後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

軽井沢、雲場池の静寂を写した風景写真

2018年06月30日 | 日記・エッセイ・コラム
軽井沢は中山道の碓氷峠の下の信州の宿場町でした。それが明治19年に宣教師のショーが別荘を作り、その後、いろいろな外国人が避暑に訪れ有名な別荘地となりました。
そのせいで軽井沢には西洋文化の香りがそこはかとなく漂っています。
以前から時々、そこを訪れ散策していました。特にはっきりした目的があるわけでなく、そんな異国情緒と周囲の山々の緑を楽しむために訪れます。
一昨日も軽井沢に泊まって写真を撮って来ました。
特に今回は周囲の樹々が美しく映っている静かな雲場池(くもばいけ)の写真が撮れました。
水面に映っている青葉をお楽しみ頂けたら嬉しく思います。









この写真を撮った家内が、「良い写真が撮れた!」と興奮して車に帰って来ました。
見ますと東山魁夷の白い馬のいる湖畔の風景画を思い出させる写真です。
湖水が鏡のように周囲の樹々を美しく映しています。全くの無風です。風波が立っていないのです。水の表面張力で水面が完璧な平面になっているのです。
それは足の悪い私に代わって写真を撮りに行った家内への自然からの贈り物だったのです。
雲場池は十年一日の如く、何時行っても静寂につつまれています。
小さいながら神秘的なたたずまいの何十年と変わらぬ風景ですが、風波のまったく無い光景は初めて見ました。

雲場池(くもばいけ)は軽井沢町の六本辻近くにある池です。
大正時代、この周囲一帯を別荘地として開発した貿易商野澤組の野澤源次郎がホテル鹿島ノ森の敷地内の湧水「御膳水」を源とする小川(雲場川)をせき止めて造った人造湖です。

それはさておき、関東地方は梅雨が明けたようです。朝から太陽がギラギラ輝いています。
皆様お住まいの地方の梅雨明けは何時でしょうか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)


日本人の先祖はアイヌ人(3)北海道に孤立したアイヌ人の歴史

2018年06月29日 | 日記・エッセイ・コラム
北海道の風景はロマンチックです。異国的です。いろいろ美しい場所があります。知床、羅臼、釧路湿原、野付半島、層雲峡、阿寒湖、摩周湖、屈斜路湖、洞爺湖、支笏湖などなど枚挙にいとまがありません。

1番目の写真は富良野の富田ファームのランベンダーの花畑の景観です。
このように美しい北海道は皆が憧れ、四季折々訪れる人が多いのです。
しかしこの北海道に本州から追い上げられたアイヌ人の歴史はとかく見落とされています。
そこで今日はその歴史を大まかにご紹介したいと思います。

北海道は本州以南とは違った独自の歴史を持っているです。
旧石器時代から縄文時代までは北海道の歴史は本州とほぼ同じでしたが、その後の本州の弥生時代や古墳時代は北海道には存在しません。
その代わり、続縄文時代が本州での古墳時代の頃まで続いたのです。
その後は北海道のオホーツク沿岸地方はオホーツク文化時代とそれ以外の中部と南部の北海道では擦文文化時代が鎌倉時代のはじめまで続いたのです。
擦文文化時代とは、その時代の土器に筆で擦ったような模様がついていたのでそのような名がついています。
そして鎌倉時代の始めからは独自のアイヌ文化が成立し、そのアイヌ文化時代が明治維新まで続いたのです。
狭い意味でアイヌ民族と呼ぶのは、この鎌倉時代から明治維新まで続いた独特な文化の担い手の人々の事です。
広い意味でのアイヌ人とは旧石器時代から縄文時代まで北海道や本州にいた先住民族を意味します。

そのような特異な北海道の歴史については北海道教育委員会のHPで明快に説明してあります。そのURLは、http://www.dokyoi.pref.hokkaido.lg.jp/hk/bnh/maizou.htm です。
以下にこのHPの抜粋を示します。
何故、北海道には、弥生時代や古墳時という時代区分がなかった?
 北海道は、本州と津軽海峡を挟み、気候も寒冷であるため、本州とはちがう独自の文化を育みました。
本州でいう弥生時代、古墳時代の頃は、北海道のアイヌ人は「続縄文時代」や「オホーツク文化期」を迎えていました。http://www.dokyoi.pref.hokkaido.lg.jp/hk/bnh/grp/04/nenpyou.pdf  にある北海道史年表参照 PDFを是非ご覧下さい。
 北海道のあちこちの町にも、そのころの時代の遺跡があります。
平成23年度にいろいろな市町村で発掘調査が行われ、その結果の概要は北海道教育委員会のHPに詳しく紹介されています。
そしてそれらの遺跡の様子や土器、石器、木製品、土偶などは北海道立埋蔵文化財センターに展示されています。
展示には以下のものが含まれています。
1  埋蔵文化財包蔵地数一覧
2  埋蔵文化財保護のための事前協議
3  重要文化財  ママチの土面
4  北海道の珍しい土器やアクセサリーなど
5  埋蔵文化財 Q&A
6  出土文化財を見ることのできる主な博物館・資料館

さてそれはそれとして、縄文時代の不思議な遺跡として約4000年くらい前に作られたストーンサークルがあります。

2番目の写真は海道の森町にあるストーンサークルの写真です。
写真の出典は、http://aomori-jomon.jp/essay/?p=715 です。
このストーンサークルの詳細は写真の出典に出ていますので、是非ご覧下さい。

3番目の写真は秋田県大湯で見つかった日本最大のストーンサークルの写真です。
この写真の出典は、http://www.kensoudan.com/firu-kita-y/ooyu2.html です。

4番目の写真は秋田県大湯で見つかった日本最大のストーンサークルの周囲に復元した縄文時代の村の展示です。

5番目の写真は青森県の縄文遺跡の地図です。

さて、この連載の「日本人の先祖はアイヌ人(1)富士山も神もアイヌ語」と「日本人の先祖はアイヌ人(2)アイヌ人の作った東北の縄文文化」で書きましたが、日本全土の縄文文化は主にアイヌ人の祖先が作ったのです。
本州の弥生文化は南方や朝鮮、中国からの渡来、移住した人々と混血した日本人が担っていたのです。
従って、弥生遺跡や古墳が北海道に存在しないことも無理なく理解できます。
縄文時代や続縄文時代の北海道では数多くの多彩な土器が作られていました。
その文化が擦文土器に変化して、やがて鎌倉時代の初期にアイヌ文化成立したとたんに土器が消えてしまったのです。
擦文土器は本州の土師器の影響を受けたことが特徴です。ところが後にこの土器は衰退し、アイヌ人は煮炊きにも鉄器を用いるようになったのです。

さて北海道南部と青森には縄文文化が同時に花咲いたのです。
北海道にアイヌ文化が広がる前の縄文時代や石器時代(無土器時代)はいろいろ未知のことも多く、興味がつきません。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

日本人の先祖はアイヌ人(2)アイヌ人の作った東北の縄文文化

2018年06月28日 | 日記・エッセイ・コラム
旧石器時代と縄文時代は北海道と東北地方はアイヌ人による同じ文化圏だったのです。
北海道と東北地方から出土する石器と縄文土器が 共通な形をしているのです。
煩雑な説明は後回しにして、まず写真でこの様子を示します。

1番目の写真は縄文時代に繁栄した青森県の三内丸山遺跡の復元、展示です。
一般に縄文時代は円形の小さな小屋に住み、原始的な狩猟、採集で生活をしていた約12000年間です。土器や石器は使っていましたが、農業は無く、村落の規模も小さく、文化程度の低い時代だったのです。
しかし青森県にある三内丸山遺跡は規模と言い、文化レベルと言い、非常に発達しています。
三内丸山遺跡には大型家屋があり、整然と並んだ小型住宅があり、食料貯蔵用の高床式倉庫群があり、祭祀用の神秘的な巨大柱があり、整然とした墓地もあります。それは小さいながら一つの王国のようです。残念ながら文書だけは存在していなかったので、その王国の統治組織や社会階組織は全く不明です。
しかし祭祀の場所、居住区の場所、お墓のある場所が整然と分けて存在してある事実をみると高度な文化社会が存在していたと考えざるを得ません。
それは弥生時代や古墳時代の地方の豪族の領地支配の歴史へと繋がる社会と文化だったのです。
三内丸山遺跡はこのような縄文中期の高度な文化を示す驚異的な遺跡であり、実に多彩な出土品も出ているのです。
そしてこのような高度な縄文文化は北海道にも同じようにあったのです。

2番目の写真は北海道から出土した国宝の中空の土偶です。北海道の函館市臼尻小学校付近から出土した多量の精巧な土偶です。高さ41・5センチメートルもある大きな土偶です。
2012年6月に私が撮った写真です。この国宝の詳細は、函館市縄文文化交流センターを検索すると出ています。

3番目の写真はこの国宝の土偶の説明板です。1975年に発見されたことなどが書かれています。

4番目の写真は同じ函館市臼尻遺跡から出て来た土器です。北海道から出土する縄文土器は円筒形をしたもので、同じような土器が北東北地方からも出てきます。2012年6月に私が撮った写真です。

5番目の写真も同じ函館市臼尻遺跡から出て来た石器です。2012年6月に私が撮った写真です。

6番目の写真は同じ文化圏だった東北千穂と北海道西部の範囲を示す図です。

7番目の写真は石器として重要だった黒曜石の流通経路です。黒曜石で作った矢じりや小刀は北海道も北東北も同じ産地の黒曜石を使っていました。矢じりを矢に接着するアスファルトも同じ秋田県産のものを使っていたのです。

このように写真で示した北海道とこの青森県の縄文文化は、縄文時代後期の突然の寒冷化で衰退してしまうのです。
縄文前期の日本全土の縄文人の総数は2万人で、中期には26万人まで増加します。しかし、後期の寒冷化によって再び数万人までに減少するのです。
人口が確実に増加に転ずるのは稲作が始まった弥生時代からです。
青森県の三内丸山遺跡も北海道の遺跡も縄文後期には衰退してしまうのです。
以上のように北海道と東北地方の縄文文化は間違いなくアイヌ人によって作られた文化だったのです。
同様にして全国の縄文文化は当時全国に広く住んでいたアイヌ人によって作られたのです。

やがて本州南部のアイヌ人と大陸からの渡来人との混血によって弥生人が出来て行きます。そうしてこの弥生人がアイヌ人(縄文人)を次第に駆逐して行きます。
その後、大和朝廷は仙台市の多賀城に北端の城柵を作り、アイヌと違った文化圏を作りあげて行ったのです。
この現象が本州以南の日本人と北海道のアイヌ人の分離と住み分けに繋がって行くのです。
そして明治維新以後に、明治政府が北海道開拓を推進し、アイヌ人を日本人へ同化し、混血が進み、アイヌ人は日本人と融合してしまったのです。
弥生時代になってから、本州以南に住んでいたアイヌ人が日本人になり、北海道に孤立した人々がアイヌ民族と呼ばれるようになったです。
それが明治時代以降に再融合したのです。雄大な歴史ロマンではありませんか?

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

日本人の先祖はアイヌ人(1)富士山も神もアイヌ語

2018年06月27日 | 日記・エッセイ・コラム
最近、日本人の祖先はアイヌ人だと考える人が増えたようですが、その根拠の幾つかを連載で書いてみたいと思います。今日は富士山も神もアイヌ語だという話です。
いきなりですが私の先祖はアイヌ人だと思っています。
日本列島に人間が沢山住むようになったのは少なくとも4万年前からの旧石器時代からです。当時の日本には南の中国や朝鮮からの渡って来た人々とカムチャッカ、樺太、千島列島から渡ってきた北方民族の両方が住んでいたと考えるのが自然です。
北方民族を後代の日本人はアイヌと呼んでいます。
アイヌ民族の居住範囲は本州の関西地方を南限にして、関東や東北地方はアイヌ人だけが住んでいたと思います。
従って東北地方と北海道南部に花咲いた縄文文化はアイヌ人の文化だったのです。
それが弥生時代になり、中国系の人が増えて、アイヌ人は次第に東北地方へ追いやられたのです。
そして北海道に孤立した縄文人、すなわちアイヌ人はその後、オホーツク文化の影響を色濃く受けて擦文土器文化になり、その後独自のアイヌ文化になったのです。
冒頭に「先祖はアイヌ人だと思っています」と書いたのは私の先祖の出生地が東北地方だからです。
大雑把に言って先祖が関西以北の出身なら縄文文化を作ったアイヌ人が祖先になると考えるのが自然な考え方です。

さて「古事記」に出てくる地名が多くはアイヌ語起源である可能性が高いという仮説があります。「目からウロコの漢字問題」(宝島社文庫)という本に以下のようにあります。
・・・昔は日本の大部分の地域にアイヌ民族がいた。その後北方へ追いやられたが、(現代日本人の八割の人はアイヌ民族の血を引いているという)、このようなわけで、とりわけ北海道や東北の地名には、アイヌ語に漢字を当てたものがごろごろある。
 たとえば、栃木県「日光(にっこう)」は「二荒(ふたら)」が「にこう」と読み違えられ、さらにそれに当て字をして出来上がったという。この「ふたら」はアイヌ語「プタアラ」が語源になっており、これは「美しい高原」のことである。「富士」もアイヌ語の「フチ(火)」が語源だとする説が有力だ。つまり「火の山」だったわけである。」・・・

以上の本は学問的な厳密性を欠いた読み物風の本のようで信用出来ないかも知れません。しかし、このことは明治時代に、東京帝国大学の教授であったバジル・ホール・チェンバレン教授によって明らかにされたのです。彼は英・アイヌ・和語辞書を作った学者です。
とりわけ北海道や東北の地名には、アイヌ語に漢字を当てたものがごろごろあることは確かです。さらに彼は富士山や利根川や能登半島もアイヌ語だとも言うのです。
そして現在、北海道に住んでいる人々は北海道の地名の8割ほどがアイヌ語をカタカナや漢字で表現した地名であると知っています。
しかし北海道以外の日本人は意外にこの事実を知っていません。札幌も稚内も石狩川もすべてアイヌ語の地名を漢字で書いたものなのです。

アイヌ人は縄文時代末期まで、関東地方にも広がって住んでいたのです。その後、大和朝廷に少しずつ北方へ追いやられ、江戸時代には北海道(蝦夷地)にだけになりました。しかしその一方で、多くのアイヌ人は混血して東北地方にも住み着いていました。
ですから本州の関東以北にはアイヌ語の地名をいくつも残っています。
話はいきなり飛びますが、アメリカの内陸部の地名、河の名前がインディアン語のものが多いのです。オハイオもそうですが、オハイオ州の河や地名の多くはインディアン語由来のものです。先住民は消えて行いきます。しかし先住民の残した地名はアメリカに沢山あります。
下に「北海道の地名・駅名」についての資料をご紹介します。
これには北海道のアイヌ語由来の地名をカタカナや漢字で表すときの一般的な規則が分類され出ています。(Wikipediaの「北海道の地名・駅名」より抜粋)
北海道の地名・駅名は、概ね以下のように分類できる。
アイヌ語に由来するもの
アイヌ語に日本語(漢字)表記をあてたもの
アイヌ語をそのまま使用しているもの
内地からの開拓・入植に際して地名が決められたもの
周辺に存在した施設・自然状況、あるいは周辺の風土などから命名
上記によって定められた地名・駅名に、方向や大小などの接頭語・接尾語をつけたもの
@アイヌ語に由来するもの
アイヌ語地名に日本語風の地名・駅名につけるにあたっては、以下の方法が見られた。
アイヌ語に漢字の表記をあてたもの
アイヌ語の音に漢字をあてずカタカナで表記しているもの(日本語を割り当てていない)
@アイヌ語に漢字表記をあてたもの
老者舞(おしゃまっぷ)
音訳 - アイヌ語の「音」を流用し、漢字を当て字(仮借)したもの
意訳 - アイヌ語の「意味」を解釈し、似た意味の日本語を割り当てたもの
音訳したもの
音訳の例としては、「ホッキ貝の多い所」を表す「ポク・オ・イ」からとった母恋や、「川口の汚染された所」を表す「オ・トイネ・プ」からとった音威子府・音稲府(枝幸町)などがある。また、アイヌの地名をそのまま日本語地名としては冗長であったりごろが悪かったりする場合には一部短縮・省略したものもある(オペレケレケプ->帯広、ピウカ->美深))。
これらは音のみに着目した「当て字」である。漢字は表意文字であるが、あてられた漢字の意味にアイヌ語原義との直接的な関連性があるとは限らない。例えば、道内に数多く見られる「内」「別」は、それぞれアイヌ語で川を意味する「ナイ」「ペツ」に当て字されたものであり、「内側」「別れる」の意味は持たない。同じように「幌」は「大きい・広い」を意味する「ポロ」の当て字で、「幌」の字の持つ意味とは関係がない。
========以下省略します。==============

最後に一言余計なことを書かせて下さい。日本人は明治維新以来、アイヌ人を蔑視してきました。その証拠は最近まで存続していました「北海道土民法」です。ですから「日本人の先祖はアイヌ人」という題目に感情的に反発する人がいます。貴方自身はどのようにお感じでしょうか?

今日の挿し絵代わりの写真はアイヌ語が起源と言われている富士山の私が写真です。全て私が撮りました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)





宮沢賢治に助けられ法華経を少し理解する

2018年06月25日 | 日記・エッセイ・コラム
法華経の教えは全ての人に佛性があり、他人の利益のための行動する「利他行」を実践すれば、全ての人が菩薩になれるという教えのようです。
私はこの文章を書いていますが、文章の意味が理解出来ません。
そこで法華経の熱烈な信者であった宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ・・」という詩を通して「利他行」と「菩薩」の意味を理解してみようと思います。宮沢賢治が自分のことを考えないで貧しい農民のことを思いやっている詩です。
雨ニモマケズ
風ニモマケズ
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
丈夫ナカラダヲモチ
慾ハナク
決シテ瞋ラズ
イツモシズカニワラッテイル
一日ニ玄米四合ト
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
アラユルコトヲジブンヲカンジョウニ入レズニ
ヨクミキキシワカリ
ソシテワスレズ
野原ノ松ノ林ノ陰ノ
小サナ萱ブキノ小屋ニヰテ
東ニ病気ノコドモアレバ
行ッテ看病シテヤリ
西ニツカレタ母アレバ
行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ
南ニ死ニサウナ人アレバ
行ッテコワガラナクテモイイトイヒ
北ニケンクワヤソショウガアレバ
ツマラナイカラヤメロトイヒ
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
サムサノナツハオロオロアルキ
ミンナニデクノボートヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハナリタイ
南無妙法蓮華経
南無妙法蓮華経
南無妙法蓮華経
南無妙法蓮華経
南無妙法蓮華経

1番目の写真は物思いしながら独り立っている賢治の写真です。
法華経はこの世に生きる全てのものが等しく憂いの無い涅槃の境地に入るれるようにお互いが助けあうことを教えています。
賢治はこの詩を書いただけではありません。農地の傍に羅須地人協会の建物を作り、毎日、農民を助けたのです。東北地方の冷害で苦しむ農村で、肥料の使い方の相談に乗り稲作の増産に協力したのです。そして最後は肥料の石灰を作る砕石会社で働いたのです。

2番目の写真は盛岡の高等農林学校を1920年に卒業し花巻農学校で教鞭をとっていた頃の宮沢賢治です。
しかし宮沢賢治は1926年(大正15年)、3月末にこの花巻農学校を退職してしまいます。
そうして羅須地人協会を設立しました。その目的は困窮する農民を助けるためだったのです。

3番目の写真は現在、花巻市に復元、公開されている羅須地人協会の建物と賢治の像です。
賢治は純粋な気持ちで農民を助けていたのですが、警察は当時勢いをつけていた共産主義の政治運動ではないかと疑ったのです。
賢治も誤解を招くことをしたのです。彼は「労働農民党」という政治団体の岩手県支部へ寄付をしたのです。
官憲は敏感でした。賢治を拘引し、羅須地人協会の活動を厳しく取り調べたのです。そして1927年の春には賢治は羅須地人協会の活動を一切止めてしまったのです。

4番目の写真は花巻温泉に勤めていた教え子の依頼で,温泉の遊園地に賢治が作った花時計の写真です。花巻市に復元、公開されています。

5番目の写真は花巻市にある賢治の自耕地の現在の様子です。
この写真の出典は、https://woman.excite.co.jp/blog/sanpo/sid_0368051/ です。

さて賢治は1928年(昭和3年)の6月には農業指導のため伊豆大島の伊藤七雄を訪問します。その年の夏、農業指導の過労から病臥し、秋に急性肺炎を発症します。以後約2年間はほぼ実家での療養生活となったのです。
1931年(昭和6年)には、病気から回復の兆しを見せ、東山町(現在の一関市)の東北砕石工場技師となり石灰肥料を農民に広め米の増産を助けます。この年の11月3日、手帳に『雨ニモマケズ』を書き留めたのです。
1933年(昭和8年)9月21日に急性肺炎で死去しました。1896年生まれ、享年37でした。生涯独身でした。
死の前日、農民から夜遅くまで肥料の相談を受けていたと言います。
法華経1000部を印刷して知人に配布するよう父に遺言します。
戒名は真金院三不日賢善男子。なおこの戒名は、国柱会から授与されたもので、東京都江戸川区一之江にある国柱会の霊廟には、賢治の遺骨の一部と妹トシの遺骨が納められているそうです。

このように貧しい農民の利益のために生涯を「利他行」に捧げた人を法華経では菩薩と言います。
法華経の教えでは全ての人に佛性があり、他人の利益のための行動する「利他行」を実践すれば、全ての人が菩薩になれるという教えなのです。
ですから私は宮沢賢治を菩薩と信じています。
全ての人が菩薩になれるという教えに感動して法華経の信者になる人が多いのでしょう。
しかし蛇足を書けば法華経を主にした宗派や団体が何故か攻撃的な性質を持っているのが残念です。宗教は平和を守るのが本旨なのです。

それはさておき、宮沢賢治にまつわる思い出を少々書いて終りとします。あれは随分昔のことでしたが、私共は若い研究者の結婚の仲人を頼まれて盛岡に滞在したことがありました。北上川のほとりの光原社を訪れて賢治の「注文の多い料理店」の初版本を触らせて貰ったのです。まだ若かった家内が、「初版本は日本に僅かしか残っていないのよ」と言って感動していました。結婚式が終わってから花巻市に行って宮沢賢治記念館を訪問し花時計も見ました。そして復元された羅須地人協会に行きました。それは高台に建っていて眼下には水田が広がり、その向こうは北上川になっているのです。羅須地人協会の中の黒板には「下ノ畑ニイマス」と白墨で書いてありました。
賢治の記念碑の前で拝んでいるとドドドッと風が吹いて来て不思議な雰囲気になりました。本当に賢治が下の畑に見えるような錯覚に襲われたのです。その感じが今でも忘れられません。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)





夏が来れば思い出す昔の海水浴の光景

2018年06月25日 | 日記・エッセイ・コラム
梅雨も6月の終わりが近づいてくると次第に暑くなって来ます。たまに晴れた日がくると夏の日のようです。
今日の東京は青空で太陽がまぶしく射しています。嗚呼、夏が来たのだなあと感じます。
そんな時には幼少の頃の楽しかった海水浴の光景を懐かしく思い出します。
もうあの時は返ってこないセピア色の光景です。今年も鮮明に思い出します。

当時は仙台に住んでいましたので海水浴と云えば近くの荒浜や菖蒲田の浜でした。
そして松島の向こうには野蒜海水浴場があり、遠路にもかかわらず出掛けて行ったものです。
その上、塩釜からポンポン船に乗って松島湾の桂島や宮戸島の海水浴場に何度も行きました。
ポンポン船と呼ぶ理由は、焼き玉エンジンの音がポンポンというからです。ポンポンという音に合わせて白い煙を船のエントツから青空へ吐き出すのです。とても長閑な風景でした。
出港前に船長がエンジン室を開けます。そしてエンジンの上部を開けて鉄の玉を出します。
その鉄球をガスバーナーで真っ赤に焼き上げるのです。真っ赤に焼けた鉄球が点火栓になるのです。
船長はおもむろにエンジンを閉めて大きなクランクを手で回してエンジンを始動させるのです。
こんな光景が面白くて塩釜で客船に乗る度に必ずエンジン室を覗いていたのです。
真っ赤に焼けた鉄球が忘れられません。
昔はこんな旧式のエンジンが小型の客船や漁船に広く使われていたのです。

当時は戦後の貧しい時代だったので夏の娯楽と言えば海水浴しかなかったのです。
もうあの時は遥か昔のことになってしまいました。
そう言えばいろいろな事も思い出します。
終戦前に「海洋少年団」に入って船で使うロープのいろいろな結び方を習ったのです。
そして戦後の高校時代にカッターを漕いで何度も松島湾を回航したことを思い出したのです。
その時の帰りは必ず帆を上げて帆走して塩釜港に帰ったのです。
そんな帆走の経験を何故か50歳の時に突然思い出したのです。
そこでヨットを習うことに決めました。ヨットスクールは江の島にありました。その後は葉山マリーナのスポーツクラブに入りヨットの帆走方法を習いました。
夏の日差しを背に受けながら大学のヨット部の学生さんと2人でセイリングをするのです。それは厳しい訓練でしたが楽しい思い出になりました。
夏になると小型ヨットで葉山を出港して富士山を見ながら江の島の沖までセイリングした光景を楽しく思い出します。
そしてある時は、葉山マリーナの所有していた古い巡視艇で熱海の沖の初島へ泊りがけで航海したのです。
古い巡視艇なので三崎港に寄ったときエンジンから出火して大騒ぎになりました。乗り組員の皆が消火作業をしている間、私だけが操舵室に残って船の舵を担当していました。あの時は怖かったです。間も無く消火しましたがエンジンは使用不能です。救助艇で葉山に帰りました。そんなこともいまとなっては楽しい思い出になっています。

その後、キャビン付の中古の大型ヨットを琵琶湖で買い、霞ヶ浦に陸送しました。そこで23年間、ヨットを楽しんで75歳で止めました。
ですから夏が来ると青く光る筑波山を見ながら家内とヨットを走らせたことを思い出します。
このように夏の海にはいろいろ沢山の楽しい思い出があります。

そしてなんと言っても一番懐かしいのは荒浜や菖蒲田や桂島の、そして野蒜海岸や宮戸島での少年の頃の海水浴の思い出です。

懐かしさのあまりインターネットで検索して桂島と宮戸島の風景写真を探しました。

1番目の写真は現在の桂島の海水浴場の風景です。この海水浴場は今年の7月初旬に海開きをするそうです。

2番目の写真は海開き後の宮戸島の海水浴場の風景写真です。
色とりどりのパラソルやテントが写っていますが、昔の海水浴場には無かった光景です。

自分で昔の思い出を懐かしんでいると家内の少女の頃の思い出を聞きたくなりました。
家内に海水浴の思い出があるか聞いてみました。
戦争前に鎌倉で生まれ育った家内は自宅から裸足で松原を抜けて、由比ヶ浜に歩いて行って毎日のように海水浴をしていたそうです。そして地引網を引くのを手伝って小魚をもらったことを楽しそうに話します。
当時、海水浴は最大の娯楽だったので鎌倉の家に親類が沢山泊まりに来て一緒に海水浴を楽しんだそうです。
家内のために最近撮った湘南の海水浴場の写真を示します。

3番目の写真は海開き前の茅ケ崎の海水浴場の写真です。

4番目の写真は昔から有名な大磯の海水浴場です。海開き後は人で溢れる海水浴場です。

5番目の写真は海開き前の茅ケ崎の海水浴場の写真です。夏を待ちきれない若者達がサーフィンを楽しんでいる光景です。

こんな光景を海水浴の光景を思い出すと不思議に若かった頃の元気が湧き出して来ます。
なんとか暑い夏を過ごす決心がつきました。皆様も暑い夏をお元気でお過ごし下さい。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

法華経に書かれている観音様のお力

2018年06月24日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は日曜日なので宗教にまつわるお話を簡単に書いてみます。それから何時ものようにミサに行きます。
さて日本の各地には観音菩薩の大きな像が立っています。

1番目の写真は山梨県の韮崎市にある平和観音像です。何度もこの下の甲州街道を通って甲斐駒岳の麓の山林の中にある小屋へ行きました。見上げては山林の中の小屋の生活が楽しくなるように祈ります。
ところでこの観音様にどのようなお力があるのでしょうか?

答は法華経の第二十五章に次のように書いてあります。
無尽意菩薩が観音菩薩を指さしながら釈尊に質問します。 
「釈尊、私は同じ菩薩仲間として、観音菩薩さんを尊敬しています。 観音さんの名前の由来を教えてもらえませんか? 」
釈尊が答えます、「"観音"っていうのは 「観世音」 の略でな、『世の中の人々 (世) の声 (音) をよく感じ取る (観)』 という意味なのだよ。  人が苦しんでいる時、観音菩薩の名を唱えれば、観音菩薩はその声をもれなく聞き届け、どんな状況からも救い出すことが出来るし、どんな願い事でも叶えることが出来るのです」
無尽意菩薩、「どんな人でも救う・・・・、いったい観音さんはどのようにして、そのようなことができるのですか?」
釈尊、「観音菩薩はすごい神通力を持っているんだよ。 あるときは仏、あるときは色々な神、またある時は貴方の上司や役人や友達、子ども、 場合によっては犬や猫の姿になって人を救う力を持っているのです」

分かり易く言えば、観音菩薩とは、人々の声を観じて、その苦悩から救う力を持った慈悲深い菩薩なのです。
ですから、宗派の枠をこえて広く信仰され、人々に愛されている菩薩様なのです。
この理由で日本のあちこちに大きな観音菩薩の像が立っているのです。
観音様は本来は中性ですが、慈悲深い菩薩さまなので女性だと信じている人も多いのです。
1番目の写真に示した観音様には美しい乳があります。女性と信じていた人が戦後すぐに平和を祈って平和観音として建造したそうです。

さて日本の仏教は大乗仏教です。この日本の仏教で一番大切にしているお経は鳩摩羅什が漢訳した『妙法蓮華経』、すなわち法華経と玄奘三蔵法師が漢訳した「般若心経」です。
『妙法蓮華経』は28品の章で構成されている長いお経です。日本の仏像や仏事の実際はこの法華経の影響を受けて出来てきたのです。
「法華経」は、現実の凡夫と現実の社会の実態を考えて作られたお経です。
儀礼やいろいろな信仰の仕方も書かれています。
ですから「法華経」には、般若心経のような仏教哲学はあまり説かれていません。
代わりに、久遠の本当の仏と凡夫の関係、本仏と諸仏、諸神との関係、釈迦の滅後の仏教のあり方等が具体的に説かれています。
そして「私たち凡夫が、父母から受けた肉身のままで五欲を捨てずに、菩薩道を行じれば仏となる」と教えています。そしてこの世が浄土となるのです。
「法華経」は、この凡夫と娑婆世界の現実に即した実践性の故に、末世の人類を救う仏教経典と言われるのです。(http://www.codhamma.net/category/1532885.html )

法華経の28章の全ての日本語訳は次にあります。
「大乗経典の翻訳を掲載しています。」 加藤康成、https://syoubou.wordpress.com/妙法蓮華経普賢菩薩勧発品第二十八%ef%bc%88みょうほう/

今日の記事に関連した記事は以下の通りです。あわせてお読み頂けたら良いかも知れません。
1)、「日本の仏教と釈迦の教えの違い(4)大乗仏教と上座部仏教の2つの決定的な違い」(2018年05月20日掲載)
2)、「日本の仏教と釈迦の教えの違い(3)般若心経は大乗仏教のお経」(2018年05月17日掲載)
3)、「日本の仏教と釈迦の教えの違い(2)タイの仏教、Theravada Buddhism」(2018年05月15日掲載)
4)、「日本の仏教と釈迦の教えの違い(1)5つの具体例」(2018年05月14日掲載)

ところで話は飛びますが宮沢賢治は熱心な法華経の信者でした。他人の本当の幸せの為に自分を無きものにしようとしました。有名な「雨ニモ負ケズ・・・」という詩は法華経の教えの一部なのです。
法華経の重要性は計り知れません。

今日の挿し絵代わりの写真は観音様のお写真へ捧げる蓮の花の写真です。
近所の真蔵院で昨年撮った写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)









季節の風物詩、北海シマエビ打瀬帆舟の風景

2018年06月22日 | 日記・エッセイ・コラム
北海道の東部には長大な砂洲の岬が湾曲して海を囲んでいる不思義な風景が広がっています。その岬に囲まれた海を野付湾と言いますが、地元では尾岱沼(おだいとう)と呼んでいます。この尾岱沼は別海町にあります。

1番目の写真は砂洲で出来た野付半島が湾曲して海を囲んでいる風景です。この野付湾は昔、沼だったのでを尾岱沼と呼ぶのです。
この野付湾の写真の出典は、http://betsukai.jp/blog/0001/archives/2009/06/images/1245371831.jpg です。
この尾岱沼は初夏と秋に北海シマエビ漁があります。
船の舳先から船尾にかけて幅の広い網を海中に降ろし、船を横向きにして幅広い網を帆の受ける風の力で静かにゆっくり引っ張って行くのです。雄大な海の中に浮かんだ白帆の風景が素晴らしいのです。
この北海シマエビをとる打瀬帆舟の風景が季節の風物詩として有名なのです。写真で示します。

2番目の写真は野付半島のナラワラの木を背景にした打瀬舟の写真です。
出典は、https://www.hokkaidoisan.org/heritage_039.html です。

3番目の写真は船を大きくして帆を沢山上げた打瀬舟の写真です。出典は、http://ugk70671.blog117.fc2.com/blog-entry-282.html です。

4番目の写真は伝統的な逆三角形の帆を上げた打瀬舟の写真です。
出典は、http://www.hokkaidolikers.com/articles/180 です。
この北海シマエビ漁の風景を楽しむための観光客への案内は以下のURLにあります。
http://betsukai-kanko.jp/tokusanhin/shimaebi/hokkaisimaebi-question/
夏漁は例年6月中旬~7月中旬で、秋漁は例年10月中旬~11月上旬です。
今年の夏漁はは2018年6月20日(水)~最長7月12日(木)です。

この野付半島には不気味な光景のナラワラとトドワラがあります。私共は2012年に訪れました。
その旅日記を以下に示します。
『水辺の風景(1)荒涼たる風景の野付湾と、トドワラやナラワラの無気味さ』
(2012年09月21日掲載)
・・・北海道の東部根室市の北に、多量のサケの遡上で有名な標津川(シベツガワ)があります。その南に幅が数十メートルから数百メートルしか無い砂洲で出来た野付半島が、湾曲しながら26kmも伸び野付湾を囲んでいます。砂洲の上には舗装道路が延々と続き、野付灯台まで車で入れます。
そして野付灯台の手前にはトドワラとナラワラという枯れたトドマツの原とナラの原が広がっている場所があります。地盤沈下で海水に漬かってしまったトドマツの木とナラの木が枯れて、白い骸骨のように立っています。不気味です。
その白骨のような林が野付湾を一層荒涼とさせています。人間の住む世界ではありません。
しかし野付湾には美味しい縞エビが棲んでいて、その味を楽しむことが出来ます。
今回の旅の目的の一つは荒涼たる野付湾と、トドワラやナラワラを見てその写真を撮り、茹でた縞エビを食べることでした。茹でた縞エビは濃厚な味で、確かに有名なエビだけに申し分の無い美味でした。

5番目の写真が北海シマエビです。
野付湾を右手に見ながら細い砂洲の上の舗装道路をえんえんと辿って行くとやがて右手にナラワラがあります。

6番目の写真がナラワラの光景です。
写真のようにナラ林全てが立ち枯れになっているのです。
ナラワラを通り過ぎ、野付灯台の傍まで行くと立派なビジターセンターがあります。
その駐車場に車を停めて、ハマナスの紅い花と実を見ながら、ぬかるみの小道を1.2kmほど歩くとトドワラがあります。下の写真です。

7番目の写真は立ち枯れた木が倒れたトドワラの場面です。
木道は高く狭いので、強い海風が吹き付けると落ちそうになり怖かったです。
ビジターセンターに戻って、シマエビ定食を昼食として食べました。茹でたシマエビが美味しかったです。

この野付半島の向かい側、16km沖には国後島があります。野付港は国後島の町や村に行く船の発着場として昔は賑わっていたそうです。
訪れたビシターセンターの2階には昔の択捉島や国後島の町や村落の写真が沢山置いてあります。丁寧に見て行くと択捉・国後には多くの日本人が住み、鮭やニシンを取っていたことが判ります。
日本人の先祖代々のお墓も沢山残っているに違いありません。ロシアは返還しません。
墓参りくらいは行けるのでしょうか?そんな事を考えながら道を砂洲にに伸びた道を帰って来ました。野付半島への小さな旅でした。・・・

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。 後藤和弘(藤山杜人)


梅雨空の下、大垂水峠を越えて相模湖まで遊びに行きました

2018年06月21日 | 日記・エッセイ・コラム
毎日、鬱陶しい天気です。気分を変えてみようと少し遠方までドライブに行きました。
甲州街道の大垂水峠を越えて、神奈川県の県立相模湖公園に行き、湖岸を少し歩きました。
この相模湖の水は富士五湖の山中湖から流れ下って来ます。相模湖から上流は桂川と言います。下流は相模川です。
湖岸には意外に乾いた爽やかな風が吹いていました。
相模湖は横浜市、川崎市、相模原市などへの上水道、京浜工業地帯への工業用水、及び水力発電、洪水調節、灌漑用水、などに利用されています。
戦争中に建設し、戦後に完成しました。
写真をお楽しみ頂けたら嬉しく存じます。









金正恩委員長、3度目の中国訪問で朝鮮半島の平和が確実

2018年06月20日 | 日記・エッセイ・コラム
日本のマスコミは何故か一昨日、昨日の金正恩委員長の3度目の中国訪問のニュースを大きく報道しませんでした。サッカーで日本が強豪コロンビアに勝ったニュースが紙面を埋めていました。コロンビアに勝ったことは私も狂喜しましたが、報道がこのことに偏ったことは困った状態です。日本の全ての新聞がスポーツ紙になるのが異常なのです。

金正恩委員長の3度目の中国訪問も、全ての日本人にとって重大なニュースだと思います。
短期間に中国を訪問したことは、北朝鮮が鄧小平の市経済で大国に成長した中国を見習って、経済成長路線に確実に舵を切ったことの証拠です。これで朝鮮半島は北朝鮮と韓国が平和に併存する地域になるのです。
日本は中国、北朝鮮、韓国の経済的圧迫を受け、しかも昔の侵略の負の遺産のせいで中国、北朝鮮、韓国の嫌がらせに会います。
このマイナスの効果はあるものの朝鮮半島をめぐる米朝間、米中間の戦争に巻き込まれる可能性が無くなったのです。これは素晴らしいことです。
私は2月の平昌オリンピック以来の北朝鮮の激動を注意深く見守って来ました。
そして以下のような数々の記事を掲載して参りました。

「非常に困難な北朝鮮の非核化と国連による査察」          2018年06月18日
「北朝鮮のキリスト教徒、約7万人が労働収容所に!」        2018年06月15日
「米朝会談が日本の将来に与える良い影響、悪い影響」        2018年06月14日
「米朝会談と韓国、北朝鮮の人々の歓喜とその幸福」         2018年06月13日
「朝鮮戦争を知る人々は今日の米朝会談開催に感激する!」      2018年06月12日
「激動北朝鮮、それは興味深い国際政治ショー」           2018年05月27日
「激動の米朝会談、何故毎日コロコロ変化するのか?」        2018年05月26日
「日本、韓国、中国、北朝鮮、米国の急展開する外交戦を読み解く」  2018年05月10日
「北朝鮮の協調外交への変化は歴史の転換点」            2018年04月30日
「血も涙も無いと思われていた金正恩委員長の本物の笑顔に感動」   2018年04月28日
「金正恩さんの豹変で日本に真の平和が来る!」           2018年04月25日


上記の記事を書くために多くの新聞記事やテレビ番組を見て来ました。そして考えて来ました。
その結論は以下のようなものです。
(1)北朝鮮は国連の原子力気候の完全な査察は受け入れないだろう。
(2)原爆や核兵器は削減されるが、その一部は残すだろう。
(3)米朝共同声明があるので北朝鮮は残した原爆や核兵器は凍結状態にせざるを得ない。
(4)北朝鮮は中国と軍事的にそして経済的な絆を強化する。
(5)韓国とは軍事的に対抗しながら経済交流は深める。
(6)アメリカは北朝鮮を従えた中国との軍事的対立が厳しくなる。
(7)日本はより平和になるが、中国、北朝鮮、韓国の経済的攻勢にさらされる。

日本のテレビで今回の金委員長が3度目の訪中の報道がほとんど無かったのです、是非、次のURLの動画をご覧下さい。
『動画:金委員長が3度目の訪中、中国への忠誠心示す』、http://www.afpbb.com/articles/-/3179268

写真を3枚掲載します。

1番目の写真は6月19日に撮った写真で、握手する金正恩委員長と習近平主席です。金正恩委員長も習近平主席も奥さん同伴で歓迎宴に出席しました。

2番目の写真は北京空港を出発する金正恩委員長です。習近平主席とは2日にわたり2回会談しました。

3番目の写真は4月27日、板門店の韓国側の徒歩の橋のベンチに座って30分間、2人だけで話合っている場面です。2人は昔からの知り合いのように寛いで楽しそうに話合っています。とても和やかで良い場面でした。同じ民族で通訳の要らない朝鮮語で喋っている様子が良かったです。

しかしそれにしても日本は拉致問題を抱えているので北朝鮮とは厳しい交渉になります。
今回の米朝会談は日本の長期的な将来へ平和をもたらしますが、短期的には厳しい国際環境をもたらすのです。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。 後藤和弘(藤山杜人)

日本最大級の広大なユリの花畑の写真をお楽しみ下さい

2018年06月20日 | 写真
宮城県、一迫(いちはさま)ゆり園には花々の大群落が初夏の丘陵に広がっています。
今年も6月22日から公開されます。
私どもは2008年の初夏に訪れました。それ以来、毎年同じ様な広大なユリ畑の景観をホームページを開いては楽しんでいます。
こんなに広いユリ畑は初めて見ました。
ユリ畑には、オランダから輸入した200品種、15万株が一斉に開花し、強い芳香を漂わせていました。品種の名前、マルコポーロ、リオネグロ、ドットコム、カプチーノなどとメモをとりながら写真を撮っていましたが、あまりにも多いので止めました。純粋に花々の美しさだけを写し撮ることすることにしました。

働いている男性から話聞きました。一番注意することは秋の終わりに球根を全て掘り越し、種類毎に丁寧に殺菌することだそうです。そして土壌を深く掘り返し、肥料を入れ、よく混ぜて、土が落ち着いてから球根を種類毎に植えつけるそうです。すると6月中旬から素晴らしい花の絵画が丘の上一面に開くそうです。オランダで品種が次々新しく作り出されます。新しい品種の球根を輸入して植えるのです。そのような努力は平成3年の開園以来続けてきたといいます。
場所は宮城県の北西端の栗駒高原の栗原市、一迫町です。アクセスなど詳しくは下記のURLをご参照下さい。

毎年今頃になるとそのホームページを開いて圧倒的なユリ畑の景観を楽しんでいます。
無料駐車場(約300台)もありますので車で行っても良いのです。
今日は2008年の初夏に自分で撮った写真をお送りいたします。
写真をお楽しみ頂けたら嬉しく存じます。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。 後藤和弘(藤山杜人)
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「南くりこま高原一迫ゆり園」
https://www.miyagi-kankou.or.jp/kakikomi/detail.php?id=1408
小高い丘の起伏をそのまま生かした広さ30,000㎡の「南くりこま高原一迫ゆり園」には、スカシユリ系、オリエンタル系、テッポウユリ系など世界中のユリ200品種15万株、ヘメロカリス20品種2万株が咲き誇るます。品種数では日本最大級と言われています。 
◆開催期間/平成30年6月22日(金)~7月25日(水)
 ※開花状況により早期閉園の可能性あり
◆場  所/南くりこま高原一迫ゆり園
◆時  間/8:30~17:00
◆入 園 料 /有料:大人670円、小~高校生310円
◆交  通/東北自動車道・築館ICより車で約15分。
JR仙台駅・旧さくら野仙台店前(32番)より東日本急行バス「一迫総合支所前」行きにて終点下車、徒歩約15分。
JR東北新幹線・くりこま高原駅下車、タクシー約25分。
◆駐 車 場 /無料駐車場(約300台)あり














桜桃忌、太宰治をとりまく家族の苦悩と悲しみの深さ

2018年06月18日 | 日記・エッセイ・コラム
今日は太宰治が亡くなって70年。彼を偲ぶ桜桃忌です。お墓のある三鷹市の禅林寺は毎年多くの太宰ファンが参拝に訪れています。桜桃忌は今日の6月19日で俳句の季語になっています。

そこで今日は太宰治(本名、津島修治)を取り巻く家族たちの悲しみを書いてみようと思います。

1番目の写真は銀座のバー・ルパンで撮った元気だったころの彼の写真です。この写真は有名な写真なので皆様もご存知だと思います。写真家、林忠彦の代表作です。

私は以前に太宰治(津島修治)を取り巻く家族たちのことを書いたことがあります。
今日取り上げる人々は太宰の結婚の仲人をした井伏鱒二と兄の津島文治と、乳母がわりの越野タケ、そして妻の美知子と3人の子供、愛人の太田静子と子供のことです。
それでは以前に掲載した記事の抜粋を順々にお送りいたします。
(1)「太宰治が死んで悲しむ5人、その一;恩人、井伏鱒二の悲しみ」(2013年06月03日に掲載)
・・・昭和23年、太宰治と山崎富栄が心中したのです。
井伏鱒二は「荻窪風土記」で彼の死について次のように書いて悲しんでいます。
・・・・少なくとも自棄っぱちの女に水中へ引きずり込まれるやうなことはなかったろう。・・・
井伏鱒二は太宰治が大学入学のために上京した直後から作品を読んであげ、生活の上でも親身の世話をしてくれたのです。
彼ほど太宰の才能を高く評価した文学者はいませんでした。
大学を退学になり行きづまった太宰を郷里へ連れ帰ろうとした兄の津島文治を、説得して執筆を続けさせたのも井伏鱒二と檀一雄でした。
初婚相手の初代と離婚した太宰の、荒れた生活に心を痛め武蔵野病院の精神科へ無理に入院させたのも井伏でした。
昭和13年、甲州の御坂峠の天下茶屋に太宰を呼び寄せて生活を一新させたのも井伏でした。
そして甲府の石原美知子と見合いをさせ、井伏の自宅で結婚披露宴をしたのです。その結婚は太宰にしばしの間、幸せな家庭生活を経験させたのです。

2番目の写真は井伏鱒二です。
しかし太宰治は恩人の井伏に秘密で、愛人太田静子との関係を続けていたのです。
そして昭和23年、太宰治と山崎富栄が心中したのです。
以下はその太宰の遺書です。
======妻に宛てた太宰の遺書(抜粋)=========
「美知様 誰よりもお前を愛していました」
「長居するだけみんなを苦しめこちらも苦しい、堪忍して下されたく」
「皆、子供はあまり出来ないようですけど陽気に育てて下さい。あなたを嫌いになったから死ぬのでは無いのです。小説を書くのがいやになったからです。みんな、いやしい欲張りばかり。井伏さんは悪人です。」・・・

遺書では恩人の井伏鱒二を悪人と書いています。
(2)「太宰治が死んで悲しむ5人、その二;子守の越野タケさんの困惑と悲しみ」(2013年06月04日掲載)
・・・かつて太宰治は「金木のごじゃらし(恥さらし)」と言われていたのです。
近年はその生家、「斜陽館」が観光資源になって津軽地方の経済が助かっているので、太宰治の悪口を言うひとは少なくなりました。しかし尊敬されてはいないようです。
尊敬と云えば、むしろ青森県知事を3期9年も務め、その後衆議院議員や参議院議員を務めた兄の津島文治氏のほうが皆に尊敬されています。
太宰治の子守をしていた越野タケさんも、彼の中学生以後の放蕩と4回もの自殺や心中未遂事件の噂に困惑し、悲しい思いで過ごしていました。
彼女は小作の年貢米の代わりに津島家の子守になったのです。太宰が2歳の時でした。その家で、我が子のように愛した修治が、「金木のごじゃらし」と言われて非常に心を痛めたに違いありません。
太宰治は1909年生まれで、1948年に心中して果てました。
越野タケは1898年生まれで1983年に85歳で亡くなっています。
1944年に太宰治は30年ぶりに越野タケさんを訪ね、会っています。この時、太宰は35歳でタケさんは46歳でした。
この30年ぶりの再会を太宰は「津軽」という小説で以下のように書いています。
・・・それから立ちどまつて、勢ひよく私のはうに向き直り、にはかに、堰を切つたみたいに能弁になつた。
「久し振りだなあ。はじめは、わからなかつた。金木の津島と、うちの子供は言つたが、まさかと思つた。まさか、来てくれるとは思はなかつた。小屋から出てお前の顔を見ても、わからなかつた。修治だ、と言はれて、あれ、と思つたら、それから、口がきけなくなつた。運動会も何も見えなくなつた。三十年ちかく、たけはお前に逢ひたくて、逢へるかな、逢へないかな、とそればかり考へて暮してゐたのを、こんなにちやんと大人になつて、たけを見たくて、はるばると小泊までたづねて来てくれたかと思ふと、ありがたいのだか、うれしいのだか、かなしいのだか、そんな事は、どうでもいいぢや、まあ、よく来たなあ、お前の家に奉公に行つた時には、お前は、ぱたぱた歩いてはころび、ぱたぱた歩いてはころび、まだよく歩けなくて、ごはんの時には茶碗を持つてあちこち歩きまはつて、庫(くら)の石段の下でごはんを食べるのが一ばん好きで、たけに昔噺(むがしこ)語らせて、たけの顔をとつくと見ながら一匙づつ養はせて、手かずもかかつたが、愛(め)ごくてなう、それがこんなにおとなになつて、みな夢のやうだ。金木へも、たまに行つたが、金木のまちを歩きながら、もしやお前がその辺に遊んでゐないかと、お前と同じ年頃の男の子供をひとりひとり見て歩いたものだ。よく来たなあ。」と一語、一語、言ふたびごとに、手にしてゐる桜の小枝の花を夢中で、むしり取つては捨て、むしり取つては捨ててゐる。
・・・両肘を張つてモンペをゆすり上げ、「子供は、幾人。」
 私は小路の傍の杉の木に軽く寄りかかつて、ひとりだ、と答へた。・・・

3番目の写真は晩年の越野タケさんです。

4番目の写真は青森県の小泊にある太宰治と越野タケさんの銅像です。

(3)「太宰治が死んで悲しむ5人、その三(完結編);妻、美知子、長兄、文治、愛人、静子、それぞれの苦悩と悲し」(2013年06月05日 掲載)

このブログでは 「太宰治が死んで悲しむ5人」という題目で井伏鱒二、子守だった越野タケ、兄の津島文治、妻、津島美知子、そして愛人だった太田静子について私自身の断片的な感想を書いています。なるべくそれぞれの立場から見た太宰治への想いを書きたいと思っています。
津島家の当主としての長兄、文治は太宰の数々の恥じさらしな事件の後始末に翻弄されました。
昭和23年に太宰が死んで一番ホッとしたのは文治だったと思います。
しかし自分が青森県知事として、あるいは衆議院や参議院の議員として活躍し、年月が流れるにしたがって不幸な弟への思いは変わっていった筈です。
嫌なことは年月とともに次第に忘れ、39歳の若さで夭折した実弟の憐れさを感じた筈です。なにせこの弟ほど自分を頼りにした人はいなかったのです。
可愛いと思うからこそ最後までその生活の面倒をみたのです。その可愛いさを思い出すと他人へは言えない悲しみを感じていたに相違ありません。その悲しみは年月とともに深まった筈です。

5番目の写真は兄の津島文治さんです。

(4)「太宰治記念館、「斜陽館」と兄・津島文治の苦悩」(2013年06月02日掲載)
斜陽館は太宰治が生まれ東京帝国大学に入学するまで住んでいた青森県の津軽平野にある大きな家です。
占領軍の農地解放、小作人制度廃止で大地主の津島家が没落し、昭和23年に当主の津島文治氏が同じ金木町の角田唯五郎氏に売り渡しました。
昭和22年、太宰治の「斜陽」という小説が大ベストセラーになったので買い取った建物を、角田氏は昭和23年に斜陽館という名前の旅館にしました。
小説、「斜陽」の甘い、そして悲しい男女の物語と、太宰治の文章世界に魅了された人々が宿泊し、併設されてあった太宰治展示館を見て帰りました。
この経営方針は始めは成功しましたが、その後、次第に客足も減り、最後は、斜陽館は廃屋同然になっていました。
その後、昭和51年に黒滝氏が買い取りました。
平成8年には、金木町が地域の活性化のためにこの家を買い取り、1億5千万円をかけて復元工事を完成し、太宰治記念館として一般公開しているのです。
この金木町の企画は大成功のようで、この「斜陽館」を訪れる観光客が後を絶たないのです。
私も2013年5月30日に訪れました。

6番目の写真はその時撮った斜陽館です。

7番目の写真は斜陽館の内部の様子です。
さて太宰治(津島修治)は家族にとってどんな人間だったのでしょうか?
それは1923年の父の死後、津島家の当主になり、兄として太宰治の共産党シンパ活動を諌め、金銭の支援をし続け、4回もの心中事件の後始末をした当主の島津文治氏の生涯を見ればよいと思います。
太宰治は中学校入学以来、数々の問題を起こし、津島家から勘当されていました。それが許されたのは母が昭和17年に亡くなった後でした。そして結婚して家族を持っていた太宰治一家は昭和20年7月に金木へ疎開してきたのです。
生活の上では「失格者」だった太宰を終始温かく世話をしたのが兄の文治だったのです。
勘当しても世間は津島家の息子と言いますから面倒を見ないわけにはいかなかったのかもしれません。この兄、文治の保護は太宰治が昭和23年、玉川上水へ身投げして愛人と心中するまで続いたのです。
この兄は、政治家として立派な人だったようで青森県知事として1947年に当選し、3期9年間も知事をつとめました。
知事になる前の1946年には衆議院議員になっていますし知事辞任後の1958年から衆議院議員として2期務め、1965年から参議院議員として2期半務めました。
いろいろな業績を残したが十和田湖畔の3人の裸婦像、「乙女の像」は文治氏が青森県知事のとき高村光太郎氏に依頼して製作されたものです。
尚、太宰治は1946年の兄の衆議院選挙運動にはリュックサックを背負って駈けずり回ったそうです。それは世話になった兄への唯一つの恩返しでした。津島文治氏は1898年生まれ、1973に亡くなりました。・・・
太宰と奥さんの美知子の娘の津島佑子さんは作家として良い作品を残しました。山梨県の母、美知子の実家のことを書いた「火の山ー山猿記」という名作を残しました。
さて、最後に、一番書きにくい妻、美知子と愛人、大田静子の苦しみと悲しみを取り上げないわけにはいけません。
この二人は立場が違います。美知子は井伏鱒二の媒酌で結婚した名家出身の女性です。一方、静子も育ちの良い文学少女で、「太宰の愛人」の一人だったのです。
私は美知子夫人へ同情を禁じ得ません。悲しみの深さ、無念さを考えると何も言えません。
何と言っても一番苦労したのは奥さんでしょう。女としてこのような男と結婚した不幸なほど悲惨なものはありません。見合いをさせ、自宅で結婚式披露宴をした井伏鱒二さんも一生悲しみ、負い目に思っていたに相違ありません。
この妻の美知子は心中事件のあと30年経過してからやっと、「回想の太宰治」という本を出しています。
一方、大田静子は太宰治に関する本を一切出していません。
太宰治の死後すぐに井伏鱒二らが静子を訪問して「斜陽」の印税、10万円を渡したのです。実は、「斜陽」の物語は静子が提供した日記通りだったのです。
そして井伏鱒二は静子が今後一切、太宰に関することを書かないという誓約書を取ったのです。

太宰の本妻の娘、次女里子(津島佑子)と、愛人の娘、太田治子も作家として世に出ております。
太宰治の孫の淳さんは自民党の衆議院議員です。
いろいろありますが、あまり長くなるので止めます。

今日は太宰治を偲ぶ桜桃忌です。太宰治をとりまく家族の苦しみと悲しみを書いてみました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。 後藤和弘(藤山杜人)


非常に困難な北朝鮮の非核化と国連による査察

2018年06月18日 | 日記・エッセイ・コラム
 日本には原発が稼動中で、国連の査察対象施設が250カ所もあり、世界最大の「非核兵器国」なのです。このため、日本には20名から25名の国連派遣の査察官が常駐、とくに青森県の六ヶ所村の再処理工場には常時数名の査察官が張りついています。このようにして日本が核兵器を作らないか厳重に監視しているのです。
この監視員の派遣元の国連の国際原子力機関( International Atomic Energy Agency、略称:IAEA)は本部はオーストリアのウィーンにあります。またトロントと東京の2ヶ所に地域事務所と、ニューヨークとジュネーヴに連絡室があります。
北朝鮮がこのIAEAの査察を受け入れたら、どんな困難な問題がおきるのでしょうか?

今日はこの問題にたいするニューヨークタイムスの次のような見解記事を読んでみましょう。
「北朝鮮核検証、これまでで最も広範囲な査察になるだろう」、2018-05-07
http://japan.hani.co.kr/arti/international/30515.html
北朝鮮、核施設40~100カ所、核弾頭16~60発と推定。
核兵器開発できないイランとは全く異なる。 
NYT(ニューヨークタイムス)「IAEA調査官全員の300人でも足りない」
 朝米首脳会談の最大のイシューである北朝鮮非核化の主要争点は、核兵器、核施設、核物質に関する透明な査察と検証だ。ドナルド・トランプ大統領と金正恩委員長の会談を控えて、非核化検証作業が核廃棄の歴史で最も広範囲な査察活動になると見込まれている。
 2015年のイラン核協定の時、細部事項を交渉したアーネスト・モニーズ元米エネルギー長官は「北朝鮮はイランが簡単だったように見せるだろう」と話したとニューヨークタイムズが6日報道した。それほど北朝鮮の核能力は、イランに比べて広範囲で高度化され、査察・検証にも困難が伴うという話だ。
 北朝鮮は昨年9月までに6回の核実験を行い、11月には大陸間弾道ミサイル(ICBM)火星-15号を試験発射し、「国家核武力完成」を宣言した。だが、北朝鮮が核兵器・施設・物質をどれだけ持っているかは正確に把握されていない。米国のランド研究所が出した報告書によれば、北朝鮮には寧辺地域をはじめ40~100カ所の核施設がある。核関連の建物は400棟に達し、このうち少なくとも2棟の建物に原子炉があり、そのうち1カ所は核兵器の原料であるプルトニウムを製造していると推定される。

米国核科学者協会の「2018北朝鮮核能力報告書」で、昨年末基準で北朝鮮が生産した核分裂物質はプルトニウム20~40キロ、高濃縮ウラニウム250~500キロと分析した。また、北朝鮮が年間に核弾頭6~7発を製作できる核分裂物質生産能力を持っているとし、これまでに完成した核弾頭は16~32発程度と推定した。一方、中央情報局(CIA)は保有核弾頭を約20発、国防情報局(DIA)は約60発と把握している。これは3年前にイランが米国・ドイツ・中国など6カ国と核協定を結んだ当時、10カ所あまりの核施設があるだけで核弾頭の開発には成功できない状態であったこととは大きな違いだ。
 そのために北朝鮮の非核化検証には約200カ国で活動する300人あまりの国際原子力機関(IAEA)調査官の規模より多くの人材が必要かもしれないとニューヨークタイムズは見通した。特に、国際原子力機関の調査官は核物質の移動経路や核燃料生産装備に関する専門家であるだけで、核兵器を扱う訓練は受けていないと同紙は指摘した。2003~2004年、米国のイラク大量殺傷兵器追跡を指揮したデービッド・ケイ博士は「率直に言って(北朝鮮核査察のための)人材集団に制約がある」と話した。
 このような障害を跳び越えるには、北朝鮮が保有した核兵器と施設、物質をすべて公開し、検証に全面的に協力しなければならない。だが、ニューヨークタイムズはこれに対する展望は懐疑的だと主張した。金正恩委員長は最近、豊渓里(プンゲリ)核実験場の閉鎖を外国の専門家たちとマスコミに公開すると明らかにした。(終り)

以上のように北朝鮮の核兵器、核施設、核物質の査察と検証は非常に複雑で長期間の作業になるのです。
数年を要することは誰の目にも明らかです。
北朝鮮の完全な非核化は一朝一夕では出来ないのです。日本人も根気よく長い目で見なければなりません。
第一、北朝鮮はいまだに国連のIAEA調査官を受け入れると発表していません。
それなのに日本政府は国連のIAEAの査察の費用を出すと発表しているのです。先走りのし過ぎです。困ったものです。

今日の挿し絵代わりの写真は昨日、三鷹市の花と緑の広場で撮って来た花の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。 後藤和弘(藤山杜人)















長崎にある26聖人像と作者、船越保武氏のことなど

2018年06月17日 | 日記・エッセイ・コラム

日曜日には簡単な宗教にまつわる話を書くことにしています。
今日は長崎にある」26聖人像と作者の船越保武のことです。

1番目の写真は26聖人像の全景です。
カトリック教会における「日本二十六聖人殉教者」の祝日は2月5日です。
26人のうち、日本人は20名、スペイン人が4名、メキシコ人、ポルトガル人がそれぞれ1名でした。すべて男性です。
その26人は二十六聖人記念碑の右側から順に列挙すると以下のようになります。

フランシスコ吉(きち)、日本人大工。フランシスコ会員の世話をするため、一行に付き添い、道中で捕縛された。
コスメ竹屋、日本人、38歳。大坂で捕縛される。
ペトロ助四郎(またはペドロ助四郎)、日本人、イエズス会員の世話をするため一行に付き添い、道中で捕縛された。
ミカエル小崎(またはミゲル小崎)、日本人、46歳。京都で捕縛。トマス小崎の父。
ディエゴ喜斎(時に、ヤコボ喜斎、市川喜佐衛門、備前屋喜左衛門とも称す)、日本人、64歳。大坂で捕縛。行商者として上阪し商家に奉公した後、イエズス会員として祭壇係および門衛(接待係)に就く。備前国岡山藩津高郡馬屋郷芳賀村(現在の岡山県岡山市北区芳賀)出身。
パウロ三木、日本人、33歳。大坂で捕縛。イエズス会員。
パウロ茨木、日本人、54歳。京都で捕縛。レオ烏丸の兄。
五島のヨハネ草庵(スペイン語版)(またはヨハネ五島)、日本人、19歳。大坂で捕縛、イエズス会員。
ルドビコ茨木、日本人、12歳で最年少。京都で捕縛。パウロ茨木、レオ烏丸の甥。
長崎のアントニオ、日本人、13歳。京都で捕縛。父は中国人、母は日本人。
ペトロ・バウチスタ(またはペドロ・バプチスタ、ペドロ・バウティスタ)、スペイン人、48歳。京都で捕縛。フランシスコ会司祭。
マルチノ・デ・ラ・アセンシオン、スペイン人、30歳。大坂で捕縛。フランシスコ会司祭。
フェリペ・デ・ヘスス(またはフィリッポ・デ・ヘスス、本名・フェリペ・デ・ラス・カサス)、メキシコ人、24歳。京都で捕縛。フランシスコ会修道士。
ゴンザロ・ガルシア、ポルトガル人、40歳。京都で捕縛。フランシスコ会修道士。
フランシスコ・ブランコ、スペイン人、28歳。京都で捕縛。フランシスコ会司祭。
フランシスコ・デ・サン・ミゲル、スペイン人、53歳。京都で捕縛。フランシスコ会修道士。
マチアス、日本人、京都で捕縛。本来逮捕者のリストになかったが、洗礼名が同じというだけで捕縛。
レオ烏丸、日本人、48歳。京都で捕縛。パウロ茨木の弟。ルドビコ茨木のおじ。
ボナベントゥラ、日本人、京都で捕縛。
トマス小崎、日本人、14歳。大坂で捕縛。ミカエル小崎の子。
ヨアキム榊原(またはホアキン榊原)、日本人、40歳。大坂で捕縛。
医者のフランシスコ(またはフランシスコ医師)、日本人、46歳。京都で捕縛。
トマス談義者、日本人、36歳。京都で捕縛。
絹屋のヨハネ、日本人、28歳。京都で捕縛。
ガブリエル、日本人、19歳。京都で捕縛。
パウロ鈴木、日本人、49歳。京都で捕縛。


この26聖人像は大きなブロンズ像です。有名な彫刻家の舟越保武氏が4年半の歳月をかけて、昭和37年に完成したものです。
この26聖人像について長崎在住のイラストレーターの江島 達也さんがとても良い説明を次のようにしています。
以下は、http://hayabusa-3.dreamlog.jp/archives/51207384.html からの抜粋です。

・・・26聖人の像は、遠目で見ると、横長の十字架のデザインとなっています。
24体は手を合わせ、天に視線を向けていますが、2体(パウロ三木とペドロ・パプチスタ)だけは手を広げ、視線を落としています。
この2体は、舟越さんの説明によると、「下から見る人と視線が合うようになっており、その人の心を引き上げてくれる役割をする。いわば像の中の目にあたる部分」ということなのだだそうです。
舟越さんは、この26聖人像をつくる4年半の間、アトリエに寝泊まりし、制作に心血を注いだそうです。
制作記に「貧苦に耐えて制作した」とあります・・・
そして、こどもの頃から、この像を見るたびに気になっていたのは、特別に小さい2体、12歳のルドビコ茨木像と、13歳のアントニオの像です。
最年少のルドビコは混血児であり、差別とも闘いながら信仰を守り抜いた少年でした。
純粋な瞳でいたいけな少年の殉教の姿は、多くの見物者の涙をさそったそうです。
平成14年2月5日に舟越さんは亡くならていますが、ちょうどこの日というのは、405年前に26聖人が殉教した日にあたります。・・・何かしら運命的なものを感じますね。・・・

2番目から4番目の写真は26聖人像の部分を大写しした写真です。




舟越保武氏の主な彫刻作品は以下の通りです。
1962年 「長崎26殉教者記念像」で高村光太郎賞。
1972年 島原の乱に着想を得た「原の城」で中原悌二郎賞
1973年 「原の城」でパウロ6世より大聖グレゴリオ騎士団長勲章受章。
1975年 「病醜のダミアン」(ダミアン神父をモデルにした作品。)
1977年 「道東の四季-春-」(釧路市の幣舞橋)で長谷川仁記念賞。
ほかにも「聖クララ」、「聖セシリア」、「聖マリア・マグダレナ」、「たつ子像」(田沢湖畔に設置)、「ペトロ岐部神父の立像」などがある。

5番目の写真は田沢湖にある「たつ子象」です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。 後藤和弘(藤山杜人)

「感動的な北海道の写真が多数掲載されているHPをご紹介します」

2018年06月16日 | 写真
このHPでは、写真を見ながら「北海道の自然を知っていただく」という目的で、多数の風景写真が掲載されています。
このHPはサトウビンさんによって運営されています。
このHPは、http://15.pro.tok2.com/~satoubin/index.htm です。
サトウビンさんは以下の事を守っています。
1.主に北海道で撮影した写真を、できるだけ高画質で掲示します。
2.単に写真だけに限らないよう「撮影場所」「関連情報」など少ない活字で提供するよう努力していきます。
3.北海道の自然に関する情報は知り得る範囲内で記述していきます。
4.記述内容は「確かさ」を追求していますが、あくまで参考とお考えください。
5.古いコンテンツや写真は順次、更新していきます。
6.「自然豊かな魅力の北海道」を感じていただけるよう、写真技術・コンテンツの充実を目指していきます。
ご感想などはメールでお送り下さい。
メールは ご面倒ですが下記アドレスの★を@に変えてお送り下さい。dct-bin2★diana.dti.ne.jp
ここではサトウビンさんのHPから5枚の風景写真をお送りいたしまし。お楽しみ頂けたら嬉しく存じます。

1番目の写真;美瑛・五稜の道端 撮影場所(地図)、この五稜地区は比較的観光客が少なく穴場的・景観の地です。観光バスは来ません。
この写真の右手に十勝岳・旭岳など連山が続いています。

2番目の写真;タンポポが咲き乱れる円山牧場の展望台  '06.06.04 11:40  1/125  F 5.6  300mm

3番目の写真;場所はここです。ほぼ紅葉は終わりで、ここだけ紅葉が絵になったところです。モミジは葉が縮んでUPできません。黄色いのは「アカイタヤ」です。'06.10.25 12:00 支笏湖・モラップ付近

4番目の写真は夏の「摩周湖」です。夏場は霧が濃くて湖面を見ることが少なくなってしまう神秘の湖。 

5番目の写真は冬の「摩周湖」です。