後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

今年はじめての海岸禅寺の白梅の開花

2018年01月30日 | 写真
今年は太平洋岸にも大雪が降ったり寒気が続いたりして寒い冬になりました。
小金井市の早咲きの海岸禅寺の梅の開花も一週間以上遅れています。毎日のように車で前を通り、その梅の木を観察していました。
それが昨日行ったら見事に三分咲きになっていました。嬉しくなり車を梅の木の下に入れ写真を撮って来ました。ほのかに良い香りも漂っています。

1番目から4番目の4枚の写真は今年初めて咲いた梅の花の写真です。この梅の木は一本だけお寺の庭の前の駐車場に立っていて、毎年一番早く咲き出す梅の木です。

梅の木のある海岸禅寺は臨済宗妙心寺派のお寺です。海岸禅寺の創建年代等はよく分っていませんが、江戸時代の元文元年(1736)作られたことは確かです。

まだ三分咲きなので黒い枝が目立っています。しかしよく見ると満開になっている花もあります。

梅の木の下には一週間前に積もった雪がまだ残っていて風情ある風景になっていました。

この5番目の写真は去年の1月30日の小金井公園の梅林が満開になっている風景写真です。小金井公園の梅林は海岸禅寺の梅よりも毎年10日遅れで満開になるのです。今年はまだまだです。
去年の小金井公園の風景は2017年01月30日掲載の、「今年も梅が満開になりました、そして梅花の漢詩」に出ています。

昨日は写真を撮るのは家内に任せ、私はお寺の住職さんのことを考えていました。
このお寺は京都の妙心寺を本山とする禅寺です。本堂の裏には墓地の無い修行を専門にしているようなお寺です。
内庭が何時も綺麗にしてあるのでいつも散歩に行くお寺です。墓地がないので墓参りの人も来ません。静寂がお寺を覆っています。
江戸時代に流れ大工の作った山門が時代の変化を見つめているだけです。
お寺の住職の役割とは何でしょうか?

そんなことを考えていたら今朝の読売新聞の31ページに福島原発の爆発で放射能の灰を浴びた地蔵院というお寺の住職の石黒有高(37歳)さんのことが紹介されていました。
福島原発から10km以内にあった地蔵院の家族と檀家の人々は全国に散りぢりに避難しています。自分達は水戸の仮設住宅に避難しました。
そして各地に避難した檀家の法事にはお経をあげるために、どんなに遠方でも車を運転して必ず行くそうです。
そんな檀家の一人のおじさんが避難先で亡くなりました。石黒有高さんが幼少の頃に親切に遊んでくれた懐かしい近所のおじさんです。そのおじさんのお葬式をすませ、遺骨を車に乗せ福島の地蔵院にある墓に埋葬するため帰りの車を走らせます。車の中で石黒さんは遺骨に話かけます。
「おっちゃん、帰ろうか」 

さて東日本大震災では被災地にあるお寺は人々の避難所になりました。そして少し落ちついて来たころには犠牲者の遺体の安置場所になりました。住職さん達は宗派にとらわれず連日、連夜、お葬式を続けたのです。
この様子は宮城県の曹洞宗の住職の浄心さんの趣味人倶楽部の日記に書いてあります。その趣味人倶楽部というSNSでの浄心さんの仮の名は桃太郎です。
その桃太郎さんの日記は、『破戒坊主』桃太郎の日記、趣味人倶楽部(https://smcb.jp/diaries/7578622 )からご覧になれます。
上に、「お寺の住職の役割とは何でしょうか?」と書きました。
住職さんの役割は檀家さん達のお世話をするだけで良いのでしょうか?
そうではありません。
お釈迦さまの教えを深く理解し、それを人々に伝えるのも住職の重要な役目です。
上で紹介した浄心さんはこれもきちんと行っています。
厳寒の12月に8日間続けて座禅をしてお釈迦さまの教えを深く理解するのです。これを曹洞宗では「臘八摂心会」と言います。
それを浄心さんと檀徒の「又やん」と以前の弟子の元照さんの3人だけで行ったのです。
その様子は以前の私の記事、「お釈迦さまの教えを深く理解するためには宗教的訓練が必要」(2017年01月15日)に紹介してあります。

何故、私は浄心さんをことさら取り上げて、ご紹介するのでしょうか?
理由はたった一つです。彼は時々お釈迦様を疑いながら、それでもお釈迦様を信じているのです。信じようとして毎日の修行に励んでいるのです。お寺の財産は竈の灰まですべて檀家の物だと考えています。お寺の会計は檀徒に任せているのです。しかしお金を稼ぐためにお葬式で読経します。しかしそれはお金を得るための行為であり宗教活動ではないと明言しています。こんな住職さんが沢山いれば寺院仏教も衰退しなかったと思います。

今年はじめての海岸禅寺の梅の開花の写真から随分と話がそれてしまいました。いつもの癖なのでご寛容下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)


絶滅寸前のヨーロッパの少数民族(6)絶滅する必然的な3つの理由

2018年01月30日 | 日記・エッセイ・コラム
少数民族の文化を大切にし地球を豊かな多様な文化のある惑星にしよう。少数民族も他民族と平等な権利を有し、幸せに暮らせるようにしよう。博愛主義が全ての少数民族へも行き渡るようにしよう。これらは全て理想に過ぎません。
客観的に観察すると少数民族を取りまく現実は過酷なものです。
私は少数民族のことをいろいろ調べていますが、現実は厳しく、彼等は近い将来絶滅するという悲観的な考えを持っています。
その絶滅する理由は3つあると思います。
今日はまずこの3つの理由を書きます。そして絶滅しそうな民族の実例として6つのロシアの少数民族の写真をご紹介したいと思います。
(1)少数民族は周りの多数民族に比べて圧倒的に貧しい。
少数民族は孤島や奥深い山岳地帯や北極に近い極寒の地に生き残っています。オーストラリアの乾燥地にいます。南米のアマゾンなどの深い森の中に孤立しています。アフリカの奥地にいます。
全て辺境な土地で生活条件は過酷を極めます。他国の工業の発達や経済成長に完全に取り残されています。
当然、少数民族は他民族に比べると圧倒的に貧しい状態にあります。
(2)少数民族は自分固有の言語や伝統文化を捨て経済的に豊かな生活をしようとします。
この結果、少数民族の言語や文化は内部から崩壊するのです。
例えばカナダ北部のイヌイット族は英語を勉強しカナダやアメリカの会社に就職します。アザラシ猟で不安な生活を続けるよりも格段に生活が楽になります。若者達はイヌイット族の村を出てカナダ本土やアメリカに移住し、村には老人だけが残ります。
少数民族が少しでも経済的に良くなろうとするのを、誰に止める権利があるのでしょうか?
アメリカに移住したイヌイット族はそこでアメリカ人と結婚して子供をつくります。こうしてイヌイット族は自然に消滅して行く運命にあるのです。
このような貧しさ故の少数民族の内部からの崩壊は世界中で見られる現象です。
これを悲しむのは経済的に恵まれた人々の感傷に過ぎません。迷惑な感傷です。
(3)周囲の多数民族の同化政策と圧迫により少数民族の言語や文化は外部から崩壊させられる。
卑近な例は北海道のアイヌ民族です。江戸時代までは北海道はアイヌ民族の土地でした。南端の松前藩は別でしたが。
それが明治になって政府は北海道のアイヌを差別しながら同化させるために「土民法」という法律を作り、アイヌ民族を日本国民として組み入れる政策を進めたのです。この同化政策にもかかわらず、終戦後まで北海道のアイヌ集落は存続していたのです。
しかし戦後の日本の経済成長に従ってアイヌ民族の数は急速に減少したのです。
有名なアイヌ人の萱野茂さんが(1926年 - 2006年)二風谷アイヌ資料館を創設し、参議院議員(1994年から1998年)になったのは有名な話です。そして参議院の委員会で史上初のアイヌ語による質問を行ったのです。それにもかかわらずアイヌ民族は衰微して行くのです。
このような例は世界中にあります。世界の先進国は自国内の少数民族の保護政策を実施していますがなかなか効果が上がらないようです。
上記の(3)の理由は排除出来ますが、(1)と(2)の理由を排除することは至難の業なのです。

以下では絶滅しそうな民族の実例として6つのロシアの少数民族の写真をご紹介したいと思います。
写真は次のHPからお借りしました。
『マンシ、コリャーク、ンガナサヌィ… ロシアの絶滅しそうな少数民族』http://osoroshian.com/archives/37793045.html

マンシ族、ハントィ族、アルチ族などは絶滅しそうな民族です。よく考えると、数少ない民族を絶滅させないようにすることは、絶滅しそうな動物を守るのと同じくらい難しいものです。この記事ではロシアの絶滅しそうな民族を紹介します。
ロシアには独自の言葉と文化を持つ民族がおよそ200あるそうです。国勢調査によると、民族によって10人しか残っていない民族もいるのです。その10人がいなくなると同時に彼らの知識と文化も消えてしまうのです。それでは写真を示します。

1、マンシ族はハンティ・マンシ自治管区の先住民である。ハントィとは近い親戚。現在、およそ12,000人がロシアで暮らしている。

1番目の写真はマンシ族です。

2番目の写真はマンシ族の夏の風景です。

2、コリャーク族

3番目の写真はコリャーク族です。
犬ぞりのマッシャー(乗りて)はイルピリ村の住人です。
カムチャッカの北部に暮らすこの民族は現在6,000人しかいない。世界で最も北に住む民族の一つ。

3、ンガナサヌィ族

4番目の写真はンガナサヌィ族です。
この民族はクラスノヤルスク州のタイミル地方に住む。ユーラシアの一番北で暮らす民族だ。860人。自称は「ニャ」(友という意味)

4、ドルガヌィ族

5番目の写真はドルガヌィ族です。
テュルク諸語を話す民族の中で世界で一番北に住む民族。ロシア正教を伝えたコサックたちはドルガヌィ人に自分達の苗字を与えた。クドゥリャコフ、ジャルコフ、チュプリン、ポロトフ等。その苗字は今でも残っている。
現在8000人以下。クラスノヤルスク州とサハ共和国で暮らしている。

5、テレウトィ族

6番目の写真はテレウトィ族です。 西シベリアの南の遊牧民から出てきた民族で現在ケメロヴォ地方に住んでいる。

6、イテリメン族

7番目の写真はイテリメン族です。カムチャッカのインディアン。「イテンメン」(「ここに住んでいる」)という名前の発音が変化しこの様な呼び方になった。

それにしてもこの21世紀にもなってもロシアだけでも多数の少数民族が生きていることに驚きます。奇跡のように思われます。
彼等が何時までも幸福に存続することを祈らざるを得ません。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

スペイン内戦とフランコ将軍独裁に何故日本人は無関心か?

2018年01月28日 | 日記・エッセイ・コラム
第二次世界大戦の直前に起きたスペイン内戦と、それに続くフランコ将軍の36年間の独裁政治には日本人がほとんど関心を示しません。
まあ日本に直接関係が無いから当然かも知れません。しかしヨーロッパ世界の本質と多様性を理解し、現在のヨーロッパ連合、EUの将来を考えるために幾つかのヒントを与えてくれると思います。
そこで今日は何故日本人が関心が無いか?その理由を3つに纏めて考えて見たいと思います。

まず1936年から1939年まで続いたスペイン内戦とは何かを書きます。
その内戦は1931年に王制を廃止した共産主義的な共和政府に対して1936年に武力クーデターを起こしたフランコ将軍一派との戦いだったのです。
共和政府側をソ連とメキシコが軍事支援をして、フランコ将軍一派をドイツとイタリーの独裁政権が実力を用いて支援したのです。
ピカソの「ゲルニカ」と題する絵画で有名な都市、ゲルニカをドイツの空軍が凄惨な爆撃をします。
その一方、アメリカやヨーロッパ諸国の自由を愛する人々が志願兵として共和政府側の戦線で戦ったのです。この国際的な志願兵は「国際旅団」として編成され戦ったのです。
ヘミングウエイなどの有名人などが「国際旅団」を支援し、映画にもなった「誰がために鐘は鳴る」という小説は「国際旅団」を題材にしたものでした。日本では「国際旅団」のロマンとグレゴリーペックが扮する男とイングリット・バーグマンの愛の物語だけが強調されています。
しかし「国際旅団」はソ連の国際共産党機関「コミンテルン」から派遣された国際義勇軍が主体だったのです。そしてその旅団は55ヶ国から4万人ほどの青年と、2万人に及ぶ医療関係者が志願して参戦したのです。その隊員の85%が共産党員であり、またその出身階層を見るとインテリが45%、労働者44%などとなっていたのです。
結果的にはフランコ将軍一派が勝利して、1939年に全スペインでは1975年までフランコ将軍の独裁政権が36年間も続いたのです。
詳しくは2013年6月16掲載の拙文、「複雑怪奇なスペイン内戦の、明快至極な説明を見つけました!」にも書いてあります。

以上のようにスペイン内戦とフランコ将軍の独裁はヨーロッパ世界の一大事件でした。
しかし日本人はほとんど関心がありません。
その理由を考えて見ると以下の3つ位な理由に要約出来るのではないでしょうか?
(1)明治維新以来、富国強兵を国家目標にしていた日本にとってスペインは全く役に立たなかったので無視してきた。
(2)スペイン内戦はソ連とドイツの国際戦争の側面が強かったのに日本人はそのことに気が付いていなかった。
(3)国際旅団に日本から参加した者はいなかった。
もっともアメリカ在住の函館出身の日本人のジャック石井が参戦し華々しく戦死したのが有名ではありますが。
上の3つの理由に詳しい説明を加えるとあまりにも長くなりますので簡単なことだけ付け加えておきます。
まず(1)について、日本の富国強兵をの手本にした国はイギリス、フランス、ドイツ(プロシャ)だけでした。この3国は富国強兵に必須な科学と技術が格段に進歩していたのです。日本の大学の外国語教育は英語、ドイツ語、フランス語だけが飛びぬけて強化されていました。技術者にとって英語やドイツ語の論文を素早く読み、日本へ進んだ技術を導入することが非常に重視されていたのです。
科学や技術の世界ではスペイン語は全く無視されていました。
(2)に関しては日本人がスペイン内戦の複雑さが理解出来なかったのです。それはスペイン共和国政府軍とクーデター軍のフランコ将軍の間のつまらない内戦としか理解されなかったのです。しかしそれは共産主義勢力とローマ法王の間の戦いでもあったのです。
台頭するソ連を叩くフランコ将軍はイギリスやフランスにとっては良い光景だったのです。ですからこそイギリスとフランスは中立の態度をとったのです。
(3)に関して付け加えることは1936年、昭和11年は日本が日中戦争の前哨戦と満州建国に忙しく、一方軍国主義が強化しつつあったのです。日本共産党は治安維持法で動きがとれず、「国際旅団」への志願兵の派遣など不可能でした。

このような情勢だったので、第二次世界大戦の直前に起きたスペイン内戦と、それに続くフランコ将軍の36年間の独裁政治には日本人がほとんど関心が無かったのでしょう。

今日の挿し絵代わりの写真はスペインの首都マドリッドの北86kmにあるセゴビアという町の風景写真です。
セゴビアには古代から人が住んでおり、現在の位置にはケルト人の城があったそうです。
セゴビアは、古代ローマ時代すでに都市として栄えていたところで、その名残りは、ほぼ完全に保存されている水道橋に見ることができます。アラブ時代に入ると、織物が盛んな町としてセゴビアの名は全国に知られるようになりました。しかし、なんといっても、15世紀がセゴビアの黄金時代といえるでしょう。それは、イサベル・ラ・カトリカ女王が活躍した時代ですし、彼女は、ここで載冠式をあげています。海抜1000メートルの高原にあり、緑が多く起伏のある美しい町だそうです。背後にグアダラマ山脈をひかえ、エレスマ川とクラモレス川にはさまれた部分は、遠くから眺めるとまるで船のようだといわれます。仮にセゴビア城を船首にみたてると、船尾はローマの水道橋あたりだというそうです。〈情報提供:スペイン政府観光局 http://www.spain.info )

セゴビア旧市街とローマ水道橋の絶景画像 の写真の出典は、https://dlift.jp/photo/photoDisplayWorldHeritage478 です。
ローマ水道橋はスペインの世界遺で、728mあり、 紀元1世紀頃建造されたそうです。今も現役のスペイン最大規模の水道橋です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)








今週降った雪、東京郊外の雪の記録写真

2018年01月28日 | 写真
雪国の人にとっては降雪ほど嫌のものが無いかも知れません。特に高齢者は家の周りの雪掻きもままならず、暗い家の中に閉じ込められる日々が続きます。
しかしたまに降る雪なら話は別です。空から白い雪片がヒラヒラ舞い降りてきて全てが銀世界に変わるのです。
それは美しい風景です。
今年は1月22日の月曜日に雪が降り、翌日の朝まで20cm以上に積りました。そしてその後も寒い日々が続き、現在でも、この窓の外の庭には沢山の雪が残っています。
こんなに多量の雪が積もったのは2年前の1月17日以来はじめてです。しかし2年前の雪は暖かい日が続いたのですぐに消えてしまいました。
昨年は庭に雪が積もったことがありませんでした。
そんなことを思い出し庭木の上や車の上に積もった雪の記録写真を撮りました。
そして3日ほど前に小金井公園の広場の雪景色も撮りました。
その上昨日は武蔵野公園の雪景色も撮りに行きました。
自分が住んでいる小金井市は東京の西の郊外で大きな小金井公園と武蔵野公園に囲まれ、大木も多く積もった雪が何時までも残っています。
先週の最低気温も都心では零下4度前後でしたが小金井は八王子市と同じ零下6度くらいでした。
たまに降り積もった雪が珍しいと記録写真を撮るのは老境の楽しみの一つです。詰まらない楽しみですが撮った写真をお送りします。
写真は庭木の上や車の上に積もった雪の写真と、続いて小金井公園と武蔵野公園の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)









今年はいよいよ憲法改正に動き出し戦争が出来る国になる

2018年01月25日 | 日記・エッセイ・コラム
今国会で安倍総理は、各党が憲法改正の論議を始めるようにという趣旨の演説をしました。
いよいよ今年は憲法改正に動き出し、日本は戦争が出来る国になるのです。
戦争が出来る国になっても絶対に戦争をしない国になるのでしょうか?
多くの人は危惧しています。先の大戦で日本人は戦争の悲惨さをいやというほど体験しているのです。骨身に沁みているのです。
そこで今日は憲法改正に至るまでの手順を分かり易く書いてみたいと思います。
簡単に言えば、衆・参両院での3分の2以上の賛成により国民投票にかけられ、国民投票の過半数の賛成によって憲法改正が成立します。
このように書けば簡単明瞭ですが、安倍総理は衆・参両院での3分の2以上の賛成を得るためにいろいろな政治的な駆け引きをしなければいけません。いろいろな注意深い準備が必要なのです。
本当に今年中に両院で3分の2以上の賛成が得られ、2019年中に国民投票で50%以上の賛成が得られるでしょうか?
国民投票で廃案になってしまったら日本は大混乱になります。
ですから国民投票まで世論調査を何度も行って50%以上の賛成が得られる確信を持てなければ国民投票は出来ません。安倍総理は2020年には国民投票で賛成多数で憲法改正を完成する予定です。

さてもう少し詳しく考えてみましょう。
憲法改正は日本国憲法96条を根拠にした国民投票法を用いて行われます。国民投票法は通称で、正しくは「日本国憲法の改正手続に関する法律」と言います。
そして 憲法改正の手順としては国会での成立、国民投票、を経て2020年に公布する予定です。これはあくまで安倍総理の希望です。
安倍総理は本年中に国会へ提案をしたいと言っています。
憲法改正の提案は通常の法案提出とは異なり、衆議院100人、参議院50人の賛同によって憲法改正原案が国会に提出されるのです。
その為にはまず衆・参両院の憲法審査会にて憲法改正原案が審査されます。両院ごとの憲法審査会の過半数の賛成で可決されます。それが終われば本会議に提出出来るのです。

そして衆・参両院の本会議にてそれぞれ3分の2以上の賛成で憲法改正が可決されます。この際、衆議院の優越などは適用されません。
両院本会議での可決を以って国会による憲法改正発議が行われ、国民投票にかけられるのです。
改正案が複数条項ある場合には、関連項目ごとに提出され、審査、可決の手段を取ります。
そして国民投票ですが、この重要な投票は国会発議後60日〜180日以内に実施されなければなりません。投票権は18歳以上の日本国民で、また在外邦人を含みます。
国民投票は「賛成」「反対」の二者選択です。投票総数の過半数の賛成で憲法改正案が成立します。現時点では最低投票率は設定されていません。
さて国民投票は2019年あるいは2020年に想定されますが、果たして過半数の賛成が得られるでしょうか?
現時点の世論調査をみてみましょう。世論調査はいろいろありますが、ここでは時事通信社の2017年12月の調査結果を示して置きます。

『来年の改憲発議、反対7割=内閣支持42%に減少-時事世論調査』 https://www.jiji.com/jc/article?k=2017121500764

1番目の写真はこの世論調査の結果を示す図面です。
時事通信が2017年12月8~11日に実施した12月の世論調査によると、憲法改正の提案を来年1月召集の通常国会で行うべきかどうかについて、「反対」が68.4%と7割近くに上った。安倍内閣の支持率は前月比2.8ポイント減の42.6%、不支持率は同1.0ポイント減の36.1%だった。
 来年の改憲提案について、「賛成」は20.9%。これに対し、「改憲を急ぐことに反対」が51.3%、「そもそも改憲に反対」が17.1%で、反対意見の合計が賛成を大きく上回った。自民党支持者でも反対が50.6%と半数を超え、賛成は42.9%だった。
改憲で優先すべき項目を複数回答で聞いたところ、「国民の知る権利の拡大」が36.0%で最も多く、「教育無償化」35.9%、「緊急事態条項の創設」28.3%と続いた。安倍晋三首相が意欲を示す「9条改正」は20.8%だった。「内閣による衆院解散権の制約」は13.8%。

 先の衆院選を受け、内閣支持率は11月調査で8ポイント超上昇したが、2カ月ぶりに減少に転じた。学校法人「森友学園」「加計学園」の問題をめぐり、首相らが特別国会で追及を受けたことなどが響いたとみられる。
 内閣を支持する理由(複数回答)は、「他に適当な人がいない」18.8%、「リーダーシップがある」12.6%、「首相を信頼する」10.5%の順。支持しない理由(同)は、「首相を信頼できない」21.0%、「期待が持てない」16.5%、「政策が駄目」12.6%などとなった。以下省略。(2017/12/15)

この世論調査によると安倍総理は急ぎ過ぎているようです
もし憲法が改正されれば日本は戦争が出来る普通の国になるのです。
如何でしょうか?皆様のご意見をお待ちしています。

挿し絵代わりに海上自衛隊の船の写真をつけました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)







外国人観光客が日本を絶賛する5つの理由

2018年01月25日 | 日記・エッセイ・コラム
最近テレビを見ていると外国から来た観光客にインタビューして日本の感想を聞く番組が多いことに気がつきました。そのような番組では彼等は日本を褒めているのです。
しかし70年、80年と日本に住んで来た高齢者にとっては日本がそんなに良い国だとは到底信じられません。戦前、戦後の食糧難を体験し戦災で焼き尽きされた街々の光景を脳裏に焼き付いている私にとっては外国人の絶賛が信じられないのです。
テレビ局が良い評判だけを取り上げた偏った編集なのかも知れません。
しかし私は最近考えが変わりました。案外、テレビ報道は真実なのかも知れないと考えるようになったのです。時代が変わったのです。その時代の変化に老人がついて行けなかっただけだったのです。
自分の頑迷さに愕然としました。
そこで今日は何故日本の評判が良いかの理由を虚心坦懐、客観的に考えてみました。
大げさに言うと比較文化人類学的な視点から考えてみました。
その結果、次の5つの理由によって日本の評判が良いことが明らかになったのです。
(1)いろいろな差別が消え、完全に平等な国
(2)幼少時から好きだったアニメ番組を作った国
(3)人々が親切で何処へ行っても安全な国
(4)清潔で世界一豊かな食生活が楽しめる国
(5)73年間、平和が続いた平穏で風光明媚な四季のある国
さて上の5つの理由を比較文化人類学的な視点から考えてみましょう。
外人観光客の6割、7割は台湾、中国、韓国などの東アジヤから来ます。欧米人は遠方なのでアジア人よりも少なくなります。
従って上の5項目の評価は自国の台湾、中国、韓国、フィリピン、インドネシア、シンガポール、アレーシアなどの国と日本を無意識的に比較して評価しています。これこそ比較文化人類学的な視点なのです。
共産党独裁の中国の社会と日本を比較して中国人観光客はインタビューに答えているのです。
台湾や韓国の民主国も同様に自国の社会と日本を無意識的に比較し、評価しているのです。
このようないろいろな国の社会問題をいちいち取り上げることは止めます。
それよりも外国人観光客の評判が良い一番本質的な理由である「(1)差別が消え、完全に平等な国」だけを取り上げて、もう少し詳しく考えてみます。
昔はアジアからの観光客は欧米人より大切にされなかったのです。昔は外人と言えば欧米人を意味していました。
しかし現在は日本人の差別感が無くなったので、外人と言えば、欧米人、中国人、韓国人、インドネシア人、全てを意味するようになったのです。
アジアから来る観光客はこのことに敏感です。かつて欧米の植民地だっただけに一層敏感です。
テレビのインタビューではこのような深層の大切な理由は言えません。人が親切だったと差しさわりの無い表現で答えます。
このように日本から差別が消え、個人が平等になったのは一朝一夕でなったのではありません。
それには敗戦後の苦しみに満ちた歴史があったのです。
敗戦の後でマッカーサーが乗り込んできて、「日本を民主化し、アメリカのように自由で平等な社会にする」と言って、大きな改革を命じたのです。
日本政府は唯々諾々と命令に従い民主化のための種々の制度改革をしました。そして学校では民主化教育をします。個人の自由と平等の重要性を強く教えました。私も先生方が何度も自由と平等が大切だと言っていたことを忘れていません。
しかしそれが本当に分かり身に着くのに「戦後73年」もかかったと言えば嘘になるでしょうか。
江戸時代から続く封建制度が身に沁みていた人々は、生まれた家の格式や自分の身分を無意識のうちに考えていたのです。
その上、明治維新以後の軍隊の強化で軍隊内の階級制度が世の中全体に深い影響を与えていたのです。
放浪画家の山下清さんは戦後ずいぶんたってからも全ての人を、「兵隊の位でいうとどの位の人」と言っていました。
そして民間会社の中でも重役は将官、部長は佐官、課長は尉官、平社員は兵隊のような処遇を受けていたのです。要するに社会のいろいろな組織の中では役職や階級による差別が当然として受け入れらていたのです。
組織の中で働いていた人々は上役の理不尽な職務命令で、時々、悲しい思いをしたのです。
このような精神的風土の社会では学歴差別、職業差別、男女差別、そして身体障害者への差別は当然のようにあったのです。
私自身も間違いなくいろいろな差別をしていました。恥ずかしい限りですがそんな時代だったのです。
このいろいろな差別が消えたのは経済の高度成長とそれに続くバブルの崩壊の時代と考えられます。
それまでは大会社が多くの子会社を隷属し、独裁的に振舞っていたのです。その経済界の差別体制が一挙に崩壊したのです。子会社は親会社から独立し自由になったのです。もう子会社だからといって差別されなくなったのです。
そしてその頃、アメリカから「差別用語廃絶の思想」が日本へ上陸して来たのです。
この頃から日本の社会からいろいろな差別が急速に消えて行ったのです。
人々は差別が消えると幸せな気分になることに気がついたのです。
差別されない社会。差別しない自分。これこそが本当の幸福だと日本人が信じるようになったのです。
ですから観光客が何処の国から来たかによって日本人は差別しません。
観光客が日本に来て居心良く、楽しく日本の各地へ旅が出来るのは差別されないで大切にされるからです。愛されるからです。この理由が一番重要な理由ではないでしょうか?
上に二番目の理由として、「(2)幼少時から好きだったアニメ番組を作った国」を書きました。このことに高齢者は違和感を感じるでしょう。しかし私の考えを書き出すと長くなりますので今日は止めます。

今日の挿し絵代わりの写真は日本の春の菜の花畑の風景写真です。
写真は「菜の花畑の風景写真」を検索してインターネットからお借りしたものです。
 
それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)












 

雪見酒を楽しみながら雪女のロマンを思い出す

2018年01月23日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日は今年はじめて東京に雪が降りました。
窓の外に庭に降る雪を見ながら雪見酒を楽しみました。雪が降る光景は何故か人をロマンチックな気分にします。
そして生まれ育った仙台の雪景色を思い出しました。

1番目の写真は窓の外の庭に積もった雪の風景です。大きな雪片が空から絶え間なく舞い降りて来ます。
雪見酒のワインをゆっくり飲んでいると次第に暗くなりガーデン燈が光だします。

2番目の写真は夕方の闇が下りて来た庭の風景です。
次第に幻想的になって来た風景を見ながら、戦前・戦後の貧しかった頃に見た雪景色を思い出していました。
当時は現在より寒くて仙台でも雪が多かったのです。坂になった道路は子供達のスキー場でした。もっともスキーと言っても自作の竹スキーです。近くの墓地の花竹を取って来て、縦に4つに割るのです。節を削ったら先の方を焚火で焼いて柔らかくして、足で押さえて曲げます。こうして2本作ったら竹スキーの完成です。焚火で焼き過ぎると曲げた先端が折れて無くなってしまいます。ほどよく焼くのがコツです。
その頃は雪が良く降り積もったのです。特に山形や秋田の山々は雪が深く、恐ろしい雪女が出ると何度も聞いたものです。
雪女は吹雪の山道に出るというのです。とても美しい女で、つい見とれていると冷たい息を吹きかけられるのです。すると息を吹きかけられた人間は瞬間的に凍ってしまって死んでしまいます。ですから雪女に逢ったら息が届くほど近づいてはいけないのです。
しかし雪に降り込められて動けなくなった人は雪女が現れても逃げられません。美しい雪女の顔が迫って来たと思いながら死んで行くのです。こんな話を何度も聞いたものです。
少年の頃だった私は雪女に何故か憧れていました。そしてそれは山形や秋田の雪深い山に登らないと逢えないと信じていました。

3番目の写真は雪女の写真です。この写真はある写真展に出品されたもので、https://twitter.com/kenpi009/status/482389843758952448 からお借りしました。
さて雪女は私の憧れでしたので何度か調べてみました。そうしたら同じような伝説が全国の雪深い地方にあることが分りました。
そして驚いたことに小泉八雲の『雪女』は現在私が住んでいるところの武蔵にいた巳之吉が逢った雪女の話だったのです。
雪女と逢った巳之吉は、しばらくして再び現れた彼女と結婚します。子供が出来、幸せに暮らしていた巳之吉が美しい妻へ以前雪女に逢ったことを話すのです。他言したら息を吹きかけて殺すという禁を犯してしまったのです。さあ、どうなるでしょう?
続きは下の小泉八雲の『雪女』をお読み下さい。悲しい話です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

『雪女』小泉八雲作、田部隆次訳

 武蔵の国のある村に茂作、巳之吉と云う二人の木こりがいた。この話のあった時分には、茂作は老人であった。そして、彼の年季奉公人であった巳之吉は、十八の少年であった。毎日、彼等は村から約二里離れた森へ一緒に出かけた。その森へ行く道に、越さねばならない大きな河がある。そして、渡し船がある。渡しのある処にたびたび、橋が架けられたが、その橋は洪水のあるたびごとに流された。河の溢れる時には、普通の橋では、その急流を防ぐ事はできない。

 茂作と巳之吉はある大層寒い晩、帰り途で大吹雪に遇った。渡し場に着いた、渡し守は船を河の向う側に残したままで、帰った事が分った。泳がれるような日ではなかった。それで木こりは渡し守の小屋に避難した――避難処の見つかった事を僥倖に思いながら。小屋には火鉢はなかった。火をたくべき場処もなかった。窓のない一方口の、二畳敷の小屋であった。茂作と巳之吉は戸をしめて、蓑をきて、休息するために横になった。初めのうちはさほど寒いとも感じなかった。そして、嵐はじきに止むと思った。
 老人はじきに眠りについた。しかし、少年巳之吉は長い間、目をさましていて、恐ろしい風や戸にあたる雪のたえない音を聴いていた。河はゴウゴウと鳴っていた。小屋は海上の和船のようにゆれて、ミシミシ音がした。恐ろしい大吹雪であった。空気は一刻一刻、寒くなって来た、そして、巳之吉は蓑の下でふるえていた。しかし、とうとう寒さにも拘らず、彼もまた寝込んだ。
 彼は顔に夕立のように雪がかかるので眼がさめた。小屋の戸は無理押しに開かれていた。そして雪明かりで、部屋のうちに女、――全く白装束の女、――を見た。その女は茂作の上に屈んで、彼に彼女の息をふきかけていた、――そして彼女の息はあかるい白い煙のようであった。ほとんど同時に巳之吉の方へ振り向いて、彼の上に屈んだ。彼は叫ぼうとしたが何の音も発する事ができなかった。白衣の女は、彼の上に段々低く屈んで、しまいに彼女の顔はほとんど彼にふれるようになった、そして彼は――彼女の眼は恐ろしかったが――彼女が大層綺麗である事を見た。しばらく彼女は彼を見続けていた、――それから彼女は微笑した、そしてささやいた、――『私は今ひとりの人のように、あなたをしようかと思った。しかし、あなたを気の毒だと思わずにはいられない、――あなたは若いのだから。……あなたは美少年ね、巳之吉さん、もう私はあなたを害しはしません。しかし、もしあなたが今夜見た事を誰かに――あなたの母さんにでも――云ったら、私に分ります、そして私、あなたを殺します。……覚えていらっしゃい、私の云う事を』
 そう云って、向き直って、彼女は戸口から出て行った。その時、彼は自分の動ける事を知って、飛び起きて、外を見た。しかし、女はどこにも見えなかった。そして、雪は小屋の中へ烈しく吹きつけていた。巳之吉は戸をしめて、それに木の棒をいくつか立てかけてそれを支えた。彼は風が戸を吹きとばしたのかと思ってみた、――彼はただ夢を見ていたかもしれないと思った。それで入口の雪あかりの閃きを、白い女の形と思い違いしたのかもしれないと思った。しかもそれもたしかではなかった。彼は茂作を呼んでみた。そして、老人が返事をしなかったので驚いた。彼は暗がりへ手をやって茂作の顔にさわってみた。そして、それが氷である事が分った。茂作は固くなって死んでいた。……

 あけ方になって吹雪は止んだ。そして日の出の後少ししてから、渡し守がその小屋に戻って来た時、茂作の凍えた死体の側に、巳之吉が知覚を失うて倒れているのを発見した。巳之吉は直ちに介抱された、そして、すぐに正気に帰った、しかし、彼はその恐ろしい夜の寒さの結果、長い間病んでいた。彼はまた老人の死によってひどく驚かされた。しかし、彼は白衣の女の現れた事については何も云わなかった。再び、達者になるとすぐに、彼の職業に帰った、――毎朝、独りで森へ行き、夕方、木の束をもって帰った。彼の母は彼を助けてそれを売った。

 翌年の冬のある晩、家に帰る途中、偶然同じ途を旅している一人の若い女に追いついた。彼女は背の高い、ほっそりした少女で、大層綺麗であった。そして巳之吉の挨拶に答えた彼女の声は歌う鳥の声のように、彼の耳に愉快であった。それから、彼は彼女と並んで歩いた、そして話をし出した。少女は名は「お雪」であると云った。それからこの頃両親共なくなった事、それから江戸へ行くつもりである事、そこに何軒か貧しい親類のある事、その人達は女中としての地位を見つけてくれるだろうと云う事など。巳之吉はすぐにこの知らない少女になつかしさを感じて来た、そして見れば見るほど彼女が一層綺麗に見えた。彼は彼女に約束の夫があるかと聞いた、彼女は笑いながら何の約束もないと答えた。それから、今度は、彼女の方で巳之吉は結婚しているか、あるいは約束があるかと尋ねた、彼は彼女に、養うべき母が一人あるが、お嫁の問題は、まだ自分が若いから、考えに上った事はないと答えた。……こんな打明け話のあとで、彼等は長い間ものを云わないで歩いた、しかし諺にある通り『気があれば眼も口ほどにものを云い』であった。村に着く頃までに、彼等はお互に大層気に入っていた。そして、その時巳之吉はしばらく自分の家で休むようにとお雪に云った。彼女はしばらくはにかんでためらっていたが、彼と共にそこへ行った。そして彼の母は彼女を歓迎して、彼女のために暖かい食事を用意した。お雪の立居振舞は、そんなによかったので、巳之吉の母は急に好きになって、彼女に江戸への旅を延ばすように勧めた。そして自然の成行きとして、お雪は江戸へは遂に行かなかった。彼女は「お嫁」としてその家にとどまった。

 お雪は大層よい嫁である事が分った。巳之吉の母が死ぬようになった時――五年ばかりの後――彼女の最後の言葉は、彼女の嫁に対する愛情と賞賛の言葉であった、――そしてお雪は巳之吉に男女十人の子供を生んだ、――皆綺麗な子供で色が非常に白かった。
 田舎の人々はお雪を、生れつき自分等と違った不思議な人と考えた。大概の農夫の女は早く年を取る、しかしお雪は十人の子供の母となったあとでも、始めて村へ来た日と同じように若くて、みずみずしく見えた。
 ある晩子供等が寝たあとで、お雪は行燈の光で針仕事をしていた。そして巳之吉は彼女を見つめながら云った、――
『お前がそうして顔にあかりを受けて、針仕事をしているのを見ると、わしが十八の少年の時遇った不思議な事が思い出される。わしはその時、今のお前のように綺麗なそして色白な人を見た。全く、その女はお前にそっくりだったよ』……
 仕事から眼を上げないで、お雪は答えた、――
『その人の話をしてちょうだい。……どこでおあいになったの』
 そこで巳之吉は渡し守の小屋で過ごした恐ろしい夜の事を彼女に話した、――そして、にこにこしてささやきながら、自分の上に屈んだ白い女の事、――それから、茂作老人の物も云わずに死んだ事。そして彼は云った、――
『眠っている時にでも起きている時にでも、お前のように綺麗な人を見たのはその時だけだ。もちろんそれは人間じゃなかった。そしてわしはその女が恐ろしかった、――大変恐ろしかった、――がその女は大変白かった。……実際わしが見たのは夢であったかそれとも雪女であったか、分らないでいる』……
 お雪は縫物を投げ捨てて立ち上って巳之吉の坐っている処で、彼の上に屈んで、彼の顔に向って叫んだ、――
『それは私、私、私でした。……それは雪でした。そしてその時あなたが、その事を一言でも云ったら、私はあなたを殺すと云いました。……そこに眠っている子供等がいなかったら、今すぐあなたを殺すのでした。でも今あなたは子供等を大事に大事になさる方がいい、もし子供等があなたに不平を云うべき理由でもあったら、私はそれ相当にあなたを扱うつもりだから』……
 彼女が叫んでいる最中、彼女の声は細くなって行った、風の叫びのように、――それから彼女は輝いた白い霞となって屋根の棟木の方へ上って、それから煙出しの穴を通ってふるえながら出て行った。……もう再び彼女は見られなかった。
(出典は、http://www.aozora.gr.jp/cards/000258/files/50326_35772.html です)
なおこの「雪女」の研究が近年進み、以下のことが分っています。
小泉八雲の描く「雪女」の原伝説については、ここ数年研究が進み、東京・大久保の家に奉公していた東京府西多摩郡調布村(現在の青梅市南部多摩川沿い。調布市は無関係)出身の親子(お花と宗八とされる)から聞いた話がもとになっていることがわかっている(英語版の序文に明記)。この地域で酷似した伝説の記録が発見されていることから、この説は相当な確度を持っていると考えられ、秋川街道が多摩川をまたぐ青梅市上長渕の「調布橋」のたもとに2002年、「雪おんな縁の地」の碑が立てられた。表は碑文が刻まれ、、裏側には「雪女」の和英両方の序文と小泉の肖像が刻まれた銘板が嵌め込まれている。19世紀当時は気候が非常に異なり、中野から西は降れば大雪であったことから、気象学的にも矛盾しない。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%AA%E5%A5%B3 より)

「今年はじめて雪のつもった庭の風景」

2018年01月22日 | 写真
朝から風花のような雪が舞ってきましたが、お昼ころから粉雪となり、今は大きな雪片が本格的に降っています。
そして庭は雪で埋まってしまいました。
北海道や日本海側では12月から大雪で生活が不便になり同情していました。除雪作業も大変そうですが、春まで頑張って下さい。東京の雪はすぐ消えてしまいますが、通勤・通学の皆様はやはり2、3日苦労します。
記録の為に雪の庭の風景写真を掲載しておきます。













絶滅寸前のヨーロッパの少数民族(5)面白くないバスク人のお話

2018年01月21日 | 日記・エッセイ・コラム
この欄の文章をお読みになる方々が、「嗚呼、面白かった!」と呟くようなものを書こうと毎日奮闘しているつもりです。しかしそれは難しいものです。
特殊な民族と言われているバスク人のことを面白く書こうといろいろ調べていました。
しかし面白いことが何もありません。
日本にキリスト教を伝えたザビエルはバスク人でした。イエズス会を創設したイグナチオ・ロヨラもバスク人でした。南米の革命家のチェ・ゲバラもバスク人でした。
ピカソの絵画「ゲルニカの爆撃」で有名な町、ゲルニカはバスク地方にあります。
こんなことをご紹介しても面白くないと思います。皆様がご存知の事ばかりです。
バスク人は西洋の少数民族と言うのは自由ですが、ようするに普通のヨーロッパ人と何ら変わらないのです。簡単に言ってしまえばスペイン風のヨーロッパ人なのです。
ところがバスク人は実に不可思議な固有の言語を話しているのです。それはスペインの地方公用語なのです。
今日はその言語の不思議さについて書こうと思います。
まずバスク地方の地図を示します。

1番目の写真がスペインとフランスにまたがるバスク地方の場所を示しています。
この地方は大西洋に開いたビスケー湾に面した海岸から国境のピレネー山脈の山地にかけた地域なのです。
このバスク地方には伝統的に系統不明の民族が住んでいたのです。そしてインド・ヨーロッパ語の系統に含めることの出来ない孤立したバスク語を使っているのです。
この不思議な言語はスペインのバスク自治州全域でスペイン語とともに公用語とされています。2006年現在、約66万5800人の話者がバスク地方に居住し、すべてスペイン語またはフランス語とのバイリンガルだそうです。
それではインド・ヨーロッパ語族とはどういうものなのでしょうか?

2番目の写真は、インド・ヨーロッパ語の系統図です。この図の出典は、
http://user.keio.ac.jp/~rhotta/hellog/2010-07-26-1.html です。
バスク語はこのインド・ヨーロッパ語の系統図にはどうしても入れることの出来ない特異な言語なのです。
ですからバスク語は「言語の7不思議」の一つと言われています。(https://matome.naver.jp/odai/2141500425614476501 )
バスク人はもともとイベリア半島北部とフランスの一部に住んでいた古代ヨーロッパ人の末裔だったと思われます
現在のヨーロッパ人は、そのほとんどが中央アジアやコーカサスからヨーロッパに移動してきた人々の子孫ですが、バスク人は古来よりその地に住んでいて生き残ってきた原ヨーロッパ人あるという説が有力です。
もっと古い古い歴史を遡ればヨーロッパにはネアンデルタール人やクロマニヨン人が住んでいました。ですから想像をたくましくすればバスク人は彼等の子孫なのかも知れません。この部分は間違っているとは思いますが。
現在最も有力な仮説は、イベリア半島における現生人類の第一居住民とされるイベリア人(イベリア語)集団がローマ化されないままに現在のバスク地方に残り、彼らの話していた言語が語彙的に周辺の言語の影響を受けたのではないかという説です。
古代ローマ時代にバスク人は自治を許され、中世から近世にはバスク人の王がイベリアの並み居る王家を継承するなど権勢を誇った歴史があります。
バスク人は中世より漁師として大西洋へタラ漁や捕鯨に繰り出し、大航海時代には多数の航海者やコンキスタドール(南米の征服者)を輩出し、南北アメリカ大陸に多くの移民を送り出したのです
しかしバスク人は周囲の西洋人と混血を繰り返し普通のヨーロッパ人になってしまったのです
ここで驚くべきことは古代のバスク語が継承され、現在でも66万人が日常的に使っている事実です。
それは言語学上の奇跡です。勿論、バスク語には文字がありませんでした。ですから古くからローマ字を使って表記していました。
そしてバスク語は他の欧米言語との共通点の少ないのでヨーロッパ人にとっては習得が極端に難しいと言われています。
その難しさを例えた小話です。・・・「悪魔がバスク人を誘惑するためにバスク語を習ったが、7年かかって覚えたのは『はい』と『いいえ』だけだった」、そして「神からどんな罰を与えられても全くひるまなかった悪魔でさえ、3年間岩牢にこもってバスク語を勉強する罰を課されると神に許しを乞うた」・・・
それはそれとしてバスク人には遺伝学的特徴はあるのでしょうか?
結論を言えばバスク人の遺伝学的特徴は無いのです。雑婚が徹底したのです。
何だか理解出来ませんが転載します。・・・Y染色体はハプログループR1bが9割の高頻度を占める。非印欧系であるにも関わらず印欧系ハプログループR1bが高頻度である理由について、「印欧語を話す男系征服者集団が原住バスク人女性に多くの子を生ませたが、その子供は父親の印欧語ではなく母親のバスク語で育てられたため、父系のみR1bの印欧系ながら、言語はバスク語を保った」という仮説がある・・・(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%B9%E3%82%AF%E4%BA%BA#遺伝学的特徴)
要約すると雑婚が進んだが、子供に対して母親がバスク語を家庭で日常使うので何時までもバスク語が残ったという説明です。納得出来ます。そんなことを考えるとバスク語はやはり言語学上の奇跡ですね。

挿し絵代わりの写真としてバスク地方の風景写真を付けました。写真の出典は、http://sworldnews.com/pais-vasco/ です。


それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)





東日本大震災復興支援コンサートに行きました

2018年01月21日 | 日記・エッセイ・コラム
月日の流れは早いもので、あの大震災が起きてからもう7年にもなります。
世の中にはいろいろなことが起きて時代は変わりますが、被害者の方々にとっては時が止まったように家族を失った悲しみは消えません。
カトリックのミサでは毎月のように大震災の被害者の為の祈り捧げております。
昨日は、東日本大震災復興支援のためのチャリティーコンサートが近所のサレジオ学園の聖堂でありました。この聖堂はサレジオ会の創始者のドン・ボスコ神父の記念聖堂で、以前に何度もミサに行った懐かしいところです。
午後2時からということで昼食後に気楽に行きました。チャリティコンサートなのでそれほど期待していませんでした。
ところが6人のオペラ歌手が大聖堂を揺るがすような豊かな声量で、しかも魅力的な美声でジョン・セバスティアン・バッハの宗教音楽を歌い上げたのです。正直、驚くとともに感動しました。詩編カンタータ、フーガなどドイツ語ででしたが、プログラムに日本語の訳があったので 旧約聖書の教えも受けることができました。
歌手の名前を記して感謝したいと思います。(敬称略)
ソプラノ    木村 牧子
ソプラノ    千葉すみれ
メゾ・ソプラノ 市村由香
メゾ・ソプラノ 新宮央子
テノール    佐々木 睦
バリトン    松田亜蘭
パイプオルガン 長谷川晶子
パイプオルガン 西岡 崇
指揮とテノール 鳥海 寮
このグループはチャリティーコンサートを2011年11月からもう7回も各地で開催しているのです。
それではこのコンサートに関する写真をお送りいたします。

1番目はこのチャリティコンサートのプログラムと開催日時と場所です。

2番目のはソプラノの木村 牧子と千葉すみれ、メゾ・ソプラノの市村由香と新宮央子、テノールの佐々木 睦、そしてバリトンの松田亜蘭の6人が指揮者の鳥海 寮の前に立って歌っている光景です。

3番目は2番目の写真を拡大して歌手の顔が見えるようにしたものです。

4番目はこのドンポスコ記念聖堂のパイプオルガンの写真です。オルガンのパイプの大きさと音色は西洋の大きな聖堂と遜色が無く素晴らしいオルガンです。

5番目はドンポスコ記念聖堂の今日の写真です。この聖堂は坂倉準三によって作られました。坂倉準三(1901-1969)は、岐阜県に生まれ、東京帝国大学文学部美術史学科を卒業後、建築家を志してフランスに渡り、1931年から1939年まで、現代建築の巨匠ル・コルビュジエの事務所で修業したという経歴の持ち主でした。この建物は数々の建築賞を受けています。

今回の音楽会でバッハの作品の深い宗教性・芸術性が少し理解出来たような気がしました。いろいろな意味で感慨深い音楽会でした。

東日本大震災で被害を受けた方々の平安をお祈り申し上げます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===ドンボスコ神父の紹介==============
ドンボスコ神父(ヨハネ・ボスコ神父)は1815年、ピエモンテ州カステルヌオヴォ郊外、ベッキ村で生まれた。1835年から1841年までキエリの大神学校で哲学、神学を学んだ後、1841年、当時のサルデーニャ王国の首都トリノで1841年司祭に叙階された。19世紀後半のイタリア統一運動と産業革命の中で青少年たちが放置される現実に直面し、もっとも貧しい青少年たちのために生涯を捧げることを決意。1859年にサレジオ会を設立し、1869年に教皇から正式認可を受ける。1872年に扶助者聖母会を設立。1874年、サレジオ会の会憲が教皇から公式承認され、会は教皇直轄の修道会となる。学校事業、社会事業を通じて多くの人々を導いた。1888年1月31日帰天。葬儀には10万人が参列した。1934年に 列聖。現在、サレジオ会の本部はローマにあり、ヨハネ・ボスコの理想を引き継いで世界中で青少年教育活動を行っている。
日本のサレジオ会宣教の先駆者、チマッティ神父のことは2017年12月24日の記事、「日本のサレジオ会宣教の先駆者、チマッティ神父のお墓詣りに行きました。」として掲載してありますのでご覧下さい。

誕生日に関する東西文化の比較

2018年01月19日 | 日記・エッセイ・コラム
始めから私事で恐縮ですが昨日は自分の82歳の誕生日でした。いろいろな方から「誕生日おめでとう」という有難い言葉を頂きました。
特に私は「Face Book」の会員になっているものですから、そこで100人以上の方から美しい花束やバースデイケーキの大きな写真に添えて、心暖まる祝福の言葉を頂きました。祝福の言葉を下さいました方々へ深く感謝しています。頭が下がります。有難う御座いました。
さて、皆様ご承知のように「Face Book」はアメリカ生まれの国際的なネットワークです。この会員になると誕生日が公開されます。その人の掲載する写真や文章で親近感を持っている人々が誕生日を祝福しても良いのです。そんなシステムが組み込んであります。
一方、私は日本の「趣味人倶楽部」というネットワークの会員にもなっています。このネットワークの会員になっても誕生日は公開されません。ですから昨日は誰からも私の誕生日を祝う言葉は貰いませんでした。
昔の日本では元日に一斉に年をとったのです。誕生日は重要でなかったのです。戦前生まれの私はお正月ごとに年をとる伝統の中で育ったのです。ですから結婚するまでは誕生日を祝ったことがありませんでした。家内は戦前から誕生日を祝う家庭で育ったのです。西洋文化の影響を受けたハイカラな家庭で育ったのです。ですから誕生日を重視し家族の誕生日を祝います。
そこで昨日の経験から誕生日を祝うのは欧米文化で、祝わないのは原日本文化だという結論を出しました。何時ものようにこれは雑文ですから本気にしないで下さい。
しかしこの結論を補強するために少し論を張ります。
大体日本では、戦前、そして戦後も特に地方ではお正月に年を取り、それを祝うのがお年玉とお節料理だったのです。
その上、東北地方では1月1日のお正月の他に旧正月というものが2月にあり、それの方を盛大に祝ったのです。
この習慣は現在の中国の2月の春節と同じだったのです。現在でも中国人は春節のとき一斉に故郷に帰り春節を祝うのです。
ですから漢字文化圏の東洋の国々では春節が一番重要な祝日であり個人の誕生日は影が薄いのです。
それでは西洋では何故誕生日を大切にするのでしょうか?
結論を言ってしまえばクリズマスが非常に重要な祝日だからです。キリストの生まれた月日は誰にも分かりません。
しかし北欧の原始宗教の冬至祭の日をキリストの生まれた日にして約2000年祝ってきたのです。クリスマスを祝うことは幸福な家庭の証です。欧米では多くの人は故郷へ帰り、家族でクリスマスを盛大に祝って幸せになるのです。それに倣って個人個人の誕生日もおおいに祝って幸せになるのです。祝う人も祝われる人も幸福になるのです。これが西洋の文化です。
東洋でも家庭の幸福を願うのは同じです。人類共通の願いです。ですから西洋の誕生日を祝う文化は自然に浸透して来ます。
それはそれで良いのです。ついでにお釈迦さまの誕生日の4月8日の「花まつり」ももっと盛大に祝って貰いたいものです。
このような東西比較文化論は雑すぎます。ヒンズー教のインドやイスラム教の国々では誕生日をどのように祝うのでしょうか?
どなたか、是非お教え頂けないでしょうか?
最後に矮小な話を書いてお終いにします。家内は子供や孫にお年玉をあげた上で、誕生日も大いに祝います。いささか度を過ごしているようで困っています。しかしこれも文化の違いと無理に納得して我慢しています。もっとも私自身の誕生日を家内が祝ってくれるのには抵抗しないことにしています。年を取ると沈黙が守られるようになるのです。

今日の挿し絵代わりの写真は熊本県天草市牛深町の遠見山公園の水仙の花の写真です。日本水仙35万株と西洋種4万株が12月下旬~4月に咲いています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)





絶滅寸前のヨーロッパの少数民族(3)EUと難民流入が絶滅に拍車

2018年01月18日 | 日記・エッセイ・コラム
ヨーロッパにはいろいろな少数民族が固有の言語を持っていて、特徴ある民族文化を守っていました。
北欧からロシア北部にはトナカイの放牧をしているサーミ民族がいますし、スペインにはカタルーニャ民族もいます。
ドイツにはスラブ系のソルブ語を話すソルブ民族やオランダ、ドイツの大西洋岸にはフリース人が住んでいますし、イタリアには南チロル民族が住んでいます。
この他にも幾つかの少数民族が独自の言語と伝統文化を持って生きています。
しかし最近のヨーロッパはヨーロッパ連合(EU)を結成し、通貨を統合し、移住の自由を認めました。EUに所属する国に住んでいるサーミ民族、カタリューニア民族、ソルブ民族、フリース民族、南チロル民族などなどの少数民族の若者が国境を越えてマドリッド、パリ、ストックホルム、ハンブルグ、ベルリン、ミュンヘンなどのような大都会の大学へ進学し、そこで就職し定住するのも完全に自由になったのです。少数民族の住んでいる地方は一般的に貧しい地方のです。若者は故郷を離れます。
その上、ドイツは200万人規模の中東と北アフリカからの難民を受け入れようとしています。この200万人がドイツの国籍を得れば、その後スペイン、フランス、イタリー、ギリシャ、ポーランドなど何処へ移住しても自由なのです。
イギリスはそれを恐れヨーロッパ連合から脱退しました。脱退の理由は経済事情や他にもありますが、移住の自由も一つの大きな理由でした。
ヨーロッパ世界はEUの組織強化と多数の難民流入が原因で、地域的な伝統文化が衰退すう運命にあるのです。
この社会現象は従来伝統的に守ら来た少数民族の消滅に拍車をかけていると考えられます。
こういう情勢になると埋没されそうな少数民族が逆に立ち上がって民族の独立運動もしたくなるものです。その例がカタローニィア民族の独立運動です。バスク地方の独立運動です。
少数民族の消滅は悲しいものです。この世界の各地に優れた少数民族の文化が散在し、お互いを尊敬し、平和に暮らすのが私の考える理想世界です。
ですからEUや難民流入で、スペインやフランスやドイツやポーランドなどの独特の文化が消えて行くとともに、サーミ民族やソルブ民族やフリース民族の文化が消えて行くのは悲しいものです。淋しいものです。
一方民族文化はそう簡単に消滅するものではないという考え方もあります。私はこの考えに希望を託しています。
それにしてもヨーロッパの少数民族は消えて行くものなのでしょうか?

写真にソルブ人の文化の小鳥の結婚式の写真とフリース人と南チロル民族の住んでいる地域の地図などを示します。

1番目の写真はソルブ民族の子供の小鳥の結婚式の写真です。独ザクセン州やブランデンブルグ州に定住するスラブ系少数民族ソルブ人の伝統行事「小鳥の結婚式」は立春のお祝いです。

2番目の写真も子供の小鳥の結婚式の写真です。子供たちは冬の長い間、お腹をすかせた小鳥たちにえさをやります。小鳥たちからの感謝として子供たちへのクッキーなどが窓辺におかれます。

3番目の写真はソルブ人の復活祭の芸術的なイースターエッグです。彼らは6世紀にゲルマン系民族が移動して去った地域に移動してきて初期封建制の家族制度のもとで農業、酪農、狩猟、漁労などを行っていた民族です。ソルブ人は言語や文化的な特徴を今日まで守り通しています。
1,2,3番目の写真の出典は、https://matome.naver.jp/odai/2139095028608014101 です。

4番目の写真はフリース人が現在住んでいる地方の地図です。フリース人は独自の言語を持ち、ゲルマン人の中でオランダとドイツの北海沿岸のフリースラントに居住していた民族集団です。一般的に体格ががっちりして背が高く、薄い金髪が特徴の民族です。
原語は英語と共にアングロ・フリジア語群に属す言語だとされますが、英語とフリジア語の意思疎通は不可能だそうです。現在使われている言語の中では、英語と共通点を持ち、最も英語に近い言語とされています。

5番目の写真は南チロル人の住んでいる地方の地図です。出典は、http://reki.hatenablog.com/entry/171031-West-European-Minority です。
イタリアにあるドイツ系農民の民族です。
南チロルでは、住民の多くはドイツ語を話します。農業地帯でぶどう栽培や牧畜、林業が主要産業です。
戦後、ドイツ語教育とドイツ風の名前を使用する権利と一部自治権は認められました。南チロル人はさらなる自治権をイタリア政府に要求し、1972年に南チロル人が住むボルツァーノ自治県は通貨・税・外交・防衛以外の全ての権限を与えられるに至りました。

以上のようにヨーロッパには幾つかの少数民族が住んでいて固有の言語と伝統文化を守っているのです。パリ、ロンドン、ベルリンだけがヨーロッパではないのです。ヨーロッパの魅力は地方、地方にあるのです。さらにその地方には少数民族も住んでいるのです。
魅力ある興味深い大陸ではないでしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

衣食足りて街角に愛が流れる日本になった!

2018年01月16日 | 日記・エッセイ・コラム
長生きをしていると日本人の考え方が変わり、性格も良くなったことに驚きます。特に日本人の性格が穏やかになり、街角に愛が流れるようになったことに感動しています。
昔から「衣食たりて礼節を知る」という言葉があります。なにやら古い儒教文化を思い出させる言葉です。しかし最近の日本人の優しさはこれとは少し違います。
誰でも会った人に優しく接するのです。街角で会った老人へも外国人へも優しくするのです。そのような光景を何度も見るのです。
私は足の弱い老人なので知らない人に手を引いて優しくして貰ったことが何度もあります。
それは儒教で教えている敬老の精神とは違い、弱者へ対する愛の心なのです。
日本人は衣食足って愛の重要性が深く理解したのです。これこそ日本人の宝です。

話は飛びますが、私がよく見るテレビ番組に「You は何しに日本へ?」というものがあります。
成田空港や関西空港で外国人に「貴方は何しに日本に来たの?」と聞くのです。数人の外国人へ手あたり次第聞くのです。
多くは観光に来るわけですが、その半分以上の人が日本人の優しさを讃えるのです。そうして自分の国のテレビで熱心に見ていた日本のアニメ番組に感動して一度日本に来たかったと言うのです。
この「You は何しに日本へ?」の番組では、アニメ番組を見たことの無い高齢者のために、その内容やストーリーを簡略に紹介してくれます。
そこで分かったことは、外人が感動したアニメのテーマが全て「愛と正義」をテーマにしているのです。
アニメの原作者は若い日本人です。彼等は全ての人類に共感を呼ぶ愛のいろいろな形を漫画で描きます。正義を大切にし、邪悪を打ち砕くのです。
日本を訪問する多くの外国人は日本に来れば愛が街角に流れ、正義が守られ、邪悪の無い世界を見ることが出来ると思い来るのです。
そして成田空港や関西空港から帰国する外国人へ聞くと「期待していたように日本人は優しかった」と言います。
まあ社交辞令としても日本人として悪い気持ちはしません。
今日このような記事を書くのはチョッとした理由があったのです。
私は毎週一回、「陽なた」というリハリビ施設に通っています。昨日、その「陽なた」のスタッフ達が私の写真の回りに誕生日を祝う寄せ書きをしたカードをくれたのです。そして全員でハッピーバースデーの歌を歌ってくれたのです。
戦前生まれ、戦後育ちの私には子供の頃誕生日を祝うことがありませんでした。高齢者の皆様も特に裕福だった人は別にして、誕生日を祝う経験が無いと思います。ですからハッピーバースデーの歌を聞くと心がこそばゆくなります。我慢して聞かねばなりません。
しかし家に帰ってゆっくり寄せ書きを丁寧に読みました。そしたらそれぞれの短い文章に年老いた友人に対する愛が感じられたのです。敬老ではなく「人類愛」を感じたのです。
それはさておき、このように書くと、貴方は恵まれた境遇だから気楽なことを書いて無駄な時間を過ごしていると非難的に思う人も居るでしょう。日本には貧困もあり、孤独に死んで行く人もいます。あまり調子の良いことばかり書くなと怒る人もいるでしょう。
しかし貧困の中にこそ愛が必要なのです。孤独に死んで行く人にも愛が必要なのです。
マザー・テレサが日本に来た時の言葉を記して終りとします。
「日本人はインドのことよりも、日本のなかで貧しい人々への配慮を優先して考えるべきです。愛はまず手近なところから始まります」
詳しくは1月14日掲載の『マザーテレサの遺した4800人の弟子と日本』という記事をご覧頂ければ嬉しいです。

今日の挿し絵代わりの写真は12月中旬から咲いている「のこのしまアイランドパーク」の水仙の花の写真です。
福岡市の能古島には「のこのしまアイランドパーク」があり、例年12月から2月にかけて、日本水仙が満開になっています。約10万本の可憐な水仙が海沿いの斜面を埋め尽くします。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)


1番目と2番目の写真の出典は、https://www.jalan.net/event/evt_214908/ です。



3番目の写真の出典は、http://nokonoshima.com/ です。


世界に何故強い国や弱い国があるか?そして北朝鮮の危険さ

2018年01月15日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は世界の強い国と弱い国のランキングを考えてみましょう。そして何故北朝鮮が日本にとって危険な存在なのか考えてみましょう。
何時ものように雑駁な話ですから気楽に読み流して下さい。そして考えて下さい。日本の平和と安全はどうすれば守れるか考えて下さい。
強い国と弱い国のランキングの尺度は次の3つの分野の強弱によって決まると考えるのが自然な考え方ではないでしょうか?
(1)その国の経済規模と経済力
(2)軍備の強弱と将兵の動員力
(3)工業規模と先端技術力

この3項目をそれぞれ100点満点として各国の総合点数を計算すれば強い国と弱い国のランキングがおのずと出てきます。
しかし各項目の点数は評価する基準や考え方で変わるが当然です。
貴方自身の主観で点数をつければ、貴方の個人的な強い国と弱い国のランキングが出来上がります。
例えば中国の「(1)その国の経済規模と経済力」はアメリカに次いで世界2位です。ですから85点位つけてもおかしくありません。
しかし「(2)軍備の強弱と将兵の動員力」については中国は多数の核兵器を持つロシアには負けます。アメリカがが100点なら、ロシアは80点、そして中国は65点位に私は評価します。
このように雑駁な話を進めて行くと世界の強い国と弱い国のランキングは以下のようになるでしょう。
1位、アメリカ、2位、中国、3位、ロシア、そしてNATOのイギリス、フランス、ドイツが続き、その後に日本、韓国、台湾となるでしょう。
このように雑駁に書くと皆様には必ず異論があります。是非、コメントとしてご投稿下さい。
何故なら、このようなランキングと世界の真の平和を考える時には、もっともっと複雑な要因を考えるべきだからです。
その為の分かり易い実例が北朝鮮が与えています。
北朝鮮は上のランキングでは最下位のグループに入るでしょう。(1)その国の経済規模と経済力(3)工業規模と先端技術力の点数が非常に小さくつけざるを得ないからです。
しかし(2)軍備の強弱と将兵の動員力は相当高い点数になるでしょう。
そして北朝鮮の危険さはその好戦的体質にあるのです。それも強い国1位のアメリカへ挑戦し、アメリカを罵倒し続けていることが危険なのです。アメリカも戦争が好きな国です。特に現在の大統領は感情的に激しやすい性格の持ち主なのです。
北朝鮮とアメリカが軍事衝突したら韓国にいる6万人の日本人と20万人のアメリカ人の命が危なくなるのです。日本政府はこの26万人を釜山から対馬に一時非難させ、そして2,3日とりあえず宿泊させる施設の準備も始めたのです。対馬からは九州へピストン輸送をするそうです。
北朝鮮とアメリカが軍事衝突したら、在韓日本人の安全が問題になるだけではなく、日本本土へもミサイル攻撃がある可能性が大きいのです。自衛隊もアメリカに追随して参戦します。戦死者が出ます。

軍事衝突を防ぎ、日本の平和を維持するためには北朝鮮が自暴自棄にならないようにすべきです。日本はロシアや中国とも意思疎通しながら北朝鮮に対する外交努力をしなければなりません。
戦後から続く安保体制は尊重、堅持しながらも感情的に激しやすいトランプ大統領とはもう少し距離を置くべきです。安倍総理ののめり込みぶりを危惧しているのは私だけでしょうか?

今日の挿し絵代わりの写真は真冬から咲いている淡路島の灘黒岩水仙郷の水仙の花の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

1番目の写真の出典は、 https://www.awajishima-kanko.jp/manual/detail.php?bid=190 です。

2番目の写真の出典は、 https://plaza.rakuten.co.jp/yumesenkei/diary/201301250000/ です。

3番目の写真の出典は、http://www.geocities.jp/hanatuduri/kabegami.html です。

4番目の写真の出典は、http://keinoumi.jp/staff/854.html です。

5番目の写真の出典は、http://jp.zekkeijapan.com/spot/index/256/?language=ja です。

冬の最中に満開になる野生のスイセン、伊豆の爪木崎

2018年01月14日 | 日記・エッセイ・コラム
毎年12月中旬になると太平洋岸の雪の少ない地方のあちこちに野水仙の群落が一面に咲き出す場所があります。在来種の日本スイセンが主になっています。広い駐車場が用意してあり、数多くの観光客が集まります。そしてお土産屋ではその野水仙の球根も売っています。
このような水仙の名所を10ケ所ほど末尾に示してあります。
私の住んでいる所から近い野水仙の群落は伊豆半島の突端の下田市の爪木崎(ツメキサキ)の海岸です。
温かい黒潮が洗う太平洋岸の伊豆半島の先端の爪木崎の海岸には昔から冬でも自然のスイセンが咲いていました。
その日本原種の花弁は真っ白な一重で中の盃が黄色です。都会の花屋さんではあまり球根を売っていない原種です。それが海岸の丘一面に白い波のようにそよいでいるのです。浜辺に立つとなま温かい風が吹いています。清らかな香りが一面に漂います。
爪木崎には数回行きました。今日は2009年の12月17日に自宅の庭に球根を植えた野水仙の、今年の花の写真をお送りしたいと思います。
そして続いて海岸の丘を埋めるように一面に咲いている日本スイセンの群落の写真をお送りいたします。

1番目の写真は暮れの12月中旬から咲き出した爪木崎から買って来た水仙の花です。庭には他にも水仙が植えてありますが、この爪木崎の水仙だけが毎年12月中旬から咲き出すのです。不思議です。

2番目の写真は爪木崎の満開になっている野水仙の風景です。2009年12月16日に撮りました。

3番目の写真も爪木崎の野水仙の風景です。

4番目の写真は海岸の丘と麓に野水仙が一面に咲いている風景です。写真の手前の海岸に広い駐車場があり、そこから遊歩道が水仙の群落の間を縫うように巡らせてあります。

5番目の写真は日本原種の花弁は一重で中の盃が黄色がよく見えるように拡大して撮った写真です。これと1番目の写真に示した自宅の庭の花と全く同じです。

6番目の写真は水仙の群落地の隣にある菜の花畑です。観光客に楽しんでもらおうと地元の人がわざわざ育てたのです

7番目の写真も水仙の群落地の隣にあった菜の花畑です。

8番目の写真は野水仙の群落地の前に広がる海の風景です。沖に伊豆大島や利島や新島や神津島などの見える場所ですが、2009年12月16日はあいにく曇っていて見えませんでした。
如何でしょうか?
皆様の庭のスイセンは咲いているでしょうか?近場に水仙の群落で有名な場所はあるでしょうか?
もうすぐ梅が咲き出し、コブシやモクレンが咲き、やがて桜も咲くでしょう。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)
===全国の主な水仙の名所です==================
http://hananomeisyo.sakura.ne.jp/suisen-meisyo.htm
より10ケ所だけ抜粋しました。
(1)北海道夕張郡由仁町伏見134-2
7万株/4月下旬~5月下旬/冬季は休園/10:00~18:00/大人800円小人300円/JR「由仁駅」より車で5分/クロッカスが22万球植えられる。秋のコスモスも見所。ハーブやバラも人気、ゆにガーデン、01238-2-2001
(2)北海道久遠郡せたな町北檜山区丹羽 、
30種30万株/4月下旬~5月中旬/無休/時間自由/無料/水仙公園とも呼ばれ水仙まつりも行われる、せたな観光協会、0137-84-5406
みやぎ蔵王えぼしスキー場
(3)宮城県刈田郡蔵王町、
2.4ha40種以上50万本/4月下旬~5月中旬/8:30~17:00/無休/500円(中学生以下無料)/駐車場無料/水仙まつりも行われる/ゴンドラ(往復:大人1200円,子供700円)から眺める水仙の高原は格別、みやぎ蔵王えぼしスキー場、0224-33-4001
(4)国営ひたち海浜公園
茨城県ひたちなか市阿字ケ浦町552-18
64種100万株/3月中旬~4月中旬/定休日/9:30~17:00/大人400円15歳未満80円身障者無料/駐車場500円/無料貸出し車椅子あり/季節によりチューリップ、ばら、コスモスなども、ひたち公園管理センター、029-265-8185
(5)下田爪木崎
静岡県下田市爪木崎、12月中旬~2月上旬/300万本/爪木崎の白い灯台が見える海岸に咲き乱れる。下田市観光協会、 0558-22-1531
(6)越前岬水仙ランド、
福井県丹生郡越前町左右
11月~3月2回にわたり開花/12月中旬~2月上旬/水仙の館では年中水仙が見られる。水仙の里公園の約6km南にある。越前岬水仙ランド、
0778-37-1234
(7)兵庫県南あわじ市灘黒岩
7ha500万本/12月下旬~2月下旬/無休/9:00~17:00/500円小中学生300円/駐車場無料/西淡三原ICから県道31号線、国道28号を経由、県道76号線で約40分/圧倒する景色と断崖の水仙が眼雄見張る、黒岩水仙郷、0799-56-0720
(8)のこのしまアイランドパーク、福岡県福岡市西区能古
日本水仙30万本/12月下旬~2月中旬/無休/9:00~17:30/大人1000円小中学生500円3才以上300円/JR「博多駅」→地下鉄→「姪浜駅」→バス→「姪浜渡船場」→フェリー→「能古島渡船場」→バス→「アイランドパーク入口」/車アクセス/花の島、菜の花、桜、デイジー、ポピー、ツツジなど春の花も見所豊富、のこのしまアイランドパーク、092-881-2494
(9)野母崎「水仙の里公園」、水仙まつり
長崎市野母崎町
12月~1月/1000万本/時間自由/無料/駐車場100円/水仙祭り期間中の土日祭日はライトアップも行われる/椿の名所でもある。
野母崎行政センター、095-893-1139
(10)遠見山公園、熊本県天草市牛深町遠見山
日本水仙35万株西洋種4万株/12月下旬~4月/定休日/時間自由/無料/駐車場無料/JR「水俣駅」→バス→「水俣港」→高速艇(約70分)→「牛深港」→車(約10分)→遠見山駐車場/1月末の日曜日「水仙祭り」も行われる。天草市観光協会牛深支所、0969-73-2111