増し、練馬区が分離独立(こだわりの練馬区民の言い分)と称する時もあって、沢庵のダイコンが練馬の産と言うことから、命名されたという説は拒絶している感がある。でも現実は多くの農業地主がたくわんの原料である、昔ながらの練馬大根を社会科授業で洗脳教育をしていて、ふるさと文化会館に展示してある、肥え桶があるのに、臭いもないので誰も騒がない。60年前の練馬は住宅がドンドン建っていて、田畑が消えてゆく、漬物業者も消えていった。
 練馬大根は今の神奈川県秦野市付近のダイコン種が大山参りの練馬の人が種を持ち帰り、交配したという。しかし元になる種が宝永年間の富士山の噴火で、神奈川県が火山灰で埋もれ、秦野市の種が絶滅したという。秦野に小田急の東海大学前という駅は前の駅名が大根(おおね)という駅名だった。改称したのは昭和62年で地域の人がこのことを惜しみ、大根の地名由来の碑を駅付近に建てている。大根は三白と言われて、青果市場の重量野菜の中心。三白とは大根、白菜、キャベツを言う。
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日本食文化の中のタクワン

2024年09月11日 | タクワン
沢庵漬とは、糠と大根を交互に漬けて重石をのせて発酵させた漬物です。塩や糠で漬けた大根の漬物は、奈良時代の漬物の製造法を記した『延喜式』(930年)には、須々保利(すずほり)という漬物が記録されています。これは、穀類や大豆を臼で挽いて、それに塩を加えて床を作り、カブや葉菜などを漬けたというものです。干した大根を塩と糠で重石を利用して漬けるタクワン漬は何時ごろどのような人に作られ名付けられたのか?
説1 沢庵禅師が明の国より寛永年間に伝え改良した。糠漬の方法は、古くから中国にあったもので、和尚は、学問をしているから、その方法をよく知っていた。
説2 貯え漬と呼ばれていたのが転じてタクワン漬となった。
説3 品川東海寺の沢庵和尚の墓石が漬物の重石の形に似ていて、その重石を用いて漬ける大根の糠漬を沢庵漬と名付けた。
説4 沢庵和尚が紫衣事件で出羽国上の山(今の山形県)へ配流されと時、和尚は、付近の農民とともに、その研究と工夫をしているうちに、だいこんを糠と塩でつける方法をあみ出し、「貯え漬」と名付けたという。

説5 関西・九州地方では、糠と塩で漬け込んだ物を全て、「じゃくあん」亦は「じゃかん」と言い、その「じゃく」は「潤う」「艶やか」などの意味で、「沢」の字を当て、あんは「庵(イオリ)」に貯えたことから来ました。この「沢」と「庵」を音読みして、沢庵(たくあん)になったと言う。
説6 日本食物史 樋口清之著より 鎌倉時代に大根を生干しにして塩漬にするのに糖や麹を加えると味を増すことを知った時代だった。
説7 司馬遼太郎のタクワン論 叡山の定心房がたくわんの始まり.元三大師(10世紀末)のころ
他に、まだまだ諸説あります。

現在の日本のタクワンの日本農林規格(JAS)の定義

沢庵漬
農産物ぬか漬け類のうち、干しあげ(天日干しで水分を除くこと。)又は塩押
し(塩漬けにより水分を除くこと。)により脱水した大根を漬けたものをいう。

 この定義は今の普通に販売されているタクワン漬の商品表示で、この基準によって、公正な競争が保たれている。しかし時代の変化と農業の状況から糠を使う本来のタクワン漬が減り、省力が出来る規格に徐々に変わりつつある。今の主流の製造方法は調味液で漬けるタクワンとなっている。

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タクワン 糠の歴史1

2024年09月11日 | タクワン
糠 普通は米の糠 小麦の糠はフスマ糠という
 糠とは玄米を精米した時に出る胚芽や種子の粉。
ビタミンB1、B2、ナイアシンなどが豊富に含まれており、食用や肥料 として利用されてきました。
糠の発生の歴史は大きく分けて①江戸時代以前、②江戸時代から昭和40年以前まで、③昭和40年以後現在まで
沢庵漬の糠(ぬか)江戸時代
戦国時代から江戸時代に変わるころ,用水土木技術が非常に発達し、新田開発の年貢が優遇されることによってますます土木工事が盛んになった。江戸時代の農業は、地域の資源を大事に集め、狭い地域で循環を完結させる農業だった。草を刈って畑にすき込んで肥料となし、人や牛馬の糞尿は堆肥にして畑にまく。林では小枝だけでなく落ち葉を集めて使う。室町時代には草地や林地は水田や畑の面積の2倍を占めていた.行過ぎた江戸時代の新田の開発は洪水の多発を招いた。1666年頃に「諸国山川掟」という法令が出来て、新田開発が環境破壊をもたらすので抑制された。この後すでにできていた田畑をていねいに耕作することによって収穫をふやそうという政策に変わった.この政策は日本の基本的農業政策となり昭和30年代半ばに米が恒常的に余るまで続けられた。
室町時代の水田の面積より江戸時代初めには1.5倍の面積になり,元禄時代には3倍になっていたといわれている.水田の面積の拡大と農業技術の発達と共に米の生産量が増え,江戸市中の武士や町民は精白米を常食するようにまでなった。
江戸時代の農民は慶安のお触書〔なかったと言う説もある〕に書いてあるように米はなかなか食べられなかった。したがって糠の発生量も少なかったとおもわれる。しかし,都市において米の価格が低下すると白米を常食するようになり、かなりの量の糠が発生した。江戸時代の都市において米糠の利用方法として,野菜の肥料、糠袋による入浴用洗剤、家の掃除、沢庵漬、糠味噌漬等に利用された。新河岸川の舟運の歴史を見ると、江戸からの下りの荷物に、糠、灰、塩等の荷物がある。
 糠を使用した大根の漬物は江戸時代以前から存在していたと思われるが広く江戸市民まで食するようになったのは米糠が大量、安価に手に入った江戸時代中期以後である。
 この文章が誤りであると判ったのはもう少しタクワン漬の歴史を調べた後で知った。なぜタクワンという名称が残っているか禅僧沢庵の歴史を知らないといけない。
2026年 寛永行幸400年祭が京都で行われる。その関係者の中で重要人物の一人として沢庵が人間関係の隠れた中心人物となっている。
  

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今年のコメ価格は割高とは思えない

2024年09月10日 | 宅老のグチ
コメ不足の今、普通の年ならコメの売り場が新米の品と前年米が並んで売っていて、選択の余地があった。この時期に多くのコメ農家の情報が出ていて、それぞれのライタ―達の隠れた意図が見え隠れしている。貧困高齢者を相手にしている人は今のコメ価格は暴騰という。農水系の御用ライタ―は平年作で慌てないでと言うだけで、産地の知っている情報を小出しに提供している。惰性で継続している農水の政策がここで見直しとなるのが嫌っている様子が見える。
 築地市場の移転問題をずっと見ていて、公務員は自己の所属する部門の栄枯盛衰について関心があって、職場が消えることが最も嫌われる。さらに関心があるのが新規の予算獲得できる部署の新設。落ち目の業界には放置となる。これからコメの政策の見直しがあるが、惰性の減反政策は国防と見なされ予算の獲得となるが、農家の手度どりが増える知恵が無い気がする。焼け太りの政策が見える。
 戦後のGHQにより不在地主が淘汰されて、農業には新規参入が難しくなった。細切れな田畑が機械の大規模化で省力の効果が少ない。農地の管理を共同体にまかせ、移動耕作人によって機械の稼働率を上げるとかの方策が必要と感じる。農家は経営者であり、労働者でもある。さらに環境管理者でもある。その様な自営業者が副業の収入の方が多い。これでは優秀な人は都会に出て世界を知る。
 普通サラリ-マンから独立するには収入の3倍の見込みが無いと独立するには危険という。会社の保護が無いので病気となると事業が行き詰まる。同様に農家もなるはずだが、地域の助け合いで農業が維持されていたので危機感は薄い気がする。
 間も無く令和のコメ不足が終わる。そして来年はもっと早くコメ不足が始まる。自由なアメリカで貧困層が比較的に太っていて、裕福な人が痩せている。これは貧困層が手っ取り早く安価な食物でカロリーを維持している。ファストフーズは大量生産・大量販売の食品。ビッグサイズの飲み物・食べ物。
 沖縄県が本土復帰後に長寿の日本一の県だった。今は最下位に向かっている。その理由が米軍の払い下げ缶詰で食生活が不健康となったという。平均賃金が沖縄が日本一安く、安い食品は米軍の缶詰であった。安さは平時は不健康食品の誘惑を招く。
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下館陸軍飛行場の事

2024年09月09日 | 宅老のグチ
茨城県筑西市の中央図書館で陸軍飛行場の資料を探して出してもらった。
下館飛行場での学徒勤労動員 著者下商二二会 出版年2010年
太平洋戦争下の茨城県立下館商業学校と二十二回卒業生学徒勤労動員の記録

 この著者から、下館商業高校は戦後に今の下館一高校となっている。この高校の学高歌が西條八十作曲で始まりが筑波の西の緑野となっている。市町村統合合併の時に、下館の地名を付けず、築西市としたのは,この学高歌から来た気がする。
 この本は戦後に書いた文章なので、検閲もなく気楽に当時の事が書かれていて、今の高校生と同じだがやはり戦時と言うことで、押し寄せる米軍の攻撃機の不安を抱えつつ、飛行機整備で働いていた。赤とんぼという複葉機が主な練習機で、最後の方の文章では、練習機の後部座席を外し、そこに爆弾を搭載している様子が見える。特攻仕様と言うことが整備の彼らも知っていたようだ。この赤トンボという複葉機は羽が布製で防水塗装してあって、レーダ-に映りにくく、さらに速度が遅く、米軍が飛行機と認識することの漏れがあって、何機か特攻に成功していたと言う。この成功事例がまた赤とんぼの特攻改修を招いた。特攻の文献を調べてゆくと、米軍が日本の飛行機が燃料が足りないので、攻撃が終われば引き返すと思っていたので飛行機が突っ込んで自爆するとは思っていないようだった。この戦果が特攻の戦術を本格的にしてしまった。
 図書館の本には勤労動員生徒が今の関東鉄道の下館駅から次の駅 大田郷駅まで行き、歩いて飛行場まで行っていた。自分は図書館の帰りに、下館駅のタクシ―で靖空神社を目指した。
住所 築西市藤ヶ谷2698-1  藤野・西原田園都市センタ-
 地図から飛行場通りと言う通りの所にあるようだ。下館駅からカ―ナビの距離はおおよそ3キロ弱であった。着くまで運転手さんとの話。
 もっぱらコメの様子。丁度稲刈りの風景が始まっていて、様子から農家が早めの刈り取りが感じられる。田畑には太陽発電の機器が増えている様子が見える。ガソリン価格が166円で東京より3円高い。
 今年は収穫後の農家に保管してあるコメの盗難があるのでないかと言うと、毎年の様に農家でコメの盗難があるという。今年のコメ不足は早めに販売しないと価格が下がり、さらに盗難もあると思われる。この辺りが日本の農政のデジタル化の遅れで、盗難行為を容認している。農産物の販売で取引が不明でも流通する。高価な農産物がデジタルの遅れで犯罪行為を誘発する。これはコロナの給付金でも起きた。制度の不備の自覚でも、時には犯罪となる。農家にとっては商品なのである。

 80年後の今に残る下館飛行場跡は通り名で飛行場通りと靖空神社。訪問した神社は何か移設感がある。

 家の帰って調べると下館の飛行隊員の「 疾風の碑」は、下館駅近くの妙西寺の敷地内にあります。このお寺は、陸軍の宿舎になって戦後に訪問した隊員によって建てられた。同所に加波山事件の被告人の墓もあるという。疾風の碑の疾風は戦闘機疾風で赤とんぼのあとの練習機・戦闘機のようで本土決戦用と思われる。
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茨城県築西市で陸軍の飛行場跡探し

2024年09月08日 | 宅老のグチ
茨城県で築西市というのがある。聞きなれない市名で20年ほど前に町村合併をした市で主な町はJR水戸線が通っている下館市である。なぜこの町が気になったのかは靖国神社の図書室で叔父の写真が陸軍特操一期生写真集で、宿泊場所か教室の前で写っている写真が下館の飛行分教所となっていて、叔父の軍歴照会と異なっていた。

 軍歴には 兵役歴 昭和18年11月1日 宇都宮陸軍飛行学校に第一期特別操縦見習士官として入校
          昭和19年3月19日 同校終了退校
          同 日 第37教育飛行隊に転属
          同 日 宇都宮出発

まずこの日時が後で気が付いたのだが他の陸軍特別操縦見習士官の記録では、入校日は10月1日でそれから6ケ月で卒業すると思っていたが実際の軍歴から4か月と20日ばかりの訓練で飛行機が乗れたのだろうか。即製の飛行士養成の学校であった。陸軍の飛行士養成学校の動画が少なく、多くは海軍でほぼ同じと思われるがどこかで一度確認してみたい。
 
下館の飛行分教所を都立中央図書館で地域史を探したところ、築西市となっていて、下館市史を調べたが記述が少なく、現地に行って調べてみようと思った。交通を調べると東京から下館に向かう方法は車が一番便利である。しかし自分自身の方針で出来るだけ2時間の根気、注意力の限界を超える時間は避けたいと思っているので、電車で行くことに決める。
 行きはJRの宇都宮線で小山駅で乗り換え水戸線で下館で降りる。筑西市の中央図書館は下館駅から、線路添いに水戸方面に歩いて行ってほぼ十分のところのある。3本の鉄道の集結地であるのに駅は広いが繁栄感はない。駅前の一等地に築西市役所があって、多くの公共施設が駅前にある。従って訪問した土曜日は超閑散。ぶらぶら歩きで図書館のの方に向かって歩く。駅前で見た地図で川の手前に図書館がある。大きな通りで図書館の駐車場の標識を見て向かう。図書館の敷地に忠魂碑がある。多くの人がこの地でも亡くなっている様子が解かる。碑の向こうは川。それから図書館に入り、郷土資料の場所を聞く。どうやら2階の隅にありそうで、本を眺めると忠魂碑という題の本が2冊あって、昭和59年7月と60年1月に刊行された。著者は海老根功という人。本は記憶の薄れた慰霊碑の由来を求めたら、すぐに茨城県の人から集まり、確認して本にした様だ。この時期は慰霊碑に関して、公費による慰霊碑の移転費用の負担問題で訴訟があって(最高裁判所判決平成5年2月16日:箕面忠魂碑事件)遺族会の危機感があったと思われる。一つの訴訟によって惰性で行われた行事が危機管理と費用の問題で変化する。築地市場で市場祭りが人気があって、開催された時は新聞報道で15万人が来たという報道があった。その後に兵庫県明石市の花火大会で、歩道橋で圧死者が多数出て、花火開催者が犯罪者となってしまった。そこから警備が重要となり、人件費増から今年は花火大会の中止が増えた。
 あと郷土史の所で戦前の憲兵が戦時の工場で怠けている労働者の志向摘発の様子の本があった。この内容では軍事工事用で怠けていると共産主義者の疑いをかけられる様子が見える。
 郷土史の所で下館飛行場の情報が見つからず、司書さんに依頼し、探してもらった。
 
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中国並みの農水のおコメがあるよ報道

2024年09月07日 | 宅老のグチ
日本の政府がマスコミに向けておコメがあるよと言う誘導報道をしている。コメの消費が落ちていて、米作の減反を継続していて、コメ不足を全体とした諸制度が中々切り替えられない。
 10号台風のあとで日本は比較的に晴が続いているので、コメの産地は何か収穫が早くなる気がする。高騰している新米はス-パ-等で毎日入荷しているにも関わらず、どうも午前中に売り切れている。比較的食品売り場で面積の取るコメ売り場は広い空き棚に、ポスタ-がお詫びと入荷してもおひとり様1袋と煽っている。この時期はもう9月なので普通は高価格の新米が棚にあふれているはずだった。
 コメ不足の言い訳で納得がゆく見解を分析すると、昨年の猛暑でコメの収穫量が減っていたという。しかし作柄が100はあったと記憶する。そこでコメの品質が暑さで悪い。悪いコメが外食と激安量販店に向かうがコロナ明けと外国人観光客の飲食需要の増大で、ひっ迫感が出来て、欠品が米で出てきて、口コミ情報で普通のス-パ-のコメの売れ行きが良くなった。そこに小麦系の食品が円安で値上がりして、相対的に割安なコメに需要が向かったようだ。急に需要が増えた量販店は契約で縛られているので、値上げと量の確保が難しい制度で、野菜のような毎日変動するものでもない。そんな野菜でも毎日の変動価格にしている所は少ないと感じる。
 9月が終われば今年のコメの収穫が終わる。量と品質が解かる。体感的には梅雨明けが早く、猛暑という年と思うので米の品質は良くないはずと思う。この辺りは農林水産省の分析を早めにして、地球温暖化の対策をするべきである。気温の低い東北と北海道の減反は抑えないといけないと感じる。
 さらに国民へのコメの在庫の安心感の演出で低温度で保管しているコメの備蓄施設の公開も必要となる。特に都会の小学生に食料の備蓄施設を見せる必要がある。戦後の一時期を除いて食の不安が消えた日本はたまにある災害時の欠品騒動で思わぬ購買行動に出る。コロナでマスクと手洗いの洗剤、トイレットぺ-パ-の騒動。もう忘れている。
 コメ安心報道規制は失敗すると来年はひと月以上早く米騒動が続く。それは日本政府が制御できない地球温暖化である。今中国の最南部に台風11号が間も無く上陸する。一時905という気圧で今年の最強台風。この様子は動画で見ることが出来るはず。天候はまだどの政府も制御できていない。
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九段下 昭和館で慰問

2024年09月06日 | 宅老のグチ

 都営新宿線九段下駅で降りて、昭和館という施設に行った。ここは昭和の時代の遺品箱もの施設で、自分は4階にある図書室で北白川宮能久親王の文献探しをしている。
 図書室はいつも一人くらいしかいないが、訪問した日は小学生の社会科見学で10人以上の小学生が図書室でウロウロしていた。何かおかしいとおもい、昭和館の入り口で慰問というイベントが行われていたので文献探しを終えたら、行ってみた。
 今でも日本では自然災害のあとで落ち着くと被災者の所で慰問が行われる。先の戦争の時、故郷を離れて戦地に立つ兵士のために、慰問品を送ることが銃後の務めと奨励され、小学生まで慰問品・慰問文を送ることが奨励されました。
 また多様な物品のほかに、慰問団というのがあって、漫才・落語家や今の吉本興業の前身の人達がお笑いの慰問団を戦地の兵士のために巡回していました。
 戦況が悪化すると、特に海軍の慰問は軍事物資の輸送で慰問の品や慰問団の輸送が困難になって、慰問の物からお金に変わっていった様子が見えます。
 戦争が本格的になる前は、各地の百貨店の催事で慰問の商品の新規格品が現れています。慰問と実用にあう、弾除けメダルもあって戦時と言っても商売の工夫が感じる。

 展示物を見ている小学生は80年前の学校で何をしていたか感じて、平和ということは当たり前の世界で無いことを知ってほしい。今はウクライナ・パレスチナのガザ・イエメン等で常時爆弾が破裂している。水・食料‣電気等の不足している。
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埼玉県越谷市中央図書館へ 2 SBカレ―創業者の本

2024年09月05日 | 宅老のグチ
埼玉県越谷市中央図書館で大袋小学校の100年誌を読み終わると、越谷まで来て収穫が無いので、郷土資料のあるところで本棚を眺めていた。
 年を取ってしまって、分厚い本を読むには図書館から借り出して読むか、何回か通って2時間で読める範囲の読書となる。都立中央図書館通いは、散歩の歩数稼ぎと時間のつぶし、それに世間の変化が電車内に現れる。特に空港と浅草を結ぶ都営浅草線は絶好の観察場である。また図書館の本で歌舞伎の筋を調べていた時、大人むきの本は通人のための解説本で文化的・歴史的背景が詳しく書いてあるが、自分の歌舞伎見物はあくまでも漬物の文献のための基礎知識取得であって、歌舞伎通にはなりたくないと思っている。そこで歌舞伎の本は小学生向きの解説本を借り出して読む。実にわかりやすい。

 越谷の図書館郷土資料室で、地域史の所に薄いマンガ本があって手に取ると松伏町の教育委員会の作成した小学生でもわかる、郷土の偉人本だった。
マンガふるさとの偉人 山﨑峯次郎物語


松伏町出身で、日本で初めてカレー粉製造に成功したエスビー食品創業者、山﨑峯次郎(1903~74年)の半生を描いた本だった。この本は誰でもネットで見ることが出来る。実にSBカレ―広報と行政がうまく行っているとおもう。食品における誠実さと創意工夫が日本でのカレ―食の普及の基礎知識となるマンガ本。

 エスビースパイス工業埼玉工場
埼玉県北葛飾郡松伏町大字築比地1032
 今でこそ道路が整備され、工場で生産されても出荷がスム-ズになったと思われるが70年前まで隣の庄和町(今は春日部市東中野)に行く時、江戸川の野田橋からSBのロゴに似ている道案内看板を見ていて、こんなところにカレ―のSBがあるのは不思議と思っていた。今では国道4号バイパスと国道16号があるので工場立地としておかしくない。しかし現地に行ってことのある人にとって、江戸川土手の高さはびっくりするほど高い。この松伏地域付近は昭和22年9月のカスリ-ン台風で水没した地域で山﨑峯次郎さんの出身地でもある。

 カレ―ライスの福神漬の関係は不思議だが、やはり気になって本を手に取ってみた。


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