後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「経済大国、中国の数多くの物乞い達、そして何故日本に居ないか?」

2021年08月31日 | 日記・エッセイ・コラム
皆さん「大東亜共栄圏」という言葉をご存じでしょうか?戦前生まれの私は今でもこの思想が好きなのです。
ですから中国がアメリカについで世界で2番目に豊かな国になったことが嬉しく思っています。私は親中国派なのです。
そんな理由で私が書く中国に関係した記事は中国を賞賛したようなニュアンスを持っています。読者の方々はそんな記事は客観的でないというコメントを下さいます。
そこで今日は中国の後進性を示す一例をご紹介いたします。一例は経済大国の中国に物乞い(乞食)が沢山いるという事です。日本には昔いたが今はいません。
中国には下半身の無い子供や姿の崩れた老人の物乞いが沢山います。しかしその写真はあまりにも悲惨で正視に耐えないのです。そこで正視出来る程度の物乞いの写真だけを示すます。






最後の写真は本物の物乞いではありません。コンパニオン達が当局の厳しい取り締まりに抗議して物乞いのふりをして同情を集めようとしているのです。古い中国の乞食文化です。

現在の日本には物乞いの人はいません。ホームレスはいますがホームレスは物乞いはしません。 
何故かというと物乞いは法律で厳しく禁止されているからです、
日本では軽犯罪法第1条第22号で、『こじきをし、又はこじきをさせた者』は罪として定められる行為として処罰の対象となっているのです。
最近、香川県でインターネット上で物乞いをした者も処罰されるくらい厳しいのです。
しかし日本でも戦後しばらくは物乞いが沢山いたものです。特に傷病兵の物乞いは白衣を着てギター片手に列車の中まで回って来たものです。
傷病兵の物乞いの写真を示します。


戦後は物乞いが沢山いたが現在はいません。こんな日本の状態を中国のマスコミはどのように見ているのでしょうか?

『一体どうして・・・? 中国と違って、なぜ日本には「物乞いをする人がいない」のか、中国メディアが日本に物乞いが少ないワケを分析「恥の概念があるからでは」』 - ライブドアニュース (livedoor.com) 
2020年9月4日 14時12分 

 中国では繁華街などで物乞いをする人が今なお数多く存在する。かつては空き缶などを地面に置いて物乞いをする姿が見られたが、キャッシュレスが進んだ今では、物乞いをするにも「QRコード」が必要不可欠となっている。
 中国メディアの網易はこのほど、日本には物乞いをする人がほとんどいないと紹介し、「日本人はホームレスとして生活することはあっても、物乞いだけは絶対にしようとしない」と伝え、その理由を考察する記事を掲載した。
記事は、日本は社会福祉が整っているというのに、日本のホームレスの人びとは社会福祉を受けようとしないばかりか、たとえ餓死しようとも物乞いはしたがらないと紹介し、「日本旅行の経験のある中国人であれば、日本のホームレスは通行人にお金や食べ物を乞い求めないことを知っている」と説明した。
 また、日本ではホームレスの人もゴミのリサイクルなどの労働をしていると驚きを示しつつ、「なぜ彼らは社会福祉をあてにしないのか」と問いかけ、日本人は「自力で生活することが人としての尊厳である」と考えているからではないかと説明。
 そして、この考え方には複数の理由があり、第一に「日本には恥の概念がある」こと、第二に「日本社会には働かずに何かを得ようとする人を軽蔑する風潮がある」ことなどが関係していると論じた。
 中国では繁華街のみならず、ファミリーレストランなどの飲食店内に入り、食事中の客に対して物乞いを始める人もいるほか、地下鉄などの公共交通機関の車内で物乞いをする人もいる。中国人はホームレスの人たちが物乞いを強引にする姿を見慣れているだけに、日本では物乞いをする人がいないことを知ってとても意外に感じるようだ。(編集担当:村山健二)
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中国にこのようなマスコミ報道があるので中国でもいつかは物乞いの姿は消滅するでしょう。物乞いは後進性を示す一例です。
スイスでは過半数の州に物乞いを禁じる法律があります。しかしヴォー州などでは比較的最近になって導入されたのです。欧米には物乞いを法律で禁止するのは個人の自由の侵害であると考える人もいるのです。

今日は中国の後進性を示す一例として中国に沢山いる物乞いの問題を考えてみました。街に物乞いがいなけければ清潔で良いのですが難しい問題です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

是枝嗣人著、扶桑社 「日本一笑顔になれるお葬式」の書評

2021年08月30日 | 日記・エッセイ・コラム
とにかく非常に面白い本です。面白いだけでなく人間の死を深く考えさせる内容のある本です。「人間の幸福はみな同じようだが不幸は一人一人みな違う」という言葉の意味がしみじみと分かる本です。旅立ってしまった家族、残された遺族。悲しみだけが残ります。その悲しみは一人一人みな違います。お葬式はその悲しみを和らげます。葬儀社の人が遺族の心に寄り添って故人の一生にふさわしいお葬式を作ります。大規模なお葬式でも小さな家族葬でも是枝嗣人さんは故人と遺族に心を寄せて、静かにお葬式の様式を提案します。
そしてこの本は家族の死に直面した遺族のする仕事を具体的に教えています。医師が書く死亡証明書や役所への届け出の手順が明快に説明してあります。棺に遺体と共に入れて良い物いけない物が説明してあります。葬式に関する実用書でもあるのです。一家の1冊備えるべき実用書でもあるのです。
私が感動したことを3つだけ書きます。

(1)是枝嗣人さんが母から貰った心の金時計
高校一年生の時祖父が亡くなりお葬式をしました。その時母が言ったのです。「あんた気が利くから、葬儀屋さんいいんじゃない? みんな金時計しているわ」
その当時は高度成長期で葬儀屋さんも儲けが大きく葬儀屋の人はみな金時計を持っていたのでしょう。金時計はある時代の富の象徴だったのです。
この母の言葉は是枝嗣人さんの一生を決めたのです。葬儀社でアルバイトをし立正大学仏教学部を卒業します。そして小金井祭典株式会社という葬儀屋を作ったのです。ですから私は是枝嗣人さんが母から貰った心の金時計に従って現在でも葬儀屋をしていると思います。

(2)千利休に憧れ茶道の心を葬式にこめる
彼は大学の茶道部に入って長い年月茶道を嗜んでいます。茶道のもてなしの精神をお葬式に籠めるのです。一例を示します。祖父の実家でのお葬式には600人の関係者が弔問に来ました。その人々をもてなすために千利休にならって庭掃除をします。すっかり綺麗になった庭の芝生の上に山茶花(サザンカ)の花びらを一面に敷いたのです。友人に手伝ってもらって庭のサザンカの木を揺さぶってもらい花びらをま撒いたのです。
それを見た弔問に来た人々は美しい庭の光景に心が和みます。そして故人が山茶花の咲く浄土に行ったと感じたのでしょう。

(3)是枝嗣人さん関わるお葬式から釈迦の慈悲の心が感じられる
この本には仏教や宗教のことは一切書いてありません。宗教には言及していません。しかし何故か是枝嗣人さんがかかわるお葬式から釈迦の慈悲の心が感じられるのです。
この本には仏教のことは書いてないが、例外が一か所あります。
お寺にある先祖代々の墓に故人の遺骨を入れようとしたらそのお寺の住職さんをよんでお経をあげてもらいなさいと忠告している部分だけです。そうしないと納骨の時住職さんとトラブルになる恐れがあるのです。なるほど、成程と納得します。
釈迦の慈悲の心が感じられるのは何故でしょうか。その理由は故人を大切にして浄土に見送る姿勢でお葬式をしているからです。

以上は私の個人的な感想です。以下にこの本の内容をご紹介しておきます。

・・・お葬式って、実はこんなに“自由”でいい! 真っ赤なバラで祭壇を飾ったり、棺の中にお酒をなみなみと注いだり、バイクのエンジン音で出棺したり…etc。誰もが思い描く「お葬式の常識」とはちょっと違う、オリジナリティ溢れるお葬式をプロデュースする「街の葬儀屋さん」があります。葬儀社「小金井祭典」です。
こだわりのお葬式を手がける同社には、お葬式を控えた遺族だけでなく、なぜか元気な人までお葬式の相談にやってきます。「僕が死んだら、こんなお葬式をしてくれませんか?」「旦那が亡くなったらこんなお葬式をしてあげたくて」そんなリクエストに応えるべく、「葬儀業界の異端児」が作り上げる、おもいっきり泣いた後に“笑顔になれる”お葬式とは?
・・・みんな意外と知らない「お葬式の本当のハナシ」本書では、実はみんな知らない「お葬式の本当のハナシ」をわかりやすく解説しています。
ネットの格安葬儀の「落とし穴」とは?・お葬式で「泣ける人」と「泣けない人」との違い
・葬儀社の新しい仕事「グリーフサポート」・循環型社会への取り組み。
広がる紙製の棺「エコ葬儀」・「いいおみおくり」は在宅での「いい看取り」から始まる。現在はスマホ一つで葬儀社を選ぶ時代。お葬式の本質が失われつつあります。どうしてお葬式をあげるのか? そこから考え直してみませんか。そうすれば、大切な人が亡くなったあとに、どうやって“心の隙間”と向き合えばいいのか……わかってくるかもしれません。お葬式を通して、「悲しみとの正しい向き合い方」を教えてくれる一冊です。

是枝嗣人著、「日本一笑顔になれるお葬式 大切な人が亡くなる前に知っておきたい葬儀の本当のハナシ」、扶桑社 の新刊、全223ページ。1540円です。https://www.amazon.co.jp/ などインターネットで購入出来ます。


今日は是枝嗣人著、扶桑社 「日本一笑顔になれるお葬式、、、」の書評をお送りいたしました。そして花の写真を挿絵代わりに添付します。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人) 
===参考資料===========================
著者、是枝嗣人の紹介
1979年、東京都出身。立正大学仏教学部仏教学科卒業。学生時代から葬祭業に携わり始め、2007年に「小金井祭典株式会社」を設立。以来、当事者の気持ちに寄り添いながら数々の「唯一無二のお葬式」をコーディネートして東京都内にとどまらず他県からの依頼にも応えてきた。また、葬儀社を営みながら東京大学の市民後見人講座に通い、グリーフケア・サポートの専門家としても活動を開始。2010年には世田谷区に家族葬専門葬儀社「株式会社クローバー」、2019年にはおひとりさまや福祉葬儀に対応する「株式会社葬送支援」と「クローバーグループ」を創る。2011年からは小金井市に「ちょっと訊ける場所 めぐる」というサロンを設立。地域住民にとって、お葬式のみならずグリーフサポートや街のお困りごとなどなんでも相談できるライフサポートの場になっている。伝統的な葬儀の良さを踏襲しつつ、大切な人を亡くした方の哀しみを癒す作業(グリーフワーク)を実践する場としての“おみおくり"を提案し続けている。



「ドライブを楽しみながら昨日撮ってきた花の写真をお送りいたします」

2021年08月30日 | 写真
昨日の午後に2時間ほどのドライブを楽しみながら、三鷹市の花と緑の広場へ写真を撮りに行ってきました。
キバナコスモスや秋の花々が綺麗に咲いていました。家内が写真を撮りました。





「ドライブを楽しみながら花の写真を撮りに行ってきました」

2021年08月29日 | 写真
2時間ほどのドライブを楽しみながら、三鷹市の花と緑の広場へ写真を撮りに行ってきました。
キバナコスモスや秋の花々が綺麗に咲いていました。家内が写真を撮りました。



「強大になった中国、その共産党独裁の社会の実態」

2021年08月29日 | 日記・エッセイ・コラム
現在の中国はアメリカに次ぐ世界の大国です。軍事力も強大な国です。
しかし私が初めて北京を訪れた1981年の頃は世界の最貧国に一つでした。市民は汚れた人民服を着て食料も十分でなく街路には飢えた人々があふれていました。その中国が経済急成長をして、アメリカにつぐ世界で2番目の豊かな国になったのです。これは世界の奇跡です。私はまだ信じられません。
今日はこの中国の奇跡と共産党独裁の社会の実態をご紹介したと思います。
1番目の写真は高層ビルが埋め尽くしている北京の写真です。
2番目の写真は自動車が溢れている現在の北京の街路です。私が1981年に北京へ行った頃は自転車が溢れていました。こんなに変わったのです。
3番目の写真は現在の近代的な中国の工場です。中国は世界の工場と自負してあらゆる製品を多量生産し世界中に輸出しています。
4番目の写真は中国空軍の戦闘機です。アメリカ軍の戦闘機と同じ性能をもっていると言われています。

5番目の写真は中国海軍の航空母艦です。アメリカは16の空母打撃群を保有していますが、中国は3つの空母打撃群しか持っていません。軍事力ではまだまだアメリカの敵ではありません。
6番目の写真は1966年8月18日に紅衛兵の歓呼に答礼する毛沢東です。紅衛兵は略奪と暴虐をくりかえしたのです。私は見ました。北京の民家の全ての窓が紅衛兵の侵入を防ぐ鉄格子に覆われているのを見たのです。 
毛沢東は1949年10月、天安門上で建国宣言しました。1949年1月、林彪軍は東北から南下し北京に入城します。一方南では4月に、解放軍はいっせいに長江を渡河して南京を占領しついに中国全土が共産党の手中に帰したのです。。
周恩来によれば、北京入城のとき毛沢東は大浪のように湧きかえる大群衆を一目みたとき、しばらく無言で立っていたが、やがて突然両手で顔をおおって泣きだしたそうです。
万感こもったのは毛沢東だけではありません。その場に居た私の北京の友人達も感極まって泣いたと言ってました。19世紀以来の欧米の侵略を跳ね返して中国はやっと独立を勝ち得たのです。

7番目の写真は田中角栄首相が交渉した周恩来総理の写真です。
毛沢東主席も周恩来総理もこの後の1976年にあいついで亡くなります。
その後の実権を握ったのは鄧小平でした。 
8番目の写真は鄧小平とカーター大統領の写真です。1979年に鄧小平が訪米し、ジミー・カーター大統領と会ったときの写真です。
鄧小平は終始一貫、日本と友好政策をつらぬき、1978年には「日中平和条約」の批准書を交換するために日本を訪問しました。そして昭和天皇を訪問し、新日鉄、君津製鉄所を見学し、新幹線に乗ってトヨタ自動車を見学、その後京都や奈良の観光もしたのです。 

9番目の写真は中曽根首相と会談する胡耀邦です。
胡耀邦は1989年4月8日の政治局会議で熱弁を振るった直後、心筋梗塞のため倒れ、一旦は意識を取り戻したものの2回目の発作を起こし、4月15日に死去します。その後、胡耀邦追悼と民主化を叫ぶ学生デモは激化していったのです。 

皆様ご存知のように中国は共産党独裁の国です。私は偶然にその共産党員と非常に親しくなりました。北京の周栄章さんと瀋陽の金応培さんです。この2人のお陰で中国社会の実態をかなり深くかつ詳細に知ることが出来たのです。その社会は我々の想像を絶するものでした。
中国の社会はどんな分野でも共産党員が有力者になっているのです。これが共産党独裁制を支えている強い基盤になっているのです。
しかし中国人は唯々諾々として政府の言うことに従っている訳ではありません。時と場合によっては立ち上がるのです。
政府の指示を無視した周恩来の追悼行事を実行し、やがて1989年の天安門事件へと続くのです。
中国人は絶対に文化革命時の悲惨さと、民衆を救おうとした周恩来を忘れません。民主化を進めて失脚した共産党総書記、胡耀邦と趙紫陽を忘れません。

中国の首相、周恩来が1976年に死にました。中央政府は公的葬式以外の一切の私的な追悼会や集会を禁止しました。周恩来の人気が高すぎるので政権内に混乱が起きるのを恐れたのです。この政府による禁止命令は1980年代まで続きます。

1981年に北京に行った私に、2年前ベルサイユ宮殿で知り合った周栄章さん(北京鉄鋼学院教授)が声をひそめて「中国人がどんな人間か見せたいから今夜ホテルへ迎えに行く」と言いました。
 暗夜に紛れて連れて行かれた所は、大学の地下3階の部屋でした。明るい照明がついた大きな部屋の壁一面に、周恩来の写真、詩文、花束などが飾られていました。
そしてその大学の学生達が集まっていて、周恩来が出した文書などを静かに読んでいたのです。
周さんは「中国人が一番好きな人は毛沢東ではなく周恩来ですよ。中央政府が何と言ったってやることはちゃんとやるよ。それが中国人の根性なのです」と興奮した様子で私に言うのです。
これが中国の共産党独裁の社会の実態の一つの例なのです。実態の一つの例なのですが同じような民衆の本音を幾つか直接聞きました。
中国は日本のマスコミの報ずるように共産党独裁の社会ではなく民衆の反政府運動が起きている社会なのです。日本のマスコミは中国政府に都合良い記事しか報じないのです。北京に日本のマスコミ会社の支社を置くために中国政府に都合良い記事しか報じないのです。日本人はこの事実を知るべきです。

今日は中国の奇跡的な経済成長と共産党独裁の社会の実態をご紹介致しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)





「今日の 年間第22主日のミサの動画の紹介」

2021年08月29日 | 日記・エッセイ・コラム
2021年8月29日の10時から始まる年間第22主日のミサの、カトリック関口教会と聖イグナチオ教会の動画配信は以下の通りです。

カトリック関口教会、https://www.youtube.com/watch?v=FqoPyK70ZbU
8月22日10:00 

聖イグナチオ教会 、https://www.youtube.com/channel/UC-Zwcc_MbnyglsQdyOByc-Q  

ミサ中のお説教は教会ホームページに後日掲載します。 https://www.ignatius.gr.jp/news/strea... 

【本日の聖書朗読箇所】
 第1朗読 申命記 (申命記4:1-2, 6-8) 
第2朗読 使徒ヤコブの手紙(ヤコブ 1:17-18, 21b-22, 27 ) 
福音朗読 マルコによる福音 (マルコ 7:1-8, 14-15, 21-23)

今日教会に行かない信者の方々はこの動画配信のミサにご参加なられるのも良いと存じます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
写真はCarlo Dolci (1616-1686)による油彩画、「聖母の祈り」です。

「長崎のハウステンボスの花園の写真をお送りいたします」

2021年08月27日 | 写真
ハウステンボスの花園はヨーロッパ風の作り方をした花園です。ハウステンボスはオランダの街を模した観光施設です。楽しい所なので3度ほど訪れました。
花園の写真をお楽しみ頂けたら嬉しく存じます。




「北海道の大雪山の夏の花々の写真をお送りします」

2021年08月26日 | インポート
写真の出典は、髙橋 修さんの「山に生きる花・植物たち」、https://www.yamakei-online.com/yama-ya/detail.php?id=777 です。
大雪山は8月が終わると紅葉の季節になるそうです。写真の花々も短い命です。それだけに本州の花々よりも貴重です。可憐で美しい花々です。写真をお楽しみ下さい。

1番目の写真はチングルマの綿毛の群落の中にはミヤマアキノキリンソウが咲いている風景です。

2番目の写真は初夏の花、エゾコザクラです。

3番目の写真はチングルマの花です。

4番目の写真は大雪山だけに咲くヨコヤマリンドウです。花の先端が開いています。
5番目の写真はチシマクモマグサです。葉に切れ込みがなく毛が多いのが特徴です。


「修道院と教会の町、函館には異国の雰囲気が漂う」

2021年08月26日 | 日記・エッセイ・コラム
函館の西の松前は日本海に面しています。南は津軽海峡です。東は太平洋に面しています。こんな位置にあるので函館は観光地としても人気があります。そして函館山から見下ろした美しい夜景、五稜郭公園、駅前の朝市、大沼公園などなど面白い場所が沢山あります。
しかし今日は函館にしか無いトラピスト修道院と中世のヨーロッパのようなカトリック教会をご紹介したいと思います。函館には古いヨーロッパ文化があるのです。
その理由は函館(箱館)は幕末の安政6年(1859)に開港したからです。幕末に開港した港は他には神戸、横浜、長崎もありました。 現在この4都市にはそこはかとヨーロッパ文化の雰囲気が漂っているのです。

さてトラピスト修道院は戒律が厳しい自給自足の修道院です。フランスの戒律の厳しいトラピスト派の数人の修道士が1896年、明治29年に津軽海峡を見降ろす丘の上に作ったのです。
場所は函館の西、30Kmほどの所にある渡島当別駅のそばです。深閑とした林の中に修道院本館と大きな牛舎を建てたのです。
修道士は一生の間、修道院敷地から出ません。早朝から夜まで、祈りと牧畜の労働だけで過ごします。
生産される乳製品の一部を外部へ売り、衣服や光熱費をねん出します。その製品はトラピスト・バターやトラピスト・クッキーとして現在でこそ有名ですが、昔は苦しい生活が続いたそうです。函館には何度も行きました。ここでは2012年に撮った写真をご紹介いたします。

1番目の写真はは修道院の牧草地から見降ろした津軽海峡です。

2番目の写真は修道院の正面入り口です。レンガ造りの建物玄関が開放されていて修道院の歴史や厳しい牧畜の様子の写真が展示してあります。
3番目の写真は修道院の本館です。塀の中に入れないので500m位離れた場所からズームで撮った写真です。

4番目の写真は修道院の裏にある木造の牧舎です。高い塀に沿って裏の方へ回ると数棟あります。大きな扉を開くと乳牛が外に広がる牧草地へそのまま出て行けるような配置になっています。

5番目の写真は修道院周辺の放牧地の風景写真です。乳牛牧畜の歴史の説明板もありました。

さて次は古いカトリック教会をご紹介したいと思います。
北ヨーロッパ風のゴチック建築で、内部が縦長で、祭壇にイエス様やマリア様が美しく飾ってある古臭い教会です。
カトリックでは常に正面脇の扉が開いていて誰でも中に入り写真を自由に撮れるのです。
写真で示す教会は1959年(安政6年)にフランス人の司祭、カション神父によって建てられた古い教会です。明治政府がキリシタン禁止の高札を撤去したのは1875年なのです。ですからこの教会はまだキリシタン禁止の時代に建てられたのです。

6番目の写真は函館のカトリック元町教会です。教会は創建以後、3度の火事にあいますた。現在、数多くの観光客が訪れる建物は1924年(大正13年)に出来たものです。

7番目の写真はカトリック元町教会の正面入り口です。右の小さい扉は出入り自由な扉です。

8番目の写真は教会の主祭壇です。なかなか調和のとれた美しい祭壇です。
9番目の写真はマリア様の祭壇と内壁に飾ってある木造彫刻です。
この教会の内部の中央祭壇と、会堂の内壁に飾ってある14個の木造彫刻はイタリーのチロル地方の作品です。ときのローマ法王ベネディクト15世が寄贈してたものです。力強い美しい作品です。

10番目の写真は会堂の内壁に飾ってある14個の木造彫刻の一つを大写しにしたものです。イタリーのチロル地方の作品です。

さて1858年、日露修好通商条約が出来るとロシア領事、ゴシュケヴィチがすぐに函館に着任します。彼はロシア正教の教会堂を作ります。そして1861年には司祭としてニコライ神父をよびます。
このニコライは後に東京の神田にニコライ堂を建て、ロシア正教を基礎にして日本正教会を作ったのです。
そんな歴史があるので函館には函館ハリスト教会と聖公会の函館聖ヨハネ教会もあります。いずれも火事に遭いましたが古い様式を忠実に守っています。
そして古いロシア領事館も開放されています。函館イギリス領事館もあります。
淋しい小さな漁村だった地に外国の領事館や教会が江戸末期に出来たことで箱館は急に繁栄し始めるのです。江戸幕府が寒村の函館にロシアとイギリスの領事館を置いたのです。

今日は函館の中世のヨーロッパのようなトラピスト修道院とカトリック元町教会をご紹介致しました。それは日本の近代化の黎明期の歴史だったのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)






「時代はダイナミックに変化する、八ヶ岳山麓の縄文人の衰退と稲作の発展 」

2021年08月24日 | 日記・エッセイ・コラム
山梨県北杜市の甲斐駒山麓の林の中に小生の小屋があります。
その近所では驚異的な縄文土器が沢山見つかっています。原始的な農耕も始まりした。縄文農耕が始まったのです。
北杜市の八ヶ岳山麓には約5000年前、縄文文化が華々しく栄え、畑作農耕さえ始まっていたのです。
しかしよく調べてみると、あれほど隆盛だった北杜市の縄文文化も縄文後期の急激な寒冷化で衰退してしまったのです。

それに入れ替わるようにして甲府盆地には弥生文化(紀元前300年から紀元後300年)が入ってきて、水田耕作が始まったのです。当然、生活の安定を求めて縄文人が山を下り、現在の韮崎市の湿地帯や甲府盆地で稲作を始めるようになったと推定されています。
時代はダイナミックに変化したのです。
さてそれではこの水稲栽培は何処から導入されたのでしょうか?いろいろな経路が想定されますが、一番自然な経路は静岡県から富士川を遡って甲府盆地へ伝えられたと考えられます。ただし、これは私の想像で学問的結論で
はありません。
そこで重要なのは富士川の河口に近い登呂遺跡の水田跡です。
登呂遺跡は弥生時代後期の紀元後100年から300年頃の集落跡です。
以下にその復元写真を示します。

1番目の写真は登呂遺跡に復元された農家や米の貯蔵庫の写真です。建物が縄文時代よりも大型になっていることにご注目下さい。

2番目の写真は登呂遺跡の周辺から発見された畔を作る杭や水路遺構から弥生時代の水路と水田を復元したものの写真です。特に水路の整然とした様子に吃驚します。
登呂遺跡の水田復元写真の出典は、http://kankodori.net/japaneseculture/site/023/index.htmlです。

山梨県の弥生時代の遺跡は数がそんなに多くありません。静岡県のような温暖地に比較すると寒冷で水稲の栽培に向いていなかったのでしょう。
現在こそ山梨県は武川米などというブランド米などが生産されていますが、弥生時代の稲は品種改良も進んでいなくて寒冷地では収穫量が少なかった筈です。

勿論、水稲栽培が始まっても従来通り八ヶ岳山麓に棲みついて縄文時代と同じような生活をしている人もかなり居た筈です。そして平地で稲作をしている人々も周囲の山地で狩猟や採集も兼業していた筈です。
ですから縄文時代から弥生時代への移行時期については地方、地方によって非常に異なるのが普通です。
北杜市の縄文遺跡は金生遺跡、神取遺跡、酒呑場遺跡とあり隣町には江戸尻遺跡があります。しかし弥生遺跡は皆無なのです。
従って一般的に言えば、現在の北杜市や韮崎市や甲府市は弥生時代には衰退した時代と言えます。
弥生時代には北杜市の人口は縄文時代に比較して非常に減少してしまったのです。その結果、小生の山林の中の小屋の近辺には人が入ってこなくなったのです。鹿や猪や猿や雉や山鳥の天国になったのでしょう。

以下では、北杜市で発見された驚異的な縄文土器と農耕の始まりをご紹介いたしたいと思います。
北杜市は山梨県の西端にあり、釜無川の上流で八ヶ岳と甲斐駒岳の山麓にあります。清里、大泉、白州、武川、須玉などの町や村が合併して出来た広い面積にまたがる市です。私の小屋は旧武川村にあります。

さて北杜市の隣町には江戸尻考古館という縄文土器の展示場があります。八ヶ岳の南麓や西南麓は黒曜石の産地の和田峠も近いことから旧石器時代から縄文時代にかけて比較的多くの人が住んでいました。
特に5000年くらい前の縄文時代中期には住人も多かったらしく大型の土器が多数出土しています。炉跡のある円形の住居跡もあります。出土した土器は大型で、その上、形が奔放でエネルギーに溢れているのです。嗚呼、こんなにも力強い人々が住んでいたのだと驚きます。
それらの縄文土器は江戸尻考古館(http://www.alles.or.jp/~fujimi/idojiri.html)に収蔵され、一部は常設展示されています。その中から約5000年前の代表的な縄文土器の写真を示します。
3番目の写真は水煙渦巻文深鉢です。
派手な飾りのついた土器は宗教的な祭器として作られたと想像されます。
4番目の写真は神人交会文深鉢です。
5番目の写真は蛇文装飾深鉢です。
6番目の写真は四方眉月文深鉢です。
7番目の写真は毎日、煮炊きに使用する土器の写真です。
煮炊きに使用する土器は飾りの無い深い壺で、底が平らになっていて炉の真ん中に立て、回りから火を焚いて獣肉や穀類を煮込んで食べていたようです。
底が尖っている土器も多いのですが、それは炉の底土に突き刺し、周囲を石で支えて煮炊きしていたようです。

食材を煮たり蒸したり出来ることは旧石器時代の「焼き」だけの調理方法からみると革命的な進歩なのです。
その進歩を考慮に入れて縄文時代中期や晩期には畑作農業が狩猟採集と並行して行われていたという説もあります。
江戸尻考古館では縄文農耕説の証拠として農耕用に使用されたと推定される石器を体系的に整理して展示しています。
展示には畑を耕した農耕用の石鍬(いしくわ)と想像されている石器も多いのです。畑の雑草をとった除草用の小型鍬(くわ)もあります。
江戸尻遺跡が縄文農耕説の発祥になっていたのです。江戸尻考古館のHPから以下に転載いたします。
・・・・ 井戸尻遺跡発掘に取り組んだ藤森栄一は、戦後まもなく、八ケ岳山麓から出土する考古遺物を検討するなかでこれらの文化構成は、どうしても農耕があったと考えなくては理解がつかないという考え方に達した。縄文時代は、狩猟や採集などを中心とした社会であったとする当時の学会の認識からは、到底納得しえない衝撃的な内容のものであった。これが世にいう「縄文農耕論」である。
井戸尻考古館では、この意志を受け継ぎ、縄文農耕の立証と文化内容を一貫して追求してきたが、この10年来、面目を一新するような段階に至った。中期の主要な石器群を体系的に把握することに成功したのである。石器は農作業の一連の過程を担う農具であり、その農具の組み合わせからは、常畑(じょうばた)における雑穀栽培を主とした集約的な農法があったという考えに到達している。・・・以下省略

この縄文人の農耕はその後の弥生時代の水田による稲作へと続いて行ったのです。

文化というものは突然変化するものではなく、少しずつ変化して行くのが原則だと思っています。ですから地方によっては縄文文化と弥生文化が並行したり、混合していた時代があると理解できます。

以上が山梨県北杜市の約5000年前の驚異的な縄文土器と縄文農耕の始まりのご紹介です。
八ヶ岳山麓の縄文人の衰退と平地部の稲作の発展を考えると、時代がダイナミックに変化している様子に驚きます。

そしてこのようなダイナミックな時代の変化は日本全国の地方、地方にあったのでしょう。皆様のお住まいの地方の弥生時代の様子をお知らせ頂けたら嬉しく思います。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)
=======参考資料========================
(1)山梨県の弥生時代の遺跡:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A5%E7%94%9F%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E9%81%BA%E8%B7%A1%E4%B8%80%E8%A6%A7#.E5.B1.B1.E6.A2.A8.E7.9C.8C

山梨県の弥生時代の遺跡:
•身洗沢遺跡(笛吹市)
•油田遺跡(南アルプス市)
•大師東丹保遺跡(南アルプス市)
•二本柳遺跡(南アルプス市十日市場)
•長田口遺跡(南アルプス市)
•金の尾遺跡(甲斐市)
•宮ノ前遺跡(韮崎市)
(2)金尾遺跡と韮崎市の宮の前遺跡の概略:
以下の文章の出典: http://www.pref.yamanashi.jp/smartphone/maizou-bnk/topics/201-300/0273.html
1、金の尾遺跡は、山梨県甲斐市、中央線竜王駅の約400m北にある遺跡で、1978年に中央自動車道建設に先立って発掘調査されました。調査の結果、縄文時代前期から弥生時代後期にかけての家の跡などが見つかりましたが、弥生時代の大規模な集落跡というのは山梨県内ではこのときが初めての発見でした。現在、金の尾遺跡は、山梨県を代表する弥生時代の遺跡として知られています。
2、韮崎市、宮の前遺跡:http://www.isekiwalker.com/iseki/356529/
時代:縄文/弥生/奈良/平安
所在地:山梨県韮崎市藤井町駒井字宮ノ前
遺構概要
市報1991(縄文(前期+中期+後期)-竪穴住居6+配石+単独埋甕/弥生-水田/奈良~平安-竪穴住居417+掘立柱建物54+土坑+溝+条里関連溝/平安-水田)
遺物概要
市報1991(縄文(前期+中期+後期)-縄文土器+石器/奈良~平安-土師器+須恵器(墨書土器+線刻土器)+灰釉陶器+緑釉陶器+金属製品+鍛冶関連遺物+石製品+木製品/平安-奈良三彩+須恵器製円面硯+帯金具+線刻土器(「寺」)+人面墨書土器+斎串)
発掘概要:韮崎北東小学校建設



「北海道の夏の花の写真をお送りします」

2021年08月23日 | 写真
写真の出典は、https://uu-hokkaido.jp/flower/summer.shtml、 悠悠北海道 です。
1番目の写真は上富良野の深山峠ラベンダー です。
2番目の写真は札幌の百合が原公園 です。
3番目の写真は札幌の八紘学園花菖蒲園 です。
4番目の写真は美瑛の四季彩の丘 です。
5番目の写真は大空のひまわり畑 です。

「私の60年続いている趣味はドライブです」

2021年08月22日 | 日記・エッセイ・コラム
1961年にオハイオ州で中古のダッジコルネットを購入してから私の趣味はドライブになりました。現在まで60年続いている趣味です。
昨日は家内と共に甲州街道の大垂水峠を越えて神奈川県の相模湖までドライブを楽しんで来ました。

行きは根気良く甲州街道を丁寧に走り帰りは中央高速道路を飛ばしました。
甲州街道の大垂水へ登る道の写真2枚と相模湖の写真2枚と帰りの中央高速道路の写真1枚を順にお送りします。写真は家内が後部座席から撮ったものです。




私の趣味のドライブは安全運転に徹しています。安全運転だから楽しいのです。60年間の続くのです。道の状況が旧街道のように細く危険なら丁寧にゆっくり走ります。高速道路は遠慮なくビュンビュン飛ばします。飛ばしても前後左右に注意して安全運転に徹しています。

趣味はドライブですのでイロイロな所へ行きました。国内では岩手、山形、宮城へは何度も行きました。名古屋、京都、大阪。長野、富山、新潟など。レンタカーでは沖縄や北海道をくまなく走りました。外国ではオハイオ州近辺の幾つかの州、南ドイツやスイス、リヒテンシュタイン、オーストリア、スイス、フランスの各地に車で走りました。

その数多くの思い出が老境を楽しくしています。

私のドライブの趣味の話でした。皆様はどんな趣味を楽しんでいらっしゃるでしょうか?

「今日の 年間第21主日のミサの動画の紹介」

2021年08月22日 | インポート
2021年8月22日の10時から始まる聖母被昇天のミサの、カトリック関口教会と聖イグナチオ教会の動画配信は以下の通りです。


カトリック関口教会、https://www.youtube.com/watch?v=FqoPyK70ZbU
8月22日10:00 


聖イグナチオ教会 、https://www.youtube.com/channel/UC-Zwcc_MbnyglsQdyOByc-Q

【本日の聖書朗読箇所】
第1朗読
ヨシュア記 (ヨシュア 24:1-2a, 15-17, 18b) 
第2朗読
使徒パウロのエフェソの教会への手紙(エフェソ 5:21-32 )
福音朗読
ヨハネによる福音 (ヨハネ 6:60-69)


今日教会に行かない信者の方々はこの動画配信のミサにご参加なられるのも良いと存じます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)