後藤和弘のブログ

写真付きで趣味の話や国際関係や日本の社会時評を毎日書いています。
中央が甲斐駒岳で山麓に私の小屋があります。

「冬でも咲く沖縄の花々の写真」

2021年12月31日 | 写真
今日の小金井市は最低気温がマイナス4度、最高気温が2度です。天気は晴れですが今までで一番寒い日です。
そこで暖かい南国、沖縄に冬でも咲いている花々の写真をお送り致します。
4枚の写真の出典は、https://www.ritou.com/travels/travel30482/ です。

1番目の写真は沖縄の冬の花【ハイビスカス】です。

2番目の写真は沖縄の冬の花【ブーゲンビリア】です。

3番目の写真は沖縄の冬の花【ハナチョウジ/ラッセリア】です。

4番目の写真は沖縄の冬の花【ヒマワリ】です。「ヒマワリ」といえば誰もが「夏の花」と想像しますが、沖縄では「冬の花」なのです。

「冬でも花咲く南房総の花畑の写真」

2021年12月30日 | 写真
今年は早く寒くなって日本海側は大雪ですが、房総半島は毎日晴天で花が咲いています。冬に花を摘ませる花畑は今年もあるようでです。
そんな南房総の花畑の写真をお送りいたします。「冬でも花咲く南房総の花畑の写真」を検索すると花畑の写真が沢山出てきます。





「日本海側、山間部集落に元日にかけて大雪、そして北越雪譜」

2021年12月30日 | 日記・エッセイ・コラム
今年の冬は数年ぶりに寒い冬になりました。積雪も多いと予報されています。大みそかの31日午後6時からの24時間の降雪量は多い所で、関東甲信地方が50~70センチ、東北、北陸地方が40~60センチ、近畿が20~40センチとなる見込みと報道されています。
例年12月には雪が少ない岐阜県はすでに大雪で埋まっています。雪の白川郷の写真1枚と岐阜市の大雪の写真を3枚示します。インターネットに出ていた写真です。




以下はあるインターネット記事です。
「日本海側に元日にかけて大雪に気象庁が警戒呼びかけ」2021年12月29日、 
https://www.asahi.com/articles/ASPDY5WYTPDYUTIL00L.html
上空に強い寒気が流れ込み、強い冬型の気圧配置になる影響で、30日から1月1日ごろにかけて、北日本から西日本の日本海側を中心に大雪や荒れた天気になる、と気象庁が29日発表した。積雪や路面凍結による交通障害、落雪、強風、高波などに警戒するよう呼びかけている。
 気象庁によると、30日午後6時までの24時間の降雪量は多い所で、東海地方が40センチ、・・・以下省略します。

大雪の場合、平野部は除雪車やブルドーザーが使えますので交通はすぐに確保されます。しかし山間部の集落へ除雪車やブルドーザーが行くのは困難です。
日本のあちこちの山間部の集落は大雪に埋まったまま春を待つのです。食料や燃料も次第に少なくなり心細い暮らしが続くのです。
この冬の山間の暮らしの心細さは江戸時代とあまり変わないと思います。心理的には江戸時代に書かれた「北越雪譜」という本のような感じがするのです。この本の雪国の人々の冬の暮らしぶりが描かれた部分を抜粋します。

鈴木牧之と「北越雪譜」の詳しい紹介は以下にあります。
http://www.komazawa-u.ac.jp/~hagi/kokugo-hokuetsuseppu79.html 
簡略にしてご紹介きたします。
著者の鈴木牧之の生れた南魚沼郡は、東南に波濤のごとき高山が連なり、大小の河川が縦横に走り、地相的に見て“陰気”の充満した山間の村落であった。初雪は九月の末か十月の初めに降り、しかも一昼夜に六、七尺から一丈(約一・八~三メートル)に達する。

・・・「されば暖国の人のごとく初雪を観て吟詠遊興のたのしみは夢にもしらず、今年も又此雪中に在る事かと雪を悲(かなしむ)は辺郷の寒国に生たる不幸といふべし。雪を観て楽む人の繁花(はんくわ)の暖地に生たる天幸を羨ざらんや」・・・

彼はまず、雪が北国人にとっては生活上のハンディキャップであり、レジャーの対象ではありえないことを、くどいほど強調しているのです。
・・・「江戸では雪見の船とか雪の茶の湯を楽しんでるいるが、自分たちは雪の降るまえに大急ぎで屋根を繕い、梁や柱を補強し、庭木は雪折れせぬよう手当てをほどこし、井戸には小屋をかけ、厠(かわや)も雪中に汲み出せるよう準備せねばならない。食物も、野菜の保存にはとりわけ苦心する。凍るのを防ぐため、土中に埋めたり、わらに包んで桶に入れたりする。「其他、雪の用意に種々の造作をなす事筆に尽しがたし」・・・

現在とちがって、建物が平屋建てで窓ガラスもなかったころの雪ごもりは、想像もつかぬほど陰鬱なものだった。雪が屋根の高さにまで達すると、明りがとれないので、昼も暗夜のごとく、灯火を必要とした。
・・・「漸(やうやく)雪の止たる時、雪を掘(ほり)て僅(わづか)に小窗(こまど)をひらき明(あかり)をひく時は、光明赫奕(かくやく)たる仏の国に生たるこちなり」・・・
鳥や獣も、冬期には食物が得られないのを知り、暖かい地方へ移っていくが、人間と熊だけは雪の中にこもっている。
・・・「熊胆(くまのゐ)は越後を上品とす、雪中の熊胆はことさらに価貴(あたひたつと)し」というわけで、出羽あたりの猟師たちが熊捕(くまとり)にやってくる。その方法がおもしろい。まず、熊の呼吸穴を見つける。雪が細い管のように溶けたものだ。猟師がこの穴から木の枝や柴(しば)のたぐいを挿(さ)し入れると、熊が引っぱりこむ。何度もくりかえすうちに、自分の居場所が狭くなって、熊が穴の入り口に出てくるところを槍で突き殺す。もう一つは「圧(おし)」といって、穴の前に棚をつくり、その上に大石をのせておいてから熊を燻(いぶ)り出し、怒ってとび出す瞬間、石を落として殺すという方法もあった。
もっとも、このようなことは他国者がやることで、地元の農民たちは熊を殺すと山が荒れると信じて、手を出さなかった。ましてや、雪中に遭難した人間が、熊に助けられたという話も伝わっているからには、なおのことである。」・・・

牧之は八十二歳の老人から聞いた話として、この老人が若いとき雪の中で道に迷い、熊の穴にまぎれこんで凍死を免れたということを記している。そのとき熊は、闖入(ちんにゅう)した男に暖かい居場所を譲ったうえ、おのれの掌(てのひら)をさし出して嘗(な)めろという仕草をした。男は熊がアリを食べるということを思い出し、おそるおそる嘗めてみると、甘くて少々にがく、大いにのどをうるおした。

けっきょく熊と四十九日間の同居したが、ある日熊に促されて穴を出ると、人家のある方へと案内された。男がようやく我が家へ帰りつくと、両親が法事を営んでいる最中だったという。

以下省略しますが北越雪譜の全文は 青空文庫、https://www.aozora.gr.jp/cards/001930/files/58401_70229.html に出ています。この中には雪国の珍しい話や不思議なことが沢山書いてあります。
江戸時代の雪国の生活が客観的に、そして具体的に活写されているので記録映画を見ているような気分になります。文化人類学の本のようでもあります。
私はこんな本が江戸時代に出版されたことに驚いています。

今年の例年に無い大雪の報道を見ながら「北越雪譜」を思い出したので簡略のご紹介致しました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「今日の日記、年末なので墓参りに行きました」

2021年12月29日 | 日記
家内の実家のお墓は日野市の大昌寺にあります。年末なので午後から家内の両親と祖父母の墓参りに行きました。家内が墓掃除をして花を供えています。私はその傍で線香に火をつけました。火をつけながら家内の両親と祖父母との楽しかったいろいろなことを思い出していました。
両親が亡くなってもう30年以上もたってしまいました。そして私自身の両親が亡くなってやはり30年以上たちます。私自身の両親の墓は仙台にあるので弟が墓参りをしています。
家内の実家のお墓がある大昌寺は浄土宗知恩院の末寺で、江戸開府の前年、慶長7年(1602)、八王子の大善寺の開山である中秀助給和尚が隠棲の場所として建立したと言れています。
江戸時代、大昌寺の梵鐘は日野宿に時を告げ親しまれていました。
そんなことを想いながら午後の時を過ごしました。時の流れの早いことに驚くばかりです。
今日私が撮った写真です。






「嗚呼、はるか曾遊の地、松島の雪景色」

2021年12月29日 | 日記・エッセイ・コラム
仙台に生まれ育った私は近くの松島に何度も遊びに行きました。四季折々いろいろな季節に行きました。松島でまず五大堂の島へ歩いて渡ります。島の向こうには美しい松が生えた島々が広がっています。見事な枝ぶりの松が生えた数多くの島が浮かんでいる美しい海です。それは幻想的に綺麗な海でした。
特に印象深い思い出は雪の降った冬に行った時見た松島の風景でした。
茫々あれから60年以上の月日が流れました。いろいろな思い出のある松島です。
そこで今日は遥か曾遊の地の松島の雪景色の写真をお送りいたします。私の幼少から結婚後まで慣れ親しんだ懐かしい松島です。

1番目の写真は雪の日の松島です。仙石線の松島駅の高台のホームから見える風景です。写真の出典は、https://amanaimages.com/info/infoRM.aspx?SearchKey=02616000608 です。

2番目の写真は雪の松島の五大堂です。この写真の右に松島湾が広がっています。写真の出典は、http://orgeldiary.da-te.jp/e404943.html です。

3番目の写真は雪の松島五大堂への橋です。この木造の赤い橋を何度も渡りました。写真の出典は、https://amanaimages.com/info/infoRM.aspx?SearchKey=02335001591 です。

4番目の写真は雪の瑞巌寺へ続く参道です。海の風景を見た後は山の方にある瑞巌寺に歩いて行きます。淋しい参道でした。写真の出典は、https://yurika2018.blog.fc2.com/blog-entry-35.html です。

5番目の写真は雪の日の松島の町の全景です。写真の出典は、https://twitter.com/hashtag/%E6%9D%BE%E5%B3%B6%E9%9B%AA%E6%99%AF%E8%89%B2 です。

さて松島に関するいろいろな思い出の中から一つだけ書きたいと思います。高校時代のことです。
少し大きいボートのカッターに乗って仲間達と碧い島々の間を何度も漕ぎ回った楽しい思い出です。それは不思議な体験でした。
仙台一高に入学したのは昭和26年でした。旧制の仙台一中の生徒が3年生にそのまま残っていました。
入学してすぐ「木工部」に入りました。驚いたことにその部は木工など一切しないで、もっぱら松島湾でカッターを漕ぎ回る倶楽部でした。
大人のような3年生が東北大学の塩釜の艇庫からカッターを借り出して来るのです。
1年生と2年生の部員が塩釜の岸壁で待っていると3年生が何処からかカッターを漕ぎよせて来ます。皆が乗り込むとカッターは島々の間を縫って松島湾を周航します。
昼になれば適当な島の砂浜へボートを乗り上げて持参のオニギリを食べます。
午後も漕ぎますが、塩釜までの帰路は漕ぐのを止めて帆走なのです。
この帆走も不思議な体験です。帰路になると3年生がカッターの先端に低いマストを立てます。後は風まかせで塩釜まで帰ります。
そしてある時は9人乗りの細身の競走用のボートを漕いだこともありました。競走用のボートにはフィックスと座席が前後に動くスライデイングという2種類があるのです。どちらも船体が薄く出来ています。細心の注意が必要です。
このように海でボートを漕ぐ体験を何度もしましたのです。今思うと不思議な体験でした。

この体験があったので、私は松島の素晴らしさは海の上からも見ないと分からないと考えていたのです。
妻と初めてデートした時も松島を海の上から案内しました。塩釜港でチャーターした小さな船で彼女を松島まで案内したのです。緑の島々が浮かんでいる海を周航したのです。彼女は初めて海の上から見た島々の美しさに感動しました。

今日は松島の雪景色の写真を示しました。そしてはるか曾遊の地、松島の思い出を書きました。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈りいたします。後藤和弘(藤山杜人)

「イギリスのある同性愛者、私は差別しない!」

2021年12月28日 | 日記・エッセイ・コラム
イギリスに何十年も住んでいるある日本人と数年前から親友になりました。彼が日本に来る度に会っています。人間味豊かで魅力的な人です。彼、Nさんは同性愛者です。
今日は同性愛にまつわる問題を考えたいと思います。私は同性愛者を差別しません。日本の社会も同性愛者を差別しないようになることを祈りながら書きます。
話を簡単にするためにNさんと私の最近のメールを転載します。

(1)12月26日 にNさんから私宛に来たメール
押し詰まりましたね。
お元気でしょうか。
私の趣味人俱楽部に発表した最新日記「フィリップ、」には、割愛した部分があります。
私、これをそのまま掲載できたら、かなりの「大物」なんですが、。
ご興味がおありであれば、その部分をお送りいたしますが、?
良きお年を。 Nより、

(2)「フィリップ、」に関するNさんの日記
フィリップ スコフィールド(Phillip Schofield)さん、英国人。59歳。
https://en.wikipedia.org/wiki/Phillip_Schofield
TVのプレゼンターで、いろんな番組の司会とかをされる。
男前だけれど気取っておられない。感じのいい人で、私、好感を持っていた。
それが、2年ほど前(2020年2月)、公然とこう言われたのである。「私、ゲイなんです」
それからというもの、フィリップさん、人が変ったように、明るくなられた。
以前は、一寸遠慮がちで、これほどの存在感はなかったように思う。
今では、TVコマーシャルにも出られるし、大きな声で笑ったりもされる。
このカミングアウトまでは、何か、いつも、大きな重荷を背負わされたようで、それがとても嫌であったのであろう。
フィリップさん、結婚しておられる。29年も。子供は、お嬢さんが二人。
「皆さん、私のことをどのように思っておられるか、知りませんが、私、本当のところ、皆さんが想像しておられる様な人間ではないんですよ」
この一言、何度言いたかったかしれない。しかし、いろんなことで、その勇気がなかった。
しかし、意を決して言ってみて、結果は上々。これで、人がなんと言われようと、「本当の自分」で生きられる。
フィリップさんには、男の相方もおられると思う。

(3)私からNさん宛に出したメール
Nさん、
お手紙ありがとうございました。お元気そうで嬉しいです。
私も元気です。しかし車椅子の生活になりました。
次の記事をご覧下さい。
2021年12月26日(日)、「北アルプス縦走、車椅子、新しい世界観」
「フィリップ、」の割愛した部分を是非お送り下さい。非常に興味があります。
ありがとうございます。後藤和弘

(4)Nさんからの返事
これは、掲載したものに続きます。どうぞ、良いお年を。
===============================
実のところ、この私が、昔、そうであった。
昔というのは、私が30歳までのこと。要するに、まだ日本にいた頃。
自分の本当のところを、他の人に知って欲しかったのは事実。しかし、その頃の日本では、とてもそんなこと言えたものではなかった。私、その結果、帳尻を合わせるために「嘘」ばかり吐いて生きていた。
尤も、今でも、日本では大なり小なり、そんなではないのか。ただ、私、ここで、そのために日本という国を責める気は毛頭ない。日本とは、そういう国なのである。
私が英国に来た1976年の夏、日本から知り合いのご夫婦が、ロンドンに観光で来られた。
私を一目観るなり、開口一番、ご主人こう言われた。「アナタ、生き返られましたなあ」
私、日本の水に合わなかった、ということであろうか。
=================================

以上のメールにはこれ以上の説明は不要です。私は絶対に同性愛者を差別しません。皆様も絶対に同性愛者を差別しないことを祈ります。

今日の挿絵代わりの写真はバラの花の写真です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)





「宮城県の冬でも咲く花の写真」

2021年12月27日 | 写真
宮城県の冬でも咲く花の写真です。
写真の出典は、https://inakasensei.com/winterflowers です。

1番目の写真はツバキです。サザンカよりもややあと(12月以降)に花を咲かせます。

2番目の写真はムスカリです。ムスカリは耐寒性がかなり強いので真冬でも外で越冬できます。

3番目の写真はスノーフレークです。スノーフレークは秋に球根を植えて越冬し、雪解けの頃~桜の開花時期に花を咲かせます。

4番目の写真はブルビネラです。特に寒さに強いことで知られているブルビネラは、−5℃位まで無傷で開花します。東北地方南部くらいまでなら屋外でも容易に越冬ができます。
  
5番目の写真はストケシアです。非常に丈夫で強いストケシアは、耐寒性は高く、温暖な地域では晩秋から初冬でも花を楽しむことができます。

「美しい風景、お寺に降る雪」

2021年12月27日 | 日記・エッセイ・コラム
世界中に美しい風景があります。自然の風景は人生を豊かにします。心が洗われます。山や川だけの景色も良いものですが自然と建物の調和した景色も良いものです。例えば雪が降っているお寺の風景などは良いものです。心が静まります。師走は忙しいものですが静かな心で過ごすことも大切です。
そこで今日は雪の日の善光寺の写真とお寺にまつわる話をお送り致します。
善光寺は善光さんが建立したお寺です。仏教のどの宗派にも属せず、人々の素朴な信仰だけで存続してきたお寺です。善光寺から東へ一直線に伸びた参道を歩いて行くとその先に長野駅があります。この町は善光寺のおかげで出来た町なのです。
その善光寺の雪の日の写真をお送りいたします。

1番目の写真は雪の夜の善光寺です。写真の出典は、https://mstdn.tokyocameraclub.com/@sigmist810/101190669478412063 です。

2番目の写真は朝早く御朝事から帰る大僧正様の姿です。写真の出典は、http://yamataikoku.naganoblog.jp/e673512.html です。

3番目の写真は善光寺の三重塔です。写真の出典は、http://www.imamiya.jp/haruhanakyoko/she/fuyutabi2019b/photograph13.htm です。

4番目の写真は雪の善光寺六地蔵です。写真の出典は、https://amanaimages.com/info/infoRM.aspx?SearchKey=25184012610 です。

5番目の写真は雪の日の善光寺の参道と門前町です。写真の出典は、https://4travel.jp/travelogue/10972318 です。

さて善光さんが建てた善光寺は現在三つあります。長野県の飯田市と長野市と山梨県の甲府市にあるのです。私は何故か善光寺が好きなのでこれら三つの善光寺には全て行きました。
そして知った善光寺の歴史をかいつまんでご紹介します。
今から1400年ほど前、現在の飯田市郊外(信州麻績の里)に本多善光(よしみつ)さんという人が住んでいたのです。
善光さんは国司に仕える有力者でした。ですから国司が大和に帰る時に送っていきます。そして現在の大阪の難波の堀の中から一光三尊の像を見つけて、それを拾い上げます。そして信州麻績の里に持ち帰ったのです。
自宅の臼の上に像を祀り、拝んでいたところ、台座の臼が光り輝き出したのです。それで善光さんは座光寺(善光寺)を作ったと言い伝えられています。真偽のほどは別にして美しい言い伝えです。
飯田に善光寺が出来たのは推古天皇の10年(西暦602年)でした。
それから41年ほどして皇極天皇元年(西暦643年頃)に勅命によりご本尊を長野へ移し、現在の長野市に善光寺を作りました。
移転した善光寺のあとには以前のご本尊と同じ形の木像をつくり、座光寺を存続させました。そのような経緯から、飯田市の座光寺は元善光寺とも呼ばれるようになったのです。長野へ引っ越したご本尊は毎月15日には飯田の元善光寺へ帰り、麻績の里人を守ると信じられています。
ところが甲府市にも立派な本堂を誇る善光寺があります。この三つ目の善光寺は長野の善光寺が出来てから、約800年位後に武田信玄が長野を攻略、占領したときに権力を用いて善光寺をご本尊とともに甲府に持ってきたものです。甲斐善光寺は永禄元年(1558年)に武田信玄によって創建されました。 
そして武田家の滅亡後、ご本尊や数々の寺宝は長野の善光寺へ返されてしまったのです。
しかしその後、甲府の善光寺は甲州の人々の仏様を信仰する篤い気持ちによって立派に存続しています。
三つの寺とも善光さんの木像が安置されていますが、珍しいことはどれにも夫人の像が善光さんと同じ大きさで並べられていることです。
素朴な信仰心の美しさが三つの善光寺を支えてきたのです。宗派にも属せず人々の信仰だけで存続してきたのです。そういうお寺もあるのです。

今日は曾遊の地の善光寺の雪の日の写真をお送りいたしました。そして現在飯田市と長野市と甲府市にある3つの善光寺の関係を説明いたしました。

今日はこれから花を買いに行きます。お世話になった近所のおばさんとおじさんの墓に供える花と家内の先祖代々の墓に供える花です。そして暮れからお正月にかけて家に飾る花々です。毎年の暮れの買い物の一つです。楽しい行事です。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)

「北アルプス縦走、車椅子、新しい世界観」

2021年12月26日 | 日記・エッセイ・コラム
若い頃は元気な人が多いものです。私も若い頃は北アルプス縦走をしたりして登山を趣味にしていました。蔵王山や仙台の泉岳や鳳凰三山や甲斐駒ヶ岳、八ヶ岳などいろいろな山々に登りました。週末には近場の高尾山や御岳山や奥多摩の山々を家族と登りました。健脚でした。
それなのに老人になったら小脳が小さくなる病気でふらつき次第に歩くのが危なくなったのです。そこで2年前から手動車椅子と電動車椅子の生活になったのです。手動車椅子を車に積んで彼方此方で車から降ろして車椅子で歩き回るのです。
そして新しい世界観を持つようになったのです。
卑近なことでは妻への観方が変わったのです。家内は広い公園で手動車椅子を押して歩いたり走ったりするのを面白がります。運動になり筋肉が鍛えられると言います。妻が優しい性格なことを再発見したしたのです。
一方、電動車椅子は重い荷物が運べるので重い買い物は専ら私が担当します。近所のスーパーや駅前の商店街へは電動車椅子で行きます。電動車椅子の良いところはそのまま店の中へ入れることです。電動シニアカーは店内進入禁止なのです。
手動車椅子と電動車椅子の生活になって発見したことは他にも沢山あります。世間の人々がが非常に親切だということです。特に店の人が買い物を包んだり支払いを手伝ったり兎に角とても親切なのです。親切なのは店の人だけではありません。先日も電動車椅子で歩道の段差が上がれなかったら若者が助けに来たのです。4輪駆動の大きな車をわざわざ停めて降りて来たのです。
車椅子の泣き所はチョットした段差が上がれないことです。しかし難渋していると若い女性や子供も含めていろいろな人がすぐ助けに来てくれます。私の世間を見る目が変わったのです。この世は善意の人々で出来ていたのです。それが見えなかった私だったのです。
手動車椅子と電動車椅子の生活になって変わったことは自分の視線が低くなったことです。妻や他人が助けてくれるので謙虚になったのです。自分の傲慢さが少し減ったのです。
最後に手動車椅子と電動車椅子の値段と性能を書きます。
手動車椅子と電動車椅子はどちらも数万円です。インターネットで検索すると種々の手動車椅子と電動車椅子の値段が出て来ます。
性能ですが手動車椅子の行ける距離は数百メートルですが電動車椅子の走行範囲は数キロメートルです。電動車椅子の速さは時速6Kmです。
私は電動車椅子に予備の電池を積んで半径10Kmくらいの場所に行きます。
足の弱った高齢者には電動車椅子をお薦めします。店内にそのまま入れるので日常の買い物には車より便利なのです。
ちなみに私の電動車椅子はラスレル、https://rasrel.com/ です。私は介護保険者なので格安で 約7万円でした。

今日の挿絵代わりの写真は小金井公園の花園の写真です。手動車椅子で低い視線から撮った写真です。低い視線なので木々の梢がはるか上にあります。

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)








「何故イエスは馬小屋で生まれる羽目になったのか?」

2021年12月25日 | 日記・エッセイ・コラム
昨日はクリスマス・イブの夜半のミサに行きました。
考えてみるとキリスト教は不思議な宗教です。新約聖書に不思議なことが沢山書いてあります。しかし実際に起きた事実も記録されています。一例はイエスが馬小屋で生まれた事実です。何故こんな羽目になったのでしょうか?
当時の中近東の政治情勢を考えると、「成程、そういう理由か!」と納得します。
簡単に当時の中近東の政治情勢を書きます。当時その地方はローマ帝国の領土でローマから派遣された提督が治めていました。しかし中近東にはいろいろな民族がいて幾つかの王国がありました。イエスの父母のヨゼフとマリアが住んでいたナザレはヘロデ王が治めていました。彼はローマから来た提督に恭順を誓いローマ人の提督の下でユダヤの王としての地位を保ったのです。
すなわち当時の中近東はローマ人の提督と土着の王の二重権力に支配されていたのです。
こんな情勢の中でローマ皇帝は「全領土の住民は出身地の役所に登録せよ」という勅令を出したのです。全領土の住民の戸籍を作ろうとしたのです。
大工のヨゼフとマリアはナザレに住んでいましたが出身地はベツレヘムです。急遽ベツレヘムへ行きます。ところが急に出身地に帰った人々で旅籠は全て満員です。ヨゼフとマリアには泊る旅籠はありません。仕方なく町はずれの馬屋に泊ったのです。そこは馬の体温で暖かく心地良い場所でした。マリアはそこでイエスを生んだのです。そして飼葉桶に藁を敷いてイエスを寝かせたのです。
これがイエスが馬小屋で生まれる羽目になったいきさつです。何故か臨場感ある描写ではありませんか。なるほどと納得します。

上記の出来事をルカの福音書 2:1-14は次のように書いています。
 ・・・そのころ、皇帝アウグストが全ローマ帝国の住民登録をせよと命じました。 2 これは、クレニオがシリヤの総督だった時に行われた最初の住民登録でした。 3 登録のため、国中の者がそれぞれ先祖の故郷へ帰りました。 4 ヨセフは王家の血筋だったので、ガリラヤ地方のナザレから、ダビデ王の出身地ユダヤのベツレヘムまで行かなければなりません。 5 婚約者のマリヤも連れて行きましたが、この時にはもう、マリヤのお腹は目立つほどになっていました。 6 そして、ベツレヘムにいる間に、 7 マリヤは初めての子を産みました。男の子です。彼女はその子を布でくるみ、飼葉おけに寝かせました。宿屋が満員で、泊めてもらえなかったからです。
8 その夜、町はずれの野原では、羊飼いが数人、羊の番をしていました。 9 そこへ突然、天使が現れ、主の栄光があたり一面をさっと照らしたのです。これを見た羊飼いたちは恐ろしさのあまり震え上がりました。 10 天使は言いました。「こわがることはありません。これまで聞いたこともない、すばらしい出来事を知らせてあげましょう。すべての人への喜びの知らせです。 11 今夜、ダビデの町(ベツレヘム)で救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。 12 布にくるまれ、飼葉おけに寝かされている幼子、それが目じるしです。」 13 するとたちまち、さらに大ぜいの天使たちが現れ、神をほめたたえました。
14 「天では、神に栄光があるように。
地上では、平和が、
神に喜ばれる人々にあるように。」

今日は何故イエスは馬小屋で生まれる羽目になった経緯を説明しました。
今日の挿絵代わりの写真は国宝の大浦天主堂の写真です。出典は、

それはそれとして、今日も皆様のご健康と平和をお祈り申し上げます。後藤和弘(藤山杜人)