後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「今日の日記、都立武蔵野の森公園の写真と戦闘機、飛燕の話し」

2021年01月31日 | 日記・エッセイ・コラム
近所に広大な都立公園が4つあります。小金井公園と武蔵野公園と野川公園と武蔵野の森公園です。
小金井公園と武蔵野公園の風景写真は一昨日と昨日記載しましたので、今日は都立武蔵野の森公園の写真を撮りに行来ました。この公園は隣接する調布飛行場に接して広がっています。
武蔵野の森公園の風景写真をお送りいたします。







最後の写真はこの公園の隣にある調布飛行場です。
そこで調布飛行場の説明をしておきます。
調布飛行場は陸軍が昭和13年に急遽作りました。長さ1000mの滑走路があります。そして陸軍が飛燕と言う戦闘機を配備して東京の防衛をしました。
戦後は進駐軍がこの土地を占領し、飛行場を含めて関東村という基地にしました。基地の返還後、飛行場の敷地の一部に都立武蔵野の森公園が出来たのです。そんな経緯があったので飛燕の掩体壕が2つ公園内に保存、展示されています。

5番目の写真は武蔵野の森公園に保存、展示してある掩体壕です。入口の戸に飛燕の絵だ描いてあります。
戦闘機の飛燕は旧日本軍唯一の液冷エンジンを搭載した戦闘機でした。ドイツのダイムラー社の液冷エンジンをライセンス生産して使ったのです。形がスマートで美しい戦闘機でした。陸軍三式戦闘機とも呼ばれていました。
真珠湾攻撃のあった昭和16年(1946年)に試験飛行をし。終戦の1945年まで2800機ほど生産されました。当時、日本の技術が劣っていたため液冷エンジンは故障が多くて、飛燕は整備に苦労したと言います。
その飛燕が東京の調布飛行場にも配備され、首都防衛戦闘機として活躍したのです。
現在、飛燕の機体は知覧にだけあるので公園に展示してある掩体壕の中にはありません。
なお、掩体壕を検索すると全国各地に戦争遺跡として保存されていることが分かります。

今日はそんな飛燕のことを思い出しながら写真を撮って来ました。(終わり)

「今日のカトリック聖イグナチオ教会の動画配信ミサの写真」

2021年01月31日 | 写真
今日のカトリック聖イグナチオ教会のミサの写真を3枚お送りいたします。
ミサの司式はフローレス神父さまでした。
スペイン出身のフローレス神父の説教では、平易な言葉で「神と共に生きる」ということを実に明快に説明してくれました。深い内容でした。
今日のミサの写真を3枚お送りします。いずれにもフローレス神父さまが写っています。






ヘネロソ・フローレス神父の略歴
1934年 マドリード(スペイン)で生まれる
1952年 イエズス会入会
1960年 来日
1966年 聖イグナチオ教会で叙階
2007年 藤女子大学学長
2011年 聖イグナチオ教会協力司祭

「今日もカトリック聖イグナチオ教会の動画配信ミサにあずかります」

2021年01月31日 | 日記・エッセイ・コラム
コロナが怖いので今週も教会のミサには出ません。その代わりカトリック聖イグナチオ教会の動画配信ミサにあずかります。
今日は年間第四主日で、10時から始まるミサの動画配信ミサは、https://www.ignatius.gr.jp/news/streaming.html にあります。

今日教会に行かない方々はこの動画配信のミサにご参加なられるのも良いと存じます。

カトリック聖イグナチオ教会は上智大学の構内にありますが大学とは別組織でイエズス会が管理運営しています。
2008年(平成20年)での信徒数は13,966人、2009年(平成21年)には14,382人となり、信徒数では日本最大規模の教会です。

ところでイグナチオ教会はイエズス会の創始者で初代総長のイグナチオ・ロペス・デ・ロヨラの名前にちなむ名称です。
イグナチオ・ロヨラはスペインのバスク地方に1491年生まれ、 1556年没でした。
バスク地方はピレネー山脈をはさみ、スペインとフランスの両側ににまたがる地方です。ヨーロッパの他の地域とは異なる言語を用い独特の文化を持っています。スペインは 荒涼とした大地が大部分ですが、バスク地方は緑豊かな山々に囲まれ美しい大西洋に面しています。
そこで今日はバスクの風景写真を3枚お送りいたします。





ついでにイグナチオ・ロヨラのイエズス会総長としての仕事をご紹介しておきます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%B0%E3%83%8A%E3%83%81%E3%82%AA%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%A8%E3%83%A9 より抜粋します。
ロヨラはイエズス会の最初の総長に選ばれた。彼は会員たちを欧州全域に派遣して、一般学校と神学校を各地に創設させた。ローマにおけるカール5世の名代をつとめていたホアン・デ・ヴェガはイグナチオと会談し、その志の高さに感銘を受けた。ヴェガはシチリア総督に任命されるとロヨラとイエズス会員を同地へ招き、メッシーナに大学を開かせた。メッシーナの大学は評判を呼び、その教育システムは以後のイエズス会学校の雛形となった。1548年、『霊操』の決定版が出版された。このとき、同書の内容に関してローマの異端審問所で審査を受けたが、すぐに解放された。

ロヨラの書いた1554年版会憲はイエズス会をピラミッド型の組織として規定、会員に上長と教皇への絶対的服従と自己犠牲を求めた。ロヨラは「軍隊のごとき」服従という表現を用いている。彼の座右の銘がそのままイエズス会のモットーとなった、「神のより大いなる栄光のために」(Ad Maiorem Dei Gloriam)である。イエズス会の精力的な活動は対抗改革の原動力となった。

1553年から1555年、ロヨラは自らの生涯を振り返って「自伝」を口述し、秘書のゴンサルベス・ダ・カマラ神父に書き取らせた。この自伝は霊操の精神を理解する上でも重要な資料となっている。同書は150年近く書庫に秘蔵されていたが、ボランディストらによって『聖人伝』が出版された際に初めて公刊された。同書の批判版も1943年に『イエズス会歴史叢書』の第一巻として出版されている。

ロヨラは1556年7月31日にローマで死去。1609年7月27日に教皇パウルス5世によって列福され、1622年5月22日にグレゴリウス15世によって列聖された。

「今日の日記、都立武蔵野公園の写真を撮りに行く」

2021年01月30日 | 日記
昨日は都立小金井公園で写真を撮り、「今日の日記、巨大なユーカリの木とユリの木の写真を撮りに行く」という日記を掲載しました。小金井市は北に小金井公園があり南に武蔵野公園と野川公園があります。三つの公園に囲まれています。
今日は午後から武蔵野公園をのんびり散歩して来ました。公園で撮った風景写真をお送りいたします。
1番目の写真の小川が野川という名前の川です。源流は国分寺市の湧き水で、この写真の手前方向に流れ下り調布市で多摩川に合流します。4番目の写真の木の根元左側に立っているのが家内です。木と家内を比較すると木の大きさが分ります。









「今日の日記、巨大なユーカリの木とユリの木の写真を撮りに行く」

2021年01月29日 | 日記
小金井公園の人があまり行かない東の端に巨大なユーカリの木とユリの木があります。すっかり落葉して黒々とした梢が青い空に突き刺さるように伸びています。そんな木の姿は美しく、また神秘的でもあります。
時々行っては眺めています。今日の午後も行って見て来ました。
お送りする写真の初めの2枚はユーカリの木で後の3枚がユリの木です。1番目の写真の木の根元の左に立っているのが家内です。木と比較すると木の巨大さが分ります。









「アメリカの仕掛けた中国との経済戦争の激しさ」

2021年01月29日 | 日記・エッセイ・コラム
アメリカは中国の覇権主義を敵視し軍事的、経済的な圧力をかけています。しかし日本企業は馬耳東風で中国で盛んに経済活動を展開しています。その実態は、「米中抗争でも1万3千社以上の日本企業が中国にある現実」(2021年01月22日掲載記事)という記事で説明しました。
ところが一方、アメリカ企業は日本と同様に中国で企業活動や投資をしているのです。その実態は次の報告書のに詳しく書いてあります。
八木 三木男著、「対中企業進出の日米比較1」
(http://www.cc.kyoto-su.ac.jp/project/orc/econ-public/china/documents/DP22yagi )
これに対して、アメリカ政府はアメリカ企業が中国から帰るように呼びかけています。しかし中国に進出している企業は政府の言うことを聞きません。自社の利益を守る方が大切なのです。

今日はアメリカと中国の経済交流を制限しようとするアメリカ政府の政策をご紹介しようと思います。アメリカ政府が仕掛けた中国との経済戦争の激しさです。
まず昨年5月のニュースをご紹介いたします。
===================================
「米政府、中国のテック企業30社超を貿易禁止ブラックリストに追加へ」
(https://thebridge.jp/2020/05/us-adds-dozens-of-chinese-firms-to-trade-blacklist )
アメリカは2020年5月22日に、中国に対する最新の反発として、人権侵害への関与や軍との関係を指摘されている30社超の中国企業や機関を、貿易ブラックリストに追加すると発表した。

(1)重要視すべき理由
今回の発表がなされた先週から今週にかけては、中国で最も重要な政治会合である2つの会議(両会=全人代と政治協商会議)に参加するため、中国全土から集まった代表(議員)や政治顧問が北京に滞在している。
貿易禁止令に追加されることで、指定された中国企業は政府承認無しにアメリカ企業から製品や技術を購入することが事実上禁止される。

(2)詳細情報
アメリカ商務省は、中国北西部のウイグル自治区での人権侵害加担した疑いがあるとして、9つの企業や機関を貿易禁止令に追加した。このうち7社は、「中国のハイテク監視プログラムを可能にした」として、いわゆる「エンティティ(ブラック)リスト」に追加された。
商務省の声明によると、この7社には顔認証企業 Cloudwalk Technology(雲従科技)と Sensenets(深網視界)、監視企業の Netposa(東方網力)、AI チップメーカーの Intellifusion (雲天励飛)が含まれる。
加えて商務省は、中国軍との関係が疑われる24の企業や機関をブラックリストに登録したと別の発表で述べている。その中には、有名サイバーセキュリティ企業 Qihoo 360(奇虎 360)や、ソフトバンクが出資するロボット企業 Cloudminds(達闥科技)などが含まれる。
Qihoo は、今回の告発に「断固として反対」すると強い言葉で声明を発表した。
また、ハルビン工業大学(哈爾浜工業大学)や北京計算科学研究センター(北京計算科学研究中心)など、アメリカの国家安全保障に影響を及ぼす可能性のある活動に関与している、または関与する危険性が高いと判断された大学や研究機関も、リストに登録された。
アメリカ商務長官の Wilbur Ross 氏は声明の中で、「中国がアメリカの利益を損なう活動にアメリカの商品や技術を利用することを防ぐことを目的としている」と述べている。

(3)背景
中米間の対立は長きに渡って続いているが、今回の動きは中国のハイテク企業に対するワシントンの最新の攻撃と言える。
アメリカは10月、AI の Sensetime(商湯)、顔認識の Megvii(昿視)、監視カメラメーカーの Hikvision(海康威視)などをブラックリストに登録した。
アメリカはまた、国家安全保障上の懸念を理由に、Huawei(華為)の5G展開への関与を制限しようとしている。
==========================================

以上の報道に加えて次のような報道もあります。
=====================================
「アメリカの中国系企業250社に上場廃止リスク・・・トランプ政権が会計監査めぐる「覚書」破棄へ」(https://toyokeizai.net/articles/-/363535 )
==============================================
この様にアメリカ政府はいらだって中国のアメリカでの自由な経済活動を締め付けようとしています。
しかしアメリカの経済界は政府の言うことを聞きません。次のニュースをご覧ください。
==============================================
「アメリカ企業は中国からの「切り離し」に反発…70%の企業が生産拠点の移転を考えていない」2020年9月17日)、(https://www.businessinsider.jp/post-219960 )

中国に拠点を置くアメリカ企業は、トランプ大統領の米国回帰の呼びかけを無視していることが、新たな調査で明らかになった。
トランプ大統領は、米国経済を中国から「切り離し(decouple)」、「アメリカを世界の製造業大国 」にする計画だと繰り返し述べた。
しかし、在上海アメリカ商工会議所の調査によると、中国で事業を展開しているアメリカ企業の70%以上が、生産拠点をアメリカに戻す計画がないことが分かった。
中国に進出しているアメリカ企業は、両政府の関係修復を望んでいることが明らかになった。
ドナルド・トランプ大統領が中国を放棄してアメリカに戻るよう求めたにもかかわらず、中国に拠点を持つアメリカ企業は通常通りの営業を続けるつもりだ。
トランプ大統領は9月7日、中国との貿易戦争が続き、通信機器大手のファーウェイや香港での中国の行動などをめぐって緊張が高まる中、アメリカ経済を中国から「切り離す(decouple)」計画をあらためて表明した。
大統領は、ホワイトハウスでの記者会見で、「(中国と)取引をしなければ、何十億ドルも失うことはなかった」と述べ、「アメリカを世界の製造業の超大国にし、中国への依存をきっぱりと終わらせる」と付け加えた。
しかし、フィナンシャル・タイムズは、在上海アメリカ商工会議所が委託した最新調査によると中国で事業を展開しているアメリカ企業はトランプ大統領の要請に耳を傾けていない、と報じている。
PwCコンサルティングが200社以上を対象に実施したこの調査では、生産拠点のアメリカへ移転すると答えたのは4%未満で、70%以上が中国からの移転をまったく計画していなかった。
在上海アメリカ商工会議所のケル・ギブス(Ker Gibbs)会頭は、アメリカ企業は北京から離れるよりも、中国での事業を続けたいと考えていると述べた。
「COVID-19は2020年初めに中国経済に大きな打撃を与えたが、回復は早かった。アメリカ企業は依然として中国市場を大きなチャンスとみなしている」と彼はフィナンシャル・タイムズに語っている。
===========================================

以上のようにアメリカ政府がそれを望んでも経済界は現状を変えようとしません。アメリカの自由な資本主義が政府の介入を許さないという原則があるのです。
アメリカの軍事力は中国の軍事力よりも圧倒的な優位に立っています。しかし経済力の分野では五分五分の戦いなのです。アメリカと中国の抗争の難しさは経済力の分野にあるのです。

アメリカの大統領がバイデンさんに変わっても中国との経済戦争の激しさは変わりません。バイデン大統領も就任早々、中国に厳しい圧力をかけるという演説をしています。
将来の日本は米中の抗争の渦に巻き込まれる可能性があります。困ったものです。

今日の挿絵代わりの写真はアメリカの首府、ワシントンDC[の風景です。出典は、https://tabit.jp/archives/7340 です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)





「この冬初めて雪が積もりました」

2021年01月28日 | 写真
庭の寒暖計が朝から3℃のままです。午後から雪になりました。我が家の狭い庭にこの冬初めて雪が積もりました。小さな蕾を付けた白梅の枝、アボカドの枯れ葉、薄紅色の沈丁花の蕾などうっすら白くなりました。天気予報によると東京地方は明日の朝まで雪が続くそうです。庭の積雪も深くなります。先程撮った写真を示します。







「 夜の湘南海岸 の写真です」

2021年01月28日 | 写真

1番目の写真は稲村ケ崎から江の島方面を撮ったものです。中央奥に雪の富士山が写っています。写真の出典は、http://www.3776m.com/gallary/fuji/fuji859.htm です。

2番目の写真は夏の「サザンビーチフェスタ2019」の波打ち際の照明です。写真の出典は、https://asobii.net/70267 です。

3番目の写真は「サザンビーチフェスタ2019」で2,000個のキャンドルを浜に並べ、波打ち際にライトアップした光景です。写真の出典は、https://asobii.net/70267 です。

「サザンオールスターズゆかりの茅ヶ崎海岸の写真」

2021年01月28日 | 日記・エッセイ・コラム
1974年から現在まで活躍しているサザンオールスターズというロックバンドがあります。その中心人物は湘南の茅ヶ崎市出身の桑田 佳祐です。バンドの作詞、作曲、ボーカル、ギターを担当しています。
サザンオールスターズは日本中に多くのファンを持つ日本の軽音楽界を代表するバンドです。
そのバンドマスターの桑田 佳祐は故郷を愛し、茅ヶ崎市で何度も無料のライブ演奏会を開催しています。茅ヶ崎市はそんな彼に感謝して海岸を「サザンビーチちがさき」という名前をつけました。この海水浴場は有名になり夏には海水浴客で賑わっています。
先日は「サザンビーチちがさき」の風景写真を撮って来ました。雪を頂いた富士山も綺麗に見える海岸です。そんな風景写真をお送りいたします。









「サザンビーチちがさき」の風景写真をお送りしましたのでサザンオールスターズの音楽について少しだけ書きます。
このバンドはロックバンドと言う人が多いのですが、ロックの他のポップス、 ラテン音楽、 ジャズなどあらゆるジャンルの音楽をミックスしたように情感豊かに演奏しています。リーダー桑田のヴォーカルは独特のかすれたような声と英語風の発音、テンポをずらした歌い方で魅力的だと思います。
例えば私が好きな「蛍」の演奏は、https://www.youtube.com/watch?v=dJvAcSModfA にあります。
その他の曲、「真夏の果実」、「東京VICTORY」、「TSUNAMI」、「いとしのエリー」、「涙のキッス 」などは、「サザンオールスターズ 曲」を検索すると動画映像が出て来ます。

桑田 佳祐の奥さんはサザンオールスターズのキーボードとボーカル担当の原由子です。
桑田 佳祐は1956年2月26日に神奈川県茅ヶ崎市にて生れました。父は満州からの引揚者であり、湘南の地方新聞の記者や茅ヶ崎の映画館の支配人をしていました。

さて茅ヶ崎の海水浴場の歴史は古はく、1898年の開設と言われています。
明治から昭和中期にかけての茅ヶ崎周辺は著名人の別荘や企業の保養所が数多く存在する地域でした。
そして1999年に茅ヶ崎市出身の桑田佳祐が率いるサザンオールスターズの名にあやかり、茅ヶ崎海水浴場を「サザンビーチちがさき」という名前にしたのです。
それを受け2000年8月から茅ヶ崎公園野球場でサザンオールスターズの無料ライブ演奏が続いているのです。
このサザンオールスターズによる茅ヶ崎ライブは一躍「サザンビーチちがさき」の名前を全国に広める効果を生んだのです。
湘南海岸には昔から有名な大磯ロングビーチがあり、葉山にはヨットハーバーがありましたが、茅ケ崎のサザンビーチも1999年以後有名な場所になったのです。

今日はサザンオールスターズゆかりの「サザンビーチちがさき」の風景写真を示しました。そしてバンドマスターの桑田佳祐の郷土愛に感動したのでサザンオールスターズの活躍を少しご紹介しました。一般的に郷土愛は美しいものです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「コロナで孤独に死んだ修行僧、望月崇英と泣き崩れる少女」

2021年01月25日 | 日記・エッセイ・コラム
銀座で托鉢しながら東日本大震災の犠牲者を弔い続けていた修行僧、望月崇英が新型コロナで突然死にました。死ぬ時、家族や親族がいない孤独な死でした。この僧侶、望月崇英は銀座で悩める人々の相談にのり失意の人々を勇気づけていたのです。そんな人々の中に一人の少女がいました。
今日はまずこの少女の母親から貰った投書をご紹介します。投書は私が書いた、「ある修業僧へ送る梅の花の和歌と写真」(2021年01月20日掲載)という望月崇英師の追悼記事のコメントとして送られて来たものです。
===ほうげつ志音さんからのコメント(2021年1月23 日)======================
いま10歳の娘の志音は毎週お坊様、望月崇英師にお会いしたくて銀座へ参っておりました。
望月崇英師とは娘が2歳頃の時に知り合いました。そして漸く昨年互いに連絡先を交わし、さていよいよこれからもっとずっと御縁を... と思っておりました。
そんな矢先に御闘病中であられることを知り、そしてその後すぐにご臨終と伺いました。
娘は悲嘆のあまり泣き崩れしました。気が違えたと思うほど声を出して「絶対にイヤだ!」と泣きしました。
お坊様の背景を何も尋ねなかったことを私は居た堪れないほど後悔しています。
もっと早くこのブログの記事を存じ上げていたになら娘共々生活をもっともっと切り詰めて少しでも望月崇英師のためにお役に立てたと思います。悔やんでおります。
志音は本日、銀座和光の一角へ参って、そこでもかける声もないほどずっと泣いておりました。手袋を外して傘も畳んでずっと手を合わせておりました。
志音には、「命に長いも短いもなく、どれだけ心を込めて生きようとしたか」と伝えました。
このお坊様のことを少し詳しく教えて下さったこのブログ記事に心より感謝申し上げます。勝手ながらこの記事を印刷させていただきました。お坊様と一緒に写った写真数枚と共に志音の宝箱へ収めたく存じます。 ありがとうございました。心より深く感謝申し上げます。(終わり)

母親の娘の志音さんへ対する暖かい愛情が胸を打ちます。素晴らしい母親です。
そして志音さんがの仲良しだったお坊さんの死を悲しみ泣き崩れる場面に感銘を受けます。志音さんは他人の愛が分る情感豊かな少女です。嗚呼、この人は一生幸せな人生を送る人だと思いました。確信しました。この母娘に幸せ多かれと祈ります。

以下に望月崇英師の死を伝える東京新聞の2021年1月23日 の記事を転載いたします。
「銀座で托鉢 震災犠牲者を弔い続けた僧侶 新型コロナで突然の死 <あの日から・東日本大震災10年>」
 東京・銀座で托鉢たくはつを続け、東日本大震災の被災地で死者を弔い続けた一人の僧侶が、新型コロナウイルス感染症で亡くなった。66歳。「まだ、どこからか現れそうだけど―」。その精力的に動く姿を知る人は、突然の死に衝撃を受けている。

1番目の写真は2012年3月11日本紙朝刊1面に掲載された写真です。望月崇英さんは仙台市の海岸で波に向かって祈っていた=同年3月4日撮影
【関連記事】祈りの僧侶、都心の街角で托鉢(2012年4月6日東京新聞朝刊記事を再掲)
◆月に1度は被災地で
 銀座・和光本館前の地下鉄出入り口の外壁。「この場所に立ち続けたとても優しく、美しい人 僧侶崇英、2021年1月18日永眠」と紙に記されている。その下には花束。亡くなった望月崇英さん=世田谷区=はここで托鉢を続けた。
 「銀座に立って半年ほどで東日本大震災。しばらくは毎週、被災地で弔いをしていた。最近も月1回は訪ねていた」。友人の白井糺ただしさん(73)=同区=は振り返る。仙台市の海岸で祈る姿は、震災から1年の12年3月11日の東京新聞1面に掲載された。

2番目の写真は托鉢僧の姿の望月崇英さんです。立っていた場所は銀座・和光本館前です。
◆根津甚八さんと釣り仲間
 変化に富む生涯だった。都内の私立高を卒業、ミュージシャンを目指しニューヨークへ。夢かなわず、日本人歌手のレコーディング場所を探したり、日本向けに古着を買い付けたりと約20年、米国で暮らした。
 帰国後は、バイク冒険家の風間深志しんじさん(70)=東京都小平市=の助手として、南極大陸でのベースキャンプ設営やパリ・ダカール・ラリーを経験。その後、アルバイト先の古着店で知り合った僧侶に促されて高野山で修行、僧籍を得た。

3番目の写真は昨年秋、冒険家の風間深志さん(左)と友人の白井糺さん(右)と写真に収まった望月崇英さん(中)です。
 風間さんは「僧侶になると聞いた時は驚いた。人の苦しみを救い、生きがいのある生活を目指したのだろう」と話す。托鉢僧として生きる決意だった。
 高校時代から一緒に銀座のディスコで遊んだという友人・高田顕治さん(67)=豊島区=は「托鉢をするなら、昔なじみの銀座の真ん中、和光前と彼は決めた」と明かす。朝、高田さんの焼き鳥店で配達弁当を作った後、正午から4時間、般若心経を唱えた。夏は足袋まで汗でぬらし、冬は使い捨てカイロを何枚も貼って耐えた。その場で悩みごとの相談にも応じた。
 一人暮らしで、山登りや釣りが好き。16年に亡くなった俳優根津甚八さんとも釣り仲間だったという。
◆「苦しい…」異変を告げるメール
 最後の托鉢は昨年12月26日。「何回か来てくれているおばあさんが、財布から小銭をざらざらと鉢に入れてくれた。続けて1万円札を5枚。財布を空にして、にこにこしている。お金以上に、救われることに巡り合ったんだね」。翌日、こう話した姿を高田さんは覚えている。
 29日、最後に高田さんが会った時、望月さんはせきをしていたが、互いに気に留めなかった。ところが30日に「苦しくてしょうがない。救急車を呼ぶ」とメールがあり、病院で新型コロナの陽性を確認。それでも点滴を受けて体調が戻り、帰宅した。
 しかし元旦に再び「救急車を呼ぶ」とメールがあってから連絡が途絶えた。「持病もないし、なんとかなるだろう」と楽観視していた高田さんに、望月さんの親族から訃報が届いたのは、亡くなった直後、18日夕だった。
 「死は本当に近いところにあると、彼に教えられた」。高田さんは長年の友の死を惜しむ。その一心に祈る姿は、銀座でも、被災地でも、もう見られない。(梅野光春)

4番目の写真は望月崇英さんです。写真の出典は、http://kaito308.livedoor.blog/archives/66110123.html です。

5番目の写真も望月崇英さんです。写真の出典は、http://kaito308.livedoor.blog/archives/66110123.html です。

最後に感じたことを一行だけ書きます。5番目の写真の望月崇英師の顔が実に良い雰囲気をかもし出していると感じます。感動します。望月崇英師の表情が全てをものがっています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「今日のカトリック聖イグナチオ教会の動画配信ミサの写真」

2021年01月24日 | 日記・エッセイ・コラム
今日のカトリック聖イグナチオ教会のミサの写真を3枚お送りいたします。
ミサの司式はガラルダ神父さまでした。
驚きました。スペイン出身のガラルダ神父の説教が平易な日常の言葉で「イエスと共に生きる」ということを実に明快に話したのです。深い内容のことを分かり易く教えてくださったのです。
府中刑務所で囚人相手に長年、説教をしていたので日本語が流暢なのでしょうか。日本政府は彼の教誨師としての奉仕に対して「瑞宝小綬章」を授与したのです。
今日のミサの写真を3枚お送りします。いずれにもガラルダ神父さまが写っています。





あまり感動したのでガラルダ神父の経歴を示します。

ハビエル・ガラルダ神父(Fr. Javier Garralda)、聖イグナチオ教会 助任司祭
1931/06/11 マドリードに誕生
1948/11/21 イエズス会 トレド管区 アランフェス修道院へ入会
1958/02/16 初来日
1960~1961 上智大学 スペイン語学科 非常勤講師
1964/03/18 聖イグナチオ教会にて、司祭叙階

1968~1973 上智大学 男子寮 舎監長
1979~ 上智大学 文学部「総合コース研究室」教授
1977~1985 上智社会福祉専門学校 校長
1990~1995 日本赤十字看護大学(旧日本赤十字女子短期大学) 「宗教学」非常勤講師
1994~ 刑務所の教誨師
2002~ 聖イグナチオ教会 助任司祭
2002/04~ 上智大学 名誉教授
2018/05 「瑞宝小綬章」受章(府中刑務所教誨師)

「今日もカトリック聖イグナチオ教会の動画配信ミサにあずかります」

2021年01月24日 | 日記・エッセイ・コラム
コロナが怖いので今週も教会のミサには出ません。その代わりカトリック聖イグナチオ教会の動画配信ミサにあずかります。
今日は年間第三主日で、10時から始まるミサの動画配信ミサは、https://www.ignatius.gr.jp/news/streaming.html にあります。
司式はハビエル・ガラルダ神父さまです。
今日教会に行かない方々はこの動画配信のミサにご参加なられるのも良いと存じます。

カトリック聖イグナチオ教会は上智大学の構内にありますが大学とは別組織でイエズス会が管理運営しています。
2008年(平成20年)での信徒数は13,966人、2009年(平成21年)には14,382人となり、信徒数では日本最大規模の教会です。


今日はカトリック山口サビエル記念聖堂のステンドグラスの写真をお送りいたします。

「イエズス会の簡単なご紹介」

2021年01月24日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は日曜日なので宗教に関する記事を書きます。
イエズス会は1534年8月15日、イグナチオ・デ・ロヨラとパリ大学の学友だった6名の同志、スペイン出身のフランシスコ・ザビエル、アルフォンソ・サルメロン、ディエゴ・ライネス、ニコラス・ボバディリャ、ポルトガル出身のシモン・ロドリゲス、サヴォイア出身のピエール・ファーヴルがパリ郊外のモンマルトルの丘の中腹のサン・ドニ大修道院教会堂に集まり、ミサにあずかって生涯を神にささげる誓いを立てたのです。
この日がイエズス会の創立日とされています。彼らは清貧・貞潔の誓いとともに「エルサレムへの巡礼と同地での奉仕、それが不可能なら教皇の望むところへどこでもゆく」という誓いを立てたのです。

イエズス会は会員数20000人、活動地域は六大陸の112か国に及ぶ世界で二番目に大きいカトリックの男子修道会です。会の活動は宣教・教育・社会正義など広範な分野にわたりますが、特に高等教育に熱心で、世界各地にイエズス会の大学と高等教育機関があるのです。
日本では1908年に再来日したイエズス会が以下のミッションスクールを運営しています。
また、広島教区(岡山・広島・島根・鳥取・山口の中国地方5県)や東京の麹町教会(聖イグナチオ教会)などにおけるカトリック教会を管理運営しています。。

日本に設置した学校校
上智大学(東京都千代田区)
上智大学短期大学部(神奈川県秦野市)
六甲学院中学校・高等学校(兵庫県神戸市灘区)
栄光学園中学校・高等学校(神奈川県鎌倉市)
広島学院中学校・高等学校(広島県広島市西区)
上智福岡中学校・高等学校(福岡県福岡市中央区)
イエズス会系列校
エリザベト音楽大学(広島県広島市中区)

詳しくは、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%82%BA%E3%82%B9%E4%BC%9A をご覧下さい。

1番目の写真は聖イグナチオ教会と上智大学です。

2番目の写真はローマ・イエズス教会です。

3番目の写真は第266代ローマ教皇のフランシスコさんです。彼は史上初のイエズス会出身のローマ教皇です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「今日の日記、日本には珍しい銀色がかったコニファーの写真を撮りに行く」

2021年01月22日 | 日記
近所の広い植込みに日本には珍しい銀色がかったコニファーが数本植えてあります。この銀色がかったコニファーを私が日本で見たのは帯広空港のそばの真鍋庭園で見ただけです。
昔スウェーデンに数か月住んでいた時に郊外で銀色がかったコニファーの林を見て感動したのを忘れられません。この種類の針葉樹は寒い北欧に茂っているようです。
今日撮って来た写真を3枚お送りします。最後の4枚目の写真は帯広のものです。
この写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%8B%E3%83%95%E3%82%A1%E3%83%BC です。








「米中抗争でも1万3千社以上の日本企業が中国にある現実」

2021年01月22日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日の記事、「バイデン大統領の外交政策と中国の覇権指向の脅威」では中国は脅威だと書きました。
日本の将来は隣国の中国の世界の覇権指向の政策の影響を深く受けるざるを得ないのです。それは日米安保体制にある日本の大きな脅威になることは避けられない宿命です。
ところがこの中国へ1万3千社以上もの日本企業が根を下ろして中国の経済成長に貢献しているのです。
このことはマスコミにあまり出ていませんがこれが実態なのです。米中が激しく争っているのに日本は中国の経済成長に貢献しているのです。この事実どう考えたら良いのでしょうか?

今日は日本と中国の経済交流の実態を書いてみたいと思います。
まず中国に進出している日本企業の数について、https://www.tdb.co.jp/report/watching/press/p200208.html から抜粋いたします。

1 中華人民共和国(以下「中国」、香港・アモイを除く)に進出している日本企業は、2020年1月時点で1万3646社判明。2019年の調査時点から39社減少したほか、過去の調査で最も進出社数が多かった。2012年(1万4394社)からは748社減少するなど、中国に進出する日本企業数は引き続き減少した。

2 業種別では、最も多かったのは「製造業」(5559社)で、全体の約4割を占める。次いで多いのが「卸売業」(4505社)で、全体の約3割を占め、2019年(4495社)からは0.2%増加した。他方、「小売業」(443社)などでは前年比減少となった。

3 中国への進出地域では、最も多かった地域は中国東部の「華東地区」で9054社に上る。なかでも「上海市」は6300社と最も多く、中国全土でも最多。中国全土で3番目に多い「江蘇省」(1900社)などと合わせ、進出する日本企業の多くが上海経済圏に集積する。次いで多いのは「中南地区」で2252社。大規模港湾を有する広州市や、ハイテク産業が集積する深セン市などを擁し、中国全土で2番目に多い「広東省」(2036社)のほか、多数の自動車産業が集積する武漢市を含む「湖北省」(242社)で進出企業が多くみられた。
以下は省略いたします。

続いて日本の輸出相手の移り変わりを見てみましょう。そのためには、「3. 日本の主な貿易相手国 - 日本貿易会」を検索すると出て来ます。それを以下のように抜粋します。

・・・2008年までの50年余りはアメリカがだんぜん1位でしたが、この年にアメリカで金融危機が起こり、アメリカをはじめ世界中の景気が急激に悪くなり需要が落ち込みました。しかし、中国は政府のいろいろな経済対策により景気の落ち込みが少なく、引き続き高い経済成長を遂げたことから、2009年から日本の最大輸出相手になっていました。2013年以降はアメリカが再び1位となった後、2018年に中国が6年ぶりにトップへ返り咲きましたが、2019年はアメリカが中国を上回り、トップになりました。

3位以下の輸出先は、韓国、台湾、香港、タイなどのアジア諸国や地域が多くを占めています。
アメリカ向けでは自動車が多いのに比べて、アジア向けの輸出品は半導体などの先端技術を活かした機械類や部品、電気製品などと、鉄鋼や非鉄金属などが多くを占めています。これはアジア各国・地域に半導体などを使用した製品を組み立てる産業が多いことと、経済成長にともないビルや工場、道路などのインフラ(産業基盤と生活関連の社会資本)設備のための原料を必要としているからです。・・・以下省略します。

以上のように、1日本企業の数の多さ、2日本の輸出相手は米中が1位を争っていることが明らかになります。
中国は日本の脅威だと言いながら日本は中国に頼っているのです。いろいろな国の中で中国が日本にとって一番重要な国なのです。この変な状態は次のように言えば矛盾がありません。
「中国は軍事的に大きな脅威だが経済的には友好国だ!」
すなわち軍事と経済は別だという考え方です。しかしはたしてこの考えは正しいのでしょうか?疑問や不安が残ります。現世とはこういうものなのでしょうか?

そしてアメリカの企業も数多く中国に進出しています。これについては続編で説明する予定です。

今日の挿絵代わりの写真は地方都市の瀋陽の写真です。私が1982年に行った時はこんなに立派な街ではありませんでした。中国の地方都市の発展ぶりに驚いています。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平穏をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

1番目の写真は瀋陽市の遠景です。写真の出典は、http://www.peoplechina.com.cn/zhuanti/2012-09/25/content_486080.htm です。

2番目の写真は瀋陽市の中心街です。写真の出典は、https://ieny.jp/post/536 です。

3番目の写真は瀋陽市の故宮です。ここが清朝を始めた皇帝ヌルハチとホンタイジの皇居でした。
北京の故宮と並んで、保存状態の良い後金時代の皇居です。建築様式は漢民族・満州民族・蒙古民族の様式が融合しています。規模は、北京の故宮の12分の1です。1625年に建てられ、清朝が北京へ引っ越した後は引き続き離宮として用いられてきました。
写真の出典は、https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%80%8B%E9%99%BD%E6%95%85%E5%AE%AE です。