小金井市には広大な都立公園が2つあります。北側に都立小金井公園、そして南側に都立武蔵野公園です。この南側の公園は野川が流れているので、何時もは野川沿いの遊歩道を散歩してきます。ところが昨日は野川から離れて南の林の中を家内と散策して来ました。色々な樹木が植えてあり鬱蒼とした林になっています。
樹木が多いのは、この公園の南半分が他の都立公園へ樹木を供給する木々の畑になっているためなのです。その畑の中の道は、森の中の道のようです。
そんな道に迷いこむと、何か山奥の林の中を夫婦で歩いているような錯覚に捕らわれました。その瞬間、今まで味わった事の無い幸福感が身を包みます。そして周りの樹木が一瞬輝き出しました。50年も一緒に住んできた男女が二人で老後に林の中を歩く。何か奇跡のようです。キラキラ輝く時が林間を風のように流れて行きます。そうです。老年になると生きているだけで幸福感に包まれるのです。何もしないで公園の樹木の間を夫婦で歩くだけで満足なのです。このような幸多い境地を、若い時は想像も出来ませんでした。
何時かは一方が先に旅立ちます。それだからこそ林の中の道の散策が一層貴重に思えるのです。
老齢の皆様にはそのような経験がありますでしょうか?お二人そろって林の中の道を散歩する幸福をお祈り申し上げます。 (終わり)
写真 トウカエデ ドッグウッド ケヤキの林 ネズミモチ ドッグウッドの実
私は戦争中、戦後の貧しい日本で育ち、国家公務員として長い間働きました。戦後の日本は生活が貧しいだけでなく人々の心が荒廃している酷い社会でした。
そして国家公務員の職場では心の豊かさや品性を追及すると出世のしにくいところでした。どの旧帝国大学を何年度に卒業したか?、とか職場での役職の着任年度で人間の価値が決まっていました。
ある時、係長クラスに昇任し、その部署の会議に出席したときの驚きを今でも忘れられません。会議の席順が厳密に着任年度順になっているのは勿論ですが、机の上に用意されていた茶飲み茶碗が着任順に高級なものから質素な茶碗まで整然と並んでいるのです。大振りの陶器の蓋つきの茶碗から漆塗りの蓋のついた中級の茶碗、そして最後は小さめの蓋なしの茶飲み茶碗と並んでいるのです。
そんな世界に居た老人の私が、鬼家(オニイエ)さんという人に勧められ、PCの使い方を教えて貰ってブログを書き始めたのが2007年の11月5日でした。そして「みんなの足跡」や「趣味人倶楽部」や「BYOOL]というSNSにも入会しました。
そうしたら、なんと其処には目くめるような明るい、広い、豊かな世界が広がっていたのです。
ネット社会に住む人々は心豊かで、皆品性が良いのです。自分が体験したことの無い人間の善意で圧倒されてしまいました。そしてネット社会の人々は個性豊かに世界中に人生を繰り広げているのです。個人が輝いているのです。
役職の着任順に人間の価値が決まる職場に居た私にとっては、考え方を180度変更を迫る輝かしい世界が広がっていたのです。
カトマンズに住み込んで悠々とアジアの人々と哀歓を共にしているHikarunoさんのブログに魅了されました。手織り染めのアジアの布を情熱的に収集し、東京でも展示会を何回も開催しています。左にその収集品の一例を示します。しかし彼は今年の5月に肺がんで亡くなってしまいました。ご冥福を祈りながら彼の収集品の美しいアジアの手織り布の写真を左に掲載します。
このブログで「推薦したいブログ」を書いている鬼家さん、ちひろさん、玲さん、オカブさん、Hootaさん、木内さんは皆さん大変個性的で輝くブログを作っていらっしゃいます。その他、ワシントンDCに住んで世界中で活躍している音楽家、そして陶芸作家のAmadeusさんの感性の豊かさと、陶芸作品の気高さに感動しています。
こんなことを書き続けていたらキリが無いので止めます。
しかしもっと驚いたことは、毎日を平凡に暮らしている人々の心の豊かさと品性の高さです。毎日、書いていらっしゃるブログやSNSの中の日記を読むとそれが理解できるのです。
家族を大切にし、自分の個性を大切にして、豊かな気持ちで毎日を平凡に暮らしているのです。平穏無事な毎日に人生の充実感と幸福感を味わっているのです。これこそが日本人の豊かさの証拠と思います。品性の高さの証左と思います。
戦後65年、日本人はなんと豊かになったのでしょう!ブログを書いて、ネット社会に入らなければ、このような明るく輝く世界を知らないまま、死んで行った事と思います。ブログや日記を読ませて頂いた多くの方々、そして拙文へ心温まるコメントを下さいました方々へ心の底から感謝申し上げます。有難う御座いました。
平林寺で興味深い墓を発見した。1615年没、増田長盛の小さな、質素な墓石である。説明板がある。
長盛は豊臣秀吉の長浜城の近在のあるお寺の次男とし生まれ、秀吉へ仕え頭角を現す。朝鮮の役で兵站を担当し、食料・武器調達に大きな功績を残した。その後、秀吉の5奉行の一人として任ぜられ、徳川家康とともに活躍した。特に検地・税制のような財務行政に卓越していたようである。
やまとの国郡山、20万石の城主とし16年間、城下町の発展に尽くす。
しかし運命は暗転する。大阪の陣、関が原の合戦で徳川家康側に惨敗する。一族の多くは罪人になるが、長盛は高野山で僧になり、後に武蔵野国の岩槻で蟄居する。悲劇は重なる。
尾州家に仕えて大阪城へ入った長男、盛貞が合戦で死ぬ。1615年5月7日のことである。落胆した父、長盛が切腹したのは長男の死のあと20日後であった。
1615年没の長盛の質素な墓を岩槻から新座市にある平林寺へ移したのは明治になってからのことである。
==============================================
色々な疑問を考える。何故、家康は秀吉の5奉行だった長盛の死罪を免じ、岩槻での蟄居を認めたのであろうか?5奉行として共に働いた頃に、お互い友情のようなものを感じ合っていたのだろうか?
大和の国郡山の現在の住民は増田長盛をどのように評価しているのであろうか?
忘れられているか、あるいは、郡山の発展の功績者として尊敬されているのであろうか?
長盛切腹のときは平林寺は岩槻にあった。お墓が平林寺につくられたとしても不思議はない。その後、野火止用水を完成し、平林寺を新座へ移したのは徳川側の名家、松平伊豆守信綱である。
当時の平林寺の住職が気を利かせ、ソオーっと長盛の墓を岩槻へ置いてきたのであろうか? もしそうであるなら権力へへつらう俗っ気の多い住職ではないか?あるいは松平信綱が岩槻に置いて来いと命じたのであろうか?
徳川幕府が滅んだ明治時代になって平林寺に移されたということの背景にはどのような経緯があったのであろうか?
奈良県の郡山市、埼玉県の岩槻市、そして新座市というローカルな視点で波乱に満ちたひとりの武将の人生を考えると色々な疑問が湧いてくる。
================================================
その他にも興味深い墓や宝塔、供養塔がある。下の写真に示すが、漱石の「草枕」の熊本県小天温泉の美人、那美さんのモデルになった女性の墓、武田信玄の5女の宝塔、島原の乱の供養塔である。那美さんのモデルの女性と異母弟の興味深い関係が説明板にあるのでご一読をお勧めする。2人は同じ墓に眠る。
これら3枚の写真の詳細は記録して来なかった。歴史的背景をご研究の方は平林寺事務所へお聞きになれば良いと思う。
撮影日時:2008年4月19日午前10時ー12時、撮影場所:埼玉県新座市、市役所向かい平林寺。
3人とも天才です。偉大な人物です。凡人の私があれこれ批判をするのは大変失礼な事は分かっています。ですから批判ではなく、私の好き嫌いだけを書きます。
徳富蘇峰の実弟が蘆花です。三島由紀夫と徳富蘇峰の関係は血縁関係でなく右翼思想で繋がりがあるようです。
3人の記念館をそれぞれ2、3回見た上での感想です。蘆花の旧宅は世田谷区の蘆花公園に保存されています。三島由紀夫と蘇峰の記念館はいくつかありますが、その一つは山中湖の傍に向いあって建っています。私は山中湖へ行くと、時々寄って見ます。
下にその3つの記念館の写真を示します。蘆花旧宅はWikipedeaの徳富蘆花の記事からの転載です。2枚目の写真は三島由紀夫記念館で、3枚目のは徳富蘇峰の記念館です。8月25日に自分で撮ってきたものです。
蘆花旧宅に入場するとその質素さに言葉を失います。奥の書斎にはロシアの文豪のトルストイ夫妻をはるばる訪問した時の写真が展示してあります。トルストイ夫妻と蘆花が楽しそうに一緒に馬車に乗っている写真です。その下にはロシアへの長旅で傷だらけになった皮のトランクや持参した文房具類も展示してあります。
写真に写っているトルストイの顔を注意深く見ると、遠くから来た蘆花を心から歓迎している気持ちがあふれているのです。トルストの作品を翻訳し、日本へ紹介した蘆花に感謝もしているのでしょう。初対面の2人ですが深い友情が見える写真なのです。
三島由紀夫の文学作品の素晴らしさに異をとなえる人は居ません。私個人は、「午後の曳航」に魅せられた記憶があります。ノーベル文学賞を貰っても不思議のない文豪でした。それが晩年に狂ったように右翼になります。楯の会という私兵を従えて市ヶ谷の自衛隊へ押し入り、切腹自殺しました。彼の文学作品の価値とは一切の関係の無い愚かな行為でした。残念でした。その右翼の三島由紀夫の記念館の3倍も、4倍も大きな徳富蘇峰記念館が隣に建っています。
徳富蘇峰は巨大な国粋主義者でした。貴族院議員を1911年から1945年まで34年間務め、精力的な文筆活動で国粋主義を鼓舞し続けたのです。終戦の時は戦争継続を昭和天皇へ進言し、聞き入れらませんでした。進駐軍にA級戦犯の容疑をかけられましたが老齢の為起訴されず追放されました。マッカーサーの言うことをよく聞く昭和天皇を、「天皇としての修養が足りない」と批判しました。戦後も一貫して右翼思想を捨てなかったのです。三島由紀夫記念館が徳富蘇峰の記念館の傍にあるのは決して偶然ではありません。
ここまで書けばお分かりですね。私は徳富蘆花が好きです。尊敬しています。三島由紀夫の作品は好きです。しかし彼のもう一つの側面の右翼的思想は尊敬出来ません。残念です。徳富蘇峰については批判をひかえます。しかし日本を破滅へ導いた彼の言論活動へ歴史はどのような審判をするのでしょうか?それを審判するのは後世の日本人の考えにゆだねます。
それにしても明治、大正、昭和は激しい時代でた。激動の時代でした。平成になって平穏な時代になったと、つくずく感謝しながら老境の日々を送っています。この拙文を読んで下さって有難う御座います。尚、関連記事の、山中湖、三島由紀夫文学館 もご覧頂ければ嬉しく思います。(終り)
明治の文明化以来、日本にとって、欧米人を理解して、その文明文化を早急に輸入することが国家目標であったのです。近代科学、蒸気機関、ジーゼルエンジンなどの技術の導入は素早く出来ました。しかし欧米人を理解するという問題は困難なこととして現在も残っています。
欧米人を理解するにはキリスト教徒になるのが手っ取り早いという説もあり、明治時代から洗礼を受けた人も少なくありません。
キリスト教徒になると欧米人の人間としての弱さはよく理解できます。日本人と同じように人間としての弱さを持っていて親しみを感じます。その側面は日本人と共通な性質です。
しかし相違点が見えて来ません。単に人間の弱さは世界のどの民族も同じだという感慨に捉われるだけです。
そこで宗教から離れて、彼等の考え方や行動を冷静に観察してみます。すると欧米人の違いの一つは、合理主義が大きく人生に根付いていることです。その点は日本人と非常に違います。
人間は鳥でないから空を飛べない! そんなことはありません。ライト兄弟が飛行機を発明したではありませんか! 帆船は追い風を受けて走るのだから風上には走れない! 本当にそうででしょうか? その根拠となる理論が無い時代です。それなら実験をしてみよう! 帆の形を色々変えて実験をしてみたところ、風上に走ったのです。 もっと早く風上へ走る船の形と帆の形はどう改良すればよいか? 改良を重ねる度に実験をする。そうして1500年ころに3本マストの外洋航海用の帆船が出来上がったのです。下の写真は20世紀初頭にイギリスで完成した4本マストの帆船です。長く日本の船乗りの練習船として使われて来た帆船日本丸です。現在は横濱のみなと未来に係留、展示されています。
東洋人には実験実証主義的な考え方が無いのです。これこそが東洋人と西洋人の重大な一つの相違と信じています。欧米人は他の民族を制圧して植民地に出来たのは、この実験実証主義のお陰です。
クルーザーヨットに乗って、その部品一つ一つの合目的完璧性、船全体の構造の無駄の無さ、絶対に転覆しないキールの重さ、などなどを体感的に理解すると、欧米人の合理主義の極地が理解できるのです。これこそヨーロッパ文化の真髄と、クルーザーに乗る度に感動します。
ヨーロッパ文化へあこがれる日本人、科学や技術を職業とする日本人が、クルーザーヨットの趣味をもつと文化の相違の本質が理解できると信じています。単に楽しい、心地よい、というような表面的な楽しみの趣味ではないのです。
このブログの副題を「クルーザーヨットのブログ」とした意味は、「明治維新以来の我々の課題はクルーザーヨットの趣味を持つと解決しますよ!」そんなメッセージを含んでいるのです。
欧米人の理解の仕方はよくキリスト教を理解すると良いと言われます。キリスト教の信仰をもってみると人間の同一性は理解できますが、相違点は理解出来ないのです。キリスト教は欧米人の精神文化です。物質文明の本質は合理性や合目的性にあります。工業製品は無駄をそぎ落とし、目的の性能や機能を出すために徹底的に改良して行きます。自働車も飛行機もインターネット技術もそのような努力の積み重ねによって出来あがってきたのです。日本人の貢献は非常に少ないのが実態です。科学者や技術者はそのことをよく知っていますが、それ以外の人々はそのように理解していません。
さて皆様は上のような見方をどの様にお思いでしょうか?コメントを頂ければ嬉しく存じます。
今日も皆様のご健康と平和をお祈り致します。藤山杜人
秋風の立つ山中湖が波たっています。美しい白鳥と雁がゆったり泳いでいます。鯉も群がっています。生き物が居る自然の風景はそれだけで感動的です。まず写真をお楽しみ下さい。
私はこのように白鳥や雁やカモ類が日本の湖や沼に棲みついていて、シベリヤへ渡って行かないことを大変心配しています。白鳥が可愛いからといって餌を多量にやるから棲みついてしまうのです。一番下の写真の子供は1袋100円の餌を手に持って鯉へやっています。それを雁や白鳥が集まって来て食べています。
白鳥や雁は幸せないのでしょうか?渡り鳥が飛ばなくなれば翼の筋肉が衰えてしまいます。それで本当に良いのでしょうか?可愛いから餌を多量にやって棲みつかせることは良い事なのかとても心配です。やはり季節になったら飛んで来る方が自然で良いと信じています。皆様はどのようにお考えでしょうか?
夫婦は何事も一緒に行動するという鉄則を守ろうとしてきました。1961年にオハイオ州で新婚生活を始めたので、アメリカ流の夫婦の掟に染まった結果です。しかしこの掟はなかなか過酷な掟です。
しかし、夫婦の間の掟と諦めて相手の趣味になるべく付き合います。 妻の趣味はいろいろありますが、フィギュアスケートもその一つです。中学1年から後楽園、新宿コマ、軽井沢、白樺湖などのスケート場で滑ったというのです。結婚後も毎冬、4,5回は滑りたいと言います。
ところが、が私は運動音痴で、全てのスポーツが嫌いなのです。
しかし夫婦の掟がある以上、逃げるわけにもいきません。スケート靴を買って、冬の間車に積んで35年間もスケートをしました。それは過酷なものでした。
奥多摩、諏訪湖、富士山、白樺・蓼科、西武園、読売ランドなどの屋外スケート場へも滑りに行きました。強風や吹雪がふきつけてくる零下10度や15度の中で妻が娘と息子を従えて滑っています。結局、妻がスケート靴を脱いだのは60才の時でした。結婚したのが25才の時でしたから、私は35年も夫婦の掟に従ってお付き合いしたのです。
昨日、奥多摩街道をドライブしているとき、足しげくスケートに通った小作の屋内スケート場と沢井のスケート場の傍を通りました。よく通ったところなので懐かしく思い車を停めて回りを見て、写真を撮って来ました。
下の写真の一番上は小作の屋内スケート場の駐車場と切符売り場のあった高台の上から見た多摩川の流れです。振りかえって屋内スケート場のあった所はすっかり変わっています。2枚目の写真にあるように、瀟洒な建売住宅が並んでいるだけです。そこにスケート場があったなどと誰も想像が出来ません。幻のように消えてしまったのです。
そこで多摩川をもっと遡って御岳の手前の沢井の野外スケート場に行ってみました。そこは道路工事の資材置き場になっていました。その事務所の人に聞くと、もう15年くらい前にスケート場は廃業したと言います。その後で鯉の養殖をしていたが鯉は売れないのでそれも止めたそうです。そして鯉が勝手に生きているから見て行きなさいと言います。成程、数匹の鯉が岸に立った私の足元に寄ってきます。
下の2枚の写真は、野外スケート場のあった池です。これは完全に消えてしまったわけではありません。しかし若い男女や子供達が楽しそうに滑っていたあの光景は永久に消えてしまったのです。陳腐な言い方ですが、夢まぼろしのようです。
皆様はそのようなご経験が御座いますでしょうか?まあ、それだけのお話です。
今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。藤山杜人
マザー・テレサ日本 東京ボランティア募集(http://www.adonaiharmony.com/MotherTeresa.html )
※マザー・テレサ日本のホームページやメールはありません。ボランティアにいらっしゃれる時に直接、お越しください。
毎週金曜日13時頃~14時30分くらい。
場所:マザー・テレサ日本「神の愛の宣教者会」Missionaries of Charity
住所:東京都足立区西新井本町3-5-24 電話:03-3898-3866
ボランティア内容:マザーテレサのシスターたちと600個くらいの炊き出しのおにぎり作り。
行き方
1・地下鉄日比谷線直通東武線「西新井駅」で大師線に乗り換えて「大師前駅」下車徒歩8分。(大師前駅の派出所で行き方を教えてくれます)
2・池袋駅東口より、都営バス40「西新井駅行き」乗車約45分、「足立第五中学」下車徒歩3分。バス停「足立第五中学」の前に、寝具店さいとうと文具店があります。その間の道を入りしばらく行くと左にパーマ屋が見えたら、そこを右へ曲がり、突きあたりを左へ曲がると右側の建物です。
3・JR日暮里駅から舎人ライナーに乗り、江北で下車、「足立第五中学」バス停まで徒歩約10分歩く。バス停からの行き方は2と同じです。
無事に辿り着けるようにお祈りしています。マザーテレサの映画 http://www.motherteresa.co.jp/
武蔵小金井に1964年に引っ越してから現在まで、御岳や鳩ノ巣などの奥多摩の川原で本当によく遊んだものです。特に息子が15才になる1979年頃までは毎週のように遊びに行きました。今日は、その奥多摩街道を独りでゆっくりドライブをして来ました。
仙台生まれで、仙台育ちですが、多摩川は故郷の川のように懐かしく思います。昔の楽しかった日々のことを思い出しながら車を運転して来ました。初めて奥多摩湖へマツダ・クーペで行ったのが1962年ですから、もう48年も前のことです。老妻も当時はキラキラ輝いていました。そんな思い出を楽しむ一日でした。
下に小作の崖の上から見た多摩川の遠景と、御岳駅のすぐ上にある国際フィッシングセンター付近の多摩川の流れの写真3枚をお送り致します。
多摩川の清流の風景をお楽しみ頂ければ嬉しく思います。
○閉鎖的な組織の話
アメリカの東部や中西部の大学の周辺には一戸建ての家を借り切って学生寮にし、それを単なる宿舎以上の種々なクラブ活動の組織にして、学生自身が管理運営している結社的な組織が数多くあります。男子学生のためのフラタニテイと女子学生用のソロリテイと呼ばれる学生組織です。
メンバーは数十人の場合が多く、出身地や専門分野で集まっているわけではありません。キリスト教の宗派や慈善事業の種類、あるいはクラブ活動の目的別で分かれているようです。また家が金持ちの上流階級のみでつくっているものも多くあります。1960年ごろのオハイオは人種差別が強く、このような学生組織で人種差別維持を活動目的にしているものもありました。
フラタニテイやソロリテイの建物はたいてい立派な一戸建てで、その入り口にはアルフアー・シグマ・ムーというようなギリシャ文字で、三文字の看板が出ています。
非常に差別的で閉鎖的な結社の場合が多く、黒人や外国人の近寄りがたい組織でした。このような結社による人脈がアメリカ社会では重要な役割を果たしていると言われることが多いのです。
@アメリカの複雑さと急速な変化を注意深く観察しないと間違ってしまう
進歩的な評論家はよく、アメリカ社会を開放的な自由平等の社会と気楽に書きます。しかし、そんなに単純ではなく、一方では秘密結社も多いのです。こんな暗い一面も有していることを忘れては真の意味での日米友好は出来ません。
閉鎖的な結社も多く存在する社会なのです。しかしそのような結社へは自由意思で参加します。辞める時も自由です。それに加えて宗教関係の団体も多くあります。キリスト教は勿論、仏教関係の組織も多く、ユダヤ教もイスラム教もあるのです。そこには日本人の想像以上の複雑な関係が出来ているのです。
単純にアメリカはプロテスタントの国で、自由で平等という理解では間違ってしまう問題が山積しています。
この複雑な社会を理解する時のもう一つの困難な原因は社会の内部関係がすごい速度で常に変化しているという事実です。よく言えば、「ダイナミックな変化」です。変化の速度がヨーロッパ諸国や日本のように遅くないのです。時々刻々巨大な歯車が回るように変化しています。この変化こそがアメリカの強さばぼです。
女性の国務長官が活躍したり、黒人男性が大統領になることは最近の急な変化です。暗殺されたキング牧師の時代には想像も出来なかった変化ぶりです。
昔、私はオハイオ州に前後4年間住んだことがあります。当時もアメリカ社会の複雑さは理解出来ませんでしたが、現在のアメリカは想像も出来ないくらい変化しているのです。よくアメリカのことを理解しているような評論家がいろいろなことを書いています。私はそれらを読む時には、「嘘ではない!しかしそれはアメリカ社会の断片だ!」と心で叫びながら読むことにしています。
皆様はアメリカ社会のことをどの様に理解していらっしゃるのでしょうか?
今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。
藤山杜人
写真の説明:左は、オハイオ州立大学内のLord Hall という建物で筆者が1960年から1962年の間に実験装置を作って研究していた建物です。
右は同じくFontana Laboratory という建物で寄付をした当時の学科主任の名前がついています。
アメリカの大学は情報公開が徹底しているのでHome Page 内のキャンパス地図にある建物や風景の写真を自由に転写・使用できるようになっています。
ついでに卒業したり研究生活をしていた日本の大学の建物の写真を探して見たが、公開されて居ません。(終り)
マザーテレサがインドに、「神の愛の宣教者会」(Missionaries of Charity)を作り、現在は4800人の修道女が世界各国で貧しい人々へ奉仕しています。昨日はそのコルコタの本部で「マザーテレサ生誕100年記念式」が行われました。AFP報道を見ると数多くのインド人修道女が熱心に祈っています。「マザーテレサ生誕100年記念式」を検索するとその報道が出てきます。この修道会の本部メンバーは大部分がインド人女性のようです。
ところで日本人とこの修道会との繋がりはどのようになっているのでしょうか?日本人女性でこの修道会の会員になった方も居るようです。調べていましたら、この修道会に感動して神父になった片柳敏洋さんの「ブログ」を見つけました。以下にそのブログから片柳神父の書いた文章の一部を転載いたします。
=====http://d.hatena.ne.jp/hiroshisj/20081007/1223391205からの抜粋文=====
ロザリオの聖母の記念日であり、「神の愛の宣教者会」(Missionaries of Charity,略称M.C.)の創立記念日でもある今日、「神の愛の宣教者会」名古屋修道院で初ミサを立てる恵みを頂きました。
今から10年半ほど前、イエズス会での修練を始めるために埼玉の実家から広島のイエズス会修練院に向かう途中で、わたしはM.C.の名古屋修道院に立ち寄りました。そのときに、「いつかまた司祭になって戻って来たいと思います」とシスター方に話したことを今も鮮明に覚えていますが、今日ついにその約束を果たすことができたのです。
マザー・テレサがM.C.を始めなければ、わたしはマザー・テレサに会いにカルカッタに行くこともなかったでしょうし、司祭への道を考えることも決してなかったでしょう。その意味で、今日の記念日はわたしの司祭召命にとっても大きな意味を持っています。司祭への道を歩み始めてからも、以前にご紹介したSr.マーガレット・メリーを初めとするたくさんのM.C.シスターたちがわたしの召命を祈りで支えてくれました。特に、ローマでは1人のM.C.シスターがわたしの霊的同伴者として祈ってくださっています。彼女たちの祈りがなければ、わたしが司祭召命の道をここまで歩いてくることはできなかったでしょう。
マザー・テレサが始めたM.C.を通して、「神の国」がこの地上に根を張り、枝を伸ばしていっているのをひしひしと感じます。わたしも、その枝の一つとして司祭召命を最後まで全うしたいと今日のミサを立てながら改めて思いました。
================================
上の文中に、「神の愛の宣教者会」名古屋修道院という表現があります。すると名古屋以外のあちこちに、「神の愛の宣教者会」の女子修道院が存在していることが推察されます。マザー・テレサは、日本を初めて訪れた後、日本から帰ってまもなく4人のシスターを日本に派遣しました。東京から始まったシスターたちの活動は、今は、名古屋、別府に修道院をおいて、未婚の母親のため、またホームレスのおじさんたちのための支援活動を行っているようですがHPや公報情報が少なく詳細が分かりません。住所だけは分かりましたのでご報告します。
日本の「神の愛の宣教者会」の4か所の支部の住所は、(1)女子修道院、郵便番号123東京都足立区西新井本町3-5-24電話03-3898-3866、(2)女子修道院、郵便番号497愛知県海部郡七宝町大字安松1-21、電話052-441-5141、(3)女子修道院、郵便番号874大分県別府市大字浜脇3307-1、電話0977-21-7044、(4)男子修道院、郵便番号110東京都台東区日本堤2-2-14 電話03-3876-2864 です。
詳細は、これから調べて行くつもりです。今日はとりあえず片柳神父様のことだけをご紹介いたします。(続く)